新緑の乗鞍高原温泉郷を巡る=乗鞍三滝(番所大滝・ばんどころおおたき)
新緑の乗鞍高原温泉郷を巡る=乗鞍三滝(善五郎の滝)
番所(ばんどころ)大滝を観た翌日(5/30)、小大野(こおおの)川の一番上流に位置する三本滝を訪ねた。
乗鞍三滝のなかで最も時間を要し(一般の人で片道25分)かつ木の根の這う細い下り道を歩かねばならず、足の悪いわたしには難易度が高く、体力のある午前中がふさわしいとの家内の読みによりそうした行程となった。
その判断が結果的に“日本の滝百選”に選ばれた“三本滝”を心ゆくまで鑑賞する最高に贅沢な時間をわれわれにもたらしてくれた。
当日は午前9時30分には、 “三本滝レストハウス”(この時期まだ閉鎖中)前の駐車場に到着。標高1700mとの表示があったが、朝晩の冷え込みはまだまだ半端ではないのだろう、駐車場の隅に除雪した雪の残骸がまだ解けずに残っていた。
そして乗鞍の頂上、畳平へ向かう乗鞍エコーラインもこの三本滝バス停でまだ全面通行止めの状態であった。
レストハウスの右側壁沿いにちょっと進むと、そこに三本滝へのアプローチ路らしきものが見つかった。しかしその入路口には手毬大の石ころが多数転がり、熊笹が両脇に生い茂るなど、案内板もないためこの道が三本滝へゆく径なのか不安になる。
実際に一組の御夫婦がやはり「あっちだ」、「いやこっちだ」と言いながらレストハウス周辺を巡っていた。その後、このご夫婦とは山道ですれ違うこともなく、三本滝で合流することもなかった。結局、あのご夫婦は三本滝を見ることを諦めてしまったのだろうかとちょっと気の毒な気がした。
一方、われわれは“女将おすすめ・のりくら散策ガイド”の小冊子を手に、疑心暗鬼ながらもスキー場の林間コースのような狭い山坂を下り始めた。
途中で手書きの“三本滝⇒”なる案内板を見つけひと安心したのも束の間、その下に書かれている文章に“この先残雪(30cm程度)があります。雪解け(5月下旬頃)までトレッキングシューズでも、歩行が困難です”とあった。
ここが思案のしどころだが、行けるとこまで行っちまえ!というのが、わが夫婦の共通する性分。その標識から山道は一挙に幅を狭め、雪が解けている故か、昨夜の雨の故か泥道の表面はぬかるんでいる。
わたしは残雪がそこかしこに見え隠れする下り道を杖を支えに慎重に歩を進めた。
またどうしても引っ張り上げてもらわないと難しい段差があったり、グラグラと不安定な丸太橋などは家内に手を引いてもらわないと危険であり、健康であってくれた家内に心から感謝したところである。
そうこうしながら痺れた足を引きずり、息をあげて歩き続けていると、三本滝へ0.2kmという標識を見つけた。萎えた足の力が俄然、みなぎってくる。本当に人間って現金なものである。
そしてこれが最後の胸突き八丁なのだろう。眼前に山肌にへばりつくようにして急勾配の階段があった。手すりにすがりつき、最後の力を振り絞り、それを昇る。
すると、今度はしっかり揺れてくれるではないか、吊り橋が待っていたのである。
高所恐怖症のこのわたしがその難所の吊り橋を独りで渡り切る。下には小さな滝が轟音を轟かしている。
だが、あまりに清冽なその流れと滝壺へと一直線になだれ込んでゆく水勢に、高所恐怖症という劣性な感性は身を潜め、奔馬のように奔る透明な流水に融け込みたい、どこまでも一緒に転がってゆきたいというこれまで覚えたことのないAdventurous Spiritにとり憑かれたのである。
この充実感・・・、昂揚感・・・!! もう三本滝は近いに違いない・・・。霊気とでもいうのだろうか、水の精にでも手招きされているような陶酔感である。
その危うい心の揺らめきを覚醒させたのもまた水の精なのだろうか・・・、滝壺に落ち込む水音であろう、わたしの耳朶を打ち、その響きはどんどん大きくなってゆく。まるで和太鼓が乱れ打ちに転じてゆくようなピッチで・・・
水の精に操られたようにして吊り橋を無事渡り終えると、直ぐにまた急勾配の板敷きの坂があった。最後の力を振り絞り昇りきった。
目の前にぽかっと小さな平地が出現した。
水溜まりのできた小さな木橋を渡ると、その先に“三本滝”の案内板が見えた。
三本滝に到着である。慎重に足場を選びながらの行程であったが、35分ほどで到達した勘定になる。家内の助けもあり、捻挫や転ぶこともなく、上出来の部類といったところである。
そして転がり落ちて来たのだろう、そこここに点在する大石を右に左に避けながら、ゆっくりゆっくり瀑布の放つ轟音に向かい進んだ。
視線を地べたから空へ向けて上げた。三筋の滝を認めた。一望できた。爽快である!!
