2022年11月24日午前6時半に細君が撮った1分16秒の神磯の鳥居の日の出の動画である。
どうみても空飛ぶ鳥ではない・・・UFO・・・なんだろう・・・
この映像、これも何かを我々に伝えんとする「異界からのメッセージ」なのか。
出雲を遠く隔てた常陸の国で、神有月、夫婦ともども体験した超常現象であった。
世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ
2022年11月24日午前6時半に細君が撮った1分16秒の神磯の鳥居の日の出の動画である。
どうみても空飛ぶ鳥ではない・・・UFO・・・なんだろう・・・
この映像、これも何かを我々に伝えんとする「異界からのメッセージ」なのか。
出雲を遠く隔てた常陸の国で、神有月、夫婦ともども体験した超常現象であった。
水戸の偕楽園を拝観後、大洗磯前(いそさき)神社の神磯の鳥居をお詣りした。
当日は雨のなか風も強く、傘を支えながらの動画撮影となった。為にブレの多い動画となっている。
朝日に向けての撮影であったため、赤い斑点模様が映り込むことは多々あるのだが、ここには亀甲模様にも見える五角形状の徴(しるし)が映像内に映り込み、それが舞い乱れているのである。
そして映像を見てもらうとわかるが、その亀甲模様状の枠内に文字が書かれているようにも思えるのである。
目を凝らして何度も確認したが判読はできずはっきりとしない。
わたしはこの動画を何度も見直すうちに、かつて目にしたことがある紋様のような気がした。
そしてアッと脳裡に浮かんできた意匠が・・・背筋にビビッと電流が走った。
六所神社を詣でたのはもう7年も前のことになるが、その時、宮司さんから伺った御神紋の譚が印象的であったので、意識の内からすぐに浮かびあがってきたのだと思う。
吉祥紋の二重亀甲のなかに「有」という文字。旧暦十月は出雲では、全国の神さまが集うので「神有月」といい、その「十と月」を合せた漢字が「有」で、二重亀甲のなかにその文字が入っているのだという。
六所神社は律令制度のもと出雲国内にある神社の統括機能を果たす出雲国府総社という位置づけにあり、現在でも引き続き出雲国内の神々を合わせ祀っている。
はたと気づいた!!
この日の出のなか、神磯の鳥居のまわりを乱舞する亀甲紋様状の徴・・・
わたしには出雲の神様が何かを伝えようとしている映像に見えてくるのである。
それも亀甲の六角形ではなく、五角形・・・
五芒星・・・・・・安倍晴明・・・・・・
その不思議な超常現象を撮ったのは驚くべきことに、私だけではなかったのである!!
わたしのこの不思議な動画を細君に見せたところ、「実はわたしも神磯の鳥居の動画に奇妙な光が動き回っているみたいで、目の錯覚でもないしと不思議に思っていた」という。
わたしは早速、そのスマフォで撮った動画を確認した。
新年にあたり彦左の正眼の読者の方々にとっておきの福を遍(あまねく)く、お届けしたいと思う。古くから四国霊場第18番札所・恩山寺(おんざんじ)のみが授与してきた『摺袈裟(すりげさ)』という閻魔大王のお墨付きもいただいている最強のお守りである。この万能の効験がこの写真の念力を通じて皆さんの心のうちに宿ることを心から願っている。
記
摺袈裟(すりげさ)は別名『袈裟曼荼羅(けさまんだら)』ともいい、僧侶が用いる袈裟の内に梵字(ぼんじ=古いインドの文字)で曼荼羅(まんだら)を書いたものです。摺(す)るとは「版木で印刷する」という意味で、袈裟とは「僧侶が行住坐臥(ぎょうじゅうざが=一日中常に)身につけるお釈迦さま以来の法衣」です。その袈裟に仏様を表す梵字や有り難い陀羅尼(だらに=仏様の功徳を説いた言葉)を書いたものが摺袈裟です。
所持すれば、陀羅尼の功徳によって患っているいかなる病気も治癒し、滅罪生善(めつざいしょうぜん=悪い事を良い事に変える)の為にはこれ以上の功徳あるもの無し、といわれています。
昔、閻魔大王が『死者が眠る墓にこの摺袈裟を掛け、一週間のあいだ供養すれば死者が蘇る』と説いた事に由来して、古くから、亡くなった人の棺にこの摺袈裟を入れてあげれば、必ず極楽浄土へ往生出来るといわれています。それゆえ、後からご仏壇の中に摺袈裟を入れると亡くなった方の供養にもなります。
なお、この摺袈裟の授与は古くから恩山寺(おんざんじ)のみで行われています。
以上
事程左様にこんなふうで、まだまだ結願までには紆余曲折がありそうである。
そこで、ここらで、少し、お遍路のご利益を少しお裾分けでもしておきたいと考えた次第。新年にふさわしい摺袈裟(すりげさ)なる最強パワーのお守りをご紹介して、そのご利益がこのコロナの嵐が吹き荒れる丑年に皆さんの心の内に届くように写真を掲載し、駄文を添えたものである。
讃岐の超絶パワースポット・石清尾山(いわせおやま)古墳群を歩く(4/5)
讃岐の超絶パワースポット・石清尾山(いわせおやま)古墳群を歩く(3/5)
讃岐の超絶パワースポット・石清尾山(いわせおやま)古墳群を歩く(2/5)
讃岐の超絶パワースポット・石清尾山(いわせおやま)古墳群を歩く(1/5)
5 北大塚東古墳・北大塚古墳・北大塚西古墳
【北大塚古墳】
鏡塚古墳から尾根道を100mほど緩やかに北方向へ下がってゆくと勾配のない場所に出る。そこから少し進むと40〜60cm台の石塊が転がっているところにぶつかる。
積石塚古墳が東から西へ接するようにして3基並ぶ北大塚古墳群の一番東に位置する北大塚東古墳である。平面形がほぼ正方形の古墳であり、石清尾山古墳群のなかで唯一確認された方墳とされている。
築造は古墳時代前期の積石塚であり、一辺の長さ約10m、高さ約2mの大きさで二段築成であるが、その形態を現状の姿から想像するのはきわめて難しい。
その方墳から連続して続いているのが、3基の中央に位置する北大塚古墳である。
築造が4世紀前半の積石塚の前方後円墳で、規模は全長約40m、高さ約4・5mで三基のなかで中核をなす古墳である。
前方部は三味線を弾くバチに似た形をしており、その先端部の石積みがよく残っているとの説明であるが、草が茂り、その形状を把握するのはこれまた難しい。
草が枯れる冬場の気象条件の良い日に訪れてみないと、なかなか説明(高松市文化財課)のような外観に触れるのは難しいようだ。
後円部の頂上に立ち北側を見ると、眼下に高松市街を見える。その先に瀬戸内海が広がり、女木島・男木島やその陰には小豆島の山容を見晴らすことが出来る。
素晴らしい眺望の地点に墓を築造しているのがよく分かる。
次に視線を西に点じこの尾根の突端部分を見ると、繁茂した雑草の先に小さく石礫の集積が見える。これが北大塚古墳のすぐ西側に接して築かれた北大塚西古墳である。
古墳時代前期に築かれた積石塚の前方後円墳で、全長約19m、高さ約1・5mと中央部の北大塚古墳に比べ半分ほどの小さな古墳である。
写真で判るように西古墳は摺鉢谷をめぐる東側の尾根の最も北端にあたり、北側はすとんと落ち込んだ谷となっている。
北大塚古墳群から真西を見ると、摺鉢谷を挟んでその延長線上に石清尾山第9号古墳が存在している。
その西古墳の脇を通る尾根道沿いに西古墳を真横から見ると、ここの積石の状況がよく分かる。
崩壊がひどい状態でその形状を見分けるのはこれまた難儀である。
真横を通る尾根道から西古墳の後円部へあがってみると、すぐ目と鼻の先に女木島と男木島が見えた。
そして頂上部に密集して広がる積石の状態がひどいことがよく分かった。野田院古墳のように修復せよとはいわぬが、貴重な文化財である、もう少し、こうした崩壊するのに任せたままの状態だけは何とか食い止める方策や最低限の整備を施すべきだと強く感じたところである。
午後1時に峰山公園をスタートした石清尾山古墳群巡りもこの北大塚古墳で終了である。時刻はすでに午後4時55分。日も傾き、われわれの影もかなり長くなってきた。
これからゆく道は遊歩道と呼ぶにはちょっと無理のある草むらのなかの獣道のような山道である。
こんな心細い道で大丈夫かと不安になったが、一般道から逸れていった先刻の石船積石塚まで戻っていると夕陽が落ちるまでに下に降りるのは難しいと判断、この獣道を強行下山することにした。
下山を始めてすぐに視界が開けた個所があった。少し進むと、足のすくむような切り立った崖である。その縁から下を見下ろした。
あの路へ降り立つにはかなりの急勾配の山道となるに違いない。そんな急坂それも獣道のような悪路を果たして短時間で下りきれるのかと心配になった。
結果的には無事、下山できたわけだが、そこからはまさに想像通りの直滑降の下り道であった。足の不自由なわたしは杖と家内の文字通りの手引きを支えに必死の下山行となった。
道幅は狭くむき出しの自然石を探りあてながら足をのせ、次にまた支えの石を探すといった難度の高い下山であった。
なれど人間必死になると何とかなるもの、ようやく車道まで到達したとき、時刻は午後5時15分。わずか20分であの目のくらむような高さから転がり落ちるようにしてこの人里へと舞い降りたのである。
「自分で自分を褒めてあげたいと思います」というあの“臭すぎる”と思った名言を心中、まじめに己に向けて語り懸けたものであった。
そこからは近隣のタクシー会社へ電話し、迎えに来てもらい、当日の古墳巡りも無事、終了。こうしてレポートをさせていただくことが叶ったというわけであります。
さてさて、読者の皆様、長々と石清尾山(いわせおやま)古墳群巡りにお付き合いいただきありがとうございました。
讃岐の貴重な古墳群。目で実際に確かめると、その立地の眺望の良さがわかり、尾根筋のかなり危険な場所に築かれたものもあり、その理由は何ゆえか?といった素朴な疑問などを抱えながらの探査行。
ただ、学説の一つにある「積石の素材の安山岩がそこにあるから積石塚をその高地に造った」というだけのそんな単純な理由だけでは考えられぬほどの絶景の地さらに危険な個所に古墳は造営されていた。
