2022年11月24日午前6時半に細君が撮った1分16秒の神磯の鳥居の日の出の動画である。
どうみても空飛ぶ鳥ではない・・・UFO・・・なんだろう・・・
この映像、これも何かを我々に伝えんとする「異界からのメッセージ」なのか。
出雲を遠く隔てた常陸の国で、神有月、夫婦ともども体験した超常現象であった。
世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ
2022年11月24日午前6時半に細君が撮った1分16秒の神磯の鳥居の日の出の動画である。
どうみても空飛ぶ鳥ではない・・・UFO・・・なんだろう・・・
この映像、これも何かを我々に伝えんとする「異界からのメッセージ」なのか。
出雲を遠く隔てた常陸の国で、神有月、夫婦ともども体験した超常現象であった。
水戸の偕楽園を拝観後、大洗磯前(いそさき)神社の神磯の鳥居をお詣りした。
当日は雨のなか風も強く、傘を支えながらの動画撮影となった。為にブレの多い動画となっている。
朝日に向けての撮影であったため、赤い斑点模様が映り込むことは多々あるのだが、ここには亀甲模様にも見える五角形状の徴(しるし)が映像内に映り込み、それが舞い乱れているのである。
そして映像を見てもらうとわかるが、その亀甲模様状の枠内に文字が書かれているようにも思えるのである。
目を凝らして何度も確認したが判読はできずはっきりとしない。
わたしはこの動画を何度も見直すうちに、かつて目にしたことがある紋様のような気がした。
そしてアッと脳裡に浮かんできた意匠が・・・背筋にビビッと電流が走った。
六所神社を詣でたのはもう7年も前のことになるが、その時、宮司さんから伺った御神紋の譚が印象的であったので、意識の内からすぐに浮かびあがってきたのだと思う。
吉祥紋の二重亀甲のなかに「有」という文字。旧暦十月は出雲では、全国の神さまが集うので「神有月」といい、その「十と月」を合せた漢字が「有」で、二重亀甲のなかにその文字が入っているのだという。
六所神社は律令制度のもと出雲国内にある神社の統括機能を果たす出雲国府総社という位置づけにあり、現在でも引き続き出雲国内の神々を合わせ祀っている。
はたと気づいた!!
この日の出のなか、神磯の鳥居のまわりを乱舞する亀甲紋様状の徴・・・
わたしには出雲の神様が何かを伝えようとしている映像に見えてくるのである。
それも亀甲の六角形ではなく、五角形・・・
五芒星・・・・・・安倍晴明・・・・・・
その不思議な超常現象を撮ったのは驚くべきことに、私だけではなかったのである!!
わたしのこの不思議な動画を細君に見せたところ、「実はわたしも神磯の鳥居の動画に奇妙な光が動き回っているみたいで、目の錯覚でもないしと不思議に思っていた」という。
わたしは早速、そのスマフォで撮った動画を確認した。
塩野神社は独鈷山(とっこざん)の北の山麓に位置し、中禅寺から100mほどの至近に、人影もまれな森厳な社叢のなか、ひっそりと鎮座している。
当社は、『日本三代実録(901年編纂)』に貞観15年(873)、「信濃国塩野の神」に “正六位上”の位階を贈ったとの記述を残すほど古くて由緒ある延喜式内社である。
社伝によれば、白鳳元年(661)4月に出雲大社から独鈷山頂上近くにある鷲岩の上に、分霊、勧請されたとあり、後世、この塩野の人里へ遷座されたのだという。
従って、その祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)、大己貴尊(おおなむちのみこと=大国主神)と少彦名尊(すくなひこなのみこと)の三柱の出雲系の神々である。
