彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

妻女山

松代散策=8−川中島の戦い(典厩寺・妻女山)

 松代大橋手前を右に入ってすぐに武田信繁の墓所である典厩寺がある。八幡原で兄を守るために率先、討ち死にした信玄の弟、典厩信繁(てんきゅうのぶしげ)。信義を守り、智勇に秀でた戦国武将に、現代の男性にはない魅力を感じるのだろうか。小さなお寺であるが、最近は「歴女」の拝観客が増えているそうである。



典厩寺山門
典厩寺山門

山門扁額
山門の扁額
 座禅石と奥が本堂
座禅石の向こうに本堂

 真田昌幸(松代初代藩主信之の父)が次男幸村(通称)を信繁と名づけたのは、この信繁の智勇と忠節を愛したためと伝わる。そうしたこともあり、典厩寺は真田家の手厚い庇護を受けている。



武田典厩信繁公の墓
武田典厩信繁公の墓
 

 初代藩主信之が「鶴巣寺」といっていたこの寺を「典厩寺」と改称、山門は三代藩主幸道の霊廟の門を移築したと伝わる。また、八代藩主幸貫が川中島の戦い三百年を記念して閻魔堂を建て(1860年)、甲越戦没者の霊を弔うなど真田家との縁は深い。


閻魔堂
閻魔堂・屋根の上に武田菱

日本一大きな閻魔様
日本一大きい閻魔様

閻魔堂の天井絵
閻魔堂の天井絵
 

 なお、閻魔堂の閻魔大王像は本邦一の大きさを誇るので有名である。その他境内には信繁の首をここの水で洗ったという「首清め井戸」や伊東祐亨(すけゆき)元帥海軍大将の揮毫による「懐古」の石碑が合戦三百五十年を記念して、建立されている。石碑の両脇に甲・越の自然石がそっと置かれていたのには、歴史という大河の前で人間の営みがいかに小さいものかを考えずにいられなかった。


首清め井戸
首清め井戸

懐古の石碑
伊東祐亨元帥揮毫の「懐古の石碑」
躑躅ケ崎館の愛石
懐古の石碑の向かって左裾に躑躅ケ崎館の愛石
春日山城石
右裾に春日山城の城石

山門脇の六地蔵
山門脇の六地蔵

 

 典厩寺を後にして、旅の残り時間は少なくなっていたが、そこから10分ほどで妻女山の展望台に行けるというので、運転手さんにお願いをし、合戦模様を山上から俯瞰することにした。


妻女山展望台の合戦之図
妻女山展望台にある川中島合戦図
 

 妻女山の展望台付近は赤坂山と呼ばれるが、あまりに狭過ぎて、このあたりに上杉勢一万一千の軍勢がいたのか、はなはだ疑問に感じた。後の調べで実際にはこの展望台の上の方が妻女山の頂上にあたり、赤坂山には一部の軍勢が陣を布いていたもようで、謙信の本軍は妻女山中央付近の「陣場平」と呼ばれる平地に陣取っていたとのこと。それで、ようやく疑問が氷解した次第である。


妻女山展望台
赤坂山と呼ばれる場所に展望台

狭い平坦地
赤坂山の狭い平坦地
 

 妻女山の登り口には謙信が槍の尻で泉を穿ったという「槍尻之泉」があった。展望台の北西6kmほどに武田信玄が海津城と挟み撃ちにする形で陣を構えた茶臼山が見える。そして東に目を転じると、3kmほどの距離なのだが海津城(松代城)が見える。少し霞んでいたためだろうか城から逆に妻女山を眺めたのとは異なり、思いのほか遠くに見えて、武田軍の奇襲を見破ったという炊煙が立ち昇るのが本当に見えたのかしらなどと、まるで自分が名将謙信になったかのようにじっと目を凝らした。


自動車道のカーブする辺りに海津城を
自動車道カーブした辺りが海津城跡



手前低い山が茶臼山
正面手前の低い山が当初、信玄が陣を布いた茶臼山

八幡原の激戦地を展望
写真正面の千曲川の向こうが八幡原の激戦地

左手前山の向こう側が雨宮の渡し
手前左の山裾の裏側に雨宮の渡し

謙信の槍尻之泉
謙信の槍尻之泉
 

激戦地となった八幡原は北東に千曲川を越えたあたりに展開している。あの一帯に三万の軍勢がひしめき、そのなかを単騎、駆け抜けていった謙信の颯爽とした武者姿を想い、しばし歴史物語の世界に酔い痴れた。