と云うのもこうして実際に峰山の尾根筋を歩いて自分の目と足で確かめてみると、何だか1700年前にはもっと瀬戸内の海はこの山裾の方まで入り込んでいたのではないか・・・、この尾根の上まで打ち寄せる波音が時には聴こえてきたりしていたのではないか・・・と、何の理由もなく、そう思えてきた・・・。
平地から見上げると云うよりも海上から見上げて最も効果的に見える場所に石を積み上げた大きな墓を築いたのではないか・・・と。
古墳の頂上に立ち、丈が伸びた草陰に真下の市街地が隠れ、すぐ目の先に青い海原と島々が見えるといった景観に触れる体験をすると、そんな想像も決して奇想天外でもないなと思えてきたのである。
そう書いたところで、古墳時代の高松市の海岸線を検索したところ次のようなことであった。
「当時(古墳時代)海岸線は現在の高松市中心部の西端を流れる摺鉢谷川の流域全て、即ち峰山の裾野にあり、人間はそれら海、山に挟まれた平野、後の宮脇町周辺に居住していたと類推される。」
なるほど・・・海上から海抜200mほどの高さの山上に全長40mから100mほどの二層、三層の石積みの大きな構造物が見える。
1700年前の人々にとって、山の稜線から迫り出す、まるで空中に浮かぶかのような石組みの構造物は度肝を抜く権力の示威であったことだろうと得心したところである。
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4 鏡塚古墳
【鏡塚古墳】
次に石船塚古墳から北へゆるやかな登りを30mほどゆくと草むらを迂回した先に鏡塚古墳が見えてくる。
4世紀前半に築かれた積石塚古墳であり、猫塚と同じ双方中円墳という特異な形状をしている珍しい古墳である。
その規模は全長約70m、高さ約3.6mと大規模な猫塚と比較すると一回り小さくはあるが、猫塚より全容が見えやすいので迫力はこちらの方があると感じた。手前の石ころの集積している辺りが双方中円墳の片方の方墳である。その向こうに大きく盛り上がった大きな積石の塚、中円墳が見える。
われわれは南側の石船積石塚からのアプローチであったため、ほぼ南北の方向に配置された双方中円墳の南方墳を最初に目にし、その先に大きな中円墳を見る恰好となった。
方墳は50、60cm大の石ころが集積しわずかな盛り上がりを見せているが、その形状が四角形であると認識することはいまや難しい状態となっている。
そして、いよいよ、双方中円墳の中核をなす中円墳に登ってみた。
頭頂部一面には30cm台から60cm台の大きな石ころが乱雑に放置されているといった印象である。
修復された野田院古墳のような整然と組み合わされた石組みを脳裡に描くのははなはだ難しい。
しかし、この鏡塚古墳は摺鉢谷をとりかこむ東側の尾根筋の最も高いところにあり、野田院古墳同様にその頭頂部からの景色はまことに壮大である。
人影を認めることもない静かな尾根のうえ、その頂に築かれた古墳の上には真っ青な秋空が広がっている。その静寂のなかに時折、聴こえてくる鳥の啼き声の他には谷越に聞こえてくる峰山公園で遊ぶ子供たちの歓声のみである。
1700年まえにこの峰越しに声を掛け合っていた人たちがいたのだと確信した瞬間であった。
それから目を右側へ転じると北側に小さな方墳が見える。
やはり3・6mの中円墳の上から見下ろすと方墳の高さはかなり低くそして一辺の長さも短い。
逆に南側を向くと、北の方墳の対称線上に南方墳が見える。
これが全国でも珍しい双方中円墳の全貌である。
円墳を下りて、その裾を廻る遊歩道を北大塚古墳へと向かってゆくのだが、真下から見る円墳はなかなかの質量感である。
これもかつては野田院古墳のような二段構成であったというから、下の写真を目に浮かべながら脇を通り抜けて行った。
北側の方墳をやり過ごして振り返ると、尾根の一段高い個所に中円墳を築いていることがよくわかる。
一説によると鏡塚古墳には6基の石室があったと伝えられるが、これだけの規模である、やはり首長の家族などきわめて近しい人々を埋葬したものであろう。
ただ、両側に方墳を従える特異な形状の意味合いは謎めいていてはっきりしないままである。方墳が祭祀、拝礼の場所というのであれば、なぜ二か所必要なのか、それも対称線上にする意味とは何であろうか。草生した積石塚の頂きに佇み想像をめぐらしてみても解答は見つからぬままであった。
そして、いよいよ石清尾山古墳群の最後の古墳、北大塚古墳へと向かった。
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3 姫塚・小塚・石船積石塚
猫塚古墳から舗装された一般道を尾根筋に東へ歩いてゆく。その尾根道の右手には南東から南方向にかけて仏生山そして香南の平野が広がっている。 6、7分歩くと峰山公園の第4駐車場入口の真向かいに姫塚古墳がある。姫塚古墳の北側にのびる尾根には次に見る小塚古墳が続く。 3世紀末から4世紀前半に造営された全長43m、高さ3・6mの中規模の積石塚前方後円墳である。 石船積石塚とともに前方後円墳の形状が最もよく保存されている古墳である。 どこかロマンを呼び起こす姫塚という名であるが、古よりここが首長の娘の墓であるという伝承に基づき「姫塚」と呼ばれてきたのだという。そんな1700年も昔のことがいまに語り継がれてきた姫塚。 【小塚古墳】 小塚古墳は姫塚古墳から北へ200mの距離、姫塚古墳と石舟塚古墳のほぼ中間に位置する。 小塚古墳は古墳時代前期(4世紀)の造営であるが、墳丘中央部を尾根道が走っているため元の形状は破壊され判然しないが全長約17m、高さ約1mの最も小形に属する前方後円墳と考えられている。 ここで舗装道路は終わり、これ以降は自然の一般道を歩いてゆくことになる。 この時点でちょうど午後4時を回った頃。ススキの穂の向こうに傾くのが早い秋の太陽が見えた。 小塚古墳から自然道をさらに100mほど進むと、右側に石船積石塚へ120mという石板の標示が見える。 そこから広い本道を外れ、右の狭い小道へと入ってゆく。 灌木のなかに一応、人の通る道が続いているものの見通しはきわめて悪い。 石船積石塚は、4世紀後半に造営された全長約57m,高さは約5・5mの積石塚の前方後円墳である。 後円部は三段、前方部は二段に積石が築かれているのだそうだが、ご覧のように雑草が生い茂り、まったく定かではない。 前方部も確認出来ぬ状態であり、資料の記述をそのまま転載するのみである。 ただ、石船積石塚の後円部中心に露出された刳抜式割竹形石棺は形態上、舟形石棺に分類される。 石船積石塚に代表される讃岐の刳抜式石棺の成立が全国的に見て最も早いとされている。ことほど左様にきわめて希少価値の貴重な遺跡なのである。 西暦400年に満たぬ頃に、この重い石棺を載せて運ぶ船とはどの程度の大きさであったのだろうか。また、讃岐の石材や加工技術が優れているという情報はどのようにして広がっていったのか。積石塚を造営する技術集団は讃岐から移動したのか。 そんなお宝をあるがままで目にする幸せには浴したものの、棺内に雨水を溜め雨ざらしにされている姿は痛々しく、稀少文化財の保存の観点からはレプリカに替えるといった手当が早急に講じられるべきだと強く感じた。 しかし、その石棺の置かれた後円墳の頭頂部からの眺望は1600年余を越えた今日においても、まことに壮観であった。 見晴らしの良い尾根伝いに積石塚を築き、そこに埋葬された人々とはいったいどのような部族であったのか、妄想は風船のように膨らみつづけ、興味は幼児の好奇心のように尽きることはない。
【姫塚古墳】
航空写真(高松市文化財課)だときれいに前方後円墳の形状がわかる
民衆にこよなく愛された王女だったのだろう、数多い王家の墓にあってこの姫はその名前は残さなくとも死して王女の墓であることを今に至るまで伝えてきたのだから。
果たしてどんなプリンセスがこの可愛らしい古墳に葬られていたのだろうか、想像は秋の空高く、その羽を広げてゆくのである。
小塚古墳測量図(高松市文化財課)
【石船積石塚】
しかし、突然に目の先に小高い積石塚が現れる。
航空写真(高松市文化財課)
石材としては高松市国分寺町の鷲ノ山産出の鷲ノ山石(石英安山岩質凝灰岩)が使用されている。この鷲ノ山石の刳抜式石棺は高松平野から丸亀平野を中心に8棺が知られている。
また、香川県外でも大阪府安福寺(柏原市玉手山3号墳から出土(伝))に所蔵されているほか、大阪府松岳山古墳からは刳抜式石棺ではないが、組合せ式石棺の側壁材として使用されているという。さらに松岳山古墳の周辺には積石塚古墳が分布しているという興味深い事実も存在する。
1600余年前に、ここ讃岐の鷲ノ山で製造された石棺が瀬戸内海を渡り、大阪で古墳に埋蔵する石棺として使用された。
その事実が語り懸けているのは、同じ埋蔵方法を採る部族の存在あるいは石材加工技術の優れた讃岐の石棺をわざわざ運ばせた交易や情報伝達の広範さを考えざるを得ないところである。
ひょっとしたら請負で讃岐からやって来て、完成後には讃岐へ戻ったのではないかと想像を膨らませると現代の常識をちゃぶ台返しをするようで何だか面白くなってきて仕方がない。
古代社会において、人・物の移動、情報の伝播のスピードは現在のわれわれが想像するよりもはるかにずっと早かったのではないか。
何かまだわれわれが知り得ぬ手段や運送技術、理解を越えた社会構造や人的交流といったものがあったように思えて仕様がないのである。
そんな石船積石塚であるが、石棺は何とか目にできたもののその全貌は草で覆い尽されており、前方後円墳の形状は分りかねる状態であったのは如何にも残念であった。
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2 石清尾山13号墳・石清尾山9号墳・石清尾山2号墳・猫塚
