京都・南山城を廻る=海住山寺(かいじゅうせんじ)の十一面観音菩薩立像を拝む
京都・南山城を廻る=観音寺(かんのんじ)の国宝・十一面観音菩薩を拝む
木津川市加茂町西小札場40
祇園祭宵山の日中を使って、南山城へと足を伸ばした。
先にアップした観音寺(京田辺市)、海住山寺(木津川市加茂町)につづき、皆さんも一度は耳にされたことがあろうかと思う浄瑠璃寺といういかにも旅情を誘う名の古刹を参拝した。
当日は生憎、中央の宝池が州浜遺跡の発掘調査中であった。
そのため伽藍配置の美しさが半減したきらいはあったが、人影も見えぬ山深い境内でその在りし日の州浜を思い描きつつ浄土世界に想いを馳せることができたのも一興であった。
パンフレットによると浄瑠璃寺は平安時代、1047年に西小田原浄瑠璃寺(本尊・薬師如来)として創建されたことに始まる。
そして、白河院や鳥羽院が治天の君として院政を布いた11〜12世紀頃、京都を中心に皇室をはじめ貴族たちの間で九体阿弥陀堂の建立が争われた。
この浄瑠璃寺においても1107年、その背景となった新たな仏教の教えに基づき、現在の本堂となる九体の阿弥陀仏を安置する “九体阿弥陀堂”が造営される。
その新たな教えが九品往生(くぼんおうじょう)という考え方であった。
浄土三部経のひとつ“観無量寿経”のなかにある人間の努力や心がけなど衆生の機根によって極楽往生するにも下品下生(げぼんげしょう)から上品上生(じょうぼんじょうしょう)まで九つの往生の段階があるという九品往生(くぼんおうじょう)という教えである。
この教えに拠って、己の極楽往生を願う貴族たちが、九つの往生のパターンを具現する阿弥陀如来を祀る阿弥陀堂を競うようにして建てたというわけである。
あの藤原道長が寛仁4年(1020年)年に建立した無量寿院阿弥陀堂(法成寺阿弥陀堂)を嚆矢(こうし)として30余例が記録に残っているが、唯一現存するのが1107年に建立されたこの浄瑠璃寺本堂である。
そして1178年には、東面する阿弥陀堂(彼岸)の前に苑池を置き、東(此岸)に西面する薬師如来を祀るいわゆる浄土式庭園が造られ、現在の寺観が整備される。
現在の浄瑠璃寺の伽藍配置は次の如くである。
中央の宝池を中心に東に薬師如来を祀る国宝・三重塔が建つ。
池の西、三重塔に対するように阿弥陀如来九体を安置する本堂・九体阿弥陀堂が建つ。
このように当庭園は平等院鳳凰堂(阿弥陀堂)などの擁する浄土式庭園の平安中期頃からの典型的な様式となっている。
さて、ここで浄瑠璃寺のパンフレットの説明に分りやすく書かれているので、簡単に仏さまについて転載しておく。
薬師如来
「東の如来“薬師”は過去世(かこせ)から送り出してくれる仏、過去仏という。遠く無限に続いている過去の因縁、無知で目覚めぬ暗黒無明の現世に光を当て、さらに苦悩をこえて進むための薬を与えて遺送してくれる仏である。」
釈迦如来・弥勒如来
「苦悩の現実から立ちあがり、未来の理想を目指して進む菩薩の道を、かつてこの世に出現して教えてくれたのが、“釈迦”であり、やがて将来出現してくれるのが“弥勒”で、共に現世の生きざまを教えてくれる仏、現在仏という。」
阿弥陀如来
「西の如来“阿弥陀”は理想の未来にいて、すすんで衆生を受け入れ、迎えてくれる来世の仏、未来仏、また来迎の如来という。」
そして、太陽の昇る東方にある浄土(浄瑠璃浄土)の教主が薬師如来であり、太陽がすすみ沈んでゆく西方浄土(極楽浄土)の教主が阿弥陀如来ということなのだそうだ。
だから、当寺の寺号はそもそも創建時のご本尊である薬師如来がおられる浄瑠璃浄土に因んでいることがこれによってよく理解できると思う。
さらに本来の礼拝の作法であるが、同じ形態の宇治の平等院でもこの浄瑠璃寺でも、古来、人々は浄土の池の東、当寺では三重塔が建つ側(此岸)から彼岸におられる阿弥陀仏に来迎を願って礼拝したという。
そして、春分・秋分の“彼岸の中日”には九体仏の中尊、来迎印を結ぶ阿弥陀如仏の後方へ沈んでゆくのだという。
浄瑠璃寺は南山城のさらに奥まった静寂の地に位置する。
阿弥陀堂内のうす暗い空間にわが身と九体の阿弥陀さまだけが存在する世界。ひたすらに内向的な心象世界が瞼に映し出される。
そんな聖なる空間をもとめてこの清浄の地へおもむき、現世の懊悩をすすぎ落とし未来の心の安寧を静かに願ってみてはいかがであろう。