彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

テレビドラマ

コキコキドライブ旅 「君が行く新たな道を照らすよう千億の星に頼んでおいた」万葉の里・味真野苑の恋バナもエッ!と驚く

昨日、今朝と朝ドラ「舞いあがれ」を観ていて、「エッ! エッ!」と驚くことといったらなかった。

1月放送の第73回、幼なじみの貴司君が主人公・舞の新たな人生をはげますため五島列島の小島から贈った絵ハガキに添えられていたのが、

「君が行く 新たな道を 照らすよう 千億の星に 頼んでおいた」

という短歌であった。

心に深く沁み入る歌で、さすが歌人の桑原亮子さんが紡ぐ物語はひと味もふた味もちがうと感心していた。

ところが、ここにきて舞と貴司君の臆病すぎる恋心がようやく互いの心の“底ひ”から溢れだしてくる、その背中を押す重要な役割を果たしたのが、この短歌であった。

そして、これがいわゆる本歌取りであったと昨朝、明かされたとき、冒頭の「エッ!エッ!」をわたしは連発したのだ。

平城京・朱雀門
平城京の朱雀門

その本歌こそ、狭野弟上娘子(サノオトガミヲトメ)が流刑の憂き目にあった夫、中臣朝臣宅守(ナカトミノアソンヤカモリ)を想い、詠んだ相聞歌23首のうちの一首、

「君がゆく 道の長手を 繰り畳(たた)ね 焼き滅ぼさむ 天(あめ)の火もがも」

(あなたのゆく長い道のりを手繰り重ねて焼き滅ぼしてくれるような天の火がないものか)

であった。

狭野弟上娘子 君がゆく
狭野弟上娘子の「君がゆく・・・」の歌碑

わたしが「エッ!」と驚いたのは、この2週間ほど、ブログ・「コキコキドライブの旅」で立ち寄った「万葉の里・味真野苑」をアップしようと、万葉集・巻15に収載された「中臣朝臣宅守(ナカトミノアソンヤカモリ)と狭野弟上娘子(サノオトガミヲトメ)が贈答せる歌63首」を詠み、

⓪万葉集・小学館日本古典文学全集 - コピー
万葉集巻15
またその背景にかかわる「続日本紀」の聖武天皇の時代を読み込んでいた最中であったからである。

万葉の里・味真野苑 万葉館と狭野弟上娘子歌碑
味真野苑・万葉館前に建つ狭野弟上娘子の歌碑(味真野に宿れる君が・・・)

味真野は二人の相聞歌のまさに舞台であり、「万葉の里・味真野苑」はその哀しい恋物語をテーマとしてつくられた庭園であった。

万葉の里・味真野苑
万葉の里・味真野苑

そして、狭野弟上娘子が詠った23首におよぶ相聞歌のなかで、もっとも魅力的な歌が「君が行く・・・」の短歌であった。

万葉の里・味真野 紅葉する苑内
紅葉の味真野苑
愛する夫を流刑地へ行かせぬように味真野までの道を折りたたみ天の猛火で焼き燼して欲しい、まさに女の情念が迸(ほとばし)り出る強烈なインパクトを与える凄まじい恋慕の歌であった。
大極殿内 高御座
平城京大極殿内の高御座

その歌を口ずさんでいた最中の、朝ドラへの登場である。

しかも舞と貴司の恋物語のキー・コンテンツであったとは・・・。

驚いたのは当然である。

貴司君の短歌の本歌が弟上娘子のこの狂おしいほどの情念の歌だとは思いもつかなかったし、素人にわかるはずもなかった。

あの俵万智さんも一本とられたといった風のツイートをしていたのだから、当然である。

それにしても、味真野の「比翼の丘」に建つ弟上娘子の歌碑が、

「君がゆく 道の長手を 繰り畳(たた)ね 焼き滅ぼさむ 天の火もがも」

であったのは、この歌が一番、心に訴えてくる秀歌であったからであろう。

宅守歌碑から狭野弟上娘子の歌碑を見る
比翼の丘に建つ狭野弟上娘子の歌碑 写真中央

それに比し、もう一方の比翼の丘に建つ宅守の歌はといえば、

「塵泥(ちりひじ)の 数にもあらぬ 我故に 思いわぶらむ 妹(いも)が かなしさ」

(塵泥の数にも入らないわたしゆえに落胆しているであろう、あなたのいとしさよ)

という、どこか卑屈でどう詠んでも胸を打たれるといった悲痛の想いが伝わってこない。

比翼の丘に建つ中臣宅守の歌
中臣宅守の歌碑(塵泥(ちりひじ)の・・・)
宅守の相聞歌は40首も収録されているが、どれも形式的といおうか型に嵌まったもので、正直、宅守の血の通った情感が感じ取れないものばかりである。

逆に、

「さすだけの 大宮人は 今もかも 人なぶりのみ 好みたるらむ」

(宮廷の人たちは今でもなお人を辱めることばかり好んでいることだろうか)

とか、

なりひら竹の林に宅守の短歌
なりひら竹の林に宅守の短歌の駒札

「世の中の常の理(ことわり) かくさまに なり来にけらし すゑし種から」

(世間の常の掟でこんな風になってきたのだろう自ら蒔いた種がもとで)

といった言い訳がましい歌や世間体を気にするばかりで、妻の胸をつぶすような悲嘆を慮(おもんばか)る気持ちなど、とんと伝わってこない。

さらにこの二つの歌からは、流罪となった原因がどうも人前では憚られるような行為であったことが窺われるのである。

この二人の相聞歌は古来、万葉の恋バナとして万人の心をうってきたとされるが、何かこの配流事件の裏には恋バナなどとは対極にあるどす黒い背景があるような気がしてならないのである。

そこで背景について調べていたのがこの二週間のことであった、というわけである。

そんなひねくれた老人とは別世界に住む貴司君(桑原亮子女史)の短歌は抑えてきた舞への想いがしずかに流れ出してくるようで美しい歌だと思った。

「君が行く 新たな道を 照らすよう 千億の星に 頼んでおいた」

そして、今朝詠まれた、

「目を凝らす、見えない星を見るように一生かけて君を知りたい」

さすが貴司君!!