9月下旬の秋の好日、悠久のロマン、古代史の謎に触れようと石清尾山古墳群のなかでも代表的な次の図にある9つの古墳を廻った。
不自由な足を庇い、杖をつきながらの山道歩行である。下から登ってゆき、そして、また下って降りるといった踏破行は当初から諦め家内のサジェストにより最も標高の高い石清尾山頂上真下にある峰山公園までまずタクシーで登った。
要は、上の図にあるように峰山の高処にある13号古墳(上記図)から逆順に─↓А↓ΑΑΑΝ,伐爾辰討罎という省エネ踏破を目論んだのである。
当日は好天の土曜日ということもあり、多様なアスレチック遊具のそろった峰山公園には多くの子供連れの家族が訪れていた。
われわれはまず瀬戸内海を一望できる展望台へと向かい、これからの難儀な踏破行へむけた英気を養うことにした。晴れ渡った空の下に空と一体となったかのような瀬戸内海が広がり、手前には女木島や小豆島、遠くに目をやると本土が見渡せた。
【石清尾山13号墳】
最初の石清尾山13号墳は、展望台を少し下った先にある。
古墳時代後期の6世紀末から7世紀中頃に築造された径9m、高さ1・5mの盛土墳で、横穴式石室の天井石が取り除かれた状態である。
そこから公園を突っ切り一旦車道へ出て、石仏のならぶ先の細い下り坂へとUターンして入り込む。これでよいのかと不安になるほどに熊笹で覆われた細道である。
そして、いつしか上り坂となり灌木の隙間から向こう側の峰が見えることで自分たちが峰山の尾根筋に歩いていることに気づく。
【石清尾山9号墳】
そして、ようやく石清尾山9号墳(図の─砲肪り着く。
石の瓦礫が無造作に放られているような保存状態だが、全長27mの積石塚の前方後円墳である。
摺鉢谷を取り巻く稜線上の北東部の突端に位置しており、谷を挟んで真東に向き合っているのが、最後に訪れる北大塚古墳(図の 砲任△襦
そうした墓の配置に古代人のどういった意図が隠されているのか、興味は尽きぬところである。
【石清尾山2号墳】
9号墳から2号墳(図のА砲泙任錬隠以ほどの距離である。
峰山公園の芝生広場から行く場合は、自動車道をちょっと上って左に大きく曲がるカーブの右手側に20mほど入った民家の庭先にある。
横穴式石室が開口している直径約10m、高さは約2mの円墳・盛土墳である。
4世紀代の積石塚古墳が集積するこの地区で、6世紀末から7世紀に造営された横穴式古墳群はその総数では積石塚古墳の数を越えているというが、その300百年前にこの地に住みついていた積石塚古墳群を築いた人々との関連はわかっていない。
【猫塚古墳】
この2号墳から徒歩約10数分、幅広の道から右に細道を300mほどゆくと、ここ石清尾山古墳群のなかで最大規模を誇る猫塚古墳(図のΑ砲愿着する。
その猫塚古墳は全国でも非常に珍しい双方中円墳という独特の形態をしている。
築造時期は4世紀前半に築かれた全長約96m、高さは約5mの石清尾山古墳群のなかで最も大きな古墳である。
中央の小高い大きな円墳の両脇に小さな方墳を従えたどこか蝶ネクタイのような形をした積石塚古墳である。
しかし、この日は草が生い茂り下から見上げただけではその形を実感することは難しかった。
石清尾古墳群のなかでこの特異な双方中円墳はもうひとつ鏡塚古墳(図の◆砲あるが、そちらは古墳上部へ登っての写真撮影が可能であったので、この変わった形を実感してもらえると思える。
上の写真で大体の感じをとらえてもらえればありがたい。猫塚はこの写真よりも規模は1・4倍ほどであるので、上から俯瞰できればかなりの迫力があると思われる。
讃岐の超絶パワースポット・石清尾山(いわせおやま)古墳群を歩く(5/5)
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1 石清尾山古墳群を代表する積石塚古墳とは
高松市の中心市街地の南西部に位置する石清尾山(標高232m)や紫雲山(同200m)などを擁する石清尾山塊の尾根上に4世紀から7世紀にかけて造成された200余基におよぶ古墳群が存在する。
そのなかでも有力な古墳のほとんどが弥生時代後期(3世紀後半)から古墳時代前期(4世紀)にかけて築かれた積石塚という墳丘を石で積み上げた特殊な形態の古墳である。
その形態がよくわかる積石塚の代表例が善通寺市の有岡古墳群にある野田院古墳(3世紀後半)である。積石は後円部にみで、前方墳は盛土となっている。
全長44・5mという大規模な前方後円墳はこの善通寺一帯を支配していた豪族の首長の王墓とみられるが、標高616mの大麻山(おおさやま)北西麓の瀬戸内海を一望する高所(405m)に築かれている。
1700年前もの昔にどうしてこんな山の稜線上の高みに墓所を構えなければならなかったのか。
これから見る石清尾山(いわせおやま)古墳群の積石塚も野田院古墳同様に見晴らしの良い山の稜線上に造営されていることと考えわせ、その理由を探ってゆくことにする。
その善通寺市の有岡古墳群から坂出市の積石塚古墳群、その東方の石清尾山古墳群と讃岐平野を東西に貫き、3世紀後半から7世紀前半にかけて築かれた古墳群の大規模な集積が認められる。
そのことは、古墳時代の初期において大和王朝はまだ一地方を統べる時代であり、この一帯に勢力を張る確かな王朝が存在していたことを物語っている。
この讃岐王朝の特色ともいえる大規模な積石塚古墳は讃岐の他には長野県の松代市大室古墳群(6−7世紀)に、小規模なものでは徳島県、兵庫県に例が見られる程度で、国内においてはかなり特殊な位置づけの墳墓形式となっている。
ただ、国外に目を転じれば高句麗の首都・扶余(現在の中国東北地方集安県)に多くの積石塚が存在するほか中央アジアにも存在することから、遊牧民あるいはそこから派生した騎馬民族の墳墓形式とする見方もできる。
因みに朝鮮の古代国家・新羅の古墳群が慶州に存在するが、その形式は円墳である。第13代王である未鄒(ミチュ)王(在位 262−284年)の墓をはじめ23基もの円墳が集まる大陵苑の写真が下である。
高さは20数メートルにもおよぶ小高い丘のように見えるものが固まって造営されている。形状は円墳が基本的なものだが、皇南大塚のように円墳が二つつながった双円墳も変化形として存在する。
さらに、最近では、前方後円墳が日本独自の古墳形式だとするこれまでの学説を翻すかのように、前方後円形の積石塚古墳が扶余の周辺で数多く発見されている。
大和王朝を中核に据え続ける唯我独尊の日本考古学をひっくり返す発掘・発見が大陸においては既になされているのである。
つまり類似した墳墓形式を有す部族が朝鮮半島や中国北東部から渡来したという見方を裏打ちする、前方後円墳という墳墓形式が日本独自のものではなく、大陸にも存在していたという事実である。
そうした大陸の墳墓形式の系列に属するとみられる日本で珍しい形態の積石塚古墳を有する石清尾山古墳群をこれから紹介していこうと思う。
茅野市豊平4734-132
長野県茅野市にある”尖石(とがりいし)縄文考古館”を久しぶりに訪れた。
思い立った契機は蓼科の道を走っていて道路の両側に縄文のビーナスと仮面土偶をあしらった幟をそこここで目にしたからである。
縄文のビーナスは昔、尖石縄文考古館で見たことがあったのだが、仮面土偶を観た記憶はなかった。
仮面土偶を初めて見たのは、二年前に辰野へ蛍狩りに行った際に立ち寄った辰野美術館でのことであった。
その時、写真で見たことのある宇宙人のような遮光器土偶を想起し、不思議な土偶が長野にもあるのだなと感じたことを思い出した。辰野美術館の仮面土偶はここをクリックしてください。HP所蔵品サイトへ飛びます。
そして、これは新しく発掘されたものであるに違いないと尖石縄文考古館を訪れたというわけである。
”仮面の女神”と名づけられたこの仮面土偶は、実は今から14年前の平成12年8月に茅野市湖東にある中ッ原(なかっぱら)遺跡から出土したのだという。
作製年代は縄文時代後期の前半(約4000年前)で、全長34センチ、重量2・7キロの仮面土偶と呼ばれるタイプの大型土偶である。
発掘時の様子が館内写真に掲示されていたが、ほぼ完全な形で出土しており、当寺から国宝級との呼び声が高かったという。
そして、道路上に幟が立っていたのはこの3月の「“仮面の女神”は国宝指定が妥当」との文化審議会の答申を受けて、縄文のビーナスにつづく二つ目の国宝指定が待たれる茅野市が縄文遺跡の町をアピールする“町おこし”の一環としての企画であったと知った。
その記念すべき国宝指定がわれわれが訪ねたわずか2日後になされたことをこのブログアップの時に知って、喜びも一入(ひとしお)であった。
さて、“仮面の女神”に先立つ”縄文のビーナス”は、1986年9月に八ヶ岳山麓の茅野市米沢に位置する棚畑遺跡から完全な状態で発掘されている。
その後、1995年に国宝指定を受けた全長27センチ、重量2・14キロの大型土偶である。
その姿はお腹とお尻が大きく張り出した妊娠した女性である。それは生命に対する礼賛の心をストレートに表わしており、おおらかな縄文人の生きざまを見るようでもある。
この縄文のビーナスや仮面の女神などが展示されている尖石縄文考古館の付近一帯は縄文時代中期(今から4〜5千年前)の住居跡がこれまでに219ヶ所も発見されるなど縄文遺跡の宝庫となっている。
縄文考古館に隣接した北側に”与助尾根遺跡”が位置する。
ここには縄文時代の竪穴住居跡が39か所発見されており、現在、6棟の竪穴住居が復元されている。
また道路を挟んで考古館の南側には、”尖石(とがりいし)遺跡”が位置する。
広々とした草地に昭和29年に三笠宮殿下が調査された33号住居址が遠い縄文の時代の悠揚とした営みを語りかけているようで、何とも心持ちが豊かになってくる。
そして、尖石遺跡の名前の由来となった“尖石(とがりいし)”がその遺跡群の原っぱの南端を少し下ったところに5千年を経た今もそのままの姿で鎮座する。
