彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

北陸の旅

コキコキドライブ旅 7日目 その二 一乗谷朝倉氏遺跡

久しく途絶えていた「コキコキドライブ旅」だが、わたしの人生行路の記録を残したいとの虚仮の一念でふたたび書きつないでゆくことにする。前回は「永平寺」で終わっている。
さて、その永平寺から南西に8km、車で20分弱のところに戦国大名、朝倉氏の一乗谷遺跡は位置する。

永平寺山門からの水墨画
永平寺山門から中雀門と僧堂をみる

朝倉氏遺跡は九頭竜川水系のひとつである足羽(あすわ)川に流れ込む支流一乗谷川沿いに切れ込む谷内にある。

一乗谷川
一乗谷川
一乗城山(いちじょうしろやま・標高436m) の頂に一乗谷城を配し、その麓、東西500m、南北1.7kmの範囲にわたって南北の城戸で防御された城郭都市の発掘遺構である。
ここに中世の城郭都市があった
この谷間に城郭都市があった・・・

その存在は江戸時代から知られていたというが、昭和40年代の大規模水田改良事業のスタートにより、その遺跡規模が想像以上に広範囲にわたった。

下城戸
一乗谷の南端にある下城戸
しかも整然と残されていることがわかり、地元自治体、住民の強い思いから遺跡の一括保護がなされた。
一乗谷街並み遺構群
街並みの遺構群

その遺構がほぼ完全なままで発掘されていることから東洋のポンペイとも呼ばれている。

各戸に井戸が一個ずつ整備されていた
各戸に井戸を設けた街並みの遺構

先に訪ねた永平寺の開祖道元による開山が1244年であるので、一乗谷の城下町の形成はそれから約二百年後のことになる。

一乗城山
一乗城山

そして約百年間にわたり朝倉氏のもと繁栄を極めたが、織田信長により第11代当主の朝倉義景は討たれ城郭都市も灰燼に帰し、いつしか歴史のなかにうもれ、田畑のしたに名実ともに埋没することとなった。

復元街並み
復元された一乗谷の街並み

わたしどもが訪れたのは2021年の11月であったが、観光客もまばらで復元ざれた街並みや館跡をゆっくりと歩くことができた。

復元武家屋敷
武家屋敷の内部

戦国時代の城下町というものが、時代劇でよく目にする武家と農民・町民の居住地区がはっきり分かれてはいず、混在していたことに少々驚いたが、まだ武士が専業でない時代、城下町という形態はおよそこんなものであったのだろうと納得した。

商人の家
商人の家 中に井戸がある

いざ戦となったときには農民が刀や槍を引っ提げて戦場へと赴くことが当たり前の時代であったのだから。

朝倉氏の館内から門を見る
朝倉氏当主館内から唐門をみる

武士を初めて専業とした信長の軍事力によって、この中世の小京都とも称された文化都市が壊滅させられたのも歴史の必然と云えるのかもしれない。

街並み側から朝倉館遺跡と一乗城山
街並み側から朝倉氏当主の館をみる

一方で少々びっくりしたのが、各家々には必ず井戸が設けられていたことである。しかも各戸を網の目のようにつなぐ水道溝も認められ、16世紀の城郭都市にはすでに都市インフラがしっかりと整備されていたことを目にして、驚いた。

かつて信州松代江戸時代の歴史的道すじ散策したときに、「カワ」や「泉水路」と呼ばれる水路が家々をめぐり、街中に水道網が張り巡らされていたことに驚いたが、その時代をさかのぼること2百年の15、6世紀の越前において、すでにそうした都市インフラが整備されていたとは、日本人の技術力や頭脳、さらにはエコと殊更に唱えるまでもなく、日常的にそうした思想が身についていたことにはもっと誇りと自信をもってよいのだと思った。

松代の歴史的道すじ
信州松代の歴史的道すじ

私たちが伺ったときにはまだ存在しなかった「新・一乗谷朝倉氏遺跡博物館」が2022年10月にオープンしている。

朝倉当主の館跡
朝倉氏当主屋敷跡
JR一乗谷駅から徒歩3分の足羽川沿いに建っている。そこから一乗谷朝倉氏遺跡へは車で4分ほどとのこと。
当主館跡
朝倉氏当主館跡

170万点に及ぶ出土品のなかから選ばれた品々が館内展示されているそうだ。また朝倉当主の館が一部、原寸大で再現されているそうで、義景の日常を体験してみるのも一興と思われる。

