彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

対馬神道

神々のふるさと、対馬巡礼の旅=番外編 天道信仰と対馬神道(上)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 補足(参考・引用文献について)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅---17 府中/厳原八幡宮神社

神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 16 海神神社(上)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 15 阿麻テ留(アマテル)神社(上)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1

神々のふるさと、対馬巡礼の旅=番外編 天道信仰と対馬神道(下)

1.

 天道信仰について、鈴木棠三(トウゾウ)は「対馬の神道」のなかで、「天道信仰は、豆酘村の中の八丁角と俗に称せられる磐坂を中心とし、これに対応して佐護にも天道の一大中心があり、島の南北にあって相対している。この信仰の主要なる点は、神地崇拝の風の強烈なる点で、一に天道地と云えば、何によらず不入の聖地を意味する。第二にこれを母神および童神二神相添う形と信じていることで、神道家は神皇産霊尊とその御子多久豆玉神ならんとしているのである。而して、対州神社誌当時の天道信仰は或る意味で対馬神道の根幹をなしているかの観を呈していた」と述べている。


そして、天道法師の生誕話は「母が懐妊の際に強烈な日の光を浴びたことをその因とする」筋立てになっているが、鈴木棠三はその種の話はこの手の怪童伝説にはよくある話であると突き放した見方をし、「天道」は「天童」であるとの解釈を採っている。


しかし、「鶏子(トリコ)のような気が天より降りてきて」、女が懐妊し生まれ出た高句麗王朝の始祖・朱蒙の生誕伝説、すなわち、神秘な気に感精して懐妊するという北方系の「日光感精型神話」が、日神の地、対馬だからこそ天道法師の神秘性を演出する為に当り前のように拝借されたのだとする方がわたしには自然な気がするのである。


また、日神の誕生の地という天地開闢(カイビャク)という創世期から間近いところの歴史を有す対馬だからこそ、中世の怪人に対する生誕譚として「日光感精型神話」が持ち出されたのではないかと推測される。


【天童伝説】(対州神社誌「P345」より)

「天道 神体並びに社 無之

対馬州豆酘郡内院村に、照日之某と云者有。一人之娘を生す。天智天皇之御宇白鳳十三甲申歳〔673年〕二月十七日、此女日輪之光に感して有妊(ハラミ)て、男子を生す。其子長するに及て聡明俊慧にして、知覺出群、僧と成て後巫祝の術を得たり。朱鳥六壬辰年〔691年〕十一月十五日、天道童子九歳にして上洛し、文武天皇御宇大寶三癸卯年〔703年〕、対馬州に帰来る。


霊亀二丙辰年〔716年〕、天童三十三歳也。此時に嘗(カツ)て、元正天皇不豫(フヨ)有。博士をして占しむ。占曰、対馬州に法師有。彼れ能祈、召て祈しめて可也と云。於是其言を奏問す。天皇則然とし給ひ、詔(ミコトノリ)して召之しむ。勅使内院へ来臨、言を宣ふ。天道則内院某地壱州小まきへ飛、夫(ソレカラ)筑前國寶満嶽に至り、京都へ上洛す。内院之飛所を飛坂と云。又御跡七ツ草つみとも云也。


 天道 吉祥教化千手教化志賀法意秘密しやかなふらの御経を誦し、祈念して御悩(ナヤミ)平復す。是於 天皇大に感悦し給ひて、賞を望にまかせ給ふ。天道其時対州之年貢を赦し給はん事を請て、又銀山を封し止めんと願。依之豆酘之郷三里、渚之寄物浮物、同浜之和布、瀬同市之峯之篦(ヘラ)黒木弓木、立亀之鶯、櫛村之山雀、與良之紺青、犬ケ浦之鰯、対馬撰女、幷(ナラビニ)、州中之罪人天道地へ遁入之輩、悉(コトゴトク)可免罪科叓(カジ)、右之通許容。又寶野上人之號を給わりて帰國す。其時行基菩薩を誘引し、対州へ帰國す。行基観音之像六躰を刻、今之六観音、佐護、仁田、峯、曾、佐須、豆酘に有者(アルハ)、是也。