その先端の尖った自然石は地中の深さは不明であり、地上に顕れた個所で高さ1m、根元の幅が1・1mという大きさであるが、古くから村人の信仰の対象となっており、いつの頃か傍らに石の祠が祀られている。
尖石の右肩の窪みは縄文時代の磨製石斧を製作した際に共同砥石として利用されたとも、また、地上に突出した尖石が祭祀の対象となっていたとの見方もあるという。
そんな一大縄文遺跡の中心地に展示された“仮面の女神”であるが、国宝指定を機に、当館での実物展示は、仮面の女神が11月12日(水曜日)までだというのだ。“縄文のビーナス”は残念ながら10月2日で終了している。
ここでは幸いにも心置きなく撮影できた“仮面の女神”の乱れ撮りを記録のためにいくつか掲載しておくこととしたい。
仮面の土偶の拡大写真。
仮面の接近撮影。
斜め正面から。
側面から。
後方から。
頭部斜め後から。
こうしてディテールにまでこだわった作者のことを考えると、そして“仮面の女神”が気の遠くなるような4000年前にこの茅野の地で製作されたのだと思うと、人間の持つ無限の可能性を無条件に信じたくなるとともに、現代人は果たして技術的に進歩していると云えるのだろうか、心をふくめ豊かさとはいったい何なのだろうかという思いにどうしても駆られてきてしまうのである。
何はともあれ11月12日以降はレプリカ展示となる。“実物”をじっくりと写真に収めたい考古オタクは今からでも遅くない、茅野市の尖石縄文考古館へと急ぎ、足を運ぼう。
そして、やはり、何といっても実物の持つパワーは違う。生命力あふれる縄文人の放つパワーは半端ではない。
尖石縄文考古館ではこの10月11(土)、12日(日)の連休に“茅野市5000年 尖石縄文まつり”が開催される。
それを目当てにご家族で、縄文時代のパワースポット巡りをされてみてはいかがであろうか。
パワースポット、古代吉備国発祥の地・“吉備の中山”、半歩き一日目
さて、吉備の中山登攀二日目は9時26分岡山駅発で吉備津駅へ向かう。当日は、実家の高松(四国)に帰省中の家内と吉備津神社で待合せの予定である。実力不相応の険しい山路登攀を決行するわたしの、謂わば出張介護といったところであろうか。
わたしは家内より一時間ほど早めに神社へ到着、境内の写真撮影をのんびりやりながら妻を待つという当初の段取りであった。ところが、朝に弱いわたしは予定より一電車遅れ、家内が一電車早い列車に乗車ということで、わずかに二両編成の車内で遭遇と相成った。トホホ・・・(*´▽`*)
南随身門から長い回廊を抜けて、突当り出口から一般道へ出て50mほどで御陵への登山口(吉備の中山遊歩道)へ入る。
道は整備されて歩きやすい。鮮やかな新緑が目に痛いほどである。
300mほど緑陰の遊歩道を登ってまた先ほどの自動車道へ出る。茶臼山(海抜160m)方向を見ると、里山のようなひなびた景色が目に飛び込む。頂きに群れる木々がおそらく御陵を覆う樹林なのだろう。
200mほどゆくと道路左手に中山茶臼山古墳への170段の階段があった。これを登れば直ぐに御陵である。
杖を支えに注意深く一段一段足を運ぶ。時折、大きな段差があり、「よいしょ」と掛け声をかけて、体を持ち上げる必要があったが、総じて、登りやすい階段であった。
頂上へ到達すると“御陵”という立札が目の前に飛び込んできた。
「あぁ、やった〜」とのささやかな幸せ感・・・。一方、数歩先に登り切った相方は息も上げることなく、もう御陵方向を望んでいる。
痛む膝をさすりながら左手を見ると、まっすぐ伸びた細道の先に目指す御陵の拝所が見えた。
そして、宮内庁管理のため厳重に柵が廻らされ、下から御陵の上方に建つ鳥居を仰ぎ見た。
柵の奥に古墳時代前期に築造されたという全長120mの前方後円墳・中山茶臼山古墳の鬱蒼たる森が広がる。
往古、この山裾まで瀬戸内の海が入り込んでいたという。いまは、“吉備津”という湊を意味する名前にかつてこの辺りに充溢していたであろう潮の香を偲ぶのみであるが、桃太郎に擬せられる大吉備津彦命の墓は、むか〜し、この日のような真っ青な空を背に従え、この吉備の中山の頂きから眼下に広がる瀬戸内海を睥睨していたのであろう。
その御陵拝所の右手に備前と備中を分ける“国境石”がある。
吉備国の分国(備前・備中・備後)はいつかということだが、『岡山県通史』(永山卯三郎著)によれば天武10年(682)から持文武元年(697)の間と推定されるということである。この山がそれ以前の大きな吉備の中心にあるので、“吉備の中山”と呼ばれたというのである。
その備前と備中の国境を標す国境石。御陵正面の方が備中、向こうが備前である。
小さな石であるので、見落とさぬよう注意が必要である。
さて、御陵前のベンチつまり備中側で持参のお握りで軽く昼食をとり、息を整えてから本日お目当ての“石舟古墳”を目指し、歩き出した。
そして、国境石を越え備中國に入り、古墳を右手東側に回り込む細い山路をたどる。木の根っこなどがあり、足の不自由なわたしは注意深く足を運ばねばならぬ悪路である。
ちょうど前方後円墳の前方墳から後円墳に向けてうねる起伏の径を歩いてゆく。
途中に、“穴観音”があった。説明版によると、「昔からの云い伝えで、側面の穴に耳を当てると、観音様のお声が聞こえるという俗信仰があり、縁日には参拝客が多い。古墳築造時よりこの場所にあり、原始的祭祀行事の場所であった」 とある。
いまでは、そんなに人が訪ねて来るといった様子ではなく、山深い古墳の裾にひっそりと鎮まっており、なかなか雰囲気のあるパワースポットといった趣きである。
ここは、この下50mほどにある八徳寺(神社)の奥宮であったと推測され、これらの岩は古代、まさに磐座であったと考えるべきである。
そして、穴観音の位置は茶臼山古墳の後円墳の中心部分の東側となっており、横穴式石室があるとすれば、ここが古墳を拝する正面部分に当たる。
また、竪穴式墓室としてもここから真西に墓室があることになり、この場所は本来、古墳を拝する最も聖なるポイントということになると、わたしは考えている。
さて、そこを離れて石舟古墳を目指して歩いていると、胸に“古代吉備文化センター”と印した男性が私たちを追い抜くや、ちょっと振り返って、どちらまでと問うた。
石舟古墳と答えると、わたしの覚束ない足で急坂を下るのは難しいという。そこで、家内と相談のうえ、石舟古墳を断念。紹介された近くの吉備桜を鑑賞しにゆく。見ごろは過ぎていたが、その大きさ、りっぱな枝ぶりには驚嘆した。
そして、ちょっと下った先にある、往古の高麗寺跡に比定される八徳寺に立ち寄る。寺というより、さびれた小屋のように見えたが、一応、お祀りはしているようである。高麗寺は源平盛衰記に「大納言(藤原成親)の御座する有木の別所高麗寺というのは備前と備中の境・・・」とあり、写真の石柱が高麗寺金堂の礎石の一つの跡を標すものである。
八徳寺は明治初期の「一品吉備津宮社記」の末社に関する記載中に「波津登玖(ハットク)神社。小祠。此地坪今属備前国。祭神温羅命」とあり、この八徳寺という山寺が波津登玖神社と同一のものと考えられるとのこと(「考えながら歩く吉備路」・薬師寺慎一著)。
大吉備津彦命が退治した温羅(ウラ)を祀る神社がその御陵のすぐ脇にあることが不思議と言えば不思議である・・・。本当に温羅は悪者だったのか・・・。民に慕われていたのではないのか・・・。ひっそりと佇む八徳寺を見ていると、そういう気が確かにしてくるのである。
それから、そこを後にして御陵の横に広がる“古墳公園” の広場に向かった。
茶臼山山頂にぽっかり広がる平坦地。そこから遠くに常山が見え、眺望は最高である。
そして、そこからまた170段の階段を下り、吉備津神社へと戻って行った。
石舟古墳を見られず誠に残念であったが、この日は天気も良く、絶好のハイキング日和であり、眩いほどの新緑のなか、それなりの幸せを感じられた一日であった。
また、万歩計も前日に引き続き14000歩を越え、わたしのリハビリにはきわめて充実した一日であった。
ときはなる吉備の中山おしなべてちとせを松の深き色かな(新古今和歌集)
古来、古今和歌集、新古今和歌集などで詠われている吉備の名山・“吉備の中山”は、現在の岡山市北区に位置し、標高170mの龍王山をはじめ幾つかの山塊から成り立っている。
江戸後期の儒学者・頼山陽はその一連の山容が鯉に似ているとして“鯉山(りざん)”と呼称したが、吉備国の中心に位置することから“吉備の中山”と号した昔からの呼び名がやはり、この聖なる山の名称としては最も適切であり、意義のある名前と言えよう。
そして、その山腹から頂上にかけては古代吉備国の謎を秘める、首長の墓や巨石信仰遺跡の磐座群が多数存在する。
古より神奈備の山として崇められてきた“吉備の中山”。古代史オタクには堪らぬ魅力と豊富な謎に満ちたスピリチュアル・スポットである。
なかでも、箸墓古墳より古く最古の前方後円墳といわれる矢藤治山古墳や100mを超える大型前方後円墳の尾上車山古墳、御陵と呼ばれる中山茶臼山古墳など前期古墳の一群、石棺が収められた石舟古墳など後期古墳などが注目すべきものとしてあげられる。
4月13日と14日の2日にわたり、“吉備の中山”の山麓に鎮座する備前一の宮・吉備津彦神社と備中一宮・吉備津神社を参詣したが、往古、ご神体でもあったはずの聖なる山・吉備の中山をぜひ散策してみたいと考えたのである。
第一日目は別稿に記す吉備津彦神社を参拝したのちに、本殿向かって左側にある中山登山道口から入山した。その日は標高170mの龍王山の頂上を目指し、元宮磐座、八大龍王の石祠や経塚、そして天柱岩を順次、見学して戻る予定であった。
ところが、境内におられたボランティアの方からこれから雨が降るとの予報であるし、足の不自由なわたしが杖を突きながら登ってゆくには、途中の急坂が半端ではなく、その行程は険しすぎるとのアドバイスをいただいた。
