彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

修学院離宮

後水尾上皇を巡る人物と建築物 2の8 ――修学院離宮・上御茶屋5

2の8 修学院離宮・上御茶屋・隣雲亭

 

【隣雲亭(りんうんてい)】

 

 御成門を抜けて白い砂利敷き(白川石?)の階段をゆっくりと上ってゆく。両脇にあるのは高さ1m余の刈込に過ぎないのだが、足元に目が行くためか視界は見事に遮蔽されるから不思議だ。そして人一人が漸くといった狭隘な道幅からくる閉塞感とも相俟って、客人はただ一心に頂上を目指すといった心持ちになる。

 

上御茶屋御成門内側より

上御茶屋御成門を内側から

 

だからこそ標高149mの高処に建つ隣雲亭の小さな前庭に一歩をしるしたときの得もいわれぬ安堵感と開放感は格別である。下御茶屋から標高差40mを上り来た雅人にとって比叡下ろしの涼風は、一服の茶のもてなしのように思えたのではなかろうか。それは心憎いばかりの演出であり、後水尾上皇は希代の舞台演出家と評するのが適切なのかも知れない。

浴龍池の堰堤を望む

隣雲亭から西浜堰堤を望む

 

隣雲亭への階段
隣雲亭への階段

 

隣雲亭への階段混ぜ垣

階段両脇の混ぜ垣

 

 隣雲亭は簡素過ぎるほどに簡素に造作されている。二の間の3畳、一の間の6畳それに4畳の板の間が浴龍地に向けた表側に直列にならび、洛中市街に向けて全面が開放されている。裏側に控えの間として8畳と6畳二間が用意されている。小高い丘の上に風が吹き通り、夏でも居心地の良い建屋となっている。

隣雲亭室内

隣雲亭の簡素すぎる室内

 

 隣雲亭の廻り縁の下敷きは、以前は白漆喰でぬられ一二三(ひふみ)石が埋め込まれていたが、拝観者が靴の踵で傷つけることが多く、修復が頻発し、今ではセメント敷きとなっている(宮内庁職員の説明では、結構、悪戯が多かったとも)。

一二三石

セメント敷きとなった下敷きの一二三石

 

一二三石
色の調和が崩れた一二三石

 

 埋められた石は、漆喰の時代は一つ石が赤、二つ石は青、三つ石が黒色の組み合わせとなっていたが、現在はご覧のようにその調和は崩されている。拝観者のマナーの悪さがこうした日本人の繊細な伝統の風雅といったものを壊してゆくのであって、残念でならない。まぁ、眺望にばかり目を奪われずに、足元もじっくりと見つめて見るとよい。

 

「一二三石」の解釈については、曼殊院門跡の39代門主で天台宗の碩学といわれた故山口光円師(1891-1972)が「天台にいう『一心三観』の法門から、景色の実相をながめる嗜好に見えてくる。一二三石とは空観(くうがん)、仮観(けがん)、中観(ちゅうがん)で、この三つが一つの白いしっくいでつらなり一心のしっくいは、三観という三つのものの真の見方となり、広範な景色は、その実相をあらわしてくる」と語っておられるが、凡人のわたし如きはその御説明をご紹介するのが精一杯である。

 

 

【2-9につづく

【2-7にもどる

後水尾上皇を巡る人物と建築物1にもどる

 

 

後水尾上皇を巡る人物と建築物 2の6 ――修学院離宮・中御茶屋・客殿5

 

2の6 修学院離宮---中御茶屋・客殿

 

(後水尾上皇を巡る人物と建築物2の5―【楽只軒から】)

 

【客殿――霞棚】

 

楽只軒建立の10年後に養母である東福門院(16071678)が崩御されたが、その女院御所の奥対面所であった建物が当地へ移築されたものが客殿である。

 