コキコキドライブ旅 7日目 その一 永平寺

福井県を訪ねて、曹洞宗の大本山・永平寺を参拝しないわけにはいかぬということで、朝一番で市内中心部から東へ16kmほど山間部へ入ったところにある永平寺を目指した。

門前町の土産屋・上街堂に車を置き、九時過ぎに龍門と呼ばれる正門についた。

々藩佞垢訥の参道
永平寺の朝の参道
11月半ばの平日の朝。人影もまばらな参道には“もみじ葉”が紅や黄の枝葉を重ねていた。

修行道場での思いがけないもてなしに、素直に道元禅師に感謝した。

参道の少し先にある参拝者入口の通用門をくぐりコンクリート造りの吉祥閣で拝観受付をし、雲水の方から伽藍配置など説明をいただいた。

 ̄癖浸参拝者入口
参拝者通用門
140名を数える雲水が現在修行中てあり、堂内で雲水の写真撮影は控えてもらいたいこと、修行中の雲水が起居する僧堂内には立ち入らぬことなど拝観の際の注意があった。

それから順路案内通りに伽藍内を拝観して回ることになる。

わたしに永平寺のイメージを一つ挙げろと言われれば、厳寒の季節、長大な階段を鉦を鳴らしながら疾駆する雲水の姿や無駄のない動きで素早く雑巾がけする若き修行僧のひたむきな面差しである。

座禅をくみ瞑想する“静”の世界より、堂内を駆け抜けてゆく颯爽とした“動”の映像世界こそが、わたしの「That's Eiheiji」である。

その“動”の象徴である大階段を、古希を迎えた老人がこれから杖を衝きながら黙然と上り下りするのである。

山の傾斜面を利用した七堂伽藍の最上部には他宗でいう講堂や本堂にあたる法堂(はっとう)がある。

)‘欧硫廊
法堂の廻廊
そこまで己の足で長い階段を昇ってゆき、そして降りてこなければ永平寺を拝観したことにはならない。左脚の不自由なわたしにとっては苦行の修行なのである。

そこで息を整え、杖を片手に握り直し、覚悟を決め、そして仰ぎ見た。

 ̄癖浸の長い上り階段
永平寺の階段
視線の先には・・・非情にも急勾配の昇り階段がつづいていた。

覚悟の先っぽからため息が洩れたが、踏み出してみると、階段の踏み面には奥行きがあり、蹴上げの高さも適度であったため、足や膝への負担は思ったほどでない。

‘Г潴未広い永平寺の階段
踏み面の奥行がある
とはいっても、時々小休止をとりながらの老体には結構な修行である。

陸上部で校庭を駆け抜けていた10代の頃、この程度の階段、どこまでつづこうが、一段跳びにも二段跳びにも飛び跳ねて行けたのになどと、誰への負け惜しみかわからぬが、雑念が次々と湧き出てきた。

そんな邪念とは無関係に、機械的に何とか一段一段、数をこなしていく。

階段に小さな踊場があった。僧堂への這入り口である。

〜瞭押[入禁止
僧堂への入口
140名もの雲水が起居しているとは思えぬほどの狭い廊下でつながっていた。

そこから少し昇った先に仏堂があった。

(殿 斜めより
仏殿
その前面の廻廊から右下に僧堂の全容をみることができた。

(殿より僧堂
仏殿前から僧堂をみる
このひと棟で雲水が起居し、厳しい修行に耐えながら生活しているのかと思うと、永平寺が今なお精神鍛錬の峻烈な道場であることが、実感できた。

さらに、ここから山門と仏堂の間に位置する美しい中雀門を見下ろすことができた。

(殿より中雀門を見る
仏殿から中雀門
しばしの休憩ののち、いよいよ最頂部の法堂へと向かった。

)‘
永平寺の法堂
法堂の外廻廊には長椅子が置かれていた。

そこで、永平寺の伽藍の佇まいを俯瞰した。

)‘欧らの眺望
法堂からの景色
眼前には伽藍の甍が重なり、遠く鬱蒼とした緑のなか一抹の黄葉を覗かせる山が見えた。

朝靄のように修錬場に流れ落ちる山気がわたしの胸中に満ち満ち、世俗の世で澱み、萎えた心のなかを一陣の清らな風が吹きぬけた。

永平寺という禅寺の佇まいはまるで水墨画のなかに鎮まっているようであった。その精神世界のなかに身を置いた己を見つめた。

)‘欧ら大庫院と仏殿の大屋根を見る - コピー
水墨画の世界
ここまで昇ってきた階段の数々・・・それはこれまでの人生の日々のようでもあった。

これから下ってゆくであろう長い階段・・・

 ̄癖浸の長い階段を下る
下り階段
それは残り少なくなったわたしの人生の下り階段のようにも思えた。

そして、そのどこかの踏み面にいまの自分の歪(いびつ)で小さな足跡がつけられるのに違いない。

その足跡はこれから訪れる無数の人々により踏みつけられ、削り取られて、いつの日にかそのわずかな痕跡でさえも、未来の雲水たちによって、きれいさっぱり拭き取られてしまう・・・そう思いなしたのである・・・

