かねてよりお水取りのあの二月堂の廻廊を奔る大松明を見てみたいと思っていた。
今回、春日ホテルの企画する“東大寺二月堂修二会(お水取り)セミナー”というものを見つけ、これに参加してみることにした。
奈良国立博物館学芸部長の西山厚先生のお話を一時間ほど聴講し、その後、二月堂で“おたいまつ”を観覧するという趣向である。
わたしは“お水取り”が実際にはどのような意味を持つ行事なのか浅学にしてまったく知らず、ただ松明がきれいな仏教儀式といった皮相的興味しかなかったため、今回はちょうどよい機会ということで勉強も兼ねてセミナーの参加を決めた。
3月4日、東大寺ミュージアムのホールで西山先生が一時間余にわたり、お水取りについてその長い歴史と法要本来の意味や行法の具体的中身についてレジメとパワーポイントを使い、分かりやすくまたユーモアあふれる語り口で説明された。
その講演を訊いて、巷間、“お水取り”と呼ばれる修二会が正式には“十一面観音悔過(けか)”といい、二月堂のご本尊である十一面観音に3月1日から14日にかけて“悔過(けか)”すなわち“おわびをする”法要(本行)であることを知った。
“災いは意図的なものは勿論、人が無意識のうちにも悪業を重ねているから起きる”。だから仏教による鎮護国家を担った東大寺の僧侶たちが、万民に代わって十一面観音に“おわびをする”ことで災いの根を断ち、天下安穏、五穀成熟、万民豊楽を祈願するというものだそうだ。
しかもこの修二会は“不退の行法”と呼ばれ、752年に東大寺の僧・実忠が創めて以来、一度の中断もなく続けられてきた法要であることを知った。
あの平重衛が大仏殿を炎上、焼失させた治承5年(1181)にも東大寺のすべての法会が中止されるなか、この“十一面観音悔過”だけは、寛秀ら11人の僧侶が“不退の行法”であるとし、敢然、法要を決行し、“不退”を貫き通したという。
その御蔭で、21世紀の御代、私たち夫婦は1262回目の“修二会”に参加できることとなったのである。
そして、私たちが見物する予定の“おたいまつ”は、法要を行う11人の練行衆(れんぎょうしゅう)と呼ばれる僧侶たちを先導する道明かりのことだと知った。
そういうことで、松明が本来の法要の主要部分でないことはよく分かったものの、やはりそこは凡人。まずは“おたいまつ”なのである。6時にわれわれは二月堂舞台下の竹矢来で囲まれた芝生の上にいた。前列から4番目と云う好位置である。
長さ6m、重さ60kg(12日の籠松明のみ長さ8m、重さ80kg)もの“おたいまつ”を担ぐのは、僧侶ではなく世襲でその役を担ってきた童子(どうじ)と呼ばれる一般人であることも驚きであった(わたしも家内も僧侶が担いで走っているのだと思っていた・・・(;一_一))。
松明は本行の行なわれる14日間、二月堂北側の登廊を上り、上堂する。
本行の間、10本の松明と10人の練行衆が順に上堂し(12日のみ11本・11人)、練行衆は堂内へ、道明り役を終えた“おたいまつ”は、懸(かけ)造りの舞台へと姿を現し、境内にひしめく法要参加の人々の頭上に無病息災の火の粉をまき散らすのである。
3月4日、午後7時。大鐘の音を合図に境内の一切の燈火が消された。ざわめいていた群衆が一瞬、し〜んと静まり返る。
すると、左手の登廊の上り口の方がぼんやりと赤味をましてきた。
いよいよ一本目の松明が炎を挙げながら階段を上がってくるのだ。これからの炎の饗宴への期待に胸がたかまる。そして・・・“おたいまつ”が登廊の屋根に炎をぶつけるようにして静々と上って来た。