松代散策=4−真田10万石の城(松代城・海津城跡)

松代散策=1−松代町の概要

松代散策=5−真田家所縁の寺(長国寺・恵明禅寺)

 松代は、元和
8年(1622年)に同じ信濃の上田から移封された初代藩主真田信之に始まり、幕末の真田幸民までの十代、約250年間にわたり、一貫して真田松代藩の城下町として栄えた。


北不明門横に海津城跡石碑
本丸内に立つ海津城跡の石碑

松代城跡石碑
松代城南門跡に立つ石碑
 

 

 町の中核となる松代城はそもそも、上杉謙信との戦さの拠点として武田信玄が築城したものである。三日月掘や丸馬出などの遺構から甲州流築城法で築かれたものと確認されており、川中島の戦いで信玄が茶臼山より移動し入城した海津城がこの城の前身にあたる。往時の城将は武田二十四将のひとり高坂弾正忠昌信であった。

 松代城南門をまっすぐ南下し、長野電鉄の踏切を渡るとすぐ左手に池田満寿夫美術館がある(松代駅すぐ西)が、その前庭に松代城の三の堀の遺跡が発掘時の状態のままで保存されている。そのままにされた自然石に胸が締め付けられるような郷愁を感じるのはなぜだろうか。

長野電鉄線路
長野電鉄の線路を渡ります

三の堀遺跡
発掘状態のままの三の堀跡

甲州流築城の図
三日月堀や丸馬出の図もここにあります


 ところで、話はぐ〜んと飛んでしまうが、美術館に隣接して小布施を本店とする甘味処「竹風堂松代店」があり、そこの「長芋の白糸」はお薄と戴いても、なかなかの絶品でしたよ! 散策に疲れた方は、竹風堂の栗羊羹もいいが、「長芋の白糸」お奨めしま〜す! 本当に冷たくておいしかったよ!!


竹風堂松代店
甘味処「竹風堂」松代店
長芋の白糸
長芋の白糸

竹風堂の方寸とお薄
方寸とお薄 


さて、長芋で元気が出たところで、改めて本題に。

 

その後、海津城には1600年に森忠政が入封、「待城」と改名。1603年に松平忠輝が領主として入封、「松城」へ改名される。そして江戸時代に入り、真田三代藩主幸道の時に幕命により「松代城」と改められた。

 

現在の復興された姿(20044月)になるまでは、城址としてはわずかに荒れ果てた石垣がその往時の面影を残すのみであったという。現在の城郭の姿は江戸時代のものがほぼ忠実に再現されている。


二の丸南門から本丸太鼓門を
二の丸南門より本丸太鼓門を望む

前橋・枡形門・太鼓門を望む
前橋から枡形門と奥に太鼓門を見る

前橋から本丸跡水堀と太鼓門
前橋から本丸水堀と城郭

太鼓門から本丸内を
太鼓門から本丸内を
 

 展望台として利用される城内の「戌亥の櫓台」、ここが実質的な天守閣にあたるところだが、そこに登って四囲を眺め渡す。

 すると、3
kmほど西に妻女山(赤坂山・標高411m)が見える。写真で見ると前方の緑の濃い山の右端にポコンとコブのように見えるのが、妻女山。城から見ると意外に近いことに驚く。そんな小さな山に上杉謙信の陣地があったかと想像すると、歴史に名高い第4回目の川中島の戦いに謙信が懸けた意気込みの凄まじさが、実感で伝わってくる情景である。また北東方向の辺りが激戦のあった八幡原である。

戊亥の櫓台

戊亥の櫓台

本丸内・太鼓門を望む
本丸内・南門を望む

櫓台より妻女山を
手前山裾の右端の小さく突き出た処が妻女山

櫓台より八幡原方面を
北東方向が激戦地・八幡原のあたり

櫓台より北不明門を
北不明門

櫓台より北不明門の外郭
北不明門の外郭

皆神山
UFOの着陸する皆神山

 

そして南東方向3kmほどには、世界最古のピラミッドともUFOの基地とも一時期騒がれた皆神山(標高659m)が特異な台形状の姿を見せている。なるほど奇妙な形ではあるが、この山の下にも戦争末期に掘られた地下壕が存在する。

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