〇殻腓畔殿の間に位置する中雀門
山門と仏殿の間に中雀門
さて、永平寺の長い階段を下りきったその先にはどうした景色が待ちうけているのだろうか。

いや、人生という映像フィルムは唐突に断ち切れ、レンズの絞り羽根が閉まるように下り階段の途中で尻切れトンボの「終」を迎えるのかもしれない。

その時、世界はどんな色相を自分に見せてくれるのだろうか。それとも無意識界で色合いもへちまもないはず、そんな由無し事を考えながら下りはじめた。

途中で中雀門から表からは拝観できない山門を見下ろすことができた。

〇殻腓鮹羶門から_LI
山門を中雀門から見下ろす
この山門は一般人の通行は不可で、雲水のみが通ることを許されているのだそうだ。

しかもその雲水も、上山(修行開始)を認められて入門する際と厳しい修行に堪え行をおさめ乞暇(こうか=修行修了)・下山する際のたったニ度に限られるのだという。

大きな山門には外界と隔てる扉が存在しない。

その柱と柱の先の空間を見ると、この門は「入るにも易く出ずるにも易い」と感じるが、柱には「聯(れん)」と呼ばれる大きな長板が掛けられている。そこには「家庭厳峻不容陸老従真門入」、「鎖鑰放閑遮莫善財進一歩来」と難解な漢字がならんでいる。

永平寺を知悉する人の説明によれば、

「永平寺の家風は非常に厳しいものである。地位や富がある者でも、真に仏法を求める者でなければこの門から入ることは許されない」

「この門には扉も錠もなく開け放たれているのだから、真に仏法を求める者はいつでもこの門から入ることができる」

と告知しているのだそうである。

読み下すのも解文するのも、息も脳みそも詰まりそうな白文ではある。

その「聯」の戒律を今尚守る永平寺は鎌倉時代の厳峻な精神世界を現代に伝える生きた史跡であるといってよい。


そしてわたしは雲水によって磨き抜かれた階段を最後まで降り切り、入館した通用門から伽藍の外へと出た。

法堂の廻廊で覚えた諸々の雑念は、疲れきった足腰と思考力の失せた脳漿で物の見事に雲散霧消し、SNOBに戻ったわたしは思い切り胸をそらし深呼吸をした。

俗世へ舞い戻る龍門へと向かった。

ゆるやかな下り坂である。永平寺の下り階段はまだ続いていた。

〇殻腓らの水墨画
山門から中雀門と僧堂をみる
そして水墨画の小世界の廻廊を巡ってきたわたしの頭上には、色鮮やかな紅葉の世界が広がっていた。

々藩佞留癖浸参道
龍門への参道は錦の饗宴
永平寺の下り階段の先にこんな世界が待っていたとは・・・、わたしの足取りはすこし軽くなった。

はてさて、龍門の外の俗界は今度はどんな色合いを見せてくれるのか。

まだまだ古希のドライブ旅はつづいてゆくのだったと、思いなして正門の外へ初めの一歩を踏み出した。

コキコキドライブ旅 6日目 その三 継体天皇の母・振媛の高向宮跡と足羽山公園の継体天皇像

東尋坊からわずか3kmのところ、九頭竜川河口に三国湊はある。

継体天皇が男大迹王(おおどおう)と呼ばれていた頃、福井平野は九頭竜川、日野川、足羽(アシワ)川が注ぎこむ大きな湖沼であった。度々洪水による水害に見舞われていたその一帯を、男大迹王が堰を切り壊すことで湖水を日本海へ流出させ、その泥地を肥沃な田園に変えたり、澪筋を浚渫し湊を築いたと伝えられている。

ゞ綟竜川
九頭竜川の河口
その湊こそ三国湊である。古来、水運による物流拠点として発展し、江戸時代には北前船交易の中継地という地の利を活かし物流の一大集積地として町は大きく発展した。その礎を築いた人物こそ継体天皇というわけである。

現在の三国は、全国にある中世に栄えた港町の景観と違わず、かつての繁栄を偲ぶ縁(よすが)は、僅かに残る豪商の旧宅を資料館として保存する人影も少ない“古い街並み”と呼ぶひと筋の往来のみである。

〇姐駝座
三国湊座
そこにならぶ「三国湊座」という字もかすれた看板を掲げる食堂で、われわれはご当地グルメと紹介されていた“三国バーガー”を注文し、ランチとした。

〇姐颯弌璽ー640円
三国ハンバーガー
その後、九頭竜川河口にたたずみ、往時、殷賑を極めたであろう湊の情景をしばし想った。

ゞ綟竜川河口と三国港
かつて殷賑を極めた三国湊はこの先の河口あたり
三国湊から内陸へ22km入ったところに、継体天皇ゆかりの「高向(たかむこ)宮の跡地」がある。

々盡神社社殿裏を走る県道160号板倉高江線
鄙びた県道160号線沿に高向神社
「日本書紀」によれば、五世紀の中頃近江国高島郡三尾に住んでいた彦主人王(ヒコウシオウ)は、越の坂名井(さかなゐ)から振媛(ふりひめ)を妻として迎え、その間に男大迹王が誕生する。がまもなく彦主人王が亡くなったので振媛は幼い男大迹王を連れて一族が支配する高向の郷に帰り養育したとある。

