彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

ドライブの旅

コキコキドライブ旅 7日目 その二 一乗谷朝倉氏遺跡

久しく途絶えていた「コキコキドライブ旅」だが、わたしの人生行路の記録を残したいとの虚仮の一念でふたたび書きつないでゆくことにする。前回は「永平寺」で終わっている。
さて、その永平寺から南西に8km、車で20分弱のところに戦国大名、朝倉氏の一乗谷遺跡は位置する。

永平寺山門からの水墨画
永平寺山門から中雀門と僧堂をみる

朝倉氏遺跡は九頭竜川水系のひとつである足羽(あすわ)川に流れ込む支流一乗谷川沿いに切れ込む谷内にある。

一乗谷川
一乗谷川
一乗城山(いちじょうしろやま・標高436m) の頂に一乗谷城を配し、その麓、東西500m、南北1.7kmの範囲にわたって南北の城戸で防御された城郭都市の発掘遺構である。
ここに中世の城郭都市があった
この谷間に城郭都市があった・・・

その存在は江戸時代から知られていたというが、昭和40年代の大規模水田改良事業のスタートにより、その遺跡規模が想像以上に広範囲にわたった。

下城戸
一乗谷の南端にある下城戸
しかも整然と残されていることがわかり、地元自治体、住民の強い思いから遺跡の一括保護がなされた。
一乗谷街並み遺構群
街並みの遺構群

その遺構がほぼ完全なままで発掘されていることから東洋のポンペイとも呼ばれている。

各戸に井戸が一個ずつ整備されていた
各戸に井戸を設けた街並みの遺構

先に訪ねた永平寺の開祖道元による開山が1244年であるので、一乗谷の城下町の形成はそれから約二百年後のことになる。

一乗城山
一乗城山

そして約百年間にわたり朝倉氏のもと繁栄を極めたが、織田信長により第11代当主の朝倉義景は討たれ城郭都市も灰燼に帰し、いつしか歴史のなかにうもれ、田畑のしたに名実ともに埋没することとなった。

復元街並み
復元された一乗谷の街並み

わたしどもが訪れたのは2021年の11月であったが、観光客もまばらで復元ざれた街並みや館跡をゆっくりと歩くことができた。

復元武家屋敷
武家屋敷の内部

戦国時代の城下町というものが、時代劇でよく目にする武家と農民・町民の居住地区がはっきり分かれてはいず、混在していたことに少々驚いたが、まだ武士が専業でない時代、城下町という形態はおよそこんなものであったのだろうと納得した。

商人の家
商人の家 中に井戸がある

いざ戦となったときには農民が刀や槍を引っ提げて戦場へと赴くことが当たり前の時代であったのだから。

朝倉氏の館内から門を見る
朝倉氏当主館内から唐門をみる

武士を初めて専業とした信長の軍事力によって、この中世の小京都とも称された文化都市が壊滅させられたのも歴史の必然と云えるのかもしれない。

街並み側から朝倉館遺跡と一乗城山
街並み側から朝倉氏当主の館をみる

一方で少々びっくりしたのが、各家々には必ず井戸が設けられていたことである。しかも各戸を網の目のようにつなぐ水道溝も認められ、16世紀の城郭都市にはすでに都市インフラがしっかりと整備されていたことを目にして、驚いた。

かつて信州松代江戸時代の歴史的道すじ散策したときに、「カワ」や「泉水路」と呼ばれる水路が家々をめぐり、街中に水道網が張り巡らされていたことに驚いたが、その時代をさかのぼること2百年の15、6世紀の越前において、すでにそうした都市インフラが整備されていたとは、日本人の技術力や頭脳、さらにはエコと殊更に唱えるまでもなく、日常的にそうした思想が身についていたことにはもっと誇りと自信をもってよいのだと思った。

松代の歴史的道すじ
信州松代の歴史的道すじ

私たちが伺ったときにはまだ存在しなかった「新・一乗谷朝倉氏遺跡博物館」が2022年10月にオープンしている。

朝倉当主の館跡
朝倉氏当主屋敷跡
JR一乗谷駅から徒歩3分の足羽川沿いに建っている。そこから一乗谷朝倉氏遺跡へは車で4分ほどとのこと。
当主館跡
朝倉氏当主館跡

170万点に及ぶ出土品のなかから選ばれた品々が館内展示されているそうだ。また朝倉当主の館が一部、原寸大で再現されているそうで、義景の日常を体験してみるのも一興と思われる。

コキコキドライブ旅 7日目 その一 永平寺

福井県を訪ねて、曹洞宗の大本山・永平寺を参拝しないわけにはいかぬということで、朝一番で市内中心部から東へ16kmほど山間部へ入ったところにある永平寺を目指した。

門前町の土産屋・上街堂に車を置き、九時過ぎに龍門と呼ばれる正門についた。

々藩佞垢訥の参道
永平寺の朝の参道
11月半ばの平日の朝。人影もまばらな参道には“もみじ葉”が紅や黄の枝葉を重ねていた。

修行道場での思いがけないもてなしに、素直に道元禅師に感謝した。

参道の少し先にある参拝者入口の通用門をくぐりコンクリート造りの吉祥閣で拝観受付をし、雲水の方から伽藍配置など説明をいただいた。

 ̄癖浸参拝者入口
参拝者通用門
140名を数える雲水が現在修行中てあり、堂内で雲水の写真撮影は控えてもらいたいこと、修行中の雲水が起居する僧堂内には立ち入らぬことなど拝観の際の注意があった。

それから順路案内通りに伽藍内を拝観して回ることになる。

わたしに永平寺のイメージを一つ挙げろと言われれば、厳寒の季節、長大な階段を鉦を鳴らしながら疾駆する雲水の姿や無駄のない動きで素早く雑巾がけする若き修行僧のひたむきな面差しである。

座禅をくみ瞑想する“静”の世界より、堂内を駆け抜けてゆく颯爽とした“動”の映像世界こそが、わたしの「That's Eiheiji」である。

その“動”の象徴である大階段を、古希を迎えた老人がこれから杖を衝きながら黙然と上り下りするのである。

山の傾斜面を利用した七堂伽藍の最上部には他宗でいう講堂や本堂にあたる法堂(はっとう)がある。

)‘欧硫廊
法堂の廻廊
そこまで己の足で長い階段を昇ってゆき、そして降りてこなければ永平寺を拝観したことにはならない。左脚の不自由なわたしにとっては苦行の修行なのである。

そこで息を整え、杖を片手に握り直し、覚悟を決め、そして仰ぎ見た。

 ̄癖浸の長い上り階段
永平寺の階段
視線の先には・・・非情にも急勾配の昇り階段がつづいていた。

覚悟の先っぽからため息が洩れたが、踏み出してみると、階段の踏み面には奥行きがあり、蹴上げの高さも適度であったため、足や膝への負担は思ったほどでない。

‘Г潴未広い永平寺の階段
踏み面の奥行がある
とはいっても、時々小休止をとりながらの老体には結構な修行である。

陸上部で校庭を駆け抜けていた10代の頃、この程度の階段、どこまでつづこうが、一段跳びにも二段跳びにも飛び跳ねて行けたのになどと、誰への負け惜しみかわからぬが、雑念が次々と湧き出てきた。

そんな邪念とは無関係に、機械的に何とか一段一段、数をこなしていく。

階段に小さな踊場があった。僧堂への這入り口である。

〜瞭押[入禁止
僧堂への入口
140名もの雲水が起居しているとは思えぬほどの狭い廊下でつながっていた。

そこから少し昇った先に仏堂があった。

(殿 斜めより
仏殿
その前面の廻廊から右下に僧堂の全容をみることができた。

(殿より僧堂
仏殿前から僧堂をみる
このひと棟で雲水が起居し、厳しい修行に耐えながら生活しているのかと思うと、永平寺が今なお精神鍛錬の峻烈な道場であることが、実感できた。

