直木賞作家坂東真砂子(48)氏の子猫殺し

 

http://www.chunichi.co.jp/00/sya/20060825/mng_____sya_____001.shtml

(「抗議殺到」中日新聞825日)

 

 日経新聞の18日夕刊のコラム「プロムナード」を読んでみた。

う〜ん、なかなかコメントするのが難しいかなぁ・・・。

 

 だけど、夕刊の「プロムナード」つまり “散歩道”あるいは少し古風に“逍遥”といったホッと一息するところで、ふ〜ん・・と、ちょっと脳細胞に心地よい快感、ちょっとニヤリとして一日の肩の凝りをほぐしてくれるそんなコラム欄には、全く似つかわしくない題材であり、内容であったことだけは確かである。

 

 こうした題材であればこそ、ご自身の本業であろうと思われる「小説」という場でじっくり掘り下げるべきなのではないだろうか。

 

 今日の東京新聞で同氏のエッセイに抗議が殺到しているのを知った。そして、ネットの世界でも色々と騒がれていて、様々な反応というより坂東氏に対する圧倒的な批判があふれており、同氏と同じようにネコをペットに飼っている身として、考えさせられることが多かった。

 

 わたしは9歳になる雄ネコを飼っている。プロフィールの写真にあるのが、うちの家族の一員である「麟太郎(リンタロウ)」である。初めての男の子には私の尊敬する勝麟太郎の名前を戴いて命名しようとしていた名である。当時は人名漢字に「麟」という字がなくて、結局、異なる命名となった。

 

 息子たちに子猫を飼って欲しいとねだられ、ご近所のお知り合いの方から9年前に戴いたのが「麟太郎」である。名前を何にしようかと家族会議を開き決まったのが、他ならぬ「麟太郎」であった。息子の「お父さんが僕にどうしてもつけたかった名前をつけてあげたらいい」の一言で決定を見た。

 

今では、皆家に帰ってきての第一声は「リンは?」である。

 

こうしたわが家で、このテーマは重い。遠い8年前のことを思い出すからである。最初は家の中で飼うことで躾をし、飼い続けたが、「リン」はどうしても外に出たがり、一年後には家と外を自由に行き交うことになった。それまでは自分の右脚(手?)でガラス戸をこじ開けて何度も逃走劇を繰り返した。それで、結局、リンの希望に沿う形で、「外遊」を許可することになった。

 

但し、その時の条件がまさに「去勢」の問題であった。ご近所で野良猫被害の問題が色々と云われていた時でもあった。雄ネコなので、こちらが加害者?の立場になるわけで、自分たち家族が知らないところで雌ネコと事におよび子を成した時に、我々家族がその責任を取ることができぬという問題に、家族で悩み、話し合った。

 

結論は、「リン」に満1歳を前にして、去勢手術を施すことにした。その日のことは、正直、今でもよく覚えている。家内が病院に連れて行った。そして、戻ってきた。やるせない気持ちであった。帰ってきたリンの疲れた少し悲しそうな顔を眺めて、「去勢したのは間違いだったかもしれない」と、強く後悔したことを思い出す。悲しくて抱き上げて抱きしめた時の、無邪気だが少し愁いを帯びたリンの瞳が未だまざまざと瞼のうちに甦ってくる。

 

今日も「麟太郎」は早朝に自分の縄張りを巡回すると、安心したようにお気に入りの玄関マットのうえでうたた寝をしている。その眠り姿はペット大好きの人々には、云わずもがなであろう。

 

「避妊」という種を根絶するのと、生まれた子猫を殺すのと結局、同じことではないかと坂東真砂子氏は云う。わたしは彼女のように勇敢といおうか、冷静な「理」の世界だけで物事を判断できない人間である。やはり、生まれてきた目の前で動き廻る生命体を自らの意思で、殺戮するという行為は心情的にどう考えてもできない。断種の場合は、見方からすればもっと残酷な行為とも云える。何せ永遠に種の継続を絶つのであるから。その意味では坂東真砂子氏がいう「・・・子猫を殺しても同じことだ。子種を殺すか、できた子を殺すかの差だ」というのも、違うのではないかとも思える。

 

理屈はどうであれ、やはり子猫を殺すことなどわたしにはできない。なぜなら、自分の経験から目に見える生物であって、初めて人間は動物に感情移入が出来るのではないかと思うからである。あの可愛らしい仕種を一目でも見てしまったら、人間の情として、それを自らの手に掛けて殺すなどという発想は出てこないのではないかと思う。それが普通の人の自然の感情なのでは・・と、つい凡人は考えるのである。

 

同氏の云う理の世界で云えば、「細菌」や地上を這っている微細な生物も子猫と同じ生物である。でもこの生命体を私たちは一つは人間を害するものとして、当然のごとく殺戮する。もう一つは目に見えず、知らず知らずに日常的に踏んづけ殺戮行為を続けている。でも、心は痛まない。

 

なぜ? やはり人間は視認して、感情に訴えられて、初めてそのものとの距離感を理性で認識するのではなかろうか。「情」が発生して「理」がそれを秩序立てる、そして何かしらの「行為」へ発展する。「ある行為」の発端は「人間としての情」なのだ、「理性」ではない、「理性」が人間の「行為」を規定するわけでもないと、普通の人間であるわたしはようやく気がついた。坂東氏のコラム騒動のお陰でそう思い至るにいたった。

 

リンを去勢したことはペットを飼う人間の責任として間違いではなかったのだと、8年経って自分で納得することができたような気がした。

 

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