小林一茶の里、信濃町=俳諧寺一茶堂
晩夏の頃、小林一茶の里、信濃町〔長野県上水内(かみみのち)郡信濃町〕を訪れた。上信越自動車道の信濃町ICを降り、一茶のお墓や俳諧寺のある小丸山まで4、5分(約3.5km)。
またJR信越本線黒姫駅からは徒歩5分(約300m)と、至近の距離である。ICを降りてすぐの道の駅で地図をもらうと便利である。
小林一茶(1763〜1827・享年65歳)は長野県の北部、新潟県との県境に近い信濃町柏原に生まれた。途中、江戸に奉公に出て、俳句の道を目指してからは関西・四国・九州を俳句修行でまわるなどして、50歳の時から亡くなるまでの約15年間をこのふるさと柏原で暮らしたという。
俳諧寺一茶堂
一茶像から記念館を
記念館の資料で俳人一茶の足跡と同時に、39歳の時に父を亡くした一茶が、ふるさとに永住することになるまでの約10年間、俳句の道とはおよそ対極にある相続争いを継母と弟を相手に行っていることを知った。その事実は俳聖といわれる芭蕉などとは異なった、生臭くもあり、あまりにも人間臭さく、一茶という人物の一面を知り、びっくりもし、何かとても身近に感じたのである。
俳諧寺の脇には中條雅二氏の作詞、中野二郎氏の作曲になる「一茶さん」の童謡碑が建つ。
「一茶のおじちゃん 一茶のおじちゃん
あなたのうまれは どこですの
ハイハイ 私のうまれはの〜
信州信濃の 山奥の
そのまた奥の 一軒家
すずめとお話し してたのじゃ♪」
一茶の眠る小林一族の墓地へ向かう道筋にひっそりと俳諧寺一茶堂が建つ。一茶をしのぶ人たちにより明治43年に建立された古いお堂である。その小さな堂内の天井には一茶を訪ねこの地へ足を運んで来た俳人、文人たちの俳句筆跡が一枚ごとにはめ込まれている。金子兜太氏らも献句をしていた。
そこからほんの車で1、2分ほどのところに一茶終焉の場所である旧宅が残っている。旧宅といっても本当に小さな土蔵であり、亡くなる5か月前の柏原宿大火(1827年閏6月)で住家を焼失、残された土蔵に住み移り、結局、そこで65歳の生涯を閉じた(同年11月19日)。土蔵を入るとすぐ土間に囲炉裏がきってあり、脇に二、三畳ほどの畳敷き(ほかに頭上に道具置きの二畳ほどのスペースがある)。ただ、それだけである。
こんなに暗くて狭いそして寒かったであろう蔵のなかで、「やせ蛙 負けるな一茶 ここにあり」の一茶翁が寒い霜月に逝ったかと思ったとき、一茶のどこかユーモラスだがペーソスをふくんだ句に、血が通ってきたようで実感としての親しみが増してきた。
「やれ打つな 蠅が手をする 足をする」
「雀子を遊ばせておく畳哉」
「我ときて遊べや親のない雀」
一茶旧宅横にある弟の屋敷
敷地内に建つ石碑
記念館玄関から煙雨の信濃町
と、詠んだ幼くして生母を失い、継母・弟と宿縁の相続争いをした肉親の情に恵まれなかった俳人の心の奥襞(ひだ)に僅かではあるが、触れることができたような気分になった。
その日は晩夏であるのにまるで秋時雨のような雨の降る、煙雨の一日であった。