素晴らしいフレンチを堪能したラクラッセ・ドゥ・シェネガをチェックアウトし、まず4kmほど西に位置する五所神社(足柄下郡湯河原町宮下359−1)へ向かう。
当社は天智天皇の時代に土肥郷の総鎮守として創建され、伊豆国で挙兵した源頼朝が石橋山へ出陣する前夜、社前において戦勝祈願の護摩を焚いた神社である。当日は平日であるにもかかわらず境内には参拝客が絶えることがなかった。
そこから今度は東に転じて1kmほどの湯河原駅へと向かった。
源平時代の頃、土肥郷(現在の湯河原町、真鶴町)を支配していた豪族が、頼朝挙兵に参陣して以来、平家討伐や奥州征伐に活躍した土肥実平であった。
湯河原駅前にはその土肥実平夫妻像と土肥氏館跡碑が建っている。
実平の妻女は石橋山の戦いで大敗した頼朝を真鶴から安房へ逃亡する際に、食糧の差入れや大庭景親手勢の探索の様子を知らせるなどの働きをしたのだそうで、駅前に夫婦像が建つのもそうした逸話に基づいたものであるという。
そして駅のすぐ北側傾斜地には土肥一族の菩提寺である城願寺(足柄郡湯河原町城堀252)が建っている。
そこが64基の墓が鎮まる土肥一族の安息の場所となっている。
その中央部分に建つ五輪塔が実平の墓であると伝えられている。
その左が妻女のお墓だそうだ。
右手が謡曲「七騎落ち」で有名な実平の嫡男・土肥遠平(とおへい)の墓だと伝わる。
この身を寄せるようにして64基もの墓石が集まり、いまなおその墓前に花が手向けられているのを目にすると、実平やその妻女が実直で人望が厚く信義の人であったに違いないと感じたものである。
質朴な人柄を後の世までも慕いつづける、そのことをまた忘れずに孫子の代に引き継いでゆく心根の優しさを想い、とても心鎮まる墓地であった。
その奥津城の高みから振り返るとすぐそこに相模湾を見下ろすことができた。
能・「七騎落」の舞台は前日に訪れた岩海岸である。
簡単なあらすじは安房の国上総へ逃れんと乗船しようとした頼朝主従八騎が、八という数字が源氏にとって不吉な数字であるとして(頼朝の父義朝が落ち延び落命した時、主従八騎・祖父為義が九州落ちの時も八騎)、一人を下船させることとなる。その結果、実平の息子遠平が泣く泣く浜に取り残される。和田義盛が遠平を拾い、頼朝一行に合流、無事、安房へ逃げおおせることになるという譚である。謡曲でも名高い譚だという。
また本堂の前に謂れを伝える石が置いてある。
ひとつは頼朝が腰かけた石である。前日の貴船神社の頼朝腰掛石といい、この大将、行く先々でよっこらしょとよくよく腰を降ろしていたと見える。
仲良く腰かけて、はてさて安房国へ渡った後の算段でも語り合ってでもいたのだろうか。
石橋山の戦いに敗れて土肥郷に逃れた源頼朝が陣を張ったという鍛冶屋に鎮座する社である。
先の五所神社とくらべるとずいぶんと簡素な神社である。
頼朝はさぞ命からがら逃げてきたのだから、ここにこそ「頼朝の腰掛石」があってもよさそうだが、その欠片もなかった。
これはこれで清々しい神社であると感じた。
もちろん、参拝客も我々夫婦二人きりであった。
こうして湯河原真鶴岬めぐりはまず当所を最後とし、翌週、再度、蛭が小島や北条寺などを訪ねようとこの日は帰京の途に着くことにした。