さらに、ここから山門と仏堂の間に位置する美しい中雀門を見下ろすことができた。

(殿より中雀門を見る
仏殿から中雀門
しばしの休憩ののち、いよいよ最頂部の法堂へと向かった。

)‘
永平寺の法堂
法堂の外廻廊には長椅子が置かれていた。

そこで、永平寺の伽藍の佇まいを俯瞰した。

)‘欧らの眺望
法堂からの景色
眼前には伽藍の甍が重なり、遠く鬱蒼とした緑のなか一抹の黄葉を覗かせる山が見えた。

朝靄のように修錬場に流れ落ちる山気がわたしの胸中に満ち満ち、世俗の世で澱み、萎えた心のなかを一陣の清らな風が吹きぬけた。

永平寺という禅寺の佇まいはまるで水墨画のなかに鎮まっているようであった。その精神世界のなかに身を置いた己を見つめた。

)‘欧ら大庫院と仏殿の大屋根を見る - コピー
水墨画の世界
ここまで昇ってきた階段の数々・・・それはこれまでの人生の日々のようでもあった。

これから下ってゆくであろう長い階段・・・

 ̄癖浸の長い階段を下る
下り階段
それは残り少なくなったわたしの人生の下り階段のようにも思えた。

そして、そのどこかの踏み面にいまの自分の歪(いびつ)で小さな足跡がつけられるのに違いない。

その足跡はこれから訪れる無数の人々により踏みつけられ、削り取られて、いつの日にかそのわずかな痕跡でさえも、未来の雲水たちによって、きれいさっぱり拭き取られてしまう・・・そう思いなしたのである・・・

〇殻腓畔殿の間に位置する中雀門
山門と仏殿の間に中雀門
さて、永平寺の長い階段を下りきったその先にはどうした景色が待ちうけているのだろうか。

いや、人生という映像フィルムは唐突に断ち切れ、レンズの絞り羽根が閉まるように下り階段の途中で尻切れトンボの「終」を迎えるのかもしれない。

その時、世界はどんな色相を自分に見せてくれるのだろうか。それとも無意識界で色合いもへちまもないはず、そんな由無し事を考えながら下りはじめた。

途中で中雀門から表からは拝観できない山門を見下ろすことができた。

〇殻腓鮹羶門から_LI
山門を中雀門から見下ろす
この山門は一般人の通行は不可で、雲水のみが通ることを許されているのだそうだ。

しかもその雲水も、上山(修行開始)を認められて入門する際と厳しい修行に堪え行をおさめ乞暇(こうか=修行修了)・下山する際のたったニ度に限られるのだという。

大きな山門には外界と隔てる扉が存在しない。

その柱と柱の先の空間を見ると、この門は「入るにも易く出ずるにも易い」と感じるが、柱には「聯(れん)」と呼ばれる大きな長板が掛けられている。そこには「家庭厳峻不容陸老従真門入」、「鎖鑰放閑遮莫善財進一歩来」と難解な漢字がならんでいる。

永平寺を知悉する人の説明によれば、

「永平寺の家風は非常に厳しいものである。地位や富がある者でも、真に仏法を求める者でなければこの門から入ることは許されない」

「この門には扉も錠もなく開け放たれているのだから、真に仏法を求める者はいつでもこの門から入ることができる」

と告知しているのだそうである。

読み下すのも解文するのも、息も脳みそも詰まりそうな白文ではある。

その「聯」の戒律を今尚守る永平寺は鎌倉時代の厳峻な精神世界を現代に伝える生きた史跡であるといってよい。


そしてわたしは雲水によって磨き抜かれた階段を最後まで降り切り、入館した通用門から伽藍の外へと出た。

法堂の廻廊で覚えた諸々の雑念は、疲れきった足腰と思考力の失せた脳漿で物の見事に雲散霧消し、SNOBに戻ったわたしは思い切り胸をそらし深呼吸をした。

俗世へ舞い戻る龍門へと向かった。

ゆるやかな下り坂である。永平寺の下り階段はまだ続いていた。

〇殻腓らの水墨画
山門から中雀門と僧堂をみる
そして水墨画の小世界の廻廊を巡ってきたわたしの頭上には、色鮮やかな紅葉の世界が広がっていた。

々藩佞留癖浸参道
龍門への参道は錦の饗宴
永平寺の下り階段の先にこんな世界が待っていたとは・・・、わたしの足取りはすこし軽くなった。

はてさて、龍門の外の俗界は今度はどんな色合いを見せてくれるのか。

まだまだ古希のドライブ旅はつづいてゆくのだったと、思いなして正門の外へ初めの一歩を踏み出した。

コキコキドライブ旅 6日目 その三 継体天皇の母・振媛の高向宮跡と足羽山公園の継体天皇像

東尋坊からわずか3kmのところ、九頭竜川河口に三国湊はある。

継体天皇が男大迹王(おおどおう)と呼ばれていた頃、福井平野は九頭竜川、日野川、足羽(アシワ)川が注ぎこむ大きな湖沼であった。度々洪水による水害に見舞われていたその一帯を、男大迹王が堰を切り壊すことで湖水を日本海へ流出させ、その泥地を肥沃な田園に変えたり、澪筋を浚渫し湊を築いたと伝えられている。

ゞ綟竜川
九頭竜川の河口
その湊こそ三国湊である。古来、水運による物流拠点として発展し、江戸時代には北前船交易の中継地という地の利を活かし物流の一大集積地として町は大きく発展した。その礎を築いた人物こそ継体天皇というわけである。

現在の三国は、全国にある中世に栄えた港町の景観と違わず、かつての繁栄を偲ぶ縁(よすが)は、僅かに残る豪商の旧宅を資料館として保存する人影も少ない“古い街並み”と呼ぶひと筋の往来のみである。

〇姐駝座
三国湊座
そこにならぶ「三国湊座」という字もかすれた看板を掲げる食堂で、われわれはご当地グルメと紹介されていた“三国バーガー”を注文し、ランチとした。

〇姐颯弌璽ー640円
三国ハンバーガー
その後、九頭竜川河口にたたずみ、往時、殷賑を極めたであろう湊の情景をしばし想った。

ゞ綟竜川河口と三国港
かつて殷賑を極めた三国湊はこの先の河口あたり
三国湊から内陸へ22km入ったところに、継体天皇ゆかりの「高向(たかむこ)宮の跡地」がある。

々盡神社社殿裏を走る県道160号板倉高江線
鄙びた県道160号線沿に高向神社
「日本書紀」によれば、五世紀の中頃近江国高島郡三尾に住んでいた彦主人王(ヒコウシオウ)は、越の坂名井(さかなゐ)から振媛(ふりひめ)を妻として迎え、その間に男大迹王が誕生する。がまもなく彦主人王が亡くなったので振媛は幼い男大迹王を連れて一族が支配する高向の郷に帰り養育したとある。

‥脹爐広がる高向の郷
田園地帯が広がる高向の郷
その跡地は現在一帯が田園地帯であり、まばらな人家のなかに紛れ込むようにして建つ式内社・高向神社(坂井市丸岡町高田)はまことに小さな神社であったが、古来、四字久保庄あたりで『古堂様』と呼ばれ、振媛一族の氏神を祀る高向郷の総社であった。現在のご祭神は振媛・継体天皇・応神天皇の三柱である。

々盡神社社殿と境内
小さな高向神社
狭い境内の一画には高向宮の跡地を標す石碑がぽつんと建てられ、この地が現在の天皇家につながる古い、古い縁の地であることを控えめに伝えていた。

々盡宮跡石碑
高向の宮跡を伝える石碑
そして、いよいよあの有名な継体天皇像を拝むために福井市内の中心近くにそびえる足羽山へと向かった。

継体天皇石像
継体天皇像
その足羽山山麓に祀られる足羽神社は男大迹王が越前平野の大干拓事業を興す際に、宮中神の「大宮地の霊(オオミヤドコロノミタマ) 」(=宮中の座摩5座の神(座摩巫祭神五座(イカスリノミカンナギゴサイジンゴザ)、足羽神はその1座)を勧請して創建したと伝わる。

足羽神社拝殿 修正
足羽神社拝殿
当社のご神紋は日と月と星をあしらうきわめて珍しい「三光の紋」であり、わざわざ宮中に祀る神々を継体天皇がこの地に勧請した事実に加え、天地を統べる天皇である証のような意匠はわたしに何かを暗示しているようにも思えた。