それでは途中まで登ってみて無理だと思ったら戻ってきますということで、ボランティアの方の「注意されて登ってらしてください。くれぐれも無理をなさらずに」との言葉を背に拝殿の左側を廻り、登山口へと向かった。
稲荷神社の朱塗りの鳥居群前を左手に迂回すると、正面に登山口の石柱があった。
登山道入口の脇に、吉備津彦命薨去之地と刻まれた堂々たる石碑が建っている。吉備津彦命(大吉備津彦命)とは、吉備津彦神社のご祭神で、中山の頂上に築かれた中山茶臼山古墳に眠る吉備國平定の英雄である。
さて、その登山道であるが、入口付近はきれいに整備された山道で、歩くのに何の不安感も覚えぬものであった。
その山道に入る前に、左手の平坦な草地の奥に、大きな台石の上に建つ忠魂碑が見える。
忠魂碑もりっぱだが、その下の巨大な台石を見落としてはならないと言うことであった。その昔、この巨石は今の場所より後方、一段高いところにあったものを、この地に忠魂碑建立の際に、下へおろしてきたのだそうだ。
そして、巨石の元あった場所が、境内に案内される“古代御社図”に見える“御本社(もともと本殿があった場所)”の位置とほぼ一致することから、これこそが古代吉備津彦神社の本殿といおうか磐座(いわくら)であったというのである。
つまり、古代の神社は現在のような本殿のような建物はなく、自然の中に存在する“磐座”やその背後に麗しい姿を見せる“吉備の中山”こそが信仰の対象であり、聖なる神の憑代(よりしろ)であったという。
その古代の磐座を後にして、いよいよ吉備の中山へと分け入っていった。ゆるやかな傾斜道をゆくと右手に卜方(うらかた)神社(輝武命【備前国岡山藩主の池田氏の祖・信輝の霊を祀る】)が建っている。
そこから100mほどゆくと、こんもりとした盛り土の上に藤原成親の五輪の供養塔が見えて来る。
成親は俊寛や西光と平家討伐を謀ったいわゆる“鹿ケ谷の謀議”の発覚により備前国に流されたが、配流の1か月後には早やこの地で殺害されたとのことである。
その五輪塔は、なぜか横穴式石室を持つ後期古墳の上にひっそりと建っている。
供養塔と石室をのんびり観察していた時、予報通り雨がパラパラと降ってきた。こりゃまずいと、杖の支えも借りて少し足を速め、勇躍、登山にかかりだした。
途中、龍神谷あたりまではゆるやかな坂がつづき、道幅もそこそこに広かったので、歩行はいたって快調であった。まぁ、余裕の歩きであったと、言っておこう。
だが、次第に道幅が狭まるにつれ勾配もきつくなり、九十九折となった道も粘土質で滑りやすい状態へと変わっていくなど、わたしの歩きに不安の兆しが見えてきた。
そして、ところどころ、杖を支えに体を持ち上げねばならぬような急勾配の傾斜が多くなるや息も上がって来る。
加えて雨がポタポタと大粒になる気配。このままでは帰りの下り坂がこの雨で滑りやすくなり危険だと判断するに至った。登山道入り口に入ったのが2時12分。そして2時52分に無念の反転を決断。残念至極ではあったが、一人旅、無理はよくない。
それから、ゆっくりと吉備津彦神社へ向かい、下って行った。雨で山の上の清掃作業を終えた人たちがわたしを軽々追い越して、下山してゆく。齢はわたしより上のはずのその一群、足取りのあまりの軽さにほれぼれするしかなかった(通常の足であれば不安を感じるほどの山ではないのだろう)。
そして、吉備津彦神社に到着。再度、お参りした後、吉備線で岡山へ戻り、当夜の宿であるホテルグランヴィア岡山に辿り着いた。
過酷?な山歩きで両脚は筋肉痛というか、もう一歩も歩を進められぬといった状態で、バスタブに急いでお湯を張り、じっくりと足をもみほぐし、明日の吉備津神社からの御陵登攀に備えた。
その後、一息ついてから駅前の赤ちょうちんにでも繰出そうと考えていたが、そぞろ歩きする体力も残っておらず、ホテル内の“吉備膳”という和食店で、ママカリの南蛮漬けをつまみに“鬼の城”など地酒で英気を養う形となった次第である。
塩野神社は独鈷山(とっこざん)の北の山麓に位置し、中禅寺から100mほどの至近に、人影もまれな森厳な社叢のなか、ひっそりと鎮座している。
当社は、『日本三代実録(901年編纂)』に貞観15年(873)、「信濃国塩野の神」に “正六位上”の位階を贈ったとの記述を残すほど古くて由緒ある延喜式内社である。
社伝によれば、白鳳元年(661)4月に出雲大社から独鈷山頂上近くにある鷲岩の上に、分霊、勧請されたとあり、後世、この塩野の人里へ遷座されたのだという。
従って、その祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)、大己貴尊(おおなむちのみこと=大国主神)と少彦名尊(すくなひこなのみこと)の三柱の出雲系の神々である。
空高くそびえる杉並木の細い参道を抜けると、社務所や枯れた神木の根を囲む祠が建つちょっとした広場に出る。ここを馬場となし、祭事として流鏑馬神事が行われるという。
そして、その奥、正面に鳥居が立つ。鳥居を抜けると沢を跨ぎ、神橋が架かっている。
独鈷山を水源とする幾多の湧き水が当社境内の沢に流れ込んでいるが、その沢水が本流たる塩野川に合流し、塩田平をうるおしてきた。同社が、古来、水の神として信仰を集めた由縁がそこにある。
その聖なる沢を跨いでゆるやかな弧を描き太鼓橋が架かっている。神橋を渡ると正面に二階建ての一風変わった社殿が建つ。
正確には“楼造り”といわれる建築様式で、寺院では有名なところで法隆寺の経蔵・鐘楼や唐招提寺の鼓楼があげられるが、神社ではとても珍しいものである。
社殿は江戸時代の建築物で、楼造りの拝殿が寛保三年(1743)の再建、その奥の一間社流造りの本殿は寛延三年(1750)のものといわれている。
この拝殿の右前方、木立のなかに石祠の載る磐座の一群がある。その一画には“霧不断の香”でもたき込められたように神気が漂い、どこか凛ととした荘厳さが感じられた。
雨があがった時分などに参拝できれば、樹間に揺れる葉先に宿る滴の耀きや木漏れ日のゆらぎのなかで、沢に流れるせせらぎの音が木魂し、俗世の慾や身の穢れもいっさい落とされて、その爽快感はさぞかし言語に尽くせぬ最高の気分になるのではないかと思った。
お一人で、または愛する人と一緒に、この聖なる地を訪れてはいかがであろうか。ミステリアス・スピリッツを総身に浴びることのできるパワースポットである。
12月25日付の読売新聞に、「神域荒らす不届き者続出、柵設置した京都の神社」のタイトルで、京都府宮津市にある真名井神社の磐座(いわくら)に不届きな参拝者がたびたび攀じ登り柵内に入るというので、手前に玉垣を設け神域に近づけぬようにしたとの記事が掲載された。
3年前に祈願成就のパワースポットとしてテレビや雑誌で紹介されたことから、当神社を訪れる人が増え、そのなかの心無いものが社殿裏に鎮座する磐座に土足で登ったりと不埒な行為が続いてきたとのと。
何度、警告してもそうした罰当たりな行為が止まぬことから、今回、やむを得ず、社殿横に玉垣を巡らして奥の磐座へは近づけぬようにしたという。
誠に残念であり、これから訪れる敬虔な参拝者たちが、あの深とした霊域の雰囲気にとっぷり包み込まれる機会を非常識な観光客たちによって奪われたことに心から憤りを感じる。
二千年余の悠久の時を超えて守られてきた神聖不可侵の神域を未来の日本人にしっかりと伝え残してゆくには、仕方のない仕儀なのかもしれない。
わたしは昨年の1月に籠神社を訪れた際に、奥宮である真名井神社に参拝した。
当時はまだ玉垣もなく、社殿をぐるりと廻り、真裏の磐座やその奥の真名井原神体山の原生林内に鎮座する諸々の磐座も間近で見ることができた。
森閑とした山中に響く小鳥たちの啼き声に耳を澄まし、遠く二千年前の世界に想いを馳せていると、往古、この地に神々が降臨したという数々の伝誦が紛うことなき“真正”であると感得した。
真名井神社は本宮である籠神社から距離にして500mほど、徒歩数分の地にある。
途中、真名井川を渡るが、ここから後ろを振り向くと天橋立を見ることが出来る。
すぐに一の鳥居に達するが、その先に天香語山が見える。その天香語山(神体山)の南麓、真名井原に目指す
真名井神社は位置する。
しばらく道なりに歩いてゆくと、森閑とした山裾に真名井神社と匏宮(ヨサノミヤ)の石柱が立っている。
その真名井神社と刻まれた左側の石柱脇に、小さな石碑がある。
この石碑の一代前のものが、地中より掘り出された六芒星(ダビデの星)が刻まれていた石碑である。
六芒星、すなわち籠目紋は真名井神社の裏紋であることを第82代宮司・海部光彦氏が公表しており、失われたイスエラエルの十部族との関連、籠目の唄の謎など古代史オタクには興味の尽きぬ神社であり、強烈なパワースポットである。
真名井神社と匏宮と刻まれた石柱の内に足を踏み入れると、すぐ左手に“波せき地蔵堂”がある。
大宝年間(1300年ほど前)にこの地を襲った大津波を標高40mのここでせき止めたとの伝承に基づき、天災
地変から守る霊験と子育て病気よけを祈願し、地蔵堂が建てられたのだという。
そのすぐ奥に聖泉・真名井の泉がある。当日も車に大きなポリタンクを積み込んだ地元の方が、その清らかな霊水をとりにやって来た。
“真名井(まなゐ)”とは、日本書紀の巻一・神代上(第六段)、“素戔嗚尊と天照大神の誓約”出て来る“天真名
井(アマノマナイ)”に対する丹後の国・比治の真名井を表わす。
そして、まなは、すばらしい、神聖なの意であり、ゐは清泉という意味である。すなわち、宗像三神や天孫を次々に産み出した聖泉、清らかな水の如く尊い生命を湧き出だす泉ということである。
そして、真名井神社の社殿への階段前に二の鳥居が立つ。その両脇に狛犬ならぬ狛龍が睨みを利かせている。
龍は水神の化身であるが、本宮である籠(コノ)神社の“籠”と云う字が竹カンムリに龍という造作であり、籠神社の裏紋が籠目であることも考え合わせると、“竹籠に龍が閉じ込められている”という、いかにも謎めいた古代からの暗号がわれわれに投げ掛けられているようにも思える。