‥脹爐広がる高向の郷
田園地帯が広がる高向の郷
その跡地は現在一帯が田園地帯であり、まばらな人家のなかに紛れ込むようにして建つ式内社・高向神社(坂井市丸岡町高田)はまことに小さな神社であったが、古来、四字久保庄あたりで『古堂様』と呼ばれ、振媛一族の氏神を祀る高向郷の総社であった。現在のご祭神は振媛・継体天皇・応神天皇の三柱である。

々盡神社社殿と境内
小さな高向神社
狭い境内の一画には高向宮の跡地を標す石碑がぽつんと建てられ、この地が現在の天皇家につながる古い、古い縁の地であることを控えめに伝えていた。

々盡宮跡石碑
高向の宮跡を伝える石碑
そして、いよいよあの有名な継体天皇像を拝むために福井市内の中心近くにそびえる足羽山へと向かった。

継体天皇石像
継体天皇像
その足羽山山麓に祀られる足羽神社は男大迹王が越前平野の大干拓事業を興す際に、宮中神の「大宮地の霊(オオミヤドコロノミタマ) 」(=宮中の座摩5座の神(座摩巫祭神五座(イカスリノミカンナギゴサイジンゴザ)、足羽神はその1座)を勧請して創建したと伝わる。

足羽神社拝殿 修正
足羽神社拝殿
当社のご神紋は日と月と星をあしらうきわめて珍しい「三光の紋」であり、わざわざ宮中に祀る神々を継体天皇がこの地に勧請した事実に加え、天地を統べる天皇である証のような意匠はわたしに何かを暗示しているようにも思えた。

’凖惰癲神紋”三光の紋”
三光の神紋を飾る拝殿内
現在は、宮中で祀られる大宮地の霊(オオミヤドコロノミタマ)に加え、主祭神として継体天皇が祀られている。

足羽神社・社殿
足羽神社
そこから標高116mの福井市内を見下ろす足羽山頂上へと登ってゆく。頂上には福井市自然史博物館の建つ足羽山公園が整備されている。

足羽山公園・三段広場
足羽山公園
その三段広場の頂上に、足羽山でのみ採掘される青緑色の笏谷 (しゃくだに) 石で造られた継体天皇像が建っている。

〃兮療傾珍
笏谷石の継体天皇石像
三頭身の特徴ある継体天皇は威風堂々、あたり地をはらう雄姿を見せていた。

〃兮療傾弔里顔
継体天皇
そして、その大きく見開かれた眼は遠くに視線を投げ今もそしてこれからも福井平野の発展を願うように、その両肩に越の国の悠久の山風をおだやかにたなびかせていた。


陽も西に傾いてきた頃、最近、地方に行くと愛用している大浴場完備のドーミーインホテルチェーン、ドーミーイン福井(天然温泉「羽二重の湯」)へと向かった。

‐討鯖寿司完売の越前田村屋_LI
越前田村屋
夕食はJR福井駅直結の「プリズム福井」に入っている「越前田村屋」で名物・焼き鯖寿司を購入し、ホテルで摂る予定であった。

)未料饑廚房禿朕声
北の庄址に建つ柴田神社
駅までの途中、戦国武将柴田勝家の居城であった北の庄址に建つ柴田神社にお参りした。雨も降り暗くもなっていたので、遺構をくわしくみることは叶わず、残念であった。
)未両云覦箙
境内の北の庄遺構がきれいに整備されている
駅中のショッピングモール「プリズム福井」でお目当ての田村屋に辿り着いたが、人気店とあって焼き鯖寿司は既に完売、他店で購入し、夕食とした。それでも、結構、おいしかったので、夫婦ともに満足の態で越の国の一日目が過ぎた。

コキコキドライブ旅 6日目 その一 東尋坊

いよいよこの日、継体天皇ゆかりの「越の国」、福井県へと入ってゆく走行予定距離118kmの旅である。

継体天皇石像
福井市足羽山公園に建つ継体天皇像
日本書紀の世界に没入してゆく前に、かつて自殺の名所というと必ずその名があがった東尋坊が道すがらにあるというので、怖いもの見たさというのもありちょっと立ち寄ることにした。