人知れず潮が満ちてくるようなそんな情愛が沁みとおってくる素敵な歌である。

こんな言葉をかけられたら、女性はもう何も言わずにただそっと抱かれるだけ・・・

・・・・・・

上段の池に植わる連理の松
味真野苑・上段の池に連理の松が植わる

味真野の苑内には夫婦の愛、恋人たちの愛をあらわす「比翼の鳥・連理の枝」にちなみ、上段の池に「連理の松」が、またそこから流れ出る小川をはさみ宅守と弟上娘子の歌碑が建つ「比翼の丘」が配されている。

宅守と狭野弟上娘子の歌碑の建つ比翼の丘
比翼の丘に宅守と狭野弟上娘子の歌碑が建つ

花筐(はながたみ)像 継体天皇と照日の前像
ハートで飾られた継体天皇と照日前の銅像

カップルでお近くへ観光に行かれた際には、ぜひ、万葉の里へ立ち寄り、能・「花筐(はながたみ)」の継体天皇と照日前の銅像を拝し、そして比翼の丘に立ち、二人の愛を確かなものにされることを願ってやまない。

カムカムエヴリバディ 「善女のパン」と「古パン」と「Witches' Loaves」

上白石萌音さん演じる安子と松村北斗さん演じる稔さんの切ない物語りで盛り上がったNHK連続テレビ小説の「カムカムエヴリバディ」であるが、今日、NHK・BSプレミアムで毎週土曜日の午前中に1週間分を一挙に再放送するカムカムエヴリバディを観た。


その42話(12月28日放映分)だが、弁護士の卵である片桐(風間俊介)と深津絵里さん演じる主人公のるいが、クリーニング店のカウンター越しに交わす会話のなかで、オー・ヘンリーの「善女(ぜんにょ)のパン」という噺が出てきた。


わたしのなかでオー・ヘンリーといえば、「最後の一葉」という短編である。

確か中学校の国語の教科書かなんかで初めて読んだのだと思うが、結末の数行に至って稲妻に打たれたような強烈な感情に襲われたことを思い出した。

そう!そう云えば、その後、オー・ヘンリーの短編集を買い求めたこと、薄っぺらな文庫本だったのでひと晩で読破して、最後に必ずどんでん返しが用意された巧妙なストーリーに魅了された遠い記憶がよみがえってきた。

しかし、「善女のパン」という噺の筋には覚えがなかったので、久しぶりに文庫本を収めている書棚をあさり、確認しようと試みた。

きれいに並んだ本の中から最初に探し当てたのが、岩波文庫の「オー・ヘンリー傑作選」(大津栄一郎訳・1979年第1刷発行)であった。

早速、目次に目を通したものの、「善女のパン」という名が見当たらなかった。やはり収載されていなかったのだ・・・と思った矢先、「古パン」なる題目が目に留まった。

古パン
岩波文庫 オー・ヘンリー傑作選 古パン
ページをめくり読み返すと、まさに深津絵里さんがモノローグした40歳で独身のミス・マーサの噺であった。テレビ小説だから脚本家の藤本有紀さんがわざわざタイトルを変えたのかもしれないと思った。

でも、この岩波文庫は息子の中学入学祝いに贈られた「1991年 NEW101」と帯封にあった文庫本101冊セットのなかの1冊であり、わたしが「最後の一葉」に感銘を受けて小遣いで買った文庫本ではなかった。

そこで今度は廊下の隅に追いやられている古びた本がならぶ本棚の方を上から下まで眼を皿のようにして探してみた。すると、「O・ヘンリー短編集()(大久保康雄訳・昭和44年第1刷発行)という新潮社発行の文庫本を見つけ出した。

善女のパン
新潮社 O・ヘンリー短編集 善女のパン
目次には、ぴったり「善女のパン」とあった。この噺、読んでいたのだ。

ただ、主人公のるいが一番のお気に入りといったのとは違い、高校二年生頃のわたしには多分、人生にたびたび訪れるアイロニーと言おうか人生の間合いのようなものが理解できず、印象のきわめて薄い作品だったのだと思う。

その結末で「例の彼女の画家」ならぬ「建築の製図家」がミス・マーサに放った「おまえみたいなやつを、おせっかいのバカ女というんだ」という辛辣な言葉に、「最後の一葉」から醸し出される人生の薫香のようなものは感じ取れずに、ただよくある浅はかな女の噺で、無理繰り脳天逆落としのような顛末に持ち込んだのだと、切って捨てたのに違いない。何しろまるで記憶に残っていないのだから。

ただ、いま古希をむかえてわが身を振り返ってみると、こうした独りよがりや夢想癖で痛い目にあった経験がひとつやふたつではなかったような・・・と思えてくる。

そして「善女のパン」なるタイトルが、原題の「Witches' Loaves」(魔女のパン)や「古パン」よりも言い得て妙だと思えてくるのだから、人生とはやはり生き続けてみなければわからぬことが当たり前だが多いものだと、しみじみ思った2022年の正月ではある。

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