空高くそびえる杉並木の細い参道を抜けると、社務所や枯れた神木の根を囲む祠が建つちょっとした広場に出る。ここを馬場となし、祭事として流鏑馬神事が行われるという。
そして、その奥、正面に鳥居が立つ。鳥居を抜けると沢を跨ぎ、神橋が架かっている。
独鈷山を水源とする幾多の湧き水が当社境内の沢に流れ込んでいるが、その沢水が本流たる塩野川に合流し、塩田平をうるおしてきた。同社が、古来、水の神として信仰を集めた由縁がそこにある。
その聖なる沢を跨いでゆるやかな弧を描き太鼓橋が架かっている。神橋を渡ると正面に二階建ての一風変わった社殿が建つ。
正確には“楼造り”といわれる建築様式で、寺院では有名なところで法隆寺の経蔵・鐘楼や唐招提寺の鼓楼があげられるが、神社ではとても珍しいものである。
社殿は江戸時代の建築物で、楼造りの拝殿が寛保三年(1743)の再建、その奥の一間社流造りの本殿は寛延三年(1750)のものといわれている。
この拝殿の右前方、木立のなかに石祠の載る磐座の一群がある。その一画には“霧不断の香”でもたき込められたように神気が漂い、どこか凛ととした荘厳さが感じられた。
雨があがった時分などに参拝できれば、樹間に揺れる葉先に宿る滴の耀きや木漏れ日のゆらぎのなかで、沢に流れるせせらぎの音が木魂し、俗世の慾や身の穢れもいっさい落とされて、その爽快感はさぞかし言語に尽くせぬ最高の気分になるのではないかと思った。
お一人で、または愛する人と一緒に、この聖なる地を訪れてはいかがであろうか。ミステリアス・スピリッツを総身に浴びることのできるパワースポットである。
要石はパワースポットたる奥宮をさらに右、すなわち南に折れてまっすぐ150mほど行った先にある。
鹿島の樹林がその一画だけぽっかりと小さく開けた処に、安永五年に献灯された石燈籠がある。
その西側の鳥居のなかに要石が鎮まっているのだが、脇に松尾芭蕉の句碑が立つ。
鳥居前に立ってみると、要石は思っていたより小さい。写真は脇から石柱内を撮ったものだが、よく見ないと要石ははっきりしない。
アップで撮ったものが次なる写真だが、1円玉の大きさと比較していただくと大体の大きさが分っていただけるのではなかろうか。
要石は直径30cm、高さ7cmほどの中央に少し人工の窪みをもった花崗岩であり、見た目には鳥居を配した仰々しさとは裏腹に、何の変哲もない丸くて薄っぺらな石である。
香取神宮の要石が凸型であるのに対しこちらは凹型である。経津主神と武甕槌神が協同で國譲りを果たしたことを象徴するように、2つの凹凸異なる性格がともに力を合わせることで、地震を抑え込む霊力を発揮するのだといった風にも見える。
そこで、駒札を読むと、
「神世の昔、香島の大神が座とされた万葉集にいう石の御座とも或は古代における大神奉斎の座位として磐座(いわくら)とも伝えられる霊石である。この石、地を掘るに従って大きさを加え、その極まる所しらずという。水戸黄門仁徳録に、7日7夜掘っても掘り切れずと書かれ、地震押えの伝説と相俟って著名である。信仰上からは、伊勢の神宮の本殿床下の心の御柱的存在である。」
とある。
何の変哲もないなどと評するのは失礼である。往古、この根深い石は磐座であったというのだから、民衆の信仰は尋常ではなかったのだろう。
その霊石、鹿島のパワースポットということもあって、この森深いところにある要石を訪れる人は後を絶たない。
霊石を少しでも近くから見たいと覗き込む人や、団体でにぎやかに見物する人など、いろいろな人がいる。
でも、やはり、この霊地において奥宮で見かけた光景と同様に、敬虔に祈りをささげる人がいた。