’凖惰癲神紋”三光の紋”
三光の神紋を飾る拝殿内
現在は、宮中で祀られる大宮地の霊(オオミヤドコロノミタマ)に加え、主祭神として継体天皇が祀られている。

足羽神社・社殿
足羽神社
そこから標高116mの福井市内を見下ろす足羽山頂上へと登ってゆく。頂上には福井市自然史博物館の建つ足羽山公園が整備されている。

足羽山公園・三段広場
足羽山公園
その三段広場の頂上に、足羽山でのみ採掘される青緑色の笏谷 (しゃくだに) 石で造られた継体天皇像が建っている。

〃兮療傾珍
笏谷石の継体天皇石像
三頭身の特徴ある継体天皇は威風堂々、あたり地をはらう雄姿を見せていた。

〃兮療傾弔里顔
継体天皇
そして、その大きく見開かれた眼は遠くに視線を投げ今もそしてこれからも福井平野の発展を願うように、その両肩に越の国の悠久の山風をおだやかにたなびかせていた。


陽も西に傾いてきた頃、最近、地方に行くと愛用している大浴場完備のドーミーインホテルチェーン、ドーミーイン福井(天然温泉「羽二重の湯」)へと向かった。

‐討鯖寿司完売の越前田村屋_LI
越前田村屋
夕食はJR福井駅直結の「プリズム福井」に入っている「越前田村屋」で名物・焼き鯖寿司を購入し、ホテルで摂る予定であった。

)未料饑廚房禿朕声
北の庄址に建つ柴田神社
駅までの途中、戦国武将柴田勝家の居城であった北の庄址に建つ柴田神社にお参りした。雨も降り暗くもなっていたので、遺構をくわしくみることは叶わず、残念であった。
)未両云覦箙
境内の北の庄遺構がきれいに整備されている
駅中のショッピングモール「プリズム福井」でお目当ての田村屋に辿り着いたが、人気店とあって焼き鯖寿司は既に完売、他店で購入し、夕食とした。それでも、結構、おいしかったので、夫婦ともに満足の態で越の国の一日目が過ぎた。

コキコキドライブ旅 6日目 その二 継体天皇と越の国

東尋坊を後にしていよいよ謎多き継体天皇(26)の伝承が多く残る福井県こと越前国へと分け入ってゆくことになる。

その越前国について簡単な説明をしておく。

全国を68か国に区分けした令制国(りょうせいこく)制度 (大化二年(646)の「改新の詔」にはじまり大宝律令、養老律令により整備された地方統治機構)において越前国は、国力基準(大国・上国・中国・下国)では「大国」13か国の一つで、日本海側では唯一、大国に分類されている。

また都からの距離基準(畿内・近国・中国・遠国)では、「中国」16か国の一つとされている。

このことから令制国制度が整備されていった7世紀から8世紀初頭にかけて、越前国は日本海諸国のなかで一頭地を抜いた国力を有する強国として認識されていたことがわかる。

その繁栄の礎を築いたのがこの地に多くの伝承を残す男大迹王(おおどおう)、のちの継体天皇であるという。

々谷(しゃくだに)石で造られた継体天皇の石像
足羽山公園三段広場の頂上に建つ継体天皇石像
その代表的なものを記すが、足羽神社に伝わる『越前国神社明細帳』などに残されている。

  日野・足羽・九頭竜の三河川のたびたびの氾濫で泥濘地から巨大湖(琵琶湖の約1/5)へ変貌したが、三国辺りで堰堤に水門を開き、湖水を日本海へ落とすことで肥沃な福井平野を創出した

  九頭竜川周辺の砂鉄から製鉄業を興し、刀剣など武具は勿論だが鉄製農具により灌漑用水の整備、農地の開墾を飛躍的に進めた

  男大迹王が壊れた冠を片山集落(鯖江市)の塗師に修理させたところ、見事に冠を修復し、加えて黒塗りの漆椀を献上。その出来栄えに感服し漆器づくりを奨励した

  男大迹王の時代に、川上御前(本邦唯一の紙の祖神)が村人に和紙漉き技術を伝え、日本三大和紙の一つとして最高品質の越前和紙技術をいまに残す

など、越前国の産業勃興にかかわる継体天皇伝誦の数の多さには驚く。

しかも畿外の地域でこの種の伝誦を数多残す天皇は私の知る限りこの継体天皇のみである。

‖羽山から福井市街が一望できる
継体天皇像から見渡す福井市内 

そんな継体天皇は応神天皇(15代)の5世の孫とされ、放埓暴虐を極めた武烈天皇(25代)が崩御され皇統が絶えなんとしたことを受け、仁賢天皇(24代)の皇女(手白香皇女(タシラカノヒメミコ))を娶り皇統をかろうじてつなぐこととなった。

書紀・継体紀(即位前紀)はその父母について、

「彦主人王(ヒコウシオウ)は近江国高島郡三尾(滋賀県湖西地方の北部)別邸から使者を遣わし、容貌端麗な振媛(フリヒメ)を三国の坂中井(=さかない・福井県坂井郡)より迎え、妃とした」と記す。

男大迹(オオド)はその父母の間に嫡嗣として近江で生まれた。

だが幼年時に父を失い母とともに郷里である三国の高向へ戻り、武烈帝の後を襲い即位する57歳までこの地方で王として威勢を張ることになる。

 

さて、応神天皇の五世の孫が皇統を嗣いだ経緯を詳らかに理解することは、昨年12月22日に岸田総理大臣に手渡された「皇位継承にかかる有識者会議」(座長 清家篤・元慶應義塾塾長)の最終報告書の内容を沈思潜考するうえで、きわめて示唆に富むものと思料する。

 

皇位継承にかかる有識者会議・最終報告要旨

制度的安定性が極めて重要で皇位継承の議論は機が熟していないとしたが、皇位継承の問題と切り離して皇族数を確保することは喫緊の課題であるとし、その方策として、

一、女性皇族が結婚後も皇室に残る 

二、旧皇族の男系男子を養子に迎える 

という二案を提示。

 

ここでいう旧皇族とは世襲親王家・臣籍降下宮家をいうものと理解するが、これが男系皇統をつなぐキーワードとなる。

 

そこで、皇族の定義についてであるが、大宝令(701)の原文が現存しないため、その後実情に合わせ改修した養老令(757)にまでさかのぼる。

養老令の全30編の第13「継嗣令」の1「皇兄弟子条」に、「親王より五世は、王の名を得るといえども皇親の限りにあらず」とされている。つまり、天皇の御子である親王を1世と数え、5代目は皇族にあらずということである。

 

また「続日本紀」によると大宝元年(701)3月に「初めて新令(大宝令)に基づいて官名と位号の制を改正した」とあり、それにつづく、新たな位階毎の服装を定めたり、中納言の官職が廃止されるなどの具体的記述をみると、大宝令が養老令と同程度に実態を伴ったものであったことがうかがわれる。

 

その「続日本紀」慶雲3年2月庚寅条(文武天皇・706年)、上記の養老律令発布の50年ほど前、大宝律令発布の僅か5年後に、大宝律令の7項目の改正が実施されている。

その「格・全7条発布、その7条」で、「継嗣令によると、天皇から五世の孫に相当する王は、王という名を得ているが、皇親(皇族)の枠にははいらない。現在、五世の王は皇親の籍から切り放し、臣下の扱いにしている。しかし親族をいつくしむ情からは戸籍を断ってしまうことに、心の痛みを覚える。今後は五世の孫も皇親の範囲に入れることとせよ」と、継嗣令の大改正が行われた。すなわち、天皇の皇子親王(1世)から五世の子孫までを皇族とするとこれまでの一代先の子孫まで皇族の範囲を広げたのである。

この改正により武烈天皇で途絶えようとした皇統を応神天皇5世の孫とされる男大迹王が皇統を嗣ぐにあたって正統性と法的根拠が与えられたことになる。

ではなぜ706年という年にこうした大改正が必要だったのか。

その時代、天皇の系譜を眺めるに皇統が絶える心配など微塵もないのにである。どうしても改正せねばならなかった必然性を次のようにわたしは考えている。

この時期、現在記紀と呼ばれる「古事記」(712)・「日本書紀」(720)の編纂の中身がほぼ固まったものと思われる。

そのなかで、天照大御神からの天孫族としての血統を時の天皇である文武天皇につなぐ正統性を示すには、武烈帝で途切れた皇統を継体帝につなぐ理屈をつくる必要に迫られた。そこで、急遽、継嗣令の改正に至ったと・・・。

皇統をつなぎ守ったわれわれの先祖の苦衷の選択を物語るはなしである。

 

