3月7日午前11時から、「全聾(ぜんろう)の作曲家」・「現代のベートーヴェン」として一部の人に知られていた佐村河内守(さむらごうち・まもる)が、東京都内のホテルで記者会見を開いた。大学講師・新垣隆(にいがき・たかし)氏による「ゴーストライターをしていた」とする暴露会見(2月6日)を受けてその反応に関心が寄せられていたが、ようやく公衆の前にその姿を現した。


会見のなかで記者たちの多くの関心が、彼が本来、全聾であったのか否か、いまも手話通訳者を介さないと会話はできないのかといった些末な問題に絞られているようで、今更ながらメディアの質の度し難い低さに呆れた。白黒決着をつけるつもりなら、事前に世間が納得できる程度の耳鼻咽喉科の専門医師にヒアリングしておくのが、こうした場合の取材のイロハであろう。

即ち、全聾(聴覚障害2級)の認定を受けたケースで、障害認定もされぬ水準までに聴覚機能が劇的に回復する症例があるのか、あったとしたらどういったケースかその具体的事例を調査、検証しておくべきである。
そのうえで、会見でその専門的見解をもとに佐村河内のひとつの嘘をまず暴いて見せたらよかったのだ。

今まで佐村河内に関係してきた周囲の人々を丁寧に取材しておくべきであった。大半の記者は週刊誌の記事や人づての話を主材料として質問をしていたのではなかろうか。だから、映像を観て視聴者の誰もが“耳は聴こえてるよ、この人”と思っている、そのペテン師にいいようにノラリクラリと言い逃れをさせてしまったのだ。

具体的に、「あなたが耳が聞こえていたと判断すべき事例がコレコレあるよ」と、詰問していくべきであった。取材で一つ一つ積み上げた小さな事実こそが、こうしたペテン師の悪行を暴く最良の材料、武器となるはずなのに・・・。

そうすれば、“耳は聞こえているのに、まだ、白を切りとおすつもりかとはっきり言ったうえで、人として決して許されぬ悪行を為した佐村河内の”本来の罪“をストレートに糾弾できたはずである。

そして、障害認定の水準のない聴覚機能を有しながら、もっとはっきり言えば、耳が聞こえるのにも拘わらず、手話通訳者を配し、相変わらず障害者を装い会見を続ける不快極まる光景は、そのこと自体が障害者等社会的弱者を心底、愚弄し、さらに言いようもない悲しさ、悔しさを与えたものであったことをメディア自身がもっと自戒すべきである。


今回の事件は、他人に曲を作らせ、それを隠したまま、自分の曲と長年、世を欺いてきたものだが、全聾という障害者を装うことでその商品価値を高め、社会的名誉とCD販売増、書籍販売という直接、間接的な果実を手にしてきた、その“あざとい”やり口が許せぬのである。


津波で母を亡くした石巻市の少女のためにつくった、いやゴーストライターに密かに作らせた「ピアノのためのレクイエム」。

その“お涙頂戴”のシナリオ作成、条件を満たす“少女探し”に手を貸したと云われるNHKスペシャルの番組スタッフたち。

これはもう、佐村河内ひとりの罪ではない。メディアと共謀した“騙(だま)し”、“ペテン”、“イカサマ”である。

それも公共放送が片棒、いや両棒を担いだこれほどあくどいやり方はなかろうというものだ。それも全聾という障害者を装い、その欺瞞に満ちた“苦悩の姿”をカメラで追ったNHKのおどろおどろしい映像。

その映像は、事件後にカットで初めて見たが、よくぞここまで臭い演技ができたもの、NHKがこの臭さを恥も衒いもなく編集・放映したクリエーターとしての文化レベルの低さ、いや知的水準の低さには辟易(へきえき)した。

わたしは、この事件が起きるまで、幸か不幸か、2008年のTBS・「筑紫哲也 NEWS23」(TBS)を皮切りに、天下のNHKの「情報LIVE ただイマ!」、「あさイチ」、そして、「魂の旋律 〜音を失った作曲家〜」とまで宣(のたま)わったNHKスペシャルも観たこともなかったし、佐村河内というペテン師の名前を耳にしたことがなかった。