楽只軒から東南に雁行し階段によりつながる入母屋造りの木賊葺(とくさぶき)の建物が客殿である。この二つの建築物は上皇薨去(1680年)後に内親王が落飾得度し、御所が林丘寺と改め、尼門跡寺院とされた際に、施入されたものである(離宮編入いついては「後水尾上皇を巡る人物と建築物4」参照)。

 

そこで客殿の入母屋造りの威風や室内の豪奢な装飾は、修学院離宮の他の建築物との比較において「周囲の自然との融合」という一点で明瞭な差異、違和感がある。京都御所にあった女院の建築物が移築されたためで、後水尾上皇の離宮構想とは大きく懸け離れた「造形美」をなしており、やはり修学院離宮によって追求された「美」・「精神世界」は「下・上の御茶屋(離宮)」をもって考えるべきである。

 

だからこの客殿の霞棚が桂離宮の桂棚とならび「天下の三棚」(他に醍醐寺三宝院の醍醐棚)と称され、離宮の代表のひとつに掲げられている現実には、後水尾上皇もさぞかし苦笑いしていることであろう。 

一の間格子襖

一の間格子模様の襖

 

まぁ、そうした堅い話は別として客殿の造作自体は単一の建築物として見れば、やはり女院御所の風格を汚さぬ重厚さを備えている。特に一の間の霞棚はその規模、霞のように棚引く違い棚の配置そして地袋に描かれた絵や羽子板形の引き手など心憎い名工の技が、そこかしこに散りばめられている。その意味では、上皇の御意志とは関係なく修学院離宮の目玉であることは認めざるを得ない。また杉戸に描かれた鯉の絵のどこか王朝の風合いをもったエピソードも面白い。宮内庁職員の話では「夜な夜なこの雌鯉が杉戸から逃げ出してどこかに夜遊びにゆくという。そこで逃げ出さぬようにこの鯉に網を掛けて逃げぬようにした」という。金色の網はかの円山応挙の手になるというが、鯉自体は作者不明であると言う。ただ、この網が洒落ていて注意深く目を凝らすと、真ん中に小さな破れ目が存在する。「あの裂け目から雌鯉は結局、毎夜逃げ出して恋人の雄鯉との逢瀬を重ね、そして杉戸には、だから・・幼い子鯉が描かれているでしょう」と、落ちがつくのである。宮内庁もそうそうお固いことばかり言うところではないようだ。これも雅(ミヤビ)というものか・・・。

霞棚地袋羽子板形引戸

霞棚地袋羽子板形引き戸

 

杉戸の雌鯉
杉戸の鯉

 

 

 

そこで宮内庁の方の説明にもない秘密のお話をここでひとつご披露することにしよう。

 

 朱宮御所の雌鯉が夜な夜な逢瀬を重ね子供までもうけた雄の鯉はいったいどこの何者なのだろうか?

 

 想いを寄せた雄の鯉は、修学院離宮を遠く南に下った山科の毘沙門堂(正しくは出雲寺)(京都市山科区安朱稲荷山町18)という歴とした門跡寺院にいらっしゃるのである。

 

 毘沙門堂は、春は枝垂れ桜、秋は紅葉が美しい隠れた名所であるが、宸殿に描かれたすべての襖絵(狩野益信作)がすべて「騙(だま)し絵」であることでも有名で、まだ見方が解明されていない絵も多くある(説明員の方の説明)遊び心いっぱいの寺院である。

 

 その遊び心いっぱいのお寺の宸殿内の衝立のなかに想われコイ!の雄鯉はひっそりと棲んでおられたのである。こちらはお一人?でした・・・。

 

 一見すれば、修学院離宮の雌鯉(作者不詳)と同一人物の手になる絵であることが分かる。杉戸の鯉とそっくりなのである。説明員の方に質問したところ、この衝立は何と後水尾上皇がお持込みになったということで、「杉戸の鯉」と対であるとのこと。何とも不思議な縁を感じたものである。

 