三本滝は水源の異なる三筋の流れがこの個所で滝となって天空より落下し、ひとつに合流するという。
その合流する最後の瞬間、それぞれ出自の異なる水流は自らのアイデンティティーを確かめるかのように、己だけが造り上げ得る姿を創り出し、滝口からダイブする。それほどに三本滝の姿は見事なまでにその趣きを異にしている。
そして各々が落ち込んでゆく滝壺から発される轟音は、三筋の水流が一緒になり混然となる寸前に己が生きて来た自身の証しを必死に誰かに伝えようと叫んでいるようにも聞こえたのである。
自然の造り出す無意識界の景観であるが、客体であるわたしには彼らの強い意思を感じさせる命の為せる表現に思えたのである。
その三本滝。
向かって右手が小大野川の支流・黒い沢にかかる“黒い沢の滝”である。
直下に落下するのではなく、幅広い急勾配の黒い岩盤の上を豊富な水がまさに石奔(いわばし)っている。
その砕け、跳ね、舞い落ちて来る様は、真下から眺めていると奔放な野生馬が今にも跳びかかってくるようで、その生命力には圧倒される。
真ん中で豪快に落下している滝が、小大野川本流を流れ落ちる“本沢の滝”である。
少し奥まった滝口から一直線に落下する瀑布の様は潔く、痛快であり、見事である。
そしてちょっと左手に白く糸を引くように楚々と流れ落ちているのが、無名沢にかかる“無名沢の滝”である。
右側の二つの豪快な滝とは異なり、ただでさえ僅かな水量は滝壺に落ち込むまでに霧となって大気を潤している。わが身を削り、細い糸のようになり落下し、滝壺へ舞い降りる時には、消え入るような姿である。
ただでさえ細い我が身を削り、大気という世界に水の精なる潤いをほどこし、ついには消え入るように小さな小さな滝壺へと身を沈めてゆく・・・
なにか、衆生を救うために祈ってくれている観音さまのように思えてきて、この“無名沢の滝”が殊のほか有難く、いとおしく感じられた。
そして20分ほど三本滝という清浄なる空間を二人っきりで独占したところで、旅人たちがチラホラと辿り着いて来た。そこで頃はよしとこの清浄界を後にして帰路につくことにした。
帰りは足が慣れたせいもあるのか、30分弱でレストハウスまで辿り着いた。
その道すがら高山の花や芽吹き始めた木々の新緑を愛で、ウグイスやコマドリなどの野鳥の囀りに耳を傾け、心満ちた道行きを愉しんだ。
可憐な花々に失礼にならないように、帰宅後、”山と渓谷社”の”高山の花”、”山の花”、”野の花”を買い求めたのでこれからもう少し勉強しないといえませんね。色々な花が咲いているのだが、名前が分からないのが多くて・・・