その姿は実に美しい。
ふと、頭上を見上げると、春の陽光がまさにその祈る人目がけて確かに降り注いでいるように見えたのである。
まるで、神が憑代(よりしろ)をめざして舞い降りてくるように・・・
奥宮は本殿を過ぎ、杉や椎の古木の並木が鬱蒼とした奥参道へ入り、まっすぐ行った突当り、神門からは300mの場所に鎮座する。
鹿島の森の原生林は厚く、深く、鬱蒼としている。
その葉叢を切裂いた光が参道に神の意匠を刻む。歩みとともに移ろうその形状はまるで神が伝えようとする黙示録・・・暗喩のように思えた。
その暗示に心を奪われながらなおも参道をゆく。
歩みとともに神秘さを深めゆく空間。ようやく奥宮の鎮座する地へ
鹿島神宮・奥宮(重文)は、社殿前の駒札によると、「慶長10年(1605)に徳川家康公により本宮の社殿として奉納されたが、元和5年(1619)に二代将軍秀忠公によって現在の本宮が奉建されるに当り、現在地に引移して奥宮社殿となった」とある。祭神は“武甕槌神の荒魂”である。
家康が奉建した武神を祀る鹿島神宮本殿をわずか14年にして奥宮へと移転させた事実は、秀忠の父に対する屈折した心情を垣間見るようで興味深い。
ただ社殿前にたたずんでいると、そうした人間社会の生臭い話とはかけ離れた“気”がこの奥宮の鎮座する地に充溢しているのが自然と納得できるから不思議だ。
その朝も祈る女性がいた。それは敬虔で侵しがたく、崇高な光景である。
その場の空気をわずかに揺るがすことすら躊躇(ためら)われるほどの非日常的な景色であった。
荘厳で霊気に満ちた空間。こうしたところに身を置くと、誰しも自然に神の意思を感じ、ただ祈るしかないのだと、手を合わせ、頭を下げる・・・
“祈り”という行為がこれほどに美しく思えたことは記憶に少ない。
神域という言葉を肌感覚として、呼吸のように感得した瞬間でもあった。
このうら若い女性が立ち去るのを待って、わたしも社殿前に立った。
重厚さのなかに素朴な祈りの気持ちが籠められた美しい社殿であると感じた。
社殿の外郭をゆっくりと巡ってみる。
斜めから。
後ろに回って見上げてみる。流造の流麗な勾配をもつ茅葺屋根が間近に見えた。
簡潔で無駄が省かれた率直な造りであると感心した。
奥宮に満ちるパワー・霊気を十二分に体内に取り込み、次なるパワースポット。“要石”へと向かう。
香取神宮の要石は、地上に顕れた部分は径が3、40cmほどの楕円形の円味を帯びた凸型をしている。
香取神宮の聖地たる奥宮へ向かう途中に、護国神社の少し奥に石柱に守られ隠れるように鎮まっている。
折しも、頭上から樹間をぬけた陽光がしずかに舞い降り、静寂の地はさらに息をひそめている。
静謐とはまさにこれを言うのであろう。地に落ちた日差しに濾過されたかのように身が清められ、この地が霊気を充溢させていることは、黙って佇んでいるだけでわかる。
さて、「香取神宮少史」は“要石”について次のように紹介している。
「古傳に云ふ、往古、香取・鹿島二柱の大神、天照大御神の大命を受けて、葦原の中つ國を平定し、香取ヶ浦の邊に至った時、この地方なほただよへる國にして、地震(なゐ)頻りであったので、人々甚(いた)く恐れた。これは地中に大なる鯰魚(なまづ)が住みついて、荒れさわぐかと。
大神等地中に深く石棒をさし込み、その頭尾をさし通し給へると。當宮は凸形、鹿島は凹形で、地上に一部をあらはし、深さ幾十尺。
貞享元年(1684)三月、水戸光圀、當神宮参拝の砌(みぎり)、これを掘らしたが根元を見ることが出来なかったと云ふ。當神宮楼門の側の“黄門桜”は、その時のお手植である。」