そうした悠久の謎と先祖の智慧を胸に秘めて、東尋坊からわずか3kmのところにある九頭竜川河口の三国湊へと向かったのである。

コキコキドライブ旅 6日目 その一 東尋坊

いよいよこの日、継体天皇ゆかりの「越の国」、福井県へと入ってゆく走行予定距離118kmの旅である。

継体天皇石像
福井市足羽山公園に建つ継体天皇像
日本書紀の世界に没入してゆく前に、かつて自殺の名所というと必ずその名があがった東尋坊が道すがらにあるというので、怖いもの見たさというのもありちょっと立ち寄ることにした。

迫力の東尋坊
東尋坊
その東尋坊であるが、当ブログではお約束事となった感のある「私にとっては初めての場所だが、細君はもちろん半世紀前に訪れた馴染み?の地」だそうで、日本海に屹立する、われわれ夫婦が大好きな“柱状節理”の安山岩からなる懸崖だという。

|貍節理がよくわかる東尋坊に立つ謎の人物
柱状節理がくっきり見える東尋坊の絶壁 謎の人が立つ
さてそのアプローチなのだが、駐車場から絶望の断崖絶壁へと向かっていくはずなのに、どうも想像していたのとは様子が違う。

いかにも観光地然とした道幅の狭いお土産屋街を、店員が発する溌剌とした呼び込みの声を背後に聞きながら通り抜けていくのである。

,いにも観光地の土産屋を抜けると東尋坊_LI
これが絶望の果てに行きつく道・・・
季節が夏であればあたかも海水浴場へでも出向いているような遊興気分が身内にみなぎってきているではないか。

絶望と期待のはざまを振り子のように揺れ動く想いを胸に、漁の解禁をむかえ越前ガニがおいしそうにならぶ店頭を俗物的な横目でしっかりと確かめながら進んでゆくと・・・、

 ̄杼哀ニのならぶ店頭
越前ガニがならぶお店
あっ!と、一挙に視界が開けた。

‥攣魂阿途切れた先に東尋坊
土産屋の果ては、一挙に視界が開けた
陰々滅々とした険しい崖はこの下の方になるのだろうか、峻烈な景観が視界のなかには確認できない。

おそろしい情念の風景とは真逆の、のびやかで渺渺(びょうびょう)たる日本海を一望する見晴台がすぐ下にひろがっている。

仝晴らし台が整備された東尋坊_LI
東尋坊の見晴らし台
幅広の石段を下りると庭の飛び石のような化粧石を敷き詰めた広場には柵が廻らされていた。

高所恐怖症のわたしでも平常心でその突端に立つことができた。

‥貎卷傾馗蠍園碑と日本海
国定公園越前海岸・東尋坊
そこから舗装された石段や小径がいわゆる“こわ〜い”絶壁へと続いているのだが・・・

わたしは杖をしっかり衝きながら、慎重に・・・慎重に・・・足をはこんでいく。

途中で足元から目を海原の方に転じると、絶望の懸崖を目指す観光客の方々・・・なんと笑顔でおしゃべりしながら軽やかに歩をすすめているではないか。

〃崖へは安全な小道が整備されている_LI
整備された東尋坊の観光ルート
まるでランランとスキップでもしているような・・・

(慎い播貎卷靴両径を闊歩する人
断崖の横を闊歩する観光客
ところで細君は・・・と見回すと・・・あっ、無謀にも崖の突端とはいわぬが先っぽの方へと、人生の殺所を目指してゴツゴツとした岩場を突き進んでいるではないか。

‥貎卷靴寮茲辰櫃某佑いっぱい_LI
岩場をすすむ勇気ある女が一人・・・
命知らずと云おうか、能天気で浅はかな行動をと・・・舌打ちでもしたい気持にもなったが・・・その岩場の先に若者たちが屯(たむろ)し楽しげに談笑しているのを目にしては何をか云わんやである。

一歩、足を踏み外すと人生のシャッターは一瞬にしておりて漆黒の冥界へと真っ逆さまに落下してゆくのに、暢気なものである。

‥貎卷
東尋坊
そんな不条理な光景を目にして気持ちがざわついてきたのだろう・・・突如、「北陸の暗鬱な雲とくろい海」、「遥か下の方で海が鳴っている断崖」・・・

ヾ笋紡任蘇佞韻詛
東尋坊に打ち付ける日本海の荒波
わたしの想いは松本清張の推理小説の世界へと浮遊していった。

そしてわたしの脳裡にひとつのどす黒い想念がむくむくと浮かんできたのである・・・

「細君にはいくらの生命保険がかかっていたんだったっけ・・・」

そして・・・

「あぁ〜、高齢者になって付保額はガクッと減額されたのだった・・・」と、脳内で算盤をパチパチと弾いて無為の衝動は瞬時におさまった。

‥貎卷靴量燭療渡奪椒奪ス
自殺を思いとどまらせる「救いの電話」ボックスがあった
傑作「ゼロの焦点」の断崖絶壁は能登半島の「ヤセの断崖」が舞台だといわれているそうだが、東尋坊でわたしは小さくなってゆく細君の背中を目で追いながら、「ゼロの焦点」ならぬ「眼(まなこ)の焦点」がなかなか合わず見にくくなったものだと自嘲したものだ。

‘本海の水平線
日本海の水平線が見事
すると一陣の潮風が断崖に吹き渡り、どす黒い企みはきれいさっぱりと吹き飛ばされていった。

鬱陶しいマスクを外してみたことで、二年にわたるマスク生活で澱んでしまった脳内に大海原からの清新な風が吹き込んできたことが幸いしたに違いない。

‐紊ら見ると何の変哲もない柱状節理の海岸
東尋坊
わたしは杖を両手でつかみ思いっきり背伸びをし、深呼吸をしながら大空を仰いだ。

すると、空高くに一台のドローンが游泳しているのが目に入った。

‥貎卷靴防發ぶドローン
日本海を游泳するドローン
その自在、闊達な動きに見とれているうちに私たち夫婦がゆく北陸路には、清張の云う「暗鬱な雲」なんかでなくこの日のような「蒼天」が一番似合っているのだ・・・と思えてきた。

そして蒼穹に揺曳するドローンの映像のなかにはきっとこれまでのわれわれ老夫婦の人生が豆粒のようになって映り込んでいるに違いないと、思わず笑みがこぼれおちた。

コキコキドライブ旅 5日目 金沢その2・兼六園・珠姫の寺天徳院

金沢城の石川門を出て百間掘りを跨ぐアーチ状の石川橋をわたり切るとすぐに日本三名園のひとつ、兼六園の桂坂入口がある。

茶店から百間掘越しに石川門を望む
旧江戸町から百間堀を跨ぐ石川橋と石川門をみる
その受付の手前右手に百間掘りに沿って茶店が立ち並ぶ筋がある。

江戸町の跡に茶店がならぶ_LI
旧江戸町・お土産屋、飲食店がならぶ
そこは金沢の地でありながら、かつて江戸町と呼ばれていたところだそうで、加賀藩第二代藩主・利常の正室・珠姫(徳川秀忠の次女)が江戸から輿入れしてきた際の随従三百人の長屋が建っていたことに由来するという。

その江戸町にならぶ一軒の蕎麦屋に立ち寄り腹ごしらえをして受付へ向かうと、先ほどはまばらであった観光客が列をなして並んでいたのには少々驚いた。

兼六園入場券購入にならぶ観光客_LI
兼六園の券売所にならぶ観光客
コロナ感染が落ち着いてきた秋の好日である。人々は久しぶりに解放感を味わおうと押し掛けてきたのだろうと、納得!納得!

