「匿名社会」

 

 自分でブログをやりながら、匿名社会の怖さを実感している。文章を書いているうちについ、筆がすべるというより言葉を選ぶのにその場の感情に流されてしまうことがよくある。とくに、批判なり反対意見を書いている時にその傾向が顕著である。感動したことやちょっとイイ話を伝えたい時は、逆に後で読んで頬を赤らめることがよくある。

 

 後者は、まぁ頬を自分だけが赤らめれば済む話だが、前者は全く次元の異なる話である。批判なり相手に反対意見を述べる際には、ファクトに基づいた冷静な議論なり論評が必要である。正確な数値や冷静な事態把握、それに加えて自らを客観的な位置に置いた視点は議論する前の必須条件である。その場の感情論や自分の思い込みをベースに徒に議論、意見を展開するべきではない。

 

 TVのコメンテーターと称される人々が、キャスターから瞬間的に振られたテーマに答える時にそうした自己都合の応答をする様子を目にすることが多い。咄嗟の対応であるため情状酌量の余地はあるとはいえ、プロとして画面に登場しているのであれば、日頃より基本的なデータや数値的な分析、社会情勢、世論動向等の把握は常識というより教養として備えているべき素養、条件であろう。ただ、彼らはコメントするにおいても、自己の責任、自身の名前のもとに行なっていることはTV画像に顔を曝け出していることから当然であり、その発言が引き起こす反響には、必要であれば自分で後始末なり、説明をすることとなる。

 

 ところが、今日、2チャンネルやブログへの書き込みといった形で、一般人が自分の名前を秘し日常的に意見表明が行なえる誠にやっかいな社会が到来した。そうした社会では、前述のコメンテーターのような訳にはいかない。一般の人は事実誤認に基づいた反論を受けた時や、それに基づいた個人的な誹謗中傷、酷い時は身の危険さえ感じるような書き込みをされた場合に、それに対し有効な反論の術を持たず、法的措置などという究極の手段をとることなど心理的には難しい。

 

 互いに顔を知っており反対意見を闘わせる程度であれば、少々、過激な言葉の遣り取りはあるにせよ、ある程度の感情の抑制は効く。しかし2チャンネルなどに匿名で一方的に書き込まれた言葉などは、関係のない私なり他人が目にしてもこれほど卑劣で品性下劣な言葉の暴力があるのかと目を疑うことが日常茶飯事である。

 

そこには、表では華やかに持て囃されるネット社会が抱える暗黒の部分が見えてくる。まさに「匿名」というある種人間に好都合な「社会」の出来により、人間の厭うべき本能のひとつである「卑劣な劣情」を、顔の見える表の社会から解き放ち、「匿名」という闇の世界で跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)させることになってしまった。

 

現在、政府は匿名性の翳の部分に光を当て、こうした事態の改善を図ろうと後追いで法整備を含め色々な手立てを模索しようとしている。しかし、このことは、言論の自由、個人情報保護法など表の世界の権利ならびにプライバシーの保護といった民主主義の根源にある権利と相矛盾し、それと真っ向から衝突する状況にあると云ってよい。

 

 人の口には戸は閉てられない。口は災いの門。わが身をつねって人のいたさを知れ。うそつきは泥棒の始まり。噂をすれば影が差す。かには甲羅に似せて穴を掘る。きじも鳴かずば撃たれまい。昨日は人の身、今日は我が身。曲がらねば世がわたられぬ。丸い卵も切りようで四角、物も言いようで角が立つ。

 ことわざ辞典を久しぶりに紐解いてみた。先人たちがこうした人間の翳の部分に光を当てて、あるべき行動規範を諭した諺の類が、この日本にはたくさんあることを知った。そして、この種のことわざは確かによく人間の本性や社会という化け物の本質を見抜いた警句に充ちているとあらためて感心した。

 

 法律という物理的拘束力でこの「匿名社会」に規律を求めるのは、民主主義の根底にある自己責任の社会機構自体を「法」で破壊しかねない危うさを内包する。しかし、「名を秘匿する」ことも言論の自由という民主主義の根幹に関わる権利である。誠にこの問題への対処は難儀であり悩ましいと考えざるをえない。この先達たちの警句を何とか自分たちで再評価、再認識し、その先人の智恵で民主主義の利点を自らの手で守るという強い意識を持つことが、今こそ必要とされているのだと思う。