後水尾上皇を巡る人物と建築物---1にもどる

後水尾上皇を巡る人物と建築物---2の5にもどる】 

 

毘沙門堂

毘沙門堂本堂

 

宸殿
この宸殿の中に愛しい雄鯉がいらっしゃるのです

霞棚

天下の三棚---霞棚

後水尾上皇を巡る人物と建築物 2の4――修学院離宮・中御茶屋5

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後水尾上皇を巡る人物と建築物--1へ

 

後水尾上皇を巡る人物と建築物--2へ

 

後水尾上皇を巡る人物と建築物--2の2へ

 

後水尾上皇を巡る人物と建築物--2の3へ

 

 2の4 修学院離宮・中御茶屋(なかのおちゃや)

 

 さて、それでは中御茶屋・中離宮へと向かうことにしよう。

 

 下御茶屋の東門を出ると、眼前には御茶屋山。右が中御茶屋へ。左が上御茶屋へゆく赤松の並木道である。

 

 左手奥に比叡山の頂上を見上げ、右手に御茶屋山、東山連峰が連なる壮大な景観が広がる。中離宮へ向かう松並木の間に田園風景が広がる

比叡山の頂上が・・・

左手奥に比叡山の頂上が・・・

 

中離宮へ

 

ほぼ正面には東に真っ直ぐ傾斜して上る路と南に90度の角度で真っ直ぐ伸びる平坦な路が見える。それぞれの経路が人の身長を少し超える高さに剪定された赤松の並木道となっている。そして上下の御茶屋への松並木の両側には牧歌的な田畑が広がっている。

 

この田畑はそもそも宮内省(天皇家)の財産であったものが、終戦後、天皇家と雖(いえど)も例外規定は適用されず、農地解放政策により小作人の農家へと解放を余儀なくされた。その私有地となった農地が昭和三十年代に入ると次々と新興住宅地への転用が図られ、そのままでは離宮の景観維持に大きな脅威を与えることになった。そこで景観保護の要請から昭和39年(1964年)に上・中・下の各御茶屋(離宮)の間に展開する8万?に及ぶ水田畑地を買い上げて修学院離宮の付属農地としたという経緯がある。

 そして現在はその田園風景を維持するために元の農家の人々に農作業を委託している。しかし農業を継ぐ後継者が少なく、ここにも高齢化のという時代の波が押し寄せ、田畑を荒廃させずに今後、この景観を維持してゆくことに別の意味の難題が持ち上がってきているという。

 

 中御茶屋は表門、中門を抜けて、まず楽只軒から客殿をぐるりと回り、また袖塀付きの表門から出て、南・東の松並木の分岐点へと戻る経路をとる。中御茶屋が当初の離宮造営の構想に入っていれば、おそらく中御茶屋から上の御茶屋へ直接向かう別経路の道が造られていたに違いない。

 

中御茶屋(中離宮)表門中離宮表門

  

 この中御茶屋は後水尾天皇と女官櫛笥隆子の間にもうけられた第八皇女朱色光子(あけのみやみつこ)内親王(16341727 享年93歳)のために建てられた朱宮御所に東福門院(後水尾上皇の皇后・徳川二代将軍秀忠の娘・光子の養母)崩御後に女院御所の一部を移築し、拡張したものが基礎となっている。

 

従来の慣行であれば、女官との間に出来た皇女は内親王宣下を受けずに比丘尼御所で一生を過ごすのが通例であったが、この光子は東福門院の養女となり、内親王宣下されるという厚遇を受けている。

 

 光子内親王は上皇の崩御後、落飾得度しこの御所を林丘寺として読経三昧の生活を過ごしながら、捨て子を引き取り養育するなど慈善活動にも力を入れた心根のやさしい女性であったようだ。そうした心豊かで聡明な女性であったからこそ、父帝は光子を特別に寵愛したのであろう。

 