ところが入園してすぐに今度は池の手前の人だかりである。

ゝ軫灯籠の写真撮影にならぶ若者たち_LI
園内進入を塞ぐかのように列をなす人だかり
さすがにこの混雑が続くのであれば、園内を歩きまわるのは御免こうむりたいものと周囲の様子を仔細に観察したところ、どうも若いカップルや友達同士で石橋のうえで記念写真を撮ろうとそこだけにたむろしていることがわかった。

徽軫灯籠で記念写真を撮ろうと人だかり_LI (2)
対岸からもこの人だかり
そのフォトスポットに目をやると、兼六園と云うと映し出されるあの有名な二股の石灯籠があった。

その名を「徽軫(コトジ)灯籠」というそうで、お琴の弦を支える二股の琴柱(ことじ)に形状が似ていることから名付けられたのだそうだ。琴柱などという言葉すら聞いたこともなかったわたしである。

徽軫(コトジ)灯籠と霞ケ池
徽軫(ことじ)灯籠と霞が池
なるほど雅な名前に趣のある灯籠に違いはないが、何もここまで群がり寄って写真を撮りまくるほどのことかと、若人たちが思い思いにポーズをとるのを半ば呆れながら、半ば眩しい思いで眺めたものだ。

「若いという字は、苦しい字に似てるわ・・・♪」などと、と〜い昔に口ずさんでいた老人は“時”というものの無慈悲さと冷徹さを思い知らされたひと時でもあった。翻ってわたしの青春時代も時のご老人からは「“わかもの”は“ばかもの”という言葉に似てるわ」と思われていたのに違いないと首をすくめたところである。

兼六園の風物雪吊り
雪吊りを施された松が随所に
さて、11月ということで園内の松の枝々には円錐形に縄張りされた雪吊りが設えられていた。

兼六園といえば「雪吊り」というほどに、代表的な景観である。

この情景に積雪でも加われば、その風情は弥増しに増すのだろうが贅沢はいうまい。

今様のインスタ映えの景観がここにも、あそこにもと展がっていた。

霞ケ池
霞が池と対岸に雪吊りの唐崎の松
だから都度、立ち止まっては写真をパチリ。

細君は呆れ果てながらも先に歩いて景色をじっくり堪能しては、要所々々で立ち止まりわたしが追いつくのを辛抱強く待ってくれている。

それをいいことにわたしは性懲りもなくパシャリとデジカメを鳴らしては杖を握り直しコチョコチョと急ぎ足、といったことを繰り返す。いつも通りのわれわれの旅のお約束事である・・・とわたしは理解している・・・。

兼六園の土はさぞかしわたしの摺り足で、この一日で2cmは削り込まれたにちがいない。

辰巳用水
清流の流れる辰巳用水
それでもなお、またパチリ。

∪稍澆蠅汎本武尊像
日本武尊像と雪吊り
そして、また、パチリ。

唐崎松と雪吊り
銘木・唐崎の松
あぁ! 忙しい・・・

‥盧蠅両(2016.5.17)
近江八景・唐崎神社の本物の唐崎の松(2016.5.17)
そして、なんと兼六園にも“親知らず(子知らず)”があった。

⊃特里蕕
兼六園の親知らずをゆく細君
ここはわが夫婦にとっては“夫(つま)知らず”とでも命名すべき石畳ではあった。

さらに兼六園には虎もいた。

 虎石  兼六園を守護する魔除け石の一つ
虎石
そして雁も雁行していた。

雁行橋
雁行橋
想像以上に広い園内、斯様なまでにいたるところに巧みな意匠や遊び心があったのには驚いた。

こうして1時間半におよぶ散策を終え、タクシーで北國新聞赤羽ホールへと戻り、次に珠姫を偲ぶ天徳院へとマイカーを駆った。


天徳院は二代藩主利常が建立した正室・珠姫の菩提寺であるが、のちの寛文年間にその遺骨は利家以下前田一族が葬られている野田山墓地へと改葬されている。

その珠姫は3歳で江戸から嫁いできて三男五女をなし、二四歳という若さで亡くなった。江戸創世の混乱の時代、二代将軍の次女の立場にありながら前田家のために多くの子供を産み、家中の抗争のなか徳川家との融和をはかり、加賀百万石の繁栄の礎を築いたお姫様として加賀の人々にいま尚、愛されている人物なのだという。

⊆酩韻鮗鼎峪・天徳院 山門修復中
修復中の天徳院山門
その天徳院で威容を誇る元禄6年建築の山門は現在修復中とあって、覆いがかけられ残念ながら目にすることはできなかった。

廻廊から山門を見る 天徳院
本堂廻廊から山門を見る
そこで本来は山門をくぐりまっすぐに向かう本堂へ長い廻廊をめぐり入ることになった。

天徳院の長い廻廊
薄暗い廻廊を通り本堂へ
本堂内は撮影禁止ということで写真がないが、奥にからくり人形・「珠姫・天徳院物語」を上演する舞台が常設されていた。

天徳院の庭園
天徳院の日本庭園
毎日午前10時から2時間ごとに午後4時まで上演されるとのことだったが、当日は2時半過ぎに到着したため、午後4時の上演まで待つこともできず、お抹茶をいただき、庭園を散策させていただくことにとどまった。

∋殻腓鯒愀覆箸垢譴个気眸しかろうに・・・
山門が背景となればこの紅葉もより美しかろうに・・・
こののち野田山の前田家墓地を訪ねるのだと受付の男性に告げたところ、「そこまでお参りいただけますか」と、野田山墓地の苑内図を手渡された。

前田家墓地マップ 写真版 - コピー_LI
朱色:天徳院と利長(微妙院) 橙:利家とまつ
実はこの地図がないと、とても初めての人が前田家の墓所までたどり着くことは至難であることをのちに知った。

墓地に到着したのが午後四時頃で、園内の一本道を奥へ奥へと行った行き止まりに大きな門柱があった。そこから山上の方までが前田一族の墓所となっている。

¬酖鳥格菽蓮α暗腸畔莉蠅悗寮价
前田家墓所への石段
そこここが苔生した石段を登って行ったがなかなか墓所に辿り着かず、日も暮れ出したため墓所参拝は断念することとし、ホテルへの帰路についた。

当夜は金沢駅の金沢百番街の「香港飲茶の店 菜香楼」でおいしい中華をいただいた。たくさん食べた。おいしかった!!

香港飲茶の店・菜香楼
菜香楼
そして次の日から、いよいよわたしの旅の主目的である、継体天皇の伝誦の多く残る「越の国」の西域、福井県へと入ってゆくこととなる。

コキコキドライブ旅 5日目 金沢その1・加賀百万石前田家の史跡巡り

この日は朝方は雲量の多い空であったが、徐々に青空が顔をのぞかせ、午後には一面に青空が広がるまさに観光にはうってつけの日となった。

ゞ眤城には青空が似合う
青空のもと金沢城
当日のルートは「金沢市観光公式サイト」掲載のモデルコース・加賀百万石前田家の史跡めぐりを素直になぞることにした。

まず、前田利家とお松の方を祀っている尾山神社である。

“山神社・拝殿
尾山神社・拝殿
駐車場は至近の北國新聞赤羽ホールの地下駐車場(39台)を利用した。

)猛⊃景浩岷ホール・地下駐車場
土曜日にもかかわらずガラガラの駐車場
その日は土曜日とあって人出も多かったが、あまり金沢の人にも知られていないのか利用している車も少なく穴場の駐車場を見つけることができ幸いであった。

尾山神社の建つ高台は昔、金沢城郭の金谷出丸があったところだそうで、6代藩主の時代に隠居所として「金谷御殿」に模様替えされたという。

廃藩置県後に藩士一同が藩祖の利家公と松殿の勲功を永く祀るために御殿跡地に尾山神社を創建したのだという。

(谿疉霄垰僂料暗塚家公銅像
境内に建つ母衣武者姿の利家像
もちろんお目になどかかったこともないご人物だが、“利家とまつ“。

\擬次,松殿
境内に建つ賢婦人の”まつ”のレリーフ
誠に徳の高いご夫婦であったのだなと、心より感服した次第である。

尾山神社を訪れて驚いたのは、石段を昇った先に待ち受ける異色の建物である。和漢洋の折衷様式の神門だという。


“山神社・和漢洋3様式混用の神門_LI
尾山神社・神門
明治維新の進取の気性の横溢した建築物であり、神社様式とは一線を画す一見の価値ある神門である。


さて尾山神社境内を通り抜けると、20207月に復元された鼠多門橋と鼠多門を通って金沢城の西郭に入城できる。

“山神社から鼠多門へ
尾山神社から鼠多門橋へ
鼠多門橋は江戸時代当時の橋長16・5間(27・2m)のまま復元されており、往時の加賀百万石の威容をみるようである。

〜預震膓兇帆預震
鼠多門橋と鼠多門
その鼠多門を潜り、石段をのぼると平成27年に整備を終えた玉泉丸庭園を見下ろすことになる。

池泉回遊式の美しい、なかなかの絶景である。

“夕腓瞭眥蹐寮格が強い玉泉院丸庭園
玉泉丸庭園
そこからゆるやかな坂をのぼってゆく途中に、加賀百万石の文化の香りを髣髴とさせる「色紙短冊式石垣」を目にすることができる。