そして私は、どうしても日本書紀・巻第二・第十段の“海幸・山幸説話”の記述を思い起こさざるを得ないのである。
すなわち、塩土老翁が彦火火出見尊(山幸彦=籠神社の元々のご祭神)を海中の龍宮城に送るために入れた“無目籠(マナシカタマ)=すき間のない籠”こそ、籠神社の名前の謂れであり、丹後風土記逸文にある“筒川の嶼子(シマコ)”、すなわち、浦島太郎の話とあまりにも平仄のあった伝誦であるといわざるを得ない。
また、昭和62年に現宮司の海部光彦氏(82代)により二千年の沈黙を破り “邊津(ヘツ)鏡(前漢時代・2050年位前)”と“息津(オキツ)鏡(後漢時代・1950年位前)”という当社秘蔵の日本最古の伝世鏡が突如公表された。
その二鏡の存在の事実と、丹後風土記逸文の記述や籠神社の裏紋である籠目を考え併せることで、籠神社が往古より口を閉ざしてきた大きな謎を解くヒントが見えてくるようにも思える。
こうした籠神社、真名井神社の抱える深遠なる謎についての詳しい話は別稿に譲るとして、われわれは社殿の方へいよいよ向かってゆくことにしよう。
真名井神社の拝殿につづく本殿の裏に、祭祀の中心となる磐座主座と磐座西座の二つの森厳なる磐座が鎮座する。
その為、本殿裏には神々が磐座へと移り給うための出入口が存在するという。
向かって右(東側)の磐座主座は豊受大神を主祭神とし、相殿に水の神である罔象女(ミズハノメ)命・彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)・神代五代神を祀っている。
左の磐座西座は天照大神を主祭神とし伊射奈岐大神・伊射奈美大神を配祀している。
その神々しい磐座を割り、竜蛇のごとく四方に根を張る古木を見ると、民衆が太古より神々を敬ってきたその歴史の長さ、重ねた時間の重みに自然と心を致さぬわけにはいかない。
いつしかそんな敬虔な気持ちになっている自分に気付かされる“真名井神社”である。
小さな、小さな社殿である。
簡素で何の飾り気もないお社である。
でも、その佇まいはあくまでも気高く、崇高に見える。
磐座の奥には真名井原神体山が深々と広がり、その樹林のなかにもまた多数の磐座が鎮座している。
神体山入山口に立つ鳥居の正面に塩土老翁(シオツチノヲジ)の磐座がある。
塩土老翁は、本宮・籠神社のそもそもの主祭神であった彦火火出見尊(山幸彦)を龍宮城へといざなった潮流・航海の神様である。
そのすぐ右手にあるのが、宇迦之御魂(ウカノミタマ)の磐座。宇迦之御魂は伊邪那美尊が飢えていた時に産まれ出でた穀物の神である。
そして、樹林の左奥に須佐之男命の磐座と道祖神が見える。
太古からの聖地がこの神体山の先、奥に今でもずっと鎮まっているのだと思うと、日本人の祖先が大切に、大切に守り育ててきた祈りの地を、この後も子々孫々、侵すことなく、引き継いてゆかねばならぬと衷心より思ったものである。
上高地・穂高神社奥宮の古式ゆかしい御船神事を参観する(2013.11.4)
松本市安曇上高地明神
霊峰・明神岳(標高2931メートル)の直下、
上高地・明神池の湖畔に
穂高神社の奥宮は、ひそやかに鎮まる。
ご祭神は穂高見神(ほたかみのかみ=神武天皇の御叔父神)である。
安曇野にある本宮のご祭神は綿津見命・穂高見命・瓊瓊杵命である。
奥宮は小さな祠が建つのみであるが、ご神体である穂高連峰の中心たる明神岳を後背にいただく神域は約1万6千坪の広さにおよぶ。
大正池とならび上高地を代表する天空の湖、明神池は、実は穂高神社の神領地なのである。
したがって、40年前にはそんな拝観料など払っていなかったと語る家内も、その事情を知れば、社領地であり、その自然環境保護に少しでもお役に立てることになるのだからと納得した次第である。
神官が一人常駐する社務所と奥宮の間を抜けると、そこに鏡池とも称される明神池が広がる。
一の池である。正面に明神岳の霊峰を仰ぐ。
透き通った伏流水を張った湖面には霊峰の明神岳が映り込む。
また、あまりの透明感から池の魚も鮮やかに目にすることが出来る。
10月上旬。この明神はすでに紅葉が盛りに近づき、その色づいた木々が山肌と湖面を彩る。
まさに息をのむ景観とはこのことである。
明神池・二の池は奇石、奇樹、枯れ樹が水面に浮かぶがごとく点在し、神が造形した枯山水ならぬ“活山水(いけさんすい)”のお伽話のような光景が眼前に広がる。
江戸時代・寛文年間のあたりから、島々谷から徳本峠を越えるルートが木材の搬出や炭焼きなどの生活を支える道であり、上高地へは徳本(とくごう)峠を越えて入山するのが常の経路であったという。
つまり、穂高神社奥宮の祭られる明神は峠を越えた到着点であったことになり、現在の観光客の主たるアプローチである河童橋からとは反対側から明神へ到達していたわけである。
上高地を世界に喧伝した英国人宣教師ウォルター・ウェストンを上条嘉門次(島々谷の猟師)が案内したルートも、まさにこのルートであった。
だから、往古の日本人やウォルター・ウェストンが最初に目にした穂高連峰は明神岳を中心となす光景であったことになる。
『明神岳は、かつて「穂高大明神が鎮座する山々」という意味で、穂高連峰全体をさす言葉として使われていた(上高地公式ウェブサイト“明神”)』のは、この徳本峠から見た崇高なる霊峰を信仰の対象としていったのも、十分、うなずけるところである。
その峠を降りて行った先に、霊峰の直下に清澄な山水を湛える明神池がある。山気を頬を打たせ、畔に立った時、その地を神と出合ったまさに“神合地(かみこうち)”であると感じたのは、至極、自然な人の心の動きだったのではなかろうか。
奥宮由緒によれば、その“上高地”という名称が、古来、神降地、神合地、神垣内、神河内と神との関わりのある地と称されていたことから、この明神の地が清浄の地、神域として崇められてきたことは明らかである。
奥宮由緒(境内案内板)の説明は以下の通りである。
『太古奥穂高岳に天降ったと伝えられる穂高見神(ほたかみのかみ)は、海神・綿津見神(わたつみのかみ)の御子神で、海神の宗族として遠く北九州に栄え、信濃の開発に功を樹てた安曇族の祖神(おやがみ)として奉斎され、日本アルプスの総鎮守として明神池畔に鎮座する。
松本藩主水野忠恒、大成の信府統記(1742)には、
「皇御孫尊(すめみまのみこと)穂高嶽ニ鎮座マシマスト云ヘリ。此嶽清浄ニシテ其形幣帛ノ如ク、麓ニ鏡池、宮川、御手洗(みたらし)、河水在ル所ヲ神合地ト云フ。大職冠(たいしょくかん)鎌足公モ此神ヲ敬ミ祭り給ヘリ・・・」
とあり、すでに江戸時代中期には松本藩からも厚く崇敬されて、鎮座の昔を仰ぎみることが出来る。上高地は古くから神降地、神合地、神垣内、神河内とされ、神々を祀るに最も相応しい神聖な浄地である。
善光寺名所図会(1843)に霊湖とされている明神池は鏡池、神池ともいわれ、明神岳の直下にして、一の池・二の池からなり、奇石、奇樹の島影は神秘ただよい、10月8日神池に浮かぶ龍島鷁首の御船は碧潭(へきたん)に映えて美しく、平安朝の昔を偲ばせる。』
その鏡池で催される10月8日の例祭こそが、今回の旅の目的である“御船神事”、別名を紅葉祭りというものであった。
此の度、その御船神事に参加すべく明神池を訪ねたのであるが、秋晴れの天候の下平安朝を偲ばせる厳かでしかも華麗な御船神事の様子は別稿に譲ることにする。
要石はパワースポットたる奥宮をさらに右、すなわち南に折れてまっすぐ150mほど行った先にある。
鹿島の樹林がその一画だけぽっかりと小さく開けた処に、安永五年に献灯された石燈籠がある。
その西側の鳥居のなかに要石が鎮まっているのだが、脇に松尾芭蕉の句碑が立つ。
鳥居前に立ってみると、要石は思っていたより小さい。写真は脇から石柱内を撮ったものだが、よく見ないと要石ははっきりしない。
アップで撮ったものが次なる写真だが、1円玉の大きさと比較していただくと大体の大きさが分っていただけるのではなかろうか。
要石は直径30cm、高さ7cmほどの中央に少し人工の窪みをもった花崗岩であり、見た目には鳥居を配した仰々しさとは裏腹に、何の変哲もない丸くて薄っぺらな石である。
香取神宮の要石が凸型であるのに対しこちらは凹型である。経津主神と武甕槌神が協同で國譲りを果たしたことを象徴するように、2つの凹凸異なる性格がともに力を合わせることで、地震を抑え込む霊力を発揮するのだといった風にも見える。
そこで、駒札を読むと、
「神世の昔、香島の大神が座とされた万葉集にいう石の御座とも或は古代における大神奉斎の座位として磐座(いわくら)とも伝えられる霊石である。この石、地を掘るに従って大きさを加え、その極まる所しらずという。水戸黄門仁徳録に、7日7夜掘っても掘り切れずと書かれ、地震押えの伝説と相俟って著名である。信仰上からは、伊勢の神宮の本殿床下の心の御柱的存在である。」
とある。
何の変哲もないなどと評するのは失礼である。往古、この根深い石は磐座であったというのだから、民衆の信仰は尋常ではなかったのだろう。
その霊石、鹿島のパワースポットということもあって、この森深いところにある要石を訪れる人は後を絶たない。
霊石を少しでも近くから見たいと覗き込む人や、団体でにぎやかに見物する人など、いろいろな人がいる。
でも、やはり、この霊地において奥宮で見かけた光景と同様に、敬虔に祈りをささげる人がいた。
その姿は実に美しい。
ふと、頭上を見上げると、春の陽光がまさにその祈る人目がけて確かに降り注いでいるように見えたのである。
まるで、神が憑代(よりしろ)をめざして舞い降りてくるように・・・
奥宮は本殿を過ぎ、杉や椎の古木の並木が鬱蒼とした奥参道へ入り、まっすぐ行った突当り、神門からは300mの場所に鎮座する。
鹿島の森の原生林は厚く、深く、鬱蒼としている。