其後天道は豆酘之内卒土山に入定すと云々。母后今之おとろし所の地にて死と云。又久根之矢立山に葬之と云多久頭魂神社。其後天道佐護之湊山に出現有と云。今之天道山是也天神多久頭魂神社。又母公を中古より正八幡と云俗説有。無據(コンキョナク)不可考。右之外俗説多しといへとも難記。仍(ヨッテ)略之。不詳也。」


以上が貞享三年(1686年)十一月に編纂された「対州神社誌」記載の「天道法師の由来譚」である。その4年後の元禄三年(1690年)二月に梅山玄常なる人物が「天道法師縁起」なる書をものした。原文は漢文であるが、「対馬の神道」のなかで、以下の通り、その筋書きを平易な現代文に訳しているので、やや長くなるもののここに紹介する。


「昔天武天皇の白鳳二年(壬申の乱の翌々年。674年*)に、豆酘郡内院村(今の下県郡久田村字内院)に一人の童子が誕生した。その母の素性をたずねると、かつて内院女御という方の召仕であって、或朝、旭光に向って尿溺し日光に感じて姙(ハラ)んだのが、この童子であるという。故にその誕辰に当っては瑞雲四面に棚引くなどの天瑞があった。すなわち童子の名を天道童子、また日輪の精なるが故に十一面観音の化身とも伝える。この天道童子の誕生の地を、今に茂林(シゲバヤシ)と呼ぶ。対馬では茂または茂地とは神地のことである。童子長じて三十一歳、大宝三年(703年)のことであったが、時の天子文武天皇御不予にわたらせられ、亀卜を以て占わしむるに、海西対馬国天道法師なる者がある。彼をして祈らしめば皇上の病癒ゆべしとの奉答であったから、急使を遣わして天道法師(童子)を迎えしめられた。法師は使を受けるや、さきに修得した飛行の術によって内院から壱岐の小城山に飛び、さらに筑前宝満嶽に、さらにさらに帝都の金門に飛んだのであった。ここに帝の御ために祈ること十七日、たちまち御悩は癒えた。帝は法師の法力に感じ給い、宝野上人の号並びに菩薩号を賜り、また大いに褒賞を加え、欲するところを与えんとの詔があった。法師は、対馬は西陲(セイスイ)の辺土にして民は貢物に苦しむ故に是を免ぜられたきこと、また島中の罪人にして天道の食邑の地に入り来った者は、罪の軽重を論ぜずことごとく宥(ユル)されたきことなど奏上して、勅許を得たのであった。また、古記によれば、天道菩薩の社田として筑前国佐和良郡出田に八百町歩があったというが、いつの頃よりか廃絶したと。天道菩薩入定の地は豆酘(ツツ)郡卒土(ソト)山の半腹の地に、縦横八町余を劃して中に平石を積んだのがそれである。もし汚穢(オワイ)の人が其処に到れば、踵を廻らさずして身命を失う。故に里民畏避して今に到るまで足跡を容れる者がない。」


   「白鳳」は書紀には現れない私年号であり、中世以降の寺社縁起等によると、白鳳二年は西暦673年に算定される。

   「大宝三年」は「対馬の神道」の703年で正しい。


天道伝説

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 番外編(中臣烏賊津使主と雷大臣命)

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神々のふるさと、対馬巡礼の旅――番外編(対馬のことごと)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 補足(参考・引用文献について)

 

これから頻繁に名前が出てくる「中臣烏賊津使主(ナカオミノイカツオミ)」と「雷大臣命(イカツオミノミコト」について、ここで「紀」の記述等を引用しながら説明をしておこう。

 

中臣烏賊津使主(雷大臣命)とは、一体、どういった人物であったのか?