/Щ翆産式石垣
趣きを見せる色紙短冊式石垣
お城の石垣にも斯様な意匠を凝らす前田藩とはなんと教養あふれる藩であったのか、百万石も伊達に大きかっただけではないのだと改めて思い知らされたところである。

そこを過ぎると一挙に視界が広がり、現在発掘調査が進んでいる二の丸広場へと出ていく。

正面に五十間長屋が見える。

‘鵑隆盜場から五十間長屋
二の丸広場から五十間長屋を見る
そして右手の丘の上に修復なった三十間長屋が見えてくる。

ゞ乏擽兇ら三十間長屋を見る
極楽橋と三十間長屋
木の香りが漂ってくるような新調なった極楽橋をわたるとそこに海鼠壁の美しい三十間長屋(重文)が建っている。

〇綾輯崢慌
三十間長屋
当日は日頃はクローズされている内部の見学が許されているというので立ち寄った。

〇綾輯崢慌案睇二階
三十間長屋の二階内部
わたしは階段がきついので1階のみで、細君が二階内部の写真を撮ってくれた。


そしていよいよ橋爪門から表側といおうか、兼六公園へ向かう三の丸広場へと出てゆく。

TVなどの映像でよく目にする有名な金沢城のあの景観、五十間長屋の威容を三の丸広場越しにみることができるのである。

まさに「イヨッ!百万石」、「前田家!!」と歌舞伎の大向こうを張る名場面ではあった。

青空を後ろに控えさせ、白色と銀色に映える“なまこ壁”を前面に纏い、一直線に空を切り裂く五十間長屋。

ゞ眤城三の丸広場と五十間長屋_LI
青空を裂く金沢城・五十間長屋
その両端を切り美麗に立つ菱楼と橋爪門続楼の様子は見事としか言いようがない。

ゞ仰淕臑穫
橋爪門続楼
十四年前に訪れた際は雨中の見学となったので、じっくりその景観を愛でる余裕がなかった。

ゞ眤城の菱楼
五十間長屋を切る菱楼
しかし逆に内部は、その時ゆっくりと拝観した。

仝渊輯崢慌案睇(2007.9)
五十間長屋の内部(14年前)
今度こそはと、じっくりその美麗な海鼠壁で装飾された五十間長屋を、思いっきりの青空の下、十分に堪能しつくすことができた。

ゞ眤城には青空が似合う
左楼が橋爪門続楼 右楼が菱楼
金沢城には青空が殊の外、よく似合う、そう思いなした一日であった。

そして、次はいよいよ私だけ行ったことのなかった兼六園である。

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石川門を出て、この橋を渡っていよいよ兼六園へ
14年前に案内していただいたお偉い先輩に、「ここは見飽きているからいいよな」とあっさりスキップされていた(わたしは観たことはなかったのだが・・・細君は若い頃にしぶといことに拝観していた・・・)因縁の兼六園である。

だから「兼六園」は“金沢・その2”でじっくりとご紹介することにする。

幻の貝、赤西貝を食べた! 鮨・歴々金沢駅店

コキコキドライブ旅の4日目(金曜日 2021.11.12)にしていよいよ日本海側へ到達、能登半島を“ちょっと見”してから金沢には連泊することにしていた。

ダイワロイネットホテル金沢駅西口
ダイワロイネットホテル金沢駅西口 HPより
何せ、古希、古希ドライブ旅である。連日の車での移動、旅前半の疲れをこの金・土曜日でゆっくりとりつつ、ホテル内のコインランドリーで雨で濡れた服や汚れものの洗濯をすます。といっても細君がすべてやってくれたのであるが・・・、いつも申し訳ないと感謝している。

ホテルから金沢駅はすぐ
部屋から金沢駅がすぐ、真下に平岡野神社
投宿した「ダイワロイネットホテル金沢駅西口」は202012月に開業したばかりの金沢駅から徒歩4分のところにある新しいホテルである。

スーペリアツイン ダイワロイネットホテル金沢駅西口
ゆったりとしていましたよ! HPより
部屋はスーペリアツイン27屬鬚箸辰討い燭、ベッドもゆったり、トイレとバスもとても清潔で使いやすく、ビジネスホテルとしては充分である。

ダイワロイネットホテル金沢駅西口 バストイレがセパレートな設備
最近のビジネスホテルは気分が良い HPより
当日はしばらくベッドに寝転がってこれまでの疲れを癒した。

それから当夜のお目当てである鮨「歴々」へ向かった。

当初の予定では実は金沢市民の台所として有名な三百年の歴史を誇る近江町市場にある「歴々・近江町店」の予約をとっていたのだが、移動が大変だということでキャンセル、同系列の金沢駅店に飛び込んでみることにした。

鮨・歴々 金沢百番街あんと
「歴々」の金沢駅店
金沢駅構内には「金沢百番街あんと」という大きなショッピングモールとグルメ街があり、多くの人々でにぎわっている(写真はモザイクをかけるのが面倒なので、人が消えた瞬間を狙ったもの)

金沢百番街
「金沢百番街あんと」 土産・銘々菓子・グルメ街
鮨店・「歴々」の暖簾の前には二組ほど順番待ちの客がいたが、15分ほどで店内に案内され、カウンターに席がとれた。

駅中のお店ということで、お客の回転が速いようだ。わたしたちも電車の時刻はどうかと注文の前に訊かれた。客の都合に合わせて鮨を握ってくれるので、客も時間を気にせず安心していられるようだ。

わたしたちはとくに時間の制約もないので、まずは料理長厳選握り(12貫+のどぐろ手巻き(汁物付き)5,720)を頼んだ。

料理長厳選握り
料理長厳選握り
日本海の鮨である、「のどぐろ」ははずせないし、それを手巻きでというのだから堪えられない。

シャリが小さめで12貫といいながらペロリと平らげた。

何でしたかいのう・・・  おいしかった
どれも新鮮でおいしかった
そのあと、ちょこっと追加注文。そのなかで紹介したいのが、七尾湾でしかとれない珍品、「赤西貝」、コリコリして磯の香のするまさに絶品でありました。
七尾湾でしか獲れない赤西貝
幻の貝 赤西貝を握ってもらった
歴々のあと、明朝の「おめざ」を百番街で物色し、金沢の夜第一日目を終え、帰路についた。

コキコキ、ドライブ旅 4日目 能登半島 気多大社・千里浜なぎさドライブウェイ

富山県南西端の山間部の越中・五箇山(ごかやま)の合掌造り集落を後にして82km先の能登半島の西岸沿いを通る「千里浜(ちりはま)なぎさドライブウェイ」を目指す。

千里浜渚ドライブウエイ(photo ACより)
千里浜なぎさドライブウエイ(photo ACより)
今を去ること14年前の2007年9月下旬、知人ご夫婦の案内で能登半島を二泊三日で一周した。

2007.9.28 能登 白米千枚田
白米千枚田(2007.9.28)
曽々木海岸の窓岩や白米(しろよね)千枚田、輪島の朝市など有名どころは反時計回りでゆっくりと観光して廻っていた。

2007.9.28 曽々木海岸 窓岩 2007.9.29 輪島の朝市
曽々木・窓岩          輪島の朝市
その時、「のと里山海道」を南下しながら「ここの海岸沿いの砂浜は車で走ることができるので有名なところだ」と紹介された。

その話にいたく興味を抱き続けていた細君が、能登へ行くなら「なぎさ」を走ってみたいと云う。

友人とのトレッキングや多摩88ヶ所巡りを開始するなど最近とみに行動派としての名を高めている細君のこと、どうしても8kmにおよぶ砂浜を、渚に打ち寄せる波を横目に見ながら疾駆してみたかったのだろう。

千里浜渚ドライブウエイ なぎさを疾駆
千里浜なぎさドライブウエイ(photo ACより)
ということで、東海北陸道を北上、「のと里山海道」へと入っていくのだが、その手前から天候が急変。なんと大粒の雹(ひょうが)が降り出したのには驚いた。無数の砂利が車上にぶちまけられたような凄まじい音が続く。これは愛車の天井がボコボコに凹んだに違いないと観念するほどの、まさに大粒の「雨あられ」であった。