その葉叢を切裂いた光が参道に神の意匠を刻む。歩みとともに移ろうその形状はまるで神が伝えようとする黙示録・・・暗喩のように思えた。
その暗示に心を奪われながらなおも参道をゆく。
歩みとともに神秘さを深めゆく空間。ようやく奥宮の鎮座する地へ
鹿島神宮・奥宮(重文)は、社殿前の駒札によると、「慶長10年(1605)に徳川家康公により本宮の社殿として奉納されたが、元和5年(1619)に二代将軍秀忠公によって現在の本宮が奉建されるに当り、現在地に引移して奥宮社殿となった」とある。祭神は“武甕槌神の荒魂”である。
家康が奉建した武神を祀る鹿島神宮本殿をわずか14年にして奥宮へと移転させた事実は、秀忠の父に対する屈折した心情を垣間見るようで興味深い。
ただ社殿前にたたずんでいると、そうした人間社会の生臭い話とはかけ離れた“気”がこの奥宮の鎮座する地に充溢しているのが自然と納得できるから不思議だ。
その朝も祈る女性がいた。それは敬虔で侵しがたく、崇高な光景である。
その場の空気をわずかに揺るがすことすら躊躇(ためら)われるほどの非日常的な景色であった。
荘厳で霊気に満ちた空間。こうしたところに身を置くと、誰しも自然に神の意思を感じ、ただ祈るしかないのだと、手を合わせ、頭を下げる・・・
“祈り”という行為がこれほどに美しく思えたことは記憶に少ない。
神域という言葉を肌感覚として、呼吸のように感得した瞬間でもあった。
このうら若い女性が立ち去るのを待って、わたしも社殿前に立った。
重厚さのなかに素朴な祈りの気持ちが籠められた美しい社殿であると感じた。
社殿の外郭をゆっくりと巡ってみる。
斜めから。
後ろに回って見上げてみる。流造の流麗な勾配をもつ茅葺屋根が間近に見えた。
簡潔で無駄が省かれた率直な造りであると感心した。
奥宮に満ちるパワー・霊気を十二分に体内に取り込み、次なるパワースポット。“要石”へと向かう。
香取神宮の要石は、地上に顕れた部分は径が3、40cmほどの楕円形の円味を帯びた凸型をしている。
香取神宮の聖地たる奥宮へ向かう途中に、護国神社の少し奥に石柱に守られ隠れるように鎮まっている。
折しも、頭上から樹間をぬけた陽光がしずかに舞い降り、静寂の地はさらに息をひそめている。
静謐とはまさにこれを言うのであろう。地に落ちた日差しに濾過されたかのように身が清められ、この地が霊気を充溢させていることは、黙って佇んでいるだけでわかる。
さて、「香取神宮少史」は“要石”について次のように紹介している。
「古傳に云ふ、往古、香取・鹿島二柱の大神、天照大御神の大命を受けて、葦原の中つ國を平定し、香取ヶ浦の邊に至った時、この地方なほただよへる國にして、地震(なゐ)頻りであったので、人々甚(いた)く恐れた。これは地中に大なる鯰魚(なまづ)が住みついて、荒れさわぐかと。
大神等地中に深く石棒をさし込み、その頭尾をさし通し給へると。當宮は凸形、鹿島は凹形で、地上に一部をあらはし、深さ幾十尺。
貞享元年(1684)三月、水戸光圀、當神宮参拝の砌(みぎり)、これを掘らしたが根元を見ることが出来なかったと云ふ。當神宮楼門の側の“黄門桜”は、その時のお手植である。」
水戸黄門の時代に既に、香取神宮と鹿島神宮の“要石”が地中深くで地震を抑え込む“妖石”であるとの民間伝承が存在していたことは、この地が古来、何らかの霊力を持った聖なる場所で思われていたといってよい。
現に香取神宮奥宮の入口付近に残る雨乞塚は、聖武天皇の御代(天平4年・732年)の大旱魃の折、雨乞を祈念するため造られた塚の史蹟だという。
この事実こそが、この地が古来、霊験神秘な場所であるとして庶民が畏敬してきたことを如実に物語っている。
明治初期の香取神宮少宮司で国学者であった伊能穎則(ヒデノリ)は、地震を抑える要石について次の和歌を残している。
“あづま路は 香取鹿島の 二柱 うごきなき世を なほまもるらし”
安政の大地震(1855年)が起きた際に、地震を起こす大鯰の頭を武甕槌神(タケミカヅチノカミ)が剣で突き刺す鯰絵を描いた鹿島神宮のお札が流行したという。
伊能穎則の和歌に詠われているように、香取・鹿島に鎮まる要石が地中で地震を抑えているのだという伝承は江戸時代後期に巷間に広まったようである。
ちなみに、鹿島神宮の要石が大鯰の頭を、香取神宮の要石は尾を押さえているとのことで、また、この二つの要石は地中深くで繋がっているのだという。
それにしてもこうした要石というパワースポットにおいても、香取神宮と鹿島神宮はやはり対の関係にあり、凸形と凹形で一体となるのだと言わんばかりである。
また、香取海(カトリノウミ)の入り口の両岬突端に相和すように鎮座し、下総・常陸など関東平野へ侵入を図る敵への防禦策も、両地点に両神宮の存在があってこそ、その戦略目的は完璧に遂行されることになる。
そうした符牒に、経津主神と武甕槌神という二柱の神が中つ國平定を成し遂げた“人物”と“聖剣”の両者をそれぞれ神としたという私の推量にも、その不即不離、表裏一体の関係という点で、あながち荒唐無稽な説ではないのかも知れないと考えた次第である。
謎めいた経津主神(フツヌシノカミ)を祀る香取神宮をゆく(上)
謎めいた経津主神(フツヌシノカミ)を祀る香取神宮をゆく(下)
経津主神(フツヌシノカミ)と武甕槌神(タケミカヅチノカミ)=出雲で国譲りを成した二神の謎
奥宮へは要石を通過してから香取の樹林を抜けて門前町へ裏から回り込むようして辿り着く。
二之鳥居の方へ逆戻りしており、どうして、奥宮が本殿の手前にあるのかと不思議に思う。
しかし、この謎は香取神宮の往昔の成り立ちを知れば、なるほどと納得する。
つまり、“謎めいた経津主(フツヌシ)神を祀る香取神宮をゆく(下)”で述べたとおり、経津主神が海路上陸して来られた津の宮がそもそもの香取神宮の表参道口であったという事実である。
津の宮の方位は香取神宮の真北に当たり、いにしえは浜鳥居を一之鳥居として参道は南進し、現在の北参道側から本殿に至っていたことになる。
その経路であれば、奥宮が本殿のさらに南、すなわち今の位置に鎮座していることは至極、当然のことだということになる。
この奥宮へ向かう入り口には雨乞塚がある。
聖武天皇の御代、天平4年(732)、この地が大旱魃の時に、ここに祭壇を設け雨乞いをしたところだということだが、この辺りが古より霊験あらたかな場所であったことの証でもある。
奥宮の手前左手に天真正伝神道流始祖・飯篠長威斎(イイザサチョウイサイ)家直の墓がある。
室町時代に長威斎が開いたこの香取神道流からは、中条流、影久流が生まれているほか、かの有名な塚原卜伝もこの流派を修めてから鹿島新当流を興しており、我が国最古の剣の流儀の始祖として剣聖とあがめられている。
そしていよいよ、経津主大神の荒御魂(アラミタマ)を祀っている奥宮へと入ってゆく。
真新しい石標のすぐ後ろに簡素な神明系靖国鳥居が立つ。
数段の階段を上ると、まっすぐに伸びた細い参道の突当りに奥宮の社殿が見える。
樹齢を重ねた杉並木はひっそりと鎮まっている。
時折、風の悪戯だろうか、それとも気まぐれな神様の戯れだろうか、樹間から一閃の光芒がわが身に放たれる。
細い参道の突当りに奥宮は鎮まる。
誰もいない森閑とした大気のなか、経津主神の荒魂(アラタマ)というより和魂(ニギタマ)がわたしを包み込んでくれているのかのようで、いつしか心は穏やかに安らいでいることに気づく。
奥宮の社殿は昭和48年の伊勢神宮ご遷宮の際の古伐をいただいて建て直したという小さな社である。
お参りをした後、木の柵で囲われた社を廻ったが、本当に小さなものである。
そしてここに神代の時代から経津主神の荒魂が鎮まっているのだと想うと、先ほど浴びた一閃の陽光は遠い過去からの問いかけのようにも感じたのである。
自然のなかに生かされ、そこに神を感じ、その慈しみと恵みに感謝して生きていた太古の人間たちは、いったいどこに消えてしまったのか。
今の世の中、人間はどこまで傲慢になっているのか・・・、そしてまだ、なお大欲を腹蔵し、自然をどこまで破壊し続けてゆく気なのかと。
杉の巨木の幹に手を当て、その命の鼓動を聴きながら、そんな問いの答えを探り続けたのである。
どうも最近の“彦左の正眼”、硬い話や鬱陶しい話が多過ぎて、書いているこの彦左衛門本人が楽しくない。
そこで、すこ〜し、ここで軟らかい話でもしようかいな。ここの読者は酸いも甘いも知り尽くしたご仁が多かろうて、たまには、こんな話も面白かろう。
この世には男と女、雄と雌しかいぬことは、いまさら語るまでもない。
そして、昔から初めて男と女が出逢うたとき、最初に頭に浮かんでくるのは、言わずと知れた“アレ”のことじゃて。そんなの“あなただけ”と女房殿に叱られようが、自然界の営みを見ておれば、これは生物の生物たる本能そのものであり自然の摂理であって、決して恥ずかしきことではない。つまるところ、神聖なるものということじゃ。
だからして、“アレ”が古来、縁結びや安産の神として崇められてきたのじゃな・・・
まず、神様も摂社、いや、拙者と同様、“好きもの”じゃなぁというところから始めようかの〜。
長崎市に“おくんち”で有名な“諏訪神社”というりっぱな神社があるのを知ってござろう。
その神社を参詣するときに、隠れた楽しみ、いや、恋の成就を手助けしてくれる“よかもん”があるんじゃ。
この彦左衛門、見つけたのであるなぁ。写真を撮りまくる拙者を見る女房殿の視線がつとに痛かったのう、あの日は・・・。人間、己の心に正直であらねばならぬとあれほど常々、教え諭しておるのに・・・、女房殿、素直でないのぅ。
さて、諏訪神社の参道には、なんと、陰陽石が埋められておるんじゃよ。そして、ご丁寧に両性合体石までがあるんじゃぁな。なんとまぁ、至れり尽くせりの神社である。
諏訪神社のHP“縁結びの陰陽石”に、「男性は女石、女性は男石を踏んだ後、拝殿前の両性が合体した石を踏んで参拝すると、縁結びの願い事が叶うと言われています」と、堂々と、いやご丁寧に書いてござる。