迫力の東尋坊
東尋坊
その東尋坊であるが、当ブログではお約束事となった感のある「私にとっては初めての場所だが、細君はもちろん半世紀前に訪れた馴染み?の地」だそうで、日本海に屹立する、われわれ夫婦が大好きな“柱状節理”の安山岩からなる懸崖だという。

|貍節理がよくわかる東尋坊に立つ謎の人物
柱状節理がくっきり見える東尋坊の絶壁 謎の人が立つ
さてそのアプローチなのだが、駐車場から絶望の断崖絶壁へと向かっていくはずなのに、どうも想像していたのとは様子が違う。

いかにも観光地然とした道幅の狭いお土産屋街を、店員が発する溌剌とした呼び込みの声を背後に聞きながら通り抜けていくのである。

,いにも観光地の土産屋を抜けると東尋坊_LI
これが絶望の果てに行きつく道・・・
季節が夏であればあたかも海水浴場へでも出向いているような遊興気分が身内にみなぎってきているではないか。

絶望と期待のはざまを振り子のように揺れ動く想いを胸に、漁の解禁をむかえ越前ガニがおいしそうにならぶ店頭を俗物的な横目でしっかりと確かめながら進んでゆくと・・・、

 ̄杼哀ニのならぶ店頭
越前ガニがならぶお店
あっ!と、一挙に視界が開けた。

‥攣魂阿途切れた先に東尋坊
土産屋の果ては、一挙に視界が開けた
陰々滅々とした険しい崖はこの下の方になるのだろうか、峻烈な景観が視界のなかには確認できない。

おそろしい情念の風景とは真逆の、のびやかで渺渺(びょうびょう)たる日本海を一望する見晴台がすぐ下にひろがっている。

仝晴らし台が整備された東尋坊_LI
東尋坊の見晴らし台
幅広の石段を下りると庭の飛び石のような化粧石を敷き詰めた広場には柵が廻らされていた。

高所恐怖症のわたしでも平常心でその突端に立つことができた。

‥貎卷傾馗蠍園碑と日本海
国定公園越前海岸・東尋坊
そこから舗装された石段や小径がいわゆる“こわ〜い”絶壁へと続いているのだが・・・

わたしは杖をしっかり衝きながら、慎重に・・・慎重に・・・足をはこんでいく。

途中で足元から目を海原の方に転じると、絶望の懸崖を目指す観光客の方々・・・なんと笑顔でおしゃべりしながら軽やかに歩をすすめているではないか。

〃崖へは安全な小道が整備されている_LI
整備された東尋坊の観光ルート
まるでランランとスキップでもしているような・・・

(慎い播貎卷靴両径を闊歩する人
断崖の横を闊歩する観光客
ところで細君は・・・と見回すと・・・あっ、無謀にも崖の突端とはいわぬが先っぽの方へと、人生の殺所を目指してゴツゴツとした岩場を突き進んでいるではないか。

‥貎卷靴寮茲辰櫃某佑いっぱい_LI
岩場をすすむ勇気ある女が一人・・・
命知らずと云おうか、能天気で浅はかな行動をと・・・舌打ちでもしたい気持にもなったが・・・その岩場の先に若者たちが屯(たむろ)し楽しげに談笑しているのを目にしては何をか云わんやである。

一歩、足を踏み外すと人生のシャッターは一瞬にしておりて漆黒の冥界へと真っ逆さまに落下してゆくのに、暢気なものである。

‥貎卷
東尋坊
そんな不条理な光景を目にして気持ちがざわついてきたのだろう・・・突如、「北陸の暗鬱な雲とくろい海」、「遥か下の方で海が鳴っている断崖」・・・

ヾ笋紡任蘇佞韻詛
東尋坊に打ち付ける日本海の荒波
わたしの想いは松本清張の推理小説の世界へと浮遊していった。

そしてわたしの脳裡にひとつのどす黒い想念がむくむくと浮かんできたのである・・・

「細君にはいくらの生命保険がかかっていたんだったっけ・・・」

そして・・・

「あぁ〜、高齢者になって付保額はガクッと減額されたのだった・・・」と、脳内で算盤をパチパチと弾いて無為の衝動は瞬時におさまった。

‥貎卷靴量燭療渡奪椒奪ス
自殺を思いとどまらせる「救いの電話」ボックスがあった
傑作「ゼロの焦点」の断崖絶壁は能登半島の「ヤセの断崖」が舞台だといわれているそうだが、東尋坊でわたしは小さくなってゆく細君の背中を目で追いながら、「ゼロの焦点」ならぬ「眼(まなこ)の焦点」がなかなか合わず見にくくなったものだと自嘲したものだ。

