彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

ならぬことは

ならぬことはならぬものです3

ならぬことはならぬものです

 

 いま、この国の教育が大きく揺らいでいる。

そして第165回国会の衆議院教育基本法特別委員会において、教育基本法改正法案が審議されている。教育改革は安倍晋三総理が自民党総裁選で掲げた大きな政策課題であり、所信表明演説でも力をこめて語られた部分である。

 

いじめや履修漏れ問題で、目下、学校教育は大きく揺れているが、学級崩壊といわれ、教育現場の荒廃がいわれてからは久しい。また一方で、しつけができぬ家庭や子育てノイローゼにかかる若い母親たちの増加も目立っている。その孤立する家庭や母親を支援すべき地域共同体の結びつきも弱体化し、個人が、家庭が、孤立化を深めている。見わたす限り、この国の「教育」に関連する光景は荒廃し、その風景のひとつの要素である人々の心もささくれだっている。

 

かつてこの国の家庭では「礼儀作法」や「躾け」がやかましく言われ、隣近所との濃厚な「近所つき合い」や親戚との面倒ともいわれた「親戚つき合い」が当然のように行なわれてきた。

またルース・ベネディクトの「菊と刀」のなかで「恥の文化」と評された他人の目を意識する、気配りや謙虚さ、協調性といった人間関係を重んじたこの国の「美徳」の風景は、21世紀に入り、ものの見事に破壊され、荒れ果てた殺伐とした社会へと変わり果ててしまった。

 

敗戦後、軍国主義批判の名のもとに連綿と続いてきたわが国教育は、民族の貴重な歴史文化への誇りとともに、根こそぎ否定され捨て去られた。また一方で戦後の貧しさから政治も経済偏重の政策が強力に推し進められたことで、この国の文化の連続性は為政者によっても、また国民によってもいつしか見事なまでに断ち切られてしまった。現在の荒廃した教育の風景は、まさにその極端な偏りの行き着く先であった。

 

この荒廃した風景をかつての美しい国へと築き直すのは、一朝一夕にいかぬことは誰しも分かりきったことである。ただ、一朝一夕が不可能であっても、それをやらねば国が滅びるのであれば、誰しもが小石を積み上げるようにして、その再興に努めねばならぬ。

 

その一歩が、「ならぬことは、ならぬものです」という会津藩士の幼児教育で行なわれた「什の掟」の最後に唱えられる言葉を国民一人一人が実践することであろう。

優先席付近で携帯電話を使う人には電源を切るように注意する。道にポイ捨てする人にはゴミ箱に捨てるよう声をかける。優先席には妊婦やお年寄り、足の不自由な人たちに優先的に坐っていただく。横断歩道で戸惑っているご老人には、すすんで手を差し伸べ、一緒に道路を渡ってゆく。近所ですれ違う人々には、すすんで挨拶し、声を掛け合う。

どれもこれも些細で簡単なことである。しかしこの時代、少し怖い。また親切にしようとするのも、ちょっと照れくさいし、思い切りが要る。でも、こうしたことは小さな勇気をだして行なえば、思いのほか簡単にできるものである。ルール違反を注意された人間は気まずそうに正すし、また手を差し伸べられた人は照れくさそうにではあるがうれしそうに親切を受け取る。そこに少しずつではあるが見知らぬ人間同士に交流が生まれ、人間への信頼が芽生えてくる。

そうした小さな実践の積み重ねが「教育」を再興し、子供を含め人と人に信頼関係が築かれ、結果として社会規範というものが再興されていく道につながることをわれわれは、もっと自覚しなければならぬ。次に「什(じゅう)の掟」を転記するが、いま教育界などで注目を浴びているものである。会津藩士の十歳未満の幼時が、什という地区グループに属し、そこで什長(什に属する一番年長の子)のもと毎日、唱えた社会規範である。それに背くと、「無念」「しっぺい」といった罰が、子供のなかで与えられたという。七番目の婦人と言葉云々は武家社会という時代背景を表すものであるが、現代に欠けた社会規範、ルール、規範がすべて盛られている。子供だけでなくわれわれ日本人すべてが、もう一度、社会の構成員たる人として、この什の掟を大声で唱える必要があろう。そして、最後に「ならぬことは、ならぬものです」と締める。戦後日本の教育が、先の大戦を反省するあまり、大戦以前から行なわれてきた教育のすべてを否定し、捨て去ったところに現代の精神の荒廃があると、この什の掟を読みながら思った。

