彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

アマテル神社

神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 15 阿麻テ留(アマテル)神社(下)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 15 阿麻テ留(アマテル)神社(上)
神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 15 阿麻テ留(アマテル)神社(中)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 14 (胡禄御子(コロクミコ)神社)
神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1
神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 番外編(三柱鳥居と天照御魂神社の謎)


一之鳥居扁額


阿麻テ留神社は、かつて対馬がまだひとつの島であった時代、対馬海峡の東水道から西水道へ入るために、船を陸に揚げ移動させた「小船越」という陸の隘路を見下ろす小高い丘の上にある。いわば古の要衝の地に立地している。現在より海が深く陸地に切れ込んでいた古代、この小高い丘からは東西の水道を左右真下に見下ろせたはずであり、半島への使者たちが小船越を常時、往来したことは想像に難くない。


小高い丘の上に阿麻テ留神社が

 

阿閇臣事代(アヘノオミコトシロ)がこの小船越に上陸したときに、そのすぐ脇にある丘の上の阿麻テ留神社に坐す日神(天照大神)がその随行員に憑依し、神意を伝えたのも十分に理解でき、納得するものである。


階段から一之鳥居を見下ろす(国道382号線が前を走る)


現在、東の小船越浦から西の浅茅湾深浦へこの小船越を越えて僅かに陸路で300mの距離である。その真中を国道382号線が南北に通るが、その国道沿い小船越郵便局手前、左側に阿麻テ留神社の石の鳥居がある。標識や案内板もなく、まさに国道脇の歩道に一之鳥居があるため、ゆっくり徐行でもしないかぎり通り過ごす危険性がある。


一之鳥居

一之鳥居から二之鳥居を

この急な階段を昇り、頂上に拝殿がある

頂上の境内から最後の階段を見下ろす

拝殿


この拝殿を目にしてこれが伊勢神宮の源流とはとても考えられない。しかし、「天照」を「阿麻テ留」と表記を変えた大和王朝の隠れされた意図を考えると、この社殿の粗末な佇まいが返って大和王朝が何としてでもこの神社を無視し抹殺しなければならなかった強い意志を感じるようでもあり極めて興味深い。


アマテル神社の御祭神「日神命」、「天照御魂命」とは一体、何ものであるか?

どう考えて見ても、天孫族の御祖(みおや)としか考えられぬのである。


拝殿脇から境内と階段下り口

拝殿脇から本殿を

本殿

拝殿内

拝殿内部

拝殿上空の空


(阿麻テ留神社の概要)

・住所:美津島町小船越字河岸川352

・社号:「対州神社誌」では「三所権現」とあるが、「大小神社帳」では、「照日権現神社」、古くは「天照乃神社(アマテルノジンジャ)」とある。「明細帳」に「阿麻テ留神社」とある。

・祭神:「大小神社帳」では天津向津姫神。「大帳」には「対馬下県主『日神命』または『天照魂命』」とある。また、「明細帳」には、祭神は「天日神命(ヒニミタマ)」とある。天日神命は対馬県主の祖。対馬県主は、姓氏録未定雑姓・摂津国神別に津島直・津島朝臣が天児屋根命〔神事の宗家〕から出るとあり、中臣氏系と見ることができる

・由緒(大帳)

「則〔日神命が〕御住地也。高御魂尊之孫裔也。皇孫降臨之時供奉之神也。古事本紀曰、天日神津島縣主等祖云々」

つまり、阿麻テ留神社の場所が、対馬下県主たる日神命(天照魂命)が住まわれた土地であると云う。日神命(天照魂命)は高御魂尊の末裔で、皇孫降臨の時に、お供奉った神である。古い本紀に曰く、天日神は対馬県主等の祖云々とある。延喜式神名帳に載っている阿麻テ留神社は是である。(大帳による)


境内の石灯籠


貞観十二年(870年)三月正五位下を授かる(明細帳による)。〔律令制においての位階制。五位以上の者には「位田」が支給される規定となっていた。五位以上の者が「貴族」と呼ばれ、昇殿などの特権が与えられた〕


『神名帳考證』(寛文年間1661-73年)にも、「阿麻テ留神是天日神命也」とあり、天日神命(ヒニミタマ)つまり「天の日の神」が津嶋縣直の祖神であることを云っている。


と云うことは、「阿麻テ留」は「天照(アマテル)」すなわち「天照大神」としてよいのではないか。つまり、対馬が日神つまり伊弉諾尊・伊奘冉尊が生んだ天照大神を、壱岐が月神つまり月読尊を祀る本貫地であると比定することは、一概に荒唐無稽な暴論であると一蹴すべき話ではないと考え及んだところである。

一之鳥居前の狛犬

 

そして対馬下県主たる「日神命(天照魂命)」という神の名が、三柱鳥居のある京都の太秦にある「木嶋坐天照御魂神社」の社名に酷似していること。また天照大神と豊受大神が伊勢神宮に遷る前に遷座した吉佐宮とされる元伊勢と呼ばれる京都丹後一の宮、「籠(この)神社」の祭神、彦火明命の別名「天照御魂神」とも共通していることなど、興味深い謎が次々と浮かんでくる。