 紫衣事件など幕府との対峙において朝廷の権威を守ろうとした後水尾上皇。そして上皇の敵である将軍秀忠の娘の徳川和子(東福門院)が、夫たる上皇と女官との間に出来た娘を養女に迎え慈しんだこと。その一方で第一皇女をその営んでいた庵を撤去させ奈良に追いやってまでして離宮を造営、光子内親王という愛娘は離宮の傍に住まわせた上皇。

 

 そうした凡人の愛憎感情を超えた苛烈なまでの人間模様、すなわち自己欲成就の為に実の娘に宿命という桎梏(しっこく)を思うがままに強(し)いる男、また与えられた宿命を甘んじて許容する女に思いを馳せたとき、人間という生き物の自己実現への欲望の凄まじさ、そしてまったく別の次元の意味において自己実現に対する人間の果かないほどの従順さを見てとるのである。

 

 そう考えたとき後水尾上皇という男が、さまざまな人間の気持ちを懐深い心栄えのようなものへと変質させる魅力、人間力といった強烈な引力のようなものを持っていたように思えてならない。

 

 それでは余談はそれくらいにして、それでは中御茶屋の建物の紹介へと話を移していこう。

 

 【後水尾上皇を巡る人物と建築物 2の5へつづく】

東門からの景観

東門を出た正面の景観

後水尾上皇を巡る人物と建築物 2の3=修学院離宮(中御茶屋へ)5

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2の3 中御茶屋(なかのおちゃや)=中離宮 (楽只軒・客殿)


 【本来の修学院離宮の姿と後水尾上皇の造営コンセプト

 

 中御茶屋はそもそも後水尾上皇が造営した離宮を構成する構築物ではない。「2の1 沿革」のなかで引用した「修学院離宮の歴史」(宮内庁監修)で述べられているように明治18年(1885年)林丘寺門跡から境内の半分が楽只軒(らくしけん)、客殿とともに宮内省に返還されたので、離宮に編入したものである。昭和39年(1964年)上・中・下の各離宮の間に展開する8万?に及ぶ水田畑地を買い上げて付属農地とし、景観保護の備えにも万全を期して今日に至って」おり、上皇の離宮造営の構想にはなかった構築物であり、上皇が離宮として使用したものではない。


赤松並木の間から見える田畑
赤松並木から垣間見える買い取った田畑


 

 つまり創建当時の修学院離宮は、下御茶屋と上御茶屋という二つのゾーンとそれを結ぶ畦道から構成された構築物と庭園であった。したがって後水尾上皇との関係において離宮を語るときには、この中御茶屋をはずして評論するのが適当である。

 

その視点で上御茶屋との対比において下御茶屋の意味を問い直して見る、また下御茶屋との対比における上御茶屋の位置づけを考えて見るのも一興ではなかろうか。わたしには、幕府と相対峙した不屈の人物、後水尾上皇がさまざまな思いの中で造営に全精力を尽した修学院という離宮本来の姿が、そのことでより鮮明に浮かび上がってくるように思えるのである。

 

 

上御茶屋でいまわれわれが目にできる建屋は寿月観のみである。しかし、現在では名を残すのみであるが、創建時には最大の建物であった「彎曲閣(わんきょくかく)」や「蔵六庵(茶室)」、「御清所(台所)」とともに相応のもてなしのできる機能は整えられていたという。

 

 また宮内庁職員の案内によると、現在の離宮は周囲に境界としての垣根が厳重に設けられているが、明治に入り離宮が宮内省の所管となるまでは全周にわたる垣根は存在せず、洛北の自然と一体となったいたってのんびりとした開放的な山荘であったという。

 

 そうした話も参考に離宮のコンセプトを考えると、下御茶屋では厨房を備えた宿泊設備も整えられた彎曲閣で、はるばる洛北のはずれまで足を延ばしてくれた賓客を心ゆくまでもてなしたのではなかろうか。そして寿月観から東山の頭上にかかる名月をめでたに違いない。

 