 

まず、「紀」の中で、中臣烏賊津使主に関する部分は以下の通りである。

 

【仲哀天皇(在位西暦192200年)89月 「天皇神託を疑い、崩御」】

「是(ココ)に、皇后と大臣(オホオミ)武内宿禰、天皇の喪を匿(カク)して、天下(アメノシタ)に知らしめず。則(スナワ)ち皇后、大臣と、中臣烏賊津連(ナカトミノイカツノムラジ)・大三輪大友主君・物部胆昨連(イクヒノムラジ)・大伴武以連(タケモチノムラジ)に詔(ミコトノリ)して曰(ノタマ)はく、「今し天下、未だ天皇の崩りまししことを知らず。若し百姓(オホミタカラ)知らば、懈怠有(オコタリア)らむか」とのたまふ。

則ち四大夫(ヨタリノマエツキミ)に命(ミコトオホ)せて、百寮(モモノツカサ)を領(ヒキ)ゐて、宮中(ミヤノウチ)を守らしめたまふ。窃(ヒソカ)に天皇の屍(ミカバネ)を収め、武内宿禰に付(サヅ)けて、海路(ウミツヂ)より穴門〔アナト/P4049〕に遷(ウツ)りて、豊浦宮(トユラノミヤ)に殯(モガリ)し、天火殯斂(ホナシアガリ/喪を秘すために、灯火をたかない殯の意味。ただ、「ホナシモガリ」と云わぬことに疑問)をしたまふ。

甲子に、大臣武内宿禰、穴門より遷りて、皇后に復奏(カヘリコトマヲ)す。是の年に、新羅の役(エダチ/新羅征討)に由りて、天皇を葬(ハブ)りまつること得ず。」

 

と、あるように「中臣烏賊津連」は仲哀天皇の崩御を世の中に秘匿する相談に与るほどに神功皇后の信頼厚い四大夫〔他に大三輪大友主君・物部胆昨連・大伴武以連〕の一人であった。

 

なお、「紀」の(注)で、中臣烏賊津連について、

「神功摂政前紀3月(P417)・允恭紀712月条に『中臣烏賊津使主』とある。前者はここと同一人であるが、後者は同一人・異人、両説ある。『続紀』天応元年7月条に『子公等之先祖伊賀都臣(イカツオミ)、是中臣遠祖天御中主命二十世之孫、意美夜麻(オミサヤマ)之子也。伊賀都臣、神功皇后御世、使於百済、便娶彼土女』とあり、前者と同一人。しかし、『姓氏録』の『雷大臣(イカツノオミ)』と『中臣氏系図』『尊卑文脈』の『伊賀都臣(イカツノオミ)』の名もあり、これも『中臣烏賊津使主』と同一人か否か説がある。」

 

と、説明されている。「神功皇后の時代に『烏賊津使主』が、百済に使いした際に、彼の地の女性を妻とした」とあるのが、後述する雷大臣(イカツノオミ)の伝承と一致し、中臣烏賊津使主(ナカトミノイカツノオミ)と雷大臣が同一人であると認定してよい。

 

【気長足姫尊(オキナガタラシニメノミコト)神功皇后(仲哀天皇923月)】

「九年の春二月に、足仲彦天皇、筑紫の橿日宮に崩(カムアガ)ります。時に皇后、天皇の、神の教に従はずして早く崩りまししことを傷みたまひて、以為(オモホ)さく、祟れる神を知りて、財宝国(タカラノクニ)を求めむと欲す。是(ココ)を以(モ)ちて、群臣(マヘツキミタチ)と百寮(モモノツカサ)に命(ミコトオホ)せて、罪を解(ハラ)へ過(アヤマチ)を改めて、更に斎宮(イツキノミヤ)を小山田邑に造らしむ。

三月の壬申(ジンシン)の朔(ツキタチ)に、皇后、吉日を選ひて斎宮に入り、親ら神主と為りたまひ、則(スナハ))ち武内宿禰(スクネ)に命(ミコトオホ)せて琴撫(コトヒ)かしめ、中臣烏賊津使主(ナカトミノイカツノオミ)を喚(メ)して審神者(サニハ)(注1)としたまふ。」とある。

 

(注1)  審神者は、神が憑依した神功皇后の発する御言葉を、解釈し、皆に伝える役で、神事に関わる者である。

 

 以上の「紀」の二か所の記述から、中臣烏賊津使主という人物が、神功皇后の重臣中の重臣であり、かつ皇后に憑依した神の言葉を翻訳し伝える神職の役割を担っていたことが分かる。