海が近いことを私に知らせるように本殿下に出現した蟹


さらに籠神社に伝わる極秘伝である「同命(彦火明命)が山城の賀茂別雷神と異名同神であり、その御祖の大神(下鴨)も併せ祭られている」との伝承が、対馬懸主の祖であり対馬亀卜の祖たる中臣烏賊津使主(イカツオミ)すなわち雷大臣命(イカツオミノミコト)を見事に想起させる。


木嶋坐天照御魂神社と賀茂神社の神紋が「双葉葵・加茂葵」と同一であること。水位・潮位といった水に深く関連すると思われる三柱鳥居を有する対馬の和多都美神社、太秦の木嶋坐天照御魂神社、向島の三囲(ミメグリ)神社。古来、京の水の司として賀茂神社の祝(ハフリ)の家柄である鴨脚(イチョウ)氏の存在から推測される鴨氏と水、双葉葵の神紋と元糺(もとただす)の森(木嶋神社)と糺(ただす)の森(下鴨神社)の関係。木嶋神社(秦氏が建立)と賀茂神社。秦氏と鴨氏の深い関係。そこから秦氏からハタ → 韓国語の海(ハタ)→ 海人族・・・と、連想ゲームは果てしなく続いてゆく・・・・。


こう想いを巡らせて来たとき、阿麻テ留神社は天照神社と称すべきなのかもしれぬとも思った。また逆に天照大神は本来、阿麻テ留大神と称すべき神であったのかも知れないと想いを馳せて見たりしてみるのであった。


神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 15 阿麻テ留(アマテル)神社(上)





阿麻テ留神社の扁額

卑弥呼畿内説や大和王朝至上主義の史観に囚われることなく、「日本書紀」を純粋に歴史書として注意深く読んでいると、対馬が、ある時代、天孫降臨族の本貫地として認識されていたことを示唆する記述があることに気づく。

すなわち、「紀」に対馬が天孫族の発祥地であることを窺わせる「日神」に関わる一連の記述がある。それは壱岐における「月神」の顕現に続いて、対馬では「日神」が人に憑依し、託宣を行なう様子として描かれている。

まず、その「日神」・「月神」の生誕についてであるが、「紀」は伊奘諾尊(イザナギノミコト)と伊奘冉尊(イザナミノミコト)の二神が大八洲国を生み、山川草木を生んだ後、「天下(アメノシタ)の主者(キミタルモノ)を生まざらむ」として、「日神(大日孁貴(オホヒルメノムチ)or天照大神)を生みたまふ」たとある。

そしてこの日神があまりに明るく美しく、「未だ此(カク)の若(ゴトク)く霊異(クスビニアヤ)しき児(コ)有らず」と類稀な神秘性から、伊奘諾尊と伊奘冉尊は、「久しく此の国に留むべからず。自当(マサ)に早く天に送りて、授くるに天上の事を以てすべし」と、地上から天上界へ昇らしめ、高天原の政事(マツリゴト)を担うこととさせたのだと語っている。

次に「月神(月読尊(ツキヨミノミコト))を生みたま」ひ、さらに「其の光彩(ヒカリ)日に亜(ツ)げり」と、月神の美しい光は「日神」に次ぐもので月神は日神に従属するものと捉えられている。そして月神も日神とともに天上界を治めるため同じく天上界へと昇っている。


その日神と月神の坐す処が「対馬」および「壱岐」であるということが、「紀」の「顕宗(ケンゾウ)天皇3年」に記されているのである。顕宗天皇(23代):在位485487

【紀:顕宗(ケンゾウ)天皇32月条 任那と百済の攻防】(月の神について)


 「三年の春二月の丁巳(テイシ)の朔(ツキタチ・一日)に、阿閉臣事代(アヘノオミコトシロ)、命(オホミコト)を銜(ウ)けて、出でて任那に使す。是(ココ)に月神(ツキノカミ)、人に著(カカ)りて謂(カタ)りて曰(ノタマ)はく、『我が祖高皇産霊(タカミムスミノミコト)、預(ソ)ひて天地を鎔造(ヨウゾウ)せる功有(コウマ)します。民地(ミンチ)を以(モ)ちて、我が月神に奉(タテマツ)れ。若(モ)し請(コヒ)の依(マニマ)に我に献(タテマツ)らば、福慶(フクケイ)あらむ』とのたまふ。事代、是(コレ)に由(ヨ)りて、京(ミヤコ)に還りて具(ツブサ)に奏(マヲ)し、奉(タテマツ)るに歌荒樔田(ウタアラスダ)を以ちてす。歌荒樔田は、山背国葛野郡(カヅノコホリ)に在り。壱伎県主の先祖(トホツヤ)押見宿禰(オシミノスクネ)、祠(ホコラ)に侍(ツカ)へまつる。」(次の「*」に続く)