水戸黄門の時代に既に、香取神宮と鹿島神宮の“要石”が地中深くで地震を抑え込む“妖石”であるとの民間伝承が存在していたことは、この地が古来、何らかの霊力を持った聖なる場所で思われていたといってよい。
現に香取神宮奥宮の入口付近に残る雨乞塚は、聖武天皇の御代(天平4年・732年)の大旱魃の折、雨乞を祈念するため造られた塚の史蹟だという。
この事実こそが、この地が古来、霊験神秘な場所であるとして庶民が畏敬してきたことを如実に物語っている。
明治初期の香取神宮少宮司で国学者であった伊能穎則(ヒデノリ)は、地震を抑える要石について次の和歌を残している。
“あづま路は 香取鹿島の 二柱 うごきなき世を なほまもるらし”
安政の大地震(1855年)が起きた際に、地震を起こす大鯰の頭を武甕槌神(タケミカヅチノカミ)が剣で突き刺す鯰絵を描いた鹿島神宮のお札が流行したという。
伊能穎則の和歌に詠われているように、香取・鹿島に鎮まる要石が地中で地震を抑えているのだという伝承は江戸時代後期に巷間に広まったようである。
ちなみに、鹿島神宮の要石が大鯰の頭を、香取神宮の要石は尾を押さえているとのことで、また、この二つの要石は地中深くで繋がっているのだという。
それにしてもこうした要石というパワースポットにおいても、香取神宮と鹿島神宮はやはり対の関係にあり、凸形と凹形で一体となるのだと言わんばかりである。
また、香取海(カトリノウミ)の入り口の両岬突端に相和すように鎮座し、下総・常陸など関東平野へ侵入を図る敵への防禦策も、両地点に両神宮の存在があってこそ、その戦略目的は完璧に遂行されることになる。
そうした符牒に、経津主神と武甕槌神という二柱の神が中つ國平定を成し遂げた“人物”と“聖剣”の両者をそれぞれ神としたという私の推量にも、その不即不離、表裏一体の関係という点で、あながち荒唐無稽な説ではないのかも知れないと考えた次第である。
謎めいた経津主神(フツヌシノカミ)を祀る香取神宮をゆく(上)
謎めいた経津主神(フツヌシノカミ)を祀る香取神宮をゆく(下)
経津主神(フツヌシノカミ)と武甕槌神(タケミカヅチノカミ)=出雲で国譲りを成した二神の謎
奥宮へは要石を通過してから香取の樹林を抜けて門前町へ裏から回り込むようして辿り着く。
二之鳥居の方へ逆戻りしており、どうして、奥宮が本殿の手前にあるのかと不思議に思う。
しかし、この謎は香取神宮の往昔の成り立ちを知れば、なるほどと納得する。
つまり、“謎めいた経津主(フツヌシ)神を祀る香取神宮をゆく(下)”で述べたとおり、経津主神が海路上陸して来られた津の宮がそもそもの香取神宮の表参道口であったという事実である。
津の宮の方位は香取神宮の真北に当たり、いにしえは浜鳥居を一之鳥居として参道は南進し、現在の北参道側から本殿に至っていたことになる。
その経路であれば、奥宮が本殿のさらに南、すなわち今の位置に鎮座していることは至極、当然のことだということになる。
この奥宮へ向かう入り口には雨乞塚がある。
聖武天皇の御代、天平4年(732)、この地が大旱魃の時に、ここに祭壇を設け雨乞いをしたところだということだが、この辺りが古より霊験あらたかな場所であったことの証でもある。
奥宮の手前左手に天真正伝神道流始祖・飯篠長威斎(イイザサチョウイサイ)家直の墓がある。
室町時代に長威斎が開いたこの香取神道流からは、中条流、影久流が生まれているほか、かの有名な塚原卜伝もこの流派を修めてから鹿島新当流を興しており、我が国最古の剣の流儀の始祖として剣聖とあがめられている。
そしていよいよ、経津主大神の荒御魂(アラミタマ)を祀っている奥宮へと入ってゆく。