 

対馬縣主の祖たる中臣烏賊津使主(雷大臣命)は「対馬神道」の祖である

さらに、「新撰姓氏録(シンセンショウジロク)」(815年嵯峨天皇の命により編纂)の氏族一覧3(第三帙/諸蕃・未定雑姓)」P342)において、氏族「津嶋直」は「本貫地:摂津国、種別:未定雑姓」に分類されるが、「始祖」は「天児屋根命(アマノコヤネノミコト)十四世孫、雷大臣命乃後也」と記載されている。このことから、対馬島内に祭神として数多く祀られている「雷大臣命」と同一人たる「中臣烏賊津使主(イカツノオミ)」が、対馬県主の祖であると断定できる。

 

天児屋根命については、「紀」【神代下第9段 「葦原中国の平定、皇孫降臨と木花之開耶姫」 】に、「・・・且(マタ)天児屋命は神事を主(ツカサド)る宗源者(モト)なり。故、太占(フトマニ)の卜事(ウラゴト)を以ちて仕へ奉(マツ)らしむ」とあり、この国の「占い神事の宗家・元祖」であることが記されている。

 

先述の通り、中臣烏賊津使主は神の憑依した神功皇后の発する言葉を解釈し人々に伝える審神者(サニワ)」と呼ばれる神務に携わる特別な存在の人物であった。そして、中臣烏賊津使主が神事の占い事の宗家たる天児屋根命十四世孫とあるのも審神者(サニワ)」の正統性を裏付けるものである。

同時に、中臣烏賊津使主(雷大臣命)が、対馬神道の特徴をなす「亀卜(キボク)」の伝道者とされ、占いを専業とする「卜部」氏の始祖と伝えられるのも首肯できる。

 

そのことを、「対馬国大小神社帳」は、「対馬国社家之儀者、往昔雷大臣対馬県主に被相任候より以来、雷大臣之伝来を得而祭祀�偃請を仕来り、則対馬神道と申候」と記している。つまり、中臣烏賊津使主(雷大臣)が「対馬県主」に任じられてから、祭祀�偃請(卜の法)を伝授したが、それが即ち「対馬神道」であると云っている。

 

また、卜占に関する伴信友の著書「正卜考」(1858)に本伝とする藤斎延(ナリノブ=斎長の父)の伝書にも、「卜部年中所卜之亀甲を制作して、正月雷命社に参詣して、其神を祭る、雷神を祭る故は、対馬に亀卜を伝る事は 神功皇后新羅征伐之時に、雷命対馬国下県佐須郷阿連に坐して伝へ玉ふなり、依之祭之也」とあり、対馬亀卜法の起源が、中臣烏賊津使主、雷大臣命にあり、その発祥地が「阿連(旧号・阿惠)」だと語られている(下線部分は「霹靂神社」参照)。

 

以上より、中臣烏賊津使主(雷大臣命)は、「対馬縣の祖」であると同時に、「対馬神道の祖」であることが分かる。

神々のふるさと、対馬巡礼の旅――番外編(対馬のことごと)

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神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 6(鴨居瀬の住吉神社・赤島)


 北緯34度、東経129度、朝鮮半島より50km、博多より138km離れた海上に、ひとり対馬は険峻の峯を見せている。面積は696平方km(本島)と、日本の島嶼部としては佐渡島(854平方km)、奄美大島(712平方km)に次ぎ、592平方kmの淡路島を超え、3番目に大きい島である。島数は本島のほかに107(内、有人島5)の小島が存在する典型的な溺れ谷の地形を成している。

 


典型的な溺れ谷の島、対馬(上見坂公園より) 

 

H228月末現在の人口は35,635人(対馬市HP)と、ピーク時の69,556人(1960年)から半減しており、急速な過疎化が進んでいる。また、高齢化比率も直近の国勢調査(H17年)においても26.2%と、全国平均の20.1%を大きく超えている。さらに、住民票を移さぬまま島外に仕事を求め転出している人も多く、実際に島内で生活する住民は3万人を切っているとのことであり、その実態は一層その深刻度を増しているとみられる。

