神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 16 海神神社(中)
神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 16 海神神社(下)
神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1
神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 補足(参考・引用文献について)
神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 15 阿麻テ留(アマテル)神社(上)



海神神社一之鳥居


海神神社一之鳥居



   我が国の八幡宮の起源「木坂八幡本宮」



 神々のふるさと、対馬巡礼の旅---番外編(神功皇后は実在した1・2)」で見たごとく神功皇后の実在の可能性が高いとする一つの根拠が、対馬に数多く残る皇后の新羅への出征時および凱旋時の対馬寄港の伝承であり、凱遷時に国防祈願をしたという八幡宮の存在である。そうした話を神社の由来として伝えるのが、かつて木坂八幡本宮と呼ばれた海神神社であり、木坂から遷された厳原八幡宮である。この二つの神社には神功皇后の凱旋時にまつわる酷似する伝承が残されており、全体の物語の構成としても不自然さがないことに、リアリティーという点で注目したいところである。



神功皇后の新羅征伐に係る対馬に関する「紀」の記述は以下の通りである。



【神功皇后(摂政前紀 仲哀天皇99月―10月) 「神助により新羅親征」】

「冬十月の己亥(キガイ)の朔(ツキタチ)にして辛丑(シンチウ=3日)に和珥津(ワニツ)より発ちたまふ。時に飛廉風(カゼノカミカゼ)を起し、陽侯浪(ウミノカミナミ)を挙げ、海中の大魚悉に浮びて船を扶く。則ち大風順に吹き、帆舶波に随ひ、櫨楫(カヂカイ)を労(イタツ)かずして、便ち新羅に到る。・・・」との記述。

和珥津(ワニツ):対馬北端、上県郡対馬町の鰐浦。



「神功皇后(摂政元年3月―53月)「誉田別皇子の立太子」の記述のなかで、人質とした新羅の奈勿(ナモチ)王の子、微叱己知(ミシコチ)が奪還される場面で、対馬に宿泊。その時、人質奪還をされた土地の名が「サヒノウミ」の「水門」であると以下の通り登場する。

「〔人質の微叱己知(ミシコチ)と新羅の使者毛麻利叱智(モマリシチ)等と神功皇后が見張りとして随行させた葛城襲津彦(カヅラキノソツヒコ)と〕共に対馬に至り、�窶海(サヒノウミ)の水門(ミナト)に宿る」



「紀」の注では、『「�窶(サヒ)」は「鋤」に同じく農耕具で、鋭利な武器でもあったか。鰐はその鋭利な歯から、「サヒ持ちの神」(古事記)といわれたことの連想によるか。』とあり、「サヒノウミの水門」は「和珥津」と同地と推定している。



但し、「対州神社誌」の「府内」の「(厳原)八幡宮」の厳原町久田道字宝満山に鎮座する「村社・與良祖神社」の「明細帳」(注)において、「山幸海幸の説話の(注)に、『海宮は津島の事なり。小船の着しは津島下県郡鴨居瀬村の東海瀬戸なり。爰(ココ)に小島あ、此島南北に連流し、此小島と鴨居瀬との間に瀬戸あり。�窶(スキ)の水戸と云。春気を受け紫藻を生ず。紫瀬戸と云。津島の東海絶景の第一とす』とある。



 これによれば、「紀」による人質奪還の場所、「�窶海の水門」は、現在の鴨居瀬の住吉神社の建つ場所ということになる。



 このように新羅征伐の一連の記述の中で、対馬は新羅征伐への出立地及び凱旋後の新羅からの人質を奪還された場所として、北端の港である「和珥津(ワニツ)」や鴨居瀬とも推定される「�窶海の水門」の名が登場するのみであり、凱旋時に国防祈願として造営した八幡宮に関わる話は、「紀」のなかにおいては一切言及されていない。



その一方で、巷間の伝承などを参考としたであろう「対州神社誌」や「海神神社神社明細書」に「木坂八幡本宮」、「明細帳」に「(厳原)八幡宮」の由緒が詳述されている。



(海神神社概略)