‘本海の水平線
日本海の水平線が見事
すると一陣の潮風が断崖に吹き渡り、どす黒い企みはきれいさっぱりと吹き飛ばされていった。

鬱陶しいマスクを外してみたことで、二年にわたるマスク生活で澱んでしまった脳内に大海原からの清新な風が吹き込んできたことが幸いしたに違いない。

‐紊ら見ると何の変哲もない柱状節理の海岸
東尋坊
わたしは杖を両手でつかみ思いっきり背伸びをし、深呼吸をしながら大空を仰いだ。

すると、空高くに一台のドローンが游泳しているのが目に入った。

‥貎卷靴防發ぶドローン
日本海を游泳するドローン
その自在、闊達な動きに見とれているうちに私たち夫婦がゆく北陸路には、清張の云う「暗鬱な雲」なんかでなくこの日のような「蒼天」が一番似合っているのだ・・・と思えてきた。

そして蒼穹に揺曳するドローンの映像のなかにはきっとこれまでのわれわれ老夫婦の人生が豆粒のようになって映り込んでいるに違いないと、思わず笑みがこぼれおちた。

コキコキドライブ旅 5日目 金沢その2・兼六園・珠姫の寺天徳院

金沢城の石川門を出て百間掘りを跨ぐアーチ状の石川橋をわたり切るとすぐに日本三名園のひとつ、兼六園の桂坂入口がある。

茶店から百間掘越しに石川門を望む
旧江戸町から百間堀を跨ぐ石川橋と石川門をみる
その受付の手前右手に百間掘りに沿って茶店が立ち並ぶ筋がある。

江戸町の跡に茶店がならぶ_LI
旧江戸町・お土産屋、飲食店がならぶ
そこは金沢の地でありながら、かつて江戸町と呼ばれていたところだそうで、加賀藩第二代藩主・利常の正室・珠姫(徳川秀忠の次女)が江戸から輿入れしてきた際の随従三百人の長屋が建っていたことに由来するという。

その江戸町にならぶ一軒の蕎麦屋に立ち寄り腹ごしらえをして受付へ向かうと、先ほどはまばらであった観光客が列をなして並んでいたのには少々驚いた。

兼六園入場券購入にならぶ観光客_LI
兼六園の券売所にならぶ観光客
コロナ感染が落ち着いてきた秋の好日である。人々は久しぶりに解放感を味わおうと押し掛けてきたのだろうと、納得!納得!

ところが入園してすぐに今度は池の手前の人だかりである。

ゝ軫灯籠の写真撮影にならぶ若者たち_LI
園内進入を塞ぐかのように列をなす人だかり
さすがにこの混雑が続くのであれば、園内を歩きまわるのは御免こうむりたいものと周囲の様子を仔細に観察したところ、どうも若いカップルや友達同士で石橋のうえで記念写真を撮ろうとそこだけにたむろしていることがわかった。

徽軫灯籠で記念写真を撮ろうと人だかり_LI (2)
対岸からもこの人だかり
そのフォトスポットに目をやると、兼六園と云うと映し出されるあの有名な二股の石灯籠があった。

その名を「徽軫(コトジ)灯籠」というそうで、お琴の弦を支える二股の琴柱(ことじ)に形状が似ていることから名付けられたのだそうだ。琴柱などという言葉すら聞いたこともなかったわたしである。

徽軫(コトジ)灯籠と霞ケ池
徽軫(ことじ)灯籠と霞が池
なるほど雅な名前に趣のある灯籠に違いはないが、何もここまで群がり寄って写真を撮りまくるほどのことかと、若人たちが思い思いにポーズをとるのを半ば呆れながら、半ば眩しい思いで眺めたものだ。

「若いという字は、苦しい字に似てるわ・・・♪」などと、と〜い昔に口ずさんでいた老人は“時”というものの無慈悲さと冷徹さを思い知らされたひと時でもあった。翻ってわたしの青春時代も時のご老人からは「“わかもの”は“ばかもの”という言葉に似てるわ」と思われていたのに違いないと首をすくめたところである。

兼六園の風物雪吊り
雪吊りを施された松が随所に
さて、11月ということで園内の松の枝々には円錐形に縄張りされた雪吊りが設えられていた。

兼六園といえば「雪吊り」というほどに、代表的な景観である。

この情景に積雪でも加われば、その風情は弥増しに増すのだろうが贅沢はいうまい。

今様のインスタ映えの景観がここにも、あそこにもと展がっていた。

霞ケ池
霞が池と対岸に雪吊りの唐崎の松
だから都度、立ち止まっては写真をパチリ。

細君は呆れ果てながらも先に歩いて景色をじっくり堪能しては、要所々々で立ち止まりわたしが追いつくのを辛抱強く待ってくれている。

それをいいことにわたしは性懲りもなくパシャリとデジカメを鳴らしては杖を握り直しコチョコチョと急ぎ足、といったことを繰り返す。いつも通りのわれわれの旅のお約束事である・・・とわたしは理解している・・・。