まず一之鳥居をくぐってすぐに“陽石”がござる。HPによれば“男石”と言っておったな。これはオナゴが踏むのじゃぞ。 次に四之鳥居付近に、“陰石”つまり“女石”があり申したなぁ。これは彦左が・・・、おっと、わしゃ、もう隠居の身であったわい・・・(=^・・^=) いやはや、ハッ、ハッ、ハッ! そして長〜い階段を登り切ると、正面にりっぱな拝殿がある。 この前に“アレ”が埋まっているはず・・・ あった〜!! 参拝客が多いので、シャッターチャンスがぁ〜 う〜ん、なるほどなぁ・・・。 この“生命の源”が何かを知らずして踏みつけておるご仁がタ〜クサンおったなぁ〜。 じゃが、そうした男女の方が存外、ご利益があったりするものじゃて・・・ 長崎の“お諏訪さま”もこれでなかなか粋で面倒見のいい神様であることを分かってもらえたかのぅ。 さて、次はぐっと東へ飛んで、愛知は足助町じゃ。ここには紅葉で有名な香嵐渓があるぞ。その国道153号線沿い、梶平の信号すぐに庚申堂がござる。 その小さな前庭に“ソレ”は“チン”座しておるのである。 陽石は花崗岩で高さが80僉⊆りは1m20僂世修Δ犬磧人工の手を加えぬ男根形の道祖神としてはおそらく日本一というておったわな。 この極太には拙者はひと言もない。ただ、この短軀にはなぜか日本男児として、至極、親しみが湧くのじゃなぁ〜 陰石は脇に草花に隠れるようにして奥ゆかしく鎮まっておる。大和撫子とはよくぞ言うたもんじゃ。 さぁ次に、さらに東へと移動。所は高崎市、榛名神社から榛名湖へ向かう天神峠に突如出現するのが・・・ その名も直截な“男根岩”である。 う〜ん、男子としてはただただ、圧倒されるばかり・・・。注連縄なんか・・・拙者の・・・には・・・、無理に決まってるわな〜・・・ご無礼つかまつった (-_-;) さてさて、最後に控えしが、今度はまた遠〜く西へ飛び、雲仙の温泉地。 そこにの木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)神社に”アレ”があるのでござる。神社は元禄時代頃の創祀だという。 その参道というより狭い山道の樹々の枝に、たくさんの短冊が吊られておる。 これを横目に登ってゆくのじゃが、いやはや、途中から彦左の頬はゆるみ、ニヤニヤ、目尻は下がるといった態で、女房殿が“イヤラシイ”と、一緒について来たことを後悔するような、旦那さまを批難するかのような目つきをしておるではござらぬか。 不届きものめが!! 次なる短冊に書かれし名句をご覧じよ。 “新婚で 登りて見れば 明日の励みよ” “はじらいて 登る二人の 若さかな” ・・・・ 若いもんはいつの世も、よいもんじゃ。 “夫婦喧嘩 あの時ばかりは 仲直り” “あの人は 口で言う程 できもせず” ・・・・ うむ・・・う〜む・・・ “若後家は 登る道々 冷やかされ” ・・・・ 艶っぽいのぅ “還暦は とうに過ぎたが まだ欲しか” “古希なれど せがれはいまだ 二十才” 日本男児もまだまだ捨てたものではないと、思ったものじゃ。 正面左に、リアリティー満載の“アレ”が天を指し、屹立しておる。 近づくとなるほど、見事のひと言! その男根の横に吊るされた短冊には、“あら大き モデルはどこの誰じゃろかい”と、これまた名句でござったなぁ。 そして右手にちょっと行ったところの洞穴に女陰、いや、陰石がこれまたりっぱに祀られておったの〜 女房殿は男根と女陰を一瞥するや、古びた木製ベンチへ腰掛け、メールを打ってござったな。恥ずかしがらずともよいのになぁ・・・ といった塩梅で、肩の凝らぬというか、ちょっとニヤリとするお話をさせてもらい申した。いやぁ、彦左も久しぶりに愉しませてもらったのう。長々と年よりの妄言にお付き合いいただき、厚く礼を申す次第じゃ。
そしていよいよ坂道の突き当り、小さな平地になっている。だーれもいなかったなぁ。
榛名神社は用明天皇元年(586年)に創祀された延喜式内社である(当社由緒より)。御祭神は火産霊(ほむすび)神と埴土毘売(はにやまひめ)神を主祭神とし、明治以降に大山祇(おおやまずみ)神、御沼龗(みぬまのおかみ)神、大物主神、木花咲耶姫(このはなさくやひめ)神が合祀された。
合祀された御沼龗(みぬまのおかみ)神たる高龗神は水をつかさどる龍神であるが、榛名富士を対岸に望む榛名湖畔に位置する御沼龗(みぬまのおかみ)神社で御祭神として祀られている。
まず、車を駐車させたところに二之鳥居がある。通常はここから参詣の歩を進めることになる。それでは、
パワースポットとしても有名な榛名神社を紅葉を愛でながら写真にてゆっくりと参拝してゆこう。
鳥居の先、すぐ正面に随神橋と“随神門”が見える。
榛名神社参詣のもう一つの楽しみに境内に祀られる七福神の像を見つけながら歩くのも一興であるが、実は“毘沙門天”を見つけるのが最も難しい。と云うのも、随神門の脇に隠れるように置かれており、一路、本殿をと勇んでこの門をくぐってしまい、脇から廻り込む人はまずいないからである。その袂に七福神の“寿老人”が建っている。
さて、随神門をくぐるとすぐに朱塗りの欄干の“禊ぎ橋”がある。
巨木に陽光がさえぎられ、薄暗くなった参道は上り坂となり、辺りは深山幽谷の景観となる。
眼下に清流を眺め、右手にはいよいよ榛名神社特有の景勝である奇岩、巨岩が目についてくる。その最初が“鞍掛岩”である。まさに奇岩である。
その辺りの石柱に太平洋戦争前後に活躍した喜劇王エノケンこと“榎本健一”の名が寄進者として刻まれている。昭和20年に四万温泉の老舗旅館・積善館を訪れているので、その際に榛名神社を詣でたのではないかと推察される。ちょっとオタクっぽいが、こんな小さな発見もあったりして神社詣では楽しい。
さらに坂を登った左手山腹に朱塗りの鳥居が見えてくる。火伏せの神、秋葉大権現を祀る秋葉神社である。
その先すぐに愛らしい“布袋さま”が建っているがそれを横目に石畳をエッチラホッチラ上ってゆくと売店やトイレのある処に出る。そこで小休止して、傍らの水琴窟近くに“福禄寿”を見ることができる。
そこからゆるやかな勾配の坂をゆくと階段上に三重塔と三之鳥居が見えてくる。
三之鳥居のところに“恵比寿さま”が建つ。
三重塔は神仏習合時の名残りであるが、現在は神宝殿と呼ばれ、天之御中主(あめのみなかぬし)神はじめ5柱の神様が祀られている。
三重塔を過ぎると、岩壁にへばりつくようにして落石避けの屋根のあるトンネルのような参道へ入る。その途中の岩穴に賽の神を祀る“賽神社”がある。
トンネルを抜けると“神橋”があり、左手欄干越しに安藤広重が描いた“行者渓”の奇観が目にできる。
その先、岩肌に沿う細い参道が続くが、途中に神仏習合時に存在した東面堂の秘仏千手観音を納めた祠を塞ぐ扉が巨岩に貼りつくように残されている。
東面堂のすぐ脇には七福神の “弁財天”が微笑んでいる。
そしてしばらくすると、朱色の柵に囲われている井戸があるが、雨乞い講の史跡である“万年泉”である。そこから昇る階段の上には鮮やかな紅葉と御水屋の屋根が見えてくる。
御水屋には人がいっぱいだったが、この前から瓶子瀧(みすずのたき)を眺めることができる。
かつてはここに閏年のみ13(通常年は12)に葉が分かれたという樹齢数百年の暦杼楓(れきじょふう)という見事な紅葉が植わっていたが、平成18年8月3日夕刻に根元からポッキリ折れてしまったとかで、現在は案内板に其の名を留めるのみである。
本殿へ向かう急な石段の手前に武田信玄が戦勝祈願として奉納する矢を立てかけたとの言い伝えを残す“矢立杉”が秋の空を貫くように聳えている。
いよいよ神域への階段を昇ってゆくが、途中左手に重要文化財“御幸殿”がある。
そして階段を昇ったところの“神門”に到達。神門をくぐると小さな平地となるが、そこに七福神最後となる“大黒様”が鎮座する。
大黒様をあとに今度は“双龍門”へとUターンするように急階段を昇るが、その後背には鉾岩が聳え立ち、パワースポットとしての雰囲気は満点である。
重要文化財の“双龍門”は梁や重い扉に龍の彫物が施されているためその名がある。
羽目板には三国志に題材をとった見事な彫物もあり、この門だけでもじっくり拝見する時間をとらねばならぬほど美術品としての価値を有す。
さらに本社境内から双龍門を見下ろすと、入母屋造り、千鳥破風、四面に軒唐破風といった圧巻の美しい屋根を見下ろすことができ、この位置からもぜひ双龍門をご覧いただくとよい。
漸く榛名神社本社境内に立つことになるが、そこは一種異様な凄みを帯びた空間である。
神楽殿、国祖殿、本殿の後背を巨岩、奇岩が取り囲み、古代人がこのわずかな平坦地を、神の降り立つ神籬(ひもろぎ)の地と感じたであろうことは容易に想像がつく。
本殿、国祖殿とゆっくりと参拝したが、彫物の圧倒的迫力には眩暈を感じた。
その豪奢さは見事のひと言に尽きる。そして本殿の後ろに天を衝くように聳え立つのが“御姿岩”である。
そもそもこの御姿岩こそが古代、山岳信仰の対象であったと考えるが、巧まずしての自然の造形物はまるで地上界を睥睨するかのようであり、その孤高の姿には畏れすら覚える。
御姿岩を仰ぎ見ると、頭部の下、人間で云う頸部には御幣が飾られている。
古代から篤い崇敬を受けてきた御姿岩。拝殿、弊殿につづく本社がこの御姿岩に接し、その先の岩奥にご神体を祀っていることにその証しをみる。
本殿の鎮まるわずかな平坦地が聖なる地であることは、深山のなか御姿岩や屏風岩など奇岩に囲まれ、またこの高処の正面空間に九十九石(つづらいわ)など異形の景観が拡がっていることにも強い神の意思を感じ、まさに霊感スポットである。
今回は紅葉の時季であったため観光客も多く、深山としての静寂にいささか不満を覚えるところもあったが、それを超えて厳粛さがひしひしと身内に沁み込んで来たのも紛うことなき事実であった。
彦左衛門