    住所:峰町木坂247

    社号:「対州神社誌」に「八幡宮」、「大小神社帳」に「木坂八幡本宮」とある。厳原の新宮に対し、本宮と呼ぶ。明治時代までは八幡宮と称していた。明治3年に、和多都美神社と改称し、さらに明治6年に海神神社となる。

    祭神:応神天皇・彦火火出見尊(山幸彦)・仲哀天皇・豊玉姫(山幸彦の夫)・武内宿禰

    由緒(対州神社誌より)

藤仲郷は「対州古蹟集」の中で、この八幡宮を「日本八幡宮の旧本社なり」と主張している。当神社の由来書によれば、次記の通り。



「神功皇后御征韓の役を終わらせ給い、帰途対馬をよぎらせ給う御時、佐賀の浜に八幡を建て給い、木坂山に鰭(ヒレ)神を祭らせ給う」とある。そして「津島紀事」に「皇后は佐賀の浦に斎庭をしつらえ、三韓出征の折、宗像神から授かった『振波幡』、『切波幡』、『振風幡』、『切風幡』、『豊幡』、『真幡』、『広幡』、『拷幡』の八旌の旌旗と鈴とを浜辺に張り巡らし捕虜の釈放(放生会の始め)や矛舞など凱旋の祝いを行った。次いで八旒の旗をこの地に蔵し国土守護の『うけひ』をせられた。仁徳天帝癸丑の年に、佐賀八旒を木坂に遷して廟主となし、神功皇后を奉祭しこの社を一宮と称した。さらに継体帝丁亥の年には、応神天皇以下の神を木坂の伊豆山に奉祀し、この神功・応神両神廟を八幡宮と称えた」とある。

「津島紀事」とは、対馬府中藩士の平山東山(ヒラヤマトウサン17621816)が郡奉行の任にある時、視察のため来島した幕臣土屋帯刀(タテワキ)に命じられて対馬の史誌を編修し、幕府に提出したもの。

    一宮を木坂伊豆山に奉祀した由緒(海神神社神社明細書より)

「神功皇后新羅より還御の時対州西面の要害を御船より巡検し給ふ時、木坂山を叡覧ありて、此の山は神霊強き山なり、彼の山頭に鰭神等祭祀し異国降伏祈らんと宣ひ、武内大臣を奉じ、神籬磐境(ヒモロギイワサカ)を定め、斎き祭り給ふとなり」とある。これは、厳原の八幡宮(新宮)の清水山由緒に同種の記述あり。



    さらに、藤仲郷は「対州古蹟集」の中で、「皇后征韓の時、供奉の御旌八旒を此州に留玉ふを廟主とす。其の鈴二口宝とす。〔八旒の旗の内〕二口は府〔厳原〕の八幡宮に分置し、二口は豊前宇佐宮に分ち、又二口は黒瀬城〔現・金田城〕に納むと。今、州(対馬の)中に伝もの六口也」と、述べている。



    「仁徳天皇の御宇、異国の賊船数百艘西方海上に顕れた際、木坂の伊豆山の頂より神風が強く吹き起こり、異船ことごとく行方知れずになった」との言い伝えがあるが、後に白髪翁が現れて、「是即ち気長足媛尊(神功皇后)の祭り置せ給ふ国主和多都美の御神霊の為す所よと喜ひて」(海神神社明細書)と、仁徳紀に八幡と鈴が木坂に遷された由縁が分かる。さらに国府(厳原)と黒瀬と宇佐へと鈴と八旒が遷された。これに関連して、現在、八幡宮の総本社とされる宇佐由緒では、欽明天皇三十二年に八幡神が現れたとなっている。



    統一新羅時代(8世紀)の銅造如来立像(国の重要文化財)が収蔵されている



    大小神社帳に、境内社として本殿左に建つ五宇が紹介されている。即ち、一ノ宮(祭神:神功皇后)・若宮(同仁徳天皇)・新霊(同菟道皇子)・軍殿(同日本武尊)・瓊宮(ニノミヤ・同豊姫霊)。この5社は「官社」であると記載されている。

また、木坂八幡本宮は古くは「和多都美神社」又は「上津(カウヅ)八幡宮」と号したとある。