一旦、その火明かりが消え、静寂が二月堂をつつむ。そして二月堂の舞台の軒先が橙色にぼ〜っと染まってくる・・・
一間通りの吹き放ち舞台北西隅から松明が突き出された。
「うぉ〜!!」と歓声が挙がる。下にひしめく人々の頭上へキラキラと煌めく火の粉が襲いかかる。
しばらく松明は欄干の外で揺らいだ後、向きを南へと変える。
そして燃え盛る炎で大屋根を焦がすようにして、松明はゆっくりと舞台上を歩み出す。
と、松明は新たな命を吹き込まれたように火勢を増し、北側から南側へと懸造りの舞台を一気に韋駄天の如く駆け抜けてゆくのである。
背景の闇のなか燃え盛る火の玉が一直線に奔りぬける様は1262年もの間、生き続けてきた物の怪のようにも見え、その異様なまでの美しさにわたしは息を呑んだ。
突き当りの高欄南隅に至ると、童子は燃え尽きんとする松明を今度は思いっきり回転させ、無数の火の粉をこれでもかと闇夜にとけこませてゆく。
30分におよぶ“おたいまつ”はその一本一本、童子により見せ場が異なり、法要とはいえ、そのエンターテインメント性は高く、境内に集う群衆の目を十分に楽しませてくれた。
翌日、われわれはホテルで夕食をすませ、タクシーで手向山八幡宮までゆき、午後8時半頃に二月堂の南側局(つぼね)へ入った。
そもそもは“おたいまつ”の観光に来たのだが、西山先生の講演を伺い、練行そのものに触れてみたいと思ったからである。
局の中は真っ暗である。目が馴れてきて、はじめて局内の人々の姿がうっすらと見えてきた。そして、須弥壇の辺りに盛り上げられた餅とそれを取り囲む燈火が内陣の格子の隙間から見えた。とても神秘的な厳粛な時間と空間である。
入室した時間帯は“実忠忌”の法要が行われていた。
その法要が終ると、今度は神名帳(じんみょうちょう)の奉読が始まった。日本全国の神々の名を読み上げてゆくのだが、鎮護国家の象徴であった東大寺において、こうした神仏混合の法要が行われてきたことにわが国の宗教のあり方、本質を垣間見たように感じた。
当夜は午前零時頃に過去帳の読誦において有名な“青衣女人(しょうえのにょにん)”の名前が読み上げられ、その後に“走りの行法”というこれまた奇怪な行法が行なわれたのだが、われわれは真っ暗な格子で閉ざされた局のなかで2時間ほど坐り続けて退出したため、修二会の名場面は次回のお預けとなった。
ただ2時間の法要の中でさえ、練行衆が“南無観自在菩薩”、“南無観自在”そして“南無観”と十一面観音さまのお名前を徐々に高揚感をもって暗闇に唱えあげてゆく、その読経の律動と声音に、自然と手を合わせ祈っている自分に気づかされた。
わたしは“五体投地”という、練行衆がその身を礼堂の床に投げつける悔過(けか)の行法を前日のセミナーでの映像で見ていた。
この夜、われわれの局から練行衆の姿を見ることはできなかったが、下駄の足音も荒々しく、内陣から礼堂へ駆け出し、“バーン”と全身を床に叩きつけるすさまじい音を聴いているうちにいつしか涙が頬を伝わり落ちていた。
わたしにとって東大寺二月堂の“お水取り”見学という旅は、前日のセミナー参加によって“修二会(しゅにえ)”という法要参加に変わり、“五体投地”の悔過(けか)の行法を暗闇のなか己の五感で感じ取ることで、その目的は心の浄化へと見事に変じていた。
また十一面観音悔過にはぜひ、参加しようと強く思う。そして、今度は局で午前四時までずっと坐り続ける心の準備と体力をつけ、“青衣女人”を聴き、“走りの行法”を垣間見、咒師作法のあとの“達陀(だったん)”の荒ぶる行法を五感で感じ取りたいものと願っている。
“南無観”、“南無観”、“南無観”・・・