真新しい石標のすぐ後ろに簡素な神明系靖国鳥居が立つ。
数段の階段を上ると、まっすぐに伸びた細い参道の突当りに奥宮の社殿が見える。
樹齢を重ねた杉並木はひっそりと鎮まっている。
時折、風の悪戯だろうか、それとも気まぐれな神様の戯れだろうか、樹間から一閃の光芒がわが身に放たれる。
細い参道の突当りに奥宮は鎮まる。
誰もいない森閑とした大気のなか、経津主神の荒魂(アラタマ)というより和魂(ニギタマ)がわたしを包み込んでくれているのかのようで、いつしか心は穏やかに安らいでいることに気づく。
奥宮の社殿は昭和48年の伊勢神宮ご遷宮の際の古伐をいただいて建て直したという小さな社である。
お参りをした後、木の柵で囲われた社を廻ったが、本当に小さなものである。
そしてここに神代の時代から経津主神の荒魂が鎮まっているのだと想うと、先ほど浴びた一閃の陽光は遠い過去からの問いかけのようにも感じたのである。
自然のなかに生かされ、そこに神を感じ、その慈しみと恵みに感謝して生きていた太古の人間たちは、いったいどこに消えてしまったのか。
今の世の中、人間はどこまで傲慢になっているのか・・・、そしてまだ、なお大欲を腹蔵し、自然をどこまで破壊し続けてゆく気なのかと。
杉の巨木の幹に手を当て、その命の鼓動を聴きながら、そんな問いの答えを探り続けたのである。
榛名神社は用明天皇元年(586年)に創祀された延喜式内社である(当社由緒より)。御祭神は火産霊(ほむすび)神と埴土毘売(はにやまひめ)神を主祭神とし、明治以降に大山祇(おおやまずみ)神、御沼龗(みぬまのおかみ)神、大物主神、木花咲耶姫(このはなさくやひめ)神が合祀された。
合祀された御沼龗(みぬまのおかみ)神たる高龗神は水をつかさどる龍神であるが、榛名富士を対岸に望む榛名湖畔に位置する御沼龗(みぬまのおかみ)神社で御祭神として祀られている。
まず、車を駐車させたところに二之鳥居がある。通常はここから参詣の歩を進めることになる。それでは、
パワースポットとしても有名な榛名神社を紅葉を愛でながら写真にてゆっくりと参拝してゆこう。
鳥居の先、すぐ正面に随神橋と“随神門”が見える。
榛名神社参詣のもう一つの楽しみに境内に祀られる七福神の像を見つけながら歩くのも一興であるが、実は“毘沙門天”を見つけるのが最も難しい。と云うのも、随神門の脇に隠れるように置かれており、一路、本殿をと勇んでこの門をくぐってしまい、脇から廻り込む人はまずいないからである。その袂に七福神の“寿老人”が建っている。
さて、随神門をくぐるとすぐに朱塗りの欄干の“禊ぎ橋”がある。
巨木に陽光がさえぎられ、薄暗くなった参道は上り坂となり、辺りは深山幽谷の景観となる。
眼下に清流を眺め、右手にはいよいよ榛名神社特有の景勝である奇岩、巨岩が目についてくる。その最初が“鞍掛岩”である。まさに奇岩である。
その辺りの石柱に太平洋戦争前後に活躍した喜劇王エノケンこと“榎本健一”の名が寄進者として刻まれている。昭和20年に四万温泉の老舗旅館・積善館を訪れているので、その際に榛名神社を詣でたのではないかと推察される。ちょっとオタクっぽいが、こんな小さな発見もあったりして神社詣では楽しい。
さらに坂を登った左手山腹に朱塗りの鳥居が見えてくる。火伏せの神、秋葉大権現を祀る秋葉神社である。
その先すぐに愛らしい“布袋さま”が建っているがそれを横目に石畳をエッチラホッチラ上ってゆくと売店やトイレのある処に出る。そこで小休止して、傍らの水琴窟近くに“福禄寿”を見ることができる。
そこからゆるやかな勾配の坂をゆくと階段上に三重塔と三之鳥居が見えてくる。
三之鳥居のところに“恵比寿さま”が建つ。