 そして名月を堪能した翌日にでもハイキングのような感覚で、上御茶屋へと畦道を上り、隣雲亭(りんうんてい)で眼下に洛中の街並み、西方に西山の連山、その奥に突き出る愛宕山の山頂を眺めて自然の大パノラマを満喫し、雄滝の落水の音に清涼感を覚え、窮邃亭(きゅうすいてい)で乾いた喉を潤したのではなかろうか。
 


西山愛宕山を望む


隣雲亭(上御茶屋)から見る西山連峰

 

 さらに浴龍地(よくりゅうち)で船遊びに興じ、疲れては万松塢の御腰掛けでひと時の休息をとったのであろう。夕日が西山にかかる頃、大刈込みの堰堤の上に当たる西浜の小径から夕日にきらめく下御茶屋を見下ろし、その向こうに広がる洛中の街並みや西山連峰の景観を目にし、自然との一体感を全身で感じ取って、下御茶屋へと下っていったのであろう。 

浴龍池

隣雲亭からの浴龍池

 

 そう想像してみると、下御茶屋の今はない彎曲閣もふくめその造園形式は大自然との対比において、敢えてこじんまりとさせかつ人工的なものであったのではないかと考えられる。

 

 そう考えると、寿月観へ至る池を配した小さな庭園の意味がより鮮明に理解できる。

この修学院離宮は下御茶屋の人工美と上御茶屋の自然美という対比で造られたと、考えたくなるのである。畦道というなんの作為もない、しかしどこか「能舞台」に至る一の松、二の松、三の松を配した「橋懸り」のような一本道を通じ、その対極の世界を東西にしかも高低差をもたせて対置させた。貴人には40mの高低差はきつい。また上御茶屋の御成門に入ってから隣雲亭に至る小経は両脇に垣根が迫り、狭隘感を客人に抱かせる。またその急勾配が喉の渇きをいっそうつのらせたことだろう。

 

 だからこそ人ひとりの幅しかない最後の石段を登り終え、隣雲亭の縁側に腰を掛けた時、眼前に広がる大パノラマは、それまでの小経との対比においてその開放感という一点で効果は抜群であろう。また客人の頬を撫でる比叡下しの涼風は至上のもてなしに思えたことであろう。

 

 この心憎いばかりの「対比」の演出が、この修学院離宮を造営した後水尾上皇のコンセプトだったのではなかろうか。それはまた叔父にあたる八条宮智仁親王が30年程前に造営した「桂離宮」という人工美の極致との「対比」、「対抗心」でもあったのではないのか。

 

 そしてその「対比」こそが、後水尾上皇が内奥に秘めた性格、「強い執着」そのものだったのではなかろうか。

 

【2の4につづく】
後水尾上皇を巡る人物と建築物 1 にもどる


中離宮表門

中御茶屋表門

後水尾上皇を巡る人物と建築物−−−1=修学院離宮・圓通寺・桂離宮・曼殊院5


修学院離宮 浴龍池と万松塢(ばんしょうう)


浴龍池


桂離宮 左:古書院 右:月波楼


桂離宮

 

 
1.後水尾上皇をめぐる人々

 修学院離宮を造営した後水尾上皇
15961680は、昭和天皇が薨去(こうきょ)されるまでは、神話時代を除く歴代天皇のなかで最長寿を誇った天皇である。享年85歳であった。京都東山区泉涌寺(せんにゅうじ)山内町の真言宗泉涌寺内の月輪陵(つきのわのみささぎ)に葬られている。

 

 後水尾上皇は徳川幕府草創期に「勅許紫衣法度」や「禁中並公家諸法度」を無視し、高僧に紫衣着用の勅許を与えた「紫衣(しえ)事件」(1627)を起こすなど、朝廷支配を強化する幕府に対し激しく抵抗した気骨あふれる天皇として有名である。また長寿とともに34名もの皇子女に恵まれるなど、そのエネルギッシュな生命力と旺盛な精力も特筆されるところである。