事件後にニュースでたびたび語られる“佐村河内”という珍しい名前が耳にひっかかり、ここまで引っ張られてきたというのが本当のところである。

社会的弱者、障害者を装い、他人の才能を自己の才能として世を欺き、その具現者として臭い演技を続け、己の名誉欲を満たそうとしてきた“最低卑劣”な男、佐村河内。この男の罪は重い。

しかし、この卑劣漢を世に広く?知らしめ、それを阿漕(あこぎ)にも商売に積極的に利用したテレビ界、音楽界、出版界といったクリエーターたちの世界こそ、その責任は重く追及されるべきである。

その結果、直接、間接に多くの障害者たちは決して小さくない傷を負い、非常にみじめな気持ちにさせられた。

“障害”を“商品”の付加価値を高める“道具”として利用されたことに、それも“差別のない社会に”と、常に声高に叫んでいるメディア界が率先して、“作品”そのもよりも“障害者”によって創られた“作品”であることを前面に打ち出し、その情宣に努めたことに憤りを覚えるのである。

“障害”が“商品”の付加価値を高める効果があるとの発想そのものが、実は、“障害”を特別な存在であると心裡的に区別・差別した行為そのものなのである。

その区別、思いやったふりをしながら“差別”する、その偽善、偽君子面が許せぬのである。少々、怒りで筆が滑りそうになり危険であるが、軽度の身体障害を持つわたしはそう感じるのである。日常的に目にする偽君子面のメディアには、もう辟易(へきえき)である。

そして、佐村河内およびそれを責めるメディアも同様に、社会にきわめて不快な気分を蔓延させた罪は大きい。やはり、“ごめんなさい”ではすませるべきでない。

佐村河内に詐欺罪の適用は難しいとの指摘が多いが、同人を素材としてCDを制作・販売した音楽会社や書籍発刊をおこなった出版会社などは、その返品、キャンセルによる損害が発生しているケースがあるはずである。

損害を被った企業、団体、個人は、“障害”を利用した商売ではなかった、もっとはっきり言うと、そもそも耳が聞こえていたことを知らなかったのであれば、まずは、民事で堂々と損害賠償の請求訴訟を起こして然るべきである。

それをしないというのは、彼らも今回の社会的弱者に対する世の同情を当て込んだ阿漕(あこぎ)なイカサマを共謀・実行したものとして逆に、今度は厳しく社会から糾弾されるべきである。

そして、最後にひと言。

佐村河内(実は新垣氏)の楽曲に対する世に高名な音楽家、作家として知られる先生方の大仰な絶賛コメントである。

「佐村河内守さんの交響曲第一番『HIROSHIMA』は、戦後の最高の鎮魂曲であり、未来への予感をはらんだ交響曲である。これは日本の音楽界が世界に発信する魂の交響曲なのだ」
「言ってみれば1音符たりとも無駄な音は無い」
「これは相当に命を削って生み出された音楽」
「本当に苦悩を極めた人からしか生まれてこない音楽」
もっとも悲劇的な、苦渋に満ちた交響曲を書いた人は誰か?耳が聞こえず孤独に悩んだベートーヴェンだろうか。ペシミストだったチャイコフスキーか・・・。もちろん世界中に存在するすべての交響曲を聴いたわけではないが・・・、私の答は決まっている。佐村河内守の交響曲第1番である

等々・・・


世の“専門家”と呼ばれる人たちの芸術作品を評価する尺度に、作品そのものの価値とは異なる心理的脚色が加わると、こんな評価がなされるのだろうかと感心しきりである。

これはもちろん罪などではなく、人の意見、評論に頼ることなく、己自身の真偽眼さらには審美眼を養ううえでの貴重な事例、他山の石として肝に銘ずべき、後世に伝えられるべき褒賞ものの功績であるといえる。