雹がおさまってきてもフロントガラスを叩く雨はワイパーを止めてしまうほどの勢いで、あまりの激しさに道の駅の標識が見えたのを幸いに、急遽、海沿いの高松SA内にある「道の駅・高松」へと入線した。

だが、車外へ出ようにも強風と横殴りの雨。しばし呼吸を整え、気合を入れてからエイやっとドアを押し開けた。傘を広げ、不自由な足で駅舎を目指すも、身体は冗談抜きで吹き飛ばされそうで正直、身の危険を感じた。

,泙気謀澆旅單靴瞭本海
道の駅・高松から荒れる日本海を見る
開いた傘は瞬時にオチョコとなり、無残にも1本骨が折れた。

服もびしょ濡れ、命からがら建物のなかへと逃げ込んだ。フードコーナーがあったので、そこで風雨が弱まるまで休憩することに。昼時でもあり、中華そばで身体を中から温めることにした。

道の駅・高松にて 中華そば
道の駅高松の中華そば
天気さえよければ、窓際にセットされたカウンターテーブル越しに日本海の美しい景観が楽しめるはずである。また、海岸までの遊歩道もあるとかでなんとも残念である。

そして目的の「千里浜なぎさドライブウェイ」であるが、「石川みち情報ネット」で調べると、下り入口である今浜口から全線当然のごとく走行禁止をあらわす「規制有」が表示されていた。

ここを走らんがため能登半島を目指してきた細君の落胆ぶりは推して知るべしである。ああぁ!!

心を鎮めて熱い中華そばを啜っていると30分ほどで雨が上がり、日本海のうえに青空が広がってきた。

雨があがったが、海は荒れていた
雨が上がってきた日本海
早速、折れ傘を後部座席に放り込むと、18km北にある能登國一之宮の「気多大社」を直接目指すことにした。

この猛烈な風雨の後である。気多大社の大きな駐車場に車は3、4台ほど。

そして、頭上を見上げると青空が顔を出していた。

ゝぢ紳膽辧』┳
大鳥居 気多大社の扁額
「これを神祐といわずして何ぞや!」ということで、勇躍、大鳥居をくぐった。

ー陲譴△った空に気多大社
気多大社 大鳥居 青空が広がる
まっすぐに神門まで参道が続くが人影は見えない。

ゝぢ紳膽匯夏
神門までまっすぐ。人影がない
さて気多大社は能登の国一之宮である。

/戚腓ら拝殿を見る
気多大社 神門から拝殿を
ご祭神を大国主命(大己貴命=おおなむちのみこと)とする式内社で、鵜祭や平国祭(=くにむけのまつり・別名おいで祭)という、古代史オタクには堪らない興味深い奇祭を執り行っている。

ゝぢ紳膽辧神門
気多大社 神門 重要文化財
その奇祭は気多大社のそもそもの勧請元とされる七尾市の気多本宮との深い繋がりを物語るもので、両社のご祭神である出雲系の神様、大国主命とその相棒ともいうべき少彦名命が能登國開拓に深くかかわっていたことを今に伝える証左となる神事である。

ゝぢ紳膽卩凖
気多大社・拝殿 重要文化財
そんな気多大社の本殿や拝殿など一連の社殿群はすべて国の重要文化財に指定されている。

ゝぢ紳膽卷榲(中央奥)と摂社白山神社本殿(鳥居奥)
気多本宮・本殿を奥に 右は摂社白山神社本殿 共に重文
またその伝誦や氏子たちに守られてきた神事とあわせて、能登國一之宮としての格式と伝統を今に残すまさに由緒ある古社である。

ゝぢ紳膽辧/戚
神門
加えて本殿裏には3.haにおよぶ禁足の社叢・「入らずの森」が広がっている。
ゝぢ紳膽辧‘らずの森
鳥居の奥が入らずの森で禁足地
そこをうかがえる木造鳥居の前の参道を歩き、鬱蒼とした禁忌の社叢が醸し出す清浄な大気を胸いっぱい吸いこんで神門前へと戻っていった。

手つかずの”入らずの森”
鬱蒼と茂る社叢
すると、先行していた細君が云うには、またちょっとの間、雨が降っていたのだという。わたしがちょうど「入らずの森」の巨樹の葉叢が折り重なる参道を歩いている時であったそうだ。

入らずの森の大樹から張り出してきた分厚い枝葉がわたしの頭上を覆い、雨垂れを塞いでくれていたのだ。

この古の物語を伝える気多大社・・・。

わたしの参詣と時をあわせるかのように冬の荒天を一転、青空に変容してみせたり、境内を参拝する間の降雨は古より守られてきた社叢の葉叢が大きな傘となったりと、あまりにもタイミングがよすぎて、不思議な心持ちに捉われた。

神意というものを実感した気多大社であった。

「狃さんがいつもお見送り 気多大社
気多大社は常に巫女さんが参詣者をこうして神門で見送ってくれる
気多大社の参詣を終えたのは午後1時半、だが、当日の予定はこれだけであったので、早目ではあったが今後の行程も考えて、当夜の宿である、金沢駅前の「ダイワロイネットホテル金沢駅西口」を目指すことにした。
金沢百番街からダイワロイネットホテル金沢駅西口
金沢駅百番街出口からダイワロイネットホテル金沢駅西口を見る
夕食はかねて楽しみにしていた「歴々金沢駅店」で鮨を堪能することにしていた。

コキコキ・ドライブ旅 3日目 白川郷、世界遺産相倉合掌造り集落に宿泊

コキコキ・ドライブ旅の三日目(1111) 、下呂温泉を出立、国道41号線を富山方面へ北上、97km先の白川郷を目指す。

白川郷遠望
白山連峰を借景とした白川郷
白川郷は当日の宿泊先である五箇山(ごかやま)・相倉合掌造り集落と併せて、1995年にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されたが、それ以前から日本の原風景ともいうべき合掌造りの家がならぶ白川郷を知らぬ者はいなかったといってよい。

ТЮ磴了海塙藩佞稜鮴邏
紅葉に染まる白川郷
その絶景を高台から一望しようと、われわれは白川郷の展望台へと向かった。

白川郷には荻町城跡展望台と天守閣展望台と二か所の展望台がある。実は当初の予定では駐車場の少ない、したがって観光客も少ないに違いない萩町城跡展望台に着く予定で車を走らせていた。

そしてコンクリート道路に導かれるように急坂を上っていき、頂上付近の大きな駐車場へ車を止めた。駐車している車は少なかったからだが、前方の建物の壁には天守閣展望台と大書された看板がかけられていた。

┥ぢんまりとした展望台
天主閣展望台
そこから小ぢんまりとした展望台へは歩いて直ぐ。食事も一緒にとれるお土産屋とファストフードを打っている小さな屋台があった。ただ、最近はコロナの影響で客数が激減し、お土産屋の方は休業中とのことであった。

昼時ではあったが、まずは、展望台へ向かいテレビや写真で何度も目にしたあの白川郷の景色を自分の眼でしっかりと鑑賞した。

┻念写真も撮ってうれる展望台
展望台
想像したままの美しい景色だった。

天守閣展望台より白川郷を一望する
紅葉が映える季節で、遠くに冠雪した白山連峰も見渡せた。

人々が白川郷へ押し寄せる意味が納得できた。展望台からの景観はやはり素晴らしいのひと言に尽きる。


柵の向こうには誰一人いない。

白川郷
白川郷
後方にどれだけの人が控えていたとしても、最前線に立ったその一瞬だけは、眼前の自然のパノラマは自分一人のものだと実感できるのだから。

白川郷の合掌造り
合掌造り集落の白川郷
とくに、この日、観光客はほとんどいないとあっては、このコロナ禍の緊急事態宣言及び蔓延防止等重点措置の期間をすり抜け、よくぞこの季節にコキコキ・ドライブ旅を設定したものだと、自分の英断を自画自賛したものだ。

そして、展望台の斜め上に設えられたテラス席に座り、白川郷を豪快に見下ろしながら、屋台で求めた飛騨牛の肉まんを頬張った。

この後、下へおりて白川郷を散策しようと里の入口まで行ってみたが、そこはさすがに観光客の車も多く、しかも合掌集落への進入は住居地区であるため当然のごとく禁止(広い駐車場は徒歩10分ほどのところ)ということで、足の悪いわたしは合掌造りを見上げながらの散策はあきらめることにした。