兼六園の土はさぞかしわたしの摺り足で、この一日で2cmは削り込まれたにちがいない。

辰巳用水
清流の流れる辰巳用水
それでもなお、またパチリ。

∪稍澆蠅汎本武尊像
日本武尊像と雪吊り
そして、また、パチリ。

唐崎松と雪吊り
銘木・唐崎の松
あぁ! 忙しい・・・

‥盧蠅両(2016.5.17)
近江八景・唐崎神社の本物の唐崎の松(2016.5.17)
そして、なんと兼六園にも“親知らず(子知らず)”があった。

⊃特里蕕
兼六園の親知らずをゆく細君
ここはわが夫婦にとっては“夫(つま)知らず”とでも命名すべき石畳ではあった。

さらに兼六園には虎もいた。

 虎石  兼六園を守護する魔除け石の一つ
虎石
そして雁も雁行していた。

雁行橋
雁行橋
想像以上に広い園内、斯様なまでにいたるところに巧みな意匠や遊び心があったのには驚いた。

こうして1時間半におよぶ散策を終え、タクシーで北國新聞赤羽ホールへと戻り、次に珠姫を偲ぶ天徳院へとマイカーを駆った。


天徳院は二代藩主利常が建立した正室・珠姫の菩提寺であるが、のちの寛文年間にその遺骨は利家以下前田一族が葬られている野田山墓地へと改葬されている。

その珠姫は3歳で江戸から嫁いできて三男五女をなし、二四歳という若さで亡くなった。江戸創世の混乱の時代、二代将軍の次女の立場にありながら前田家のために多くの子供を産み、家中の抗争のなか徳川家との融和をはかり、加賀百万石の繁栄の礎を築いたお姫様として加賀の人々にいま尚、愛されている人物なのだという。

⊆酩韻鮗鼎峪・天徳院 山門修復中
修復中の天徳院山門
その天徳院で威容を誇る元禄6年建築の山門は現在修復中とあって、覆いがかけられ残念ながら目にすることはできなかった。

廻廊から山門を見る 天徳院
本堂廻廊から山門を見る
そこで本来は山門をくぐりまっすぐに向かう本堂へ長い廻廊をめぐり入ることになった。

天徳院の長い廻廊
薄暗い廻廊を通り本堂へ
本堂内は撮影禁止ということで写真がないが、奥にからくり人形・「珠姫・天徳院物語」を上演する舞台が常設されていた。

天徳院の庭園
天徳院の日本庭園
毎日午前10時から2時間ごとに午後4時まで上演されるとのことだったが、当日は2時半過ぎに到着したため、午後4時の上演まで待つこともできず、お抹茶をいただき、庭園を散策させていただくことにとどまった。

∋殻腓鯒愀覆箸垢譴个気眸しかろうに・・・
山門が背景となればこの紅葉もより美しかろうに・・・
こののち野田山の前田家墓地を訪ねるのだと受付の男性に告げたところ、「そこまでお参りいただけますか」と、野田山墓地の苑内図を手渡された。

前田家墓地マップ 写真版 - コピー_LI
朱色:天徳院と利長(微妙院) 橙:利家とまつ
実はこの地図がないと、とても初めての人が前田家の墓所までたどり着くことは至難であることをのちに知った。

墓地に到着したのが午後四時頃で、園内の一本道を奥へ奥へと行った行き止まりに大きな門柱があった。そこから山上の方までが前田一族の墓所となっている。

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前田家墓所への石段
そこここが苔生した石段を登って行ったがなかなか墓所に辿り着かず、日も暮れ出したため墓所参拝は断念することとし、ホテルへの帰路についた。

当夜は金沢駅の金沢百番街の「香港飲茶の店 菜香楼」でおいしい中華をいただいた。たくさん食べた。おいしかった!!

香港飲茶の店・菜香楼
菜香楼
そして次の日から、いよいよわたしの旅の主目的である、継体天皇の伝誦の多く残る「越の国」の西域、福井県へと入ってゆくこととなる。

コキコキドライブ旅 5日目 金沢その1・加賀百万石前田家の史跡巡り

この日は朝方は雲量の多い空であったが、徐々に青空が顔をのぞかせ、午後には一面に青空が広がるまさに観光にはうってつけの日となった。

ゞ眤城には青空が似合う
青空のもと金沢城
当日のルートは「金沢市観光公式サイト」掲載のモデルコース・加賀百万石前田家の史跡めぐりを素直になぞることにした。

まず、前田利家とお松の方を祀っている尾山神社である。

“山神社・拝殿
尾山神社・拝殿
駐車場は至近の北國新聞赤羽ホールの地下駐車場(39台)を利用した。

)猛⊃景浩岷ホール・地下駐車場
土曜日にもかかわらずガラガラの駐車場
その日は土曜日とあって人出も多かったが、あまり金沢の人にも知られていないのか利用している車も少なく穴場の駐車場を見つけることができ幸いであった。