 

われわれ日本人は、七番目の「戸外で婦人と言葉・・」の教育を改めればよかったものを、一番から六番目までの当然の社会規範までも、軍国主義、封建制度の悪しき道徳とし、七番目の項目とひと括りにして捨て去ってしまったのではないだろうか。

 

「ならぬことは、ならぬものです」という当たり前の規範意識を持っておれば、福島県の佐藤栄佐久前知事や和歌山県の木村良樹知事がその職を辞することはなかったことは、確かである。

 

什の掟

     年長者の言うことをきかねばなりませぬ。

     年長者にはお辞儀をしなければなりませる。

     虚言(うそ)を言ってはなりませぬ。

     卑怯な振舞をしてはなりませぬ。

     弱いものをいじめてはなりませぬ。

     戸外(そと)で物を食べてはなりませぬ。

     戸外(そと)で婦人(おんな)と言葉を交わしてはなりませぬ。

 

「ならぬことは、ならぬものです。」

 

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菊と刀―定訳

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履修漏れ救済は教育基本法改正議論の試金石(下)3

履修漏れ救済は教育基本法改正議論の試金石(上)
履修漏れ救済は教育基本法改正議論の試金石(中)

 

そして早稲田大学や山形大学の当り前の対応がなぜか凛々しく見えることに、虚しさと寂しさを覚えてしまう。推薦入学申請に当たり提出する内申書の改ざんは、りっぱな私文書偽造罪にあたる。この訂正を求めるのは当然の行為であり、訴えられれば高校側は罪に問われる。法治国家としては至極、当り前のことである。そうした法治国家に帰属する国民に遵法精神のイロハを教えることは、言うまでもなく教育の重要な要素である。その原理原則を教育する側の犯した罪は、本来、「申し訳ない」で済む話ではもちろんない。

 

 では、今回の履修漏れ問題にどのように対応すべきなのか。

 

答えはひとつしかない。会津藩の幼時教育で行なわれた「什(じゅう)の掟」で、最後に唱える誓いの言葉「ならぬことは、ならぬものです」という教育の原点にもどり、対応するしかないのだと思う。教育基本法の改正を議論する前に、われわれ自身が、教育とは何か、学ぶということは何か、原点に立ち戻り結論を出すべきであると考える。

 

 すなわち「履修単位が不足すれば卒業は出来ぬ」ということであり、法の穴を抜けるような姑息な手段をこの国の将来を担う若者たちに慫慂し、形だけ整えればよいといった処世術を教唆することは避けねばならぬと考えるのである。社会通念を超えた特例措置、いや誤魔化しは決して子供たちの将来の利になるはずはないからである。姑息な単位の辻褄合わせなどは、「学ぶ」という基本を過たせる百害あって一利なしの行為そのものであるからである。これから人生の花を向かえる若人たちに、これからの一年は決して無駄ではないと教えることこそ、大人たち社会が「教育」するべき大切なことなのではないだろうか。

 

 そのことは、こうした履修スケジュールを作った学校現場の校長、それを知っていて見過ごしてきたであろう教育委員会、それらを総括的に管理する文科省が、数万人におよぶ卒業できぬ高校生たちの心と経済的負担および可能性のある貴重な一年間を奪い去る代償として、自らの今後の人生で償うことと同時になされねばならぬ。その責任のとり方こそが教育基本法改正の議論の前になされるべき、まさに教育そのものであると考える。戦後教育の抜本的改革とは、それほどに重くそして大きな犠牲なくして成就することはありえぬ難題であると考えるからである。


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