三重塔は神仏習合時の名残りであるが、現在は神宝殿と呼ばれ、天之御中主(あめのみなかぬし)神はじめ5柱の神様が祀られている。
三重塔を過ぎると、岩壁にへばりつくようにして落石避けの屋根のあるトンネルのような参道へ入る。その途中の岩穴に賽の神を祀る“賽神社”がある。
トンネルを抜けると“神橋”があり、左手欄干越しに安藤広重が描いた“行者渓”の奇観が目にできる。
その先、岩肌に沿う細い参道が続くが、途中に神仏習合時に存在した東面堂の秘仏千手観音を納めた祠を塞ぐ扉が巨岩に貼りつくように残されている。
東面堂のすぐ脇には七福神の “弁財天”が微笑んでいる。
そしてしばらくすると、朱色の柵に囲われている井戸があるが、雨乞い講の史跡である“万年泉”である。そこから昇る階段の上には鮮やかな紅葉と御水屋の屋根が見えてくる。
御水屋には人がいっぱいだったが、この前から瓶子瀧(みすずのたき)を眺めることができる。
かつてはここに閏年のみ13(通常年は12)に葉が分かれたという樹齢数百年の暦杼楓(れきじょふう)という見事な紅葉が植わっていたが、平成18年8月3日夕刻に根元からポッキリ折れてしまったとかで、現在は案内板に其の名を留めるのみである。
本殿へ向かう急な石段の手前に武田信玄が戦勝祈願として奉納する矢を立てかけたとの言い伝えを残す“矢立杉”が秋の空を貫くように聳えている。
いよいよ神域への階段を昇ってゆくが、途中左手に重要文化財“御幸殿”がある。
そして階段を昇ったところの“神門”に到達。神門をくぐると小さな平地となるが、そこに七福神最後となる“大黒様”が鎮座する。
大黒様をあとに今度は“双龍門”へとUターンするように急階段を昇るが、その後背には鉾岩が聳え立ち、パワースポットとしての雰囲気は満点である。
重要文化財の“双龍門”は梁や重い扉に龍の彫物が施されているためその名がある。
羽目板には三国志に題材をとった見事な彫物もあり、この門だけでもじっくり拝見する時間をとらねばならぬほど美術品としての価値を有す。
さらに本社境内から双龍門を見下ろすと、入母屋造り、千鳥破風、四面に軒唐破風といった圧巻の美しい屋根を見下ろすことができ、この位置からもぜひ双龍門をご覧いただくとよい。
漸く榛名神社本社境内に立つことになるが、そこは一種異様な凄みを帯びた空間である。
神楽殿、国祖殿、本殿の後背を巨岩、奇岩が取り囲み、古代人がこのわずかな平坦地を、神の降り立つ神籬(ひもろぎ)の地と感じたであろうことは容易に想像がつく。
本殿、国祖殿とゆっくりと参拝したが、彫物の圧倒的迫力には眩暈を感じた。
その豪奢さは見事のひと言に尽きる。そして本殿の後ろに天を衝くように聳え立つのが“御姿岩”である。
そもそもこの御姿岩こそが古代、山岳信仰の対象であったと考えるが、巧まずしての自然の造形物はまるで地上界を睥睨するかのようであり、その孤高の姿には畏れすら覚える。
御姿岩を仰ぎ見ると、頭部の下、人間で云う頸部には御幣が飾られている。
古代から篤い崇敬を受けてきた御姿岩。拝殿、弊殿につづく本社がこの御姿岩に接し、その先の岩奥にご神体を祀っていることにその証しをみる。
本殿の鎮まるわずかな平坦地が聖なる地であることは、深山のなか御姿岩や屏風岩など奇岩に囲まれ、またこの高処の正面空間に九十九石(つづらいわ)など異形の景観が拡がっていることにも強い神の意思を感じ、まさに霊感スポットである。
今回は紅葉の時季であったため観光客も多く、深山としての静寂にいささか不満を覚えるところもあったが、それを超えて厳粛さがひしひしと身内に沁み込んで来たのも紛うことなき事実であった。
彦左衛門