歳時記エッセイ 2.「ふらここ」

 ふらここ」とは日本の古語でブランコのことである。古来中国で冬至から百五日目に当たる寒食節に宮廷の女官たちが鞦韆(しゅうせん)と呼ばれる現代のブランコで戯れ楽しんだことが、漢詩で詠まれているそうだ。 因みにブランコとはポルトガル語に源があると云う。

 私は百千鳥囀りに誘われるようにして、自宅から歩いて二分足らずの公園に行ってみようと思い立った。久しぶりに「ふらここ」に乗ってみようと思ったのである。そして、公園に足を踏み入れてみて「ふらここ」が何時の間にか撤去されていることを知った。ブランコだけでなく幾つかあった遊具施設も同様に持ち去られ、残っているのはペンキの剥がれた鉄棒と滑り台のみであった。自分の眼前には寂寥としか云い様のない光景が広がっていた。

 鞦韆という遊具に籠められた宮廷官女の華やかな嬌声を自分は期待などしない。しかし、二十数年前に子供たちと戯れたうきうきとした思い出をどこかに探ろうとしていたのである。ところが、その光景を目にした時、温もりのあるささやかな思い出を土足で踏みにじるようにして持ち去られ、消し去られてしまったような不快な気分に襲われた。賑やかな家庭の喧騒や無垢の子供たちのキラキラとした瞳の輝き、母親たちの子供を叱る若々しい声が赤や黄色の極彩色のペンキとともに塗り籠められ、吹き込まれていた様々な遊戯施設。それと余りに対照的な現在の歯の抜けたような寂寞とした公園の風景。ぽつりと佇む滑り台の剥がれたペンキを撫でながら云い様のない寂寥感とやり場のない憤懣を覚えた。そして思い出というものは、所詮、人間の意識の中で時とともに色褪せ、セピア色に変じていく宿命にあるのだと感じた。

 それと同時にどうしてこんな光景が今、自分の眼前に展開することになったのかと自問した。二十数年前と云えば昭和五十年代の半ばである。物質面での豊かさが満たされ、精神面の豊かさを求める時代へと云われ始めた頃でもある。そして、一市民としての自意識の昂まり、個の大事さが謳い上げられていった時代でもあった。それは逆から見れば、ムラや公と云った共同体の概念が人々の意識の中から希薄化し、置き去りにされていく時代とも云えた。危険な遊具は事故の起こる前に無くしておくのがよい。危険と役所の判断した遊具の撤去は、事故が起きて保護者や市民団体から袋叩きにされる前に講じた役所の自己防衛の施策であったのであろうか。まさに過剰防衛とも云える愚かな行為であったと強く思う。ただ、行政に少し同情した見方をするとすれば、事故が起きた時の「自己責任」と云う言葉がまだ巷間に馴染みのない時代にはいた仕方のない処置であったのかもしれない。

 こうした想いを胸に去来させながら、この二十数年間唱えられてきた「個性の尊重」と云う民主主義の権化のような呪文が我々を導いた先は、この麗らか春の日にも関らず今、目の前に存在する寒々とした公園であり、乾き切った肌をもった殺伐とした社会であったのだと気づかされた。

 そして、それは決して自分たちが望んでいた社会ではなかったと強く感じるとともに、公園の木々の枝に留まる鳥たちの鳴き声は二十数年前と何ら変わらずに訪れた春の日を心から喜んでいるように聴こえたのである。