とある。阿閇臣事代(アヘノオミコトシロ)(注1)が任那に使いする途中、壱岐を通過した際、人に憑依した月神の「京の民地を我が月神に奉れ」との託宣に触れ、山背国葛野郡の歌荒樔田の地を献上したことが記述されている。



(紀の注1)

「阿閉臣事代:伊賀国阿閉郡(三重県阿山郡西部・上野市)を本拠とした氏族。天武十三年十一月、朝臣賜姓。アヘは饗応の意味で、それに因む氏族名。阿倍臣(アヘノオミ)と同じ。始祖は孝元天皇と皇后鬱色謎命(ウツシコメノミコト・穂積臣の女)の第一子である大彦命(オオビコノミコト)で、阿倍臣・膳臣(カシハデノオミ)・阿閉臣・狭狭城山臣(ササキヤマノオミ)・筑紫国造(ツクシノクニノミヤツコ)・越国造(コシノクニノミヤツコ)・伊賀臣(イガノオミ)の七族が後裔。」とある。

  なお、「15 阿麻テ留(アマテル)神社(中)」において、「紀」とは異なる「阿閉臣事代」のわたしの解釈を述べる。

この託宣した月神は「延喜式神名帳」に掲載される「壱岐郡月読神社」の祭神と看做されている。高皇産霊(タカミムスミノミコト)は延喜式神名に「壱岐郡高御祖神社」とある。この月神に続いて、日神についての記述が登場する。すなわち、先の「*」から続き、

【紀:顕宗(ケンゾウ)天皇3年春4月】
(日の神について)にそれが詳しく記載されている。


「夏四月の丙辰(ヘイシン)の朔(ツキタチ)にして庚申(コウシン)に、
日神(ヒノカミ)、人に著(カカ)かりて、阿閉臣事代(アヘノオミコトシロ)に謂(カタ)りて曰(ノタマ)はく、「磐余(イワレ)の田を以ちて、我が祖高皇産霊(タカミムスミノミコト)に献(タテマツ)れ」とのたまふ。事代、便(スナハ)ち奏(マヲ)して、神の乞(コハシ)の依(マニマ)に、田十四町を献る。対馬の下県直(シモツアガタノアタイ)、祠(ホコラ)に侍(ツカ)へまつる。」

と、壱岐の月神に続き、阿閇臣事代が対馬に立ち寄った時に、今度は日神が人に憑依し「我が祖高皇産霊(タカミムスミノミコト)に大和の磐余に神田を十四町、献上しろ」と、託宣しているのである。



  ここで、日神が造化三神(神代三代)のひとつである高皇産霊を我が祖と云っていることは、極めて重要な事柄である。即ち、天孫族の始祖である高皇産霊のために、対馬に坐ます日神が、大和朝廷に対し「神田」の献上を命じ、朝廷がその意向に従っている。さらに壱岐同様に対馬の下県直をわざわざ都に遣わし、祠を建て、その献上地を祀らせている。その記述の内容は畏怖する神に大和王朝がひれ伏すかのようで、そのことは対馬の日神・壱岐の月神が天孫族の系譜のなかで大和王朝の御祖(ミオヤ)として上位にあることをはっきりと示唆していると云ってよい。

しかも見逃せないことは、日神に「我が祖高皇産霊(タカミムスミノミコト)」と、云わしめていることである。それはまさに、天照大神の親神である伊奘諾尊・伊奘冉尊から遡る神代7代のなかの3代目にあたる高皇産霊尊という意味で「我が祖高皇産霊」と云っているのである。このことからも対馬に坐す「日神」が単なる太陽信仰というのではなく、天孫族の系譜のなかにおける「日神」すなわち「天照大神」であることに間違いはないと云える。



 神代三代・七代について

日本書紀において、神代3代(造化の神と呼ぶ)がこの世界に初めて生まれ出た神様で、すべて男性神である。

国常立尊(クニトコタチノミコト)→国狭槌尊(クニノサツチノミコト)(or 天御中主尊(アマノミナカヌシノミコト))→豊斟渟尊(トヨクムヌノミコト)(or 高皇産霊尊(タカミムスヒノミコト)の順で生まれ出る。これを神代三代と呼ぶ(赤字が神代三代)。

・神代3代の次に生れたのが、4対偶の男女4カップルの神(8柱の神)で、先の3代と合わせ神代7代と呼ぶ。その最後の7代目に生まれたのが、伊奘諾尊、伊奘冉尊の男女神である。

・伊奘冉尊と伊奘冉尊は、大八洲国を生み、山川草木を生んだ後、「天下(アメノシタ)の主者(キミタルモノ)を生まざらむ」として、「日神(大日孁貴(オホヒルメノムチ)or天照大神)」、「月神月読尊(ツキヨミノミコト))」、「蛭児(ヒルコ)」、素戔鳴尊と順に生んでゆく。 

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