 

さて、そうした日本の現代社会を濃縮したような国境の島、対馬であるが、角度を変えて歴史的観点から眺め直して見よう。現在の行政地域において対馬は長崎県に属する「市」という行政単位で把握されるが、古来の律令制下においては、いわゆる「五畿七道」の「西海道11カ国」を構成する「対馬国」という国の位置付けにあった。それは、日本国土より朝鮮半島に近いという地勢的条件から、大陸・半島からの文物流入の道筋として、また、半島国家との軍事抗争における軍事拠点として、「津(湊)の島」が要衝の地として重要な位置づけを占めていたことを示すものでもあった。

 


異国の見える丘展望台より韓国を・・・ 

 

その対馬は半島との濃密な交流の真っ只中で、日本という国が形成されてゆく過程を伝承や習俗という形で今の世に残す語り部のような島である。それはまさに、日本の始まりを物語るDNAが悠久の時の流れのなか「津島」の湊や瀬戸に揺々として繋留されているかのようである。そして、静謐のなかエメラルド色をした鏡のような水面を張る美しい入り江を眺めているうちに、その国家創始というDNAの「鎖の艫綱」が何れの日にか、ロマンあふれる人物の手によりその謎が解明され解き放たれることを、静かに待っているように思えたのである。

 


対馬神道のエルサレム、阿連の海 

 

その謎解きのヒントとなるのだろうか、対馬にはかつてこの国が倭と呼ばれた時代、歴史上、大きな役割を果たし、重要な位置付けを占めていたことを示す伝承や神事が数多く伝えられている。

 

そして、その多くは対馬神道や天道といった信仰を通じ、神社や神籬磐境(ヒモロギイワサカ)、不入の地といった「場」の形式や、亀卜、赤米神事、船ぐろうといった古代習俗の継承保存や土地に伝わる伝承という形で、今の時代まで引き継がれ、語り継がれてきている。

 

それらのことは、これからもおいおい具体的な文献資料や伝承によって述べてゆくことになるが、ここでひとつ端的な例を挙げておく。

 

神社を語る時、「延喜式神名帳」の「式内社」云々という神社の格式を表わす表現をよく目にするが(注1)、その式内社の数が対馬と隣の壱岐において異様に数が多いことである。

 

即ち全国の式内社は2,861社を数えるが、その内西海道11ヶ国(注2)には107社が存在する。そして対馬には29社(名神大社6、小社等23)、壱岐に24社(同6、同18)、筑前国19社(同8、同11)と、この3地域で計72社と、西海道の式内社の2/3を占め、とくに対馬は29社と西海道最多の社数を誇っている。


海神神社一之鳥居

対馬一の宮 海神神社の鳥居


277段の階段を昇って海神神社拝殿に

 

そのことは「神意」を政(マツリゴト)の中枢に置いた「倭」という時代において、対馬の神々を朝廷が神の系統において高い位にあることを認める事情があったことを表わし、当時の対馬の重要性を素直に裏付けるものといってよい。

 

 

   注1:「延喜式」

平安時代の律・令・格の施行細則を集成した法典で、延喜5年(905)に編纂を開始、22年後の延長5927)年に完成。50巻三千数百条におよぶ条文は、律令官制の二官八省の役所ごとに配分・配列され、巻一から巻十が神祇官関係となっている。そのうち巻九・十「延喜式神名帳」と呼ばれるもので、当時の官社を網羅した格付け表である。そして祈年祭奉幣にあずかる神社2861社(天神地祇3132座)を「式内社」と称し、国郡別に整理羅列されている。

 

   注2:「西海道」

五畿七道という律令制時代の行政区画で、「西海道」は、筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後、日向、薩摩、大隈(以上9ヶ国が現在の九州本土)、壱岐、対馬の11の令制国から構成される。対馬、壱岐は現在、長崎県に含まれるが、令制国時代(この呼称単位は明治初期まで残る)には、対馬はひとつの行政単位たる国の位置付けにあった。ちなみに廃藩置県後に、対馬国(藩)は厳原県、伊万里県、三潴県を経て、1876年に長崎県に編入されている。

 

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