尾山神社の建つ高台は昔、金沢城郭の金谷出丸があったところだそうで、6代藩主の時代に隠居所として「金谷御殿」に模様替えされたという。

廃藩置県後に藩士一同が藩祖の利家公と松殿の勲功を永く祀るために御殿跡地に尾山神社を創建したのだという。

(谿疉霄垰僂料暗塚家公銅像
境内に建つ母衣武者姿の利家像
もちろんお目になどかかったこともないご人物だが、“利家とまつ“。

\擬次,松殿
境内に建つ賢婦人の”まつ”のレリーフ
誠に徳の高いご夫婦であったのだなと、心より感服した次第である。

尾山神社を訪れて驚いたのは、石段を昇った先に待ち受ける異色の建物である。和漢洋の折衷様式の神門だという。


“山神社・和漢洋3様式混用の神門_LI
尾山神社・神門
明治維新の進取の気性の横溢した建築物であり、神社様式とは一線を画す一見の価値ある神門である。


さて尾山神社境内を通り抜けると、20207月に復元された鼠多門橋と鼠多門を通って金沢城の西郭に入城できる。

“山神社から鼠多門へ
尾山神社から鼠多門橋へ
鼠多門橋は江戸時代当時の橋長16・5間(27・2m)のまま復元されており、往時の加賀百万石の威容をみるようである。

〜預震膓兇帆預震
鼠多門橋と鼠多門
その鼠多門を潜り、石段をのぼると平成27年に整備を終えた玉泉丸庭園を見下ろすことになる。

池泉回遊式の美しい、なかなかの絶景である。

“夕腓瞭眥蹐寮格が強い玉泉院丸庭園
玉泉丸庭園
そこからゆるやかな坂をのぼってゆく途中に、加賀百万石の文化の香りを髣髴とさせる「色紙短冊式石垣」を目にすることができる。

/Щ翆産式石垣
趣きを見せる色紙短冊式石垣
お城の石垣にも斯様な意匠を凝らす前田藩とはなんと教養あふれる藩であったのか、百万石も伊達に大きかっただけではないのだと改めて思い知らされたところである。

そこを過ぎると一挙に視界が広がり、現在発掘調査が進んでいる二の丸広場へと出ていく。

正面に五十間長屋が見える。

‘鵑隆盜場から五十間長屋
二の丸広場から五十間長屋を見る
そして右手の丘の上に修復なった三十間長屋が見えてくる。

ゞ乏擽兇ら三十間長屋を見る
極楽橋と三十間長屋
木の香りが漂ってくるような新調なった極楽橋をわたるとそこに海鼠壁の美しい三十間長屋(重文)が建っている。

〇綾輯崢慌
三十間長屋
当日は日頃はクローズされている内部の見学が許されているというので立ち寄った。

〇綾輯崢慌案睇二階
三十間長屋の二階内部
わたしは階段がきついので1階のみで、細君が二階内部の写真を撮ってくれた。


そしていよいよ橋爪門から表側といおうか、兼六公園へ向かう三の丸広場へと出てゆく。

TVなどの映像でよく目にする有名な金沢城のあの景観、五十間長屋の威容を三の丸広場越しにみることができるのである。

まさに「イヨッ!百万石」、「前田家!!」と歌舞伎の大向こうを張る名場面ではあった。

青空を後ろに控えさせ、白色と銀色に映える“なまこ壁”を前面に纏い、一直線に空を切り裂く五十間長屋。

ゞ眤城三の丸広場と五十間長屋_LI
青空を裂く金沢城・五十間長屋
その両端を切り美麗に立つ菱楼と橋爪門続楼の様子は見事としか言いようがない。

ゞ仰淕臑穫
橋爪門続楼
十四年前に訪れた際は雨中の見学となったので、じっくりその景観を愛でる余裕がなかった。

ゞ眤城の菱楼
五十間長屋を切る菱楼
しかし逆に内部は、その時ゆっくりと拝観した。

仝渊輯崢慌案睇(2007.9)
五十間長屋の内部(14年前)
今度こそはと、じっくりその美麗な海鼠壁で装飾された五十間長屋を、思いっきりの青空の下、十分に堪能しつくすことができた。

ゞ眤城には青空が似合う
左楼が橋爪門続楼 右楼が菱楼
金沢城には青空が殊の外、よく似合う、そう思いなした一日であった。

そして、次はいよいよ私だけ行ったことのなかった兼六園である。

\仞醋_LI
石川門を出て、この橋を渡っていよいよ兼六園へ
14年前に案内していただいたお偉い先輩に、「ここは見飽きているからいいよな」とあっさりスキップされていた(わたしは観たことはなかったのだが・・・細君は若い頃にしぶといことに拝観していた・・・)因縁の兼六園である。

だから「兼六園」は“金沢・その2”でじっくりとご紹介することにする。

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