 

 その後水尾上皇は後陽成天皇(15711617)の第3皇子であったが、その皇位継承にいたる経緯は簡単なものではなかった。豊臣政権から徳川幕府へと激動の時代にあって武家と朝廷との確執のなかで、さまざまな人物、政権の思惑のなか紆余曲折を経て定まったものである。

 

その経緯を概観すると、そもそも後水尾上皇の父たる後陽成天皇は時の権力者である関白豊臣秀吉の意向によって皇位後継者を第1皇子の良仁(ながひと)親王(後の覚深法親王=仁和寺第21世門跡)と定められていた。しかし秀吉の死後、天皇は自らの意思による譲位を望んだ。そして弟の八条宮智仁(としひと)親王(桂離宮造営)への皇位継承を画策したが、周りの廷臣や徳川幕府の反対から、家康の推す第3皇子である政仁(ことひと)親王(後水尾天皇)を後継者として立てることにしぶしぶ同意させられたのである。

皇位継承者の政仁親王(後水尾天皇)が実子であるにもかかわらず、後陽成自身の思いに沿わぬ譲位となった結果、後陽成天皇の後水尾天皇に対する思いは複雑で、結局、親子の関係は冷え、著しく不仲なものとなった。

 

後水尾天皇の方も父への思いは氷のように冷たく、深い遺恨を残すものであったと考えられる。その思いの表れが、父に対する諡号(しごう=死後にその徳を称えて贈る称号)の贈与のなされ方である。なんと父の諡号に、暴君との理由から退位を余儀なくされたとされる陽成天皇(869949の「陽成」の加後号「後陽成」を選んだのである。そして自分自身は陽成天皇の父である清和天皇(850881)の御陵に因んだ異名「水尾」帝の加後号「後水尾」を贈らせるという過去に例のない(父子逆転の)ことを行なったのである。後水尾上皇の父に対する並々ならぬ屈折した思いと遺恨の根深さを感じずにはいられないのである。

 

現在、「京都御所」「仙洞御所(後水尾上皇)」「桂離宮(八条宮智仁親王)」「修学院離宮(後水尾上皇)」は、皇室用財産(所有者は国)として宮内庁が管理(拝観許可必要)し、拝観には事前許可が必要とされている。その四つの建築物が、豊臣政権から徳川幕府へと武家社会の基盤が確固たるものになってゆく時代、その流れに抗(あらが)った天皇たち、その歴史に弄(もてあそ)ばれた結果の親子関係の感情のもつれや皇位継承者からの離脱といった人生模様の図式の中で、生み出され、また存在したことに、わたしは何か不思議な縁を感じさせられるのである。天皇になっていたかも知れぬ桂離宮造営者の八条宮智仁親王と天皇になった修学院離宮造営者の後水尾上皇。その数奇な叔父・甥の関係にある二人が日本を代表する構築物を造り出したのである。

 

 そうした縁も踏まえて、それではまず、修学院離宮から拝観してゆくことにしよう。

後水尾上皇を巡る人物と建築物 2の1 修学院離宮につづく



 

古都散策--修学院離宮5

修学院離宮ーー古都散策
後水尾上皇を巡る人物と建築物−−−1=修学院離宮・圓通寺・桂離宮・曼殊院 
(2009.2.23) 

 

昨年(2005年)11月の修学院離宮の風景である。晩秋の陽光に赤づいた紅葉の景色を水面に映す一瞬の姿に長い時間の移ろいを感じた。 

修学院離宮
浴龍池と上御茶屋・隣雲亭を望む
天下の三棚・中御茶屋一の間、霞棚
中御茶屋一の間にある天下の三棚のひとつ霞棚

宮内庁の方の丁寧かつユーモアに溢れた説明を聞きながら、洛北にひっそりと歴史を刻んできた名園に、しばし心と目を奪われた。

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