そこで、一路、34卆茲良抻蓋の南西端に位置する五箇山にある当夜の宿、相倉合掌造り集落の“なかや”へ向かうことにした。

仏様を拝むときに左右の掌を合わせた腕の形に似ていることから「合掌造り」と名づけられた家屋は白川郷と五箇山地方に限定して見られる民家形態なのだそうで、往時は1900棟ほどあったものが、現在では200棟ほどになっているという。

相倉集落のメインストリート
相倉合掌造り集落
そのなかで相倉合掌造り集落には20棟が建っており、そこに住んでいる方々が40名というほんとうに小さな山間の邑である。

相倉合掌造り集落
鄙びた相倉合掌造り集落
わたしたちは3時過ぎには邑の一番奥に位置する“なかや”さんに到着したが、エンジンを切るのと同
時に俄かに大粒の雨が降り出したのには驚いた。

┰蒜饑茲痢匹覆のや”
民宿なかや
何はともあれと合掌造りの風情に浸る間もなく、屋内へとあわただしく逃げ込んだ。

屋内に入ってみると、柱や梁に防腐剤は塗布しているが頑丈で素朴な木材が使用されており、古い民家であることには違いない。

┨唳錣蠅領造∋箸錣譴討い
梁が曲がり、素朴な民家づくり
しかし、食事をとる囲炉裏のある部屋はコの字型にテーブルがセットされ、どうも伝統ある合掌造りの歴史の重みは感じられず、正直、思惑外れの態であった。

┛蕨裏を囲んでテーブルえ食事をとる
テーブルがセットされた食堂
その食堂の奥の客間に荷物を置き休憩をとるうちに雨も止んできたようなので、集落内をまずは歩いてみることにした。

集落入り口に設置された世界遺産と刻まれた石碑の脇から小径を上ってゆくと、この相倉集落が一望できるスポットがあるとのことで、霧雨模様の天気のなか、杖を衝きながらゆっくりと昇って行った。

相倉合掌造り集落入口に世界遺産の石碑
集落入り口にある世界遺産の石碑
すると、視界の広がるところへ出た。

先ほど見てきた白川郷の白山連峰を借景とした勇壮な景観とは打って変わり、まことに小さな集落である。

┯涓媚柿蠢匚臂限い蟒戸
箱庭のような相倉合掌造り集落
どこか手作りの箱庭でも眺めているようで、妙に愛おしく、また、なぜか懐かしく感じられてきたのだから不思議だ。

そうした感情のさざ波が立ったのは、わたしのDNAのなかにひそやかに埋め込まれていたはるか遠い祖先の記憶が蠢(うごめ)き出していたのかもしれないと、思った。

その日は霧雨が小雨に変わりはじめたので散策はそれまでとし、とぼとぼと“なかや”まで戻っていった。

身体が冷えたのでまずお風呂をいただいた。これもシステム・バスで、山間の集落に草鞋を脱いだという風情は正直、感じられなかった。残念である。

ただ夕食は素朴な山の幸が用意されていた。

┐覆のやの夕食
なかやの山の幸
とくに囲炉裏でじっくりと炙り焼きされたイワナには奥深い山里の趣を覚え、おいしかった。

┛蕨裏でイワナを焼いてくれる
じっくりと炙り焼きのイワナ
翌朝は雨も上がったので、集落内を徘徊してみた。

朝靄に煙る合掌造りの集落。これぞ相倉合掌造り集落!! 絵になる景観である。

朝もやの相倉集落
朝靄の煙る合掌造り集落
また石垣が積まれて湾曲してつづく田舎道・・・。

相倉集落の朝の散策
どこか来た道・・・
どこかで目にしたことがあるのだろうか、写真であったろうか絵画であったろうか、はたまた幼い頃にどこかで実際に目にした景色であったろうか・・・、そんな質量を覚えた心の風景であった。

静謐という落ち葉が折り敷いた集落を巡り歩くのに、そう時間はかからなかった。


しかし、この二年間、コロナによって国中が翻弄され、ささくれだってしまった社会の片隅に、われわれの先祖たちが築いてきた「日本」という共同体がこうして、慌てず騒がずひっそりと鎮まっていて、しかもどっしりと大地に根を張り息づいている風景を体感できて、この国もまだまだそう捨てたものでもないと、少し心の安寧を探し当てたような気がした時間であった。

さて、そんなセンチな気分を奮い立たせるようにして、次は一路、能登半島の千里浜渚ドライブウエイを目指し、11月12日午前11時前に郷愁誘う合掌造りの邑を後にしたのである。

コキ、コキ ドライブ旅の2―3日目下呂温泉・湯之島館

コキ、コキ ドライブ旅の2日目は浜名湖の龍潭寺を拝観したのち、一路、187km先にある下呂温泉を目指す。所要時間は約3時間の予定。

|羆道・恵那峡SA
中央道 恵那峡SA
途中、中央自動車道の恵那峡SAなどで休憩をとったりしながらののんびり旅で、日が短くなった11月、ちょうど日も落ちる頃、下呂温泉の街に入った。

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下呂温泉の高台にある湯之島館に到着
下呂温泉は室町時代の京都五山の僧・万里集九や徳川時代の儒学者の林羅山によって兵庫県の有馬温泉、群馬県の草津温泉と並び「日本三名泉のひとつ」と紹介されている紛うことなき天下の名湯である。

湯之島館 露天風呂
湯之島館 露天風呂
だが、日本書紀や古事記という勅命による最古の正史や史書を紐解くと、有馬温湯(ありまのゆ)【摂津の有馬温泉=舒明天皇631638)】や紀温湯(きのゆ=牟婁(むろ)温湯)【紀伊の白浜温泉=有馬皇子・斉明天皇657658年】へ行幸した記述を認めることができるが、そこに草津・下呂温泉の名は顕れない。

また風土記のなかでは、出雲風土記・意宇郡に「神の湯(=玉造温泉)」が「男も女も老いたるも少(わか)きも或いは道路につらなり、或いは海中を洲に沿い、日に集い市をなし、繽粉(まが)いて燕楽(うたげ)(歌い乱れて宴をひらく)。・・・万の病ことごとく癒ゆ・・・故に神の湯という」と詳細な描写がされている。

玉造温泉 旅館松の湯
玉造温泉 旅館・松之湯
さらに伊予国風土記逸文「湯の郡」には、少彦名命が豊後の速見の湯(=別府温泉)を地下トンネルで伊予まで引き大国主命の病を治癒させた「湯の岡(=伊佐尓波神社 道後温泉)」の話が登場するなど、1300年ほど前の世に、既に現在でも著名な温泉地が知られていたことがわかる。

‘燦絏浩 湯の岡 伊佐爾波神社
道後温泉 湯の岡 伊佐爾波神社
そのなかに、冒頭の三名泉の下呂温泉と草津温泉の名が挙がっていないのは単純に記紀などが編纂された八世紀初頭にこの両泉がまだ開湯されていないか(事実下呂温泉は平安時代の発見、草津温泉は日本武尊が発見との伝誦があるものの資料での確認は鎌倉時代初頭)、または中央にその評判が届くほどの知名度がなかったものと想像される。

“騨川支流沿いの下呂温泉街
飛騨川支流沿いに下呂温泉街
さて、前置きはそれくらいにして、下呂温泉についてである。

下呂温泉の呼称であるが、この独特な名前は実は昭和初期からのもので、それまでは「湯之島」と呼ばれていたという。

⊇蕕瓩禿鯒慧(下呂温泉)を天下に紹介した万里集九の銅像
室町時代に下呂温泉を知らしめた万里集九
実際、「三名泉」の生みの親である万里集九や林羅山も当地を「飛州の湯島」、「飛騨の湯嶋」の名前で紹介している。

下呂温泉の名を広めた林羅山の銅像
江戸時代に紹介した林羅山の銅像
それがどうして「ゲロ」などという、ちょっと引いてしまう名前になったのか?ということだが、下呂市の公式観光サイトには、「『続日本紀』宝亀7年(西暦776年)10月の条に、「美濃国菅田駅(※(1))と飛騨国大野郡伴有(上留)駅(※(2))と相去ること74里、岩谷険深にして行程殊に遠し。其の中間に一駅を置き、名付けて下留(※(3))という」とあり、この下留(しものとまり)が、下留(げる)、下呂となったといわれています。」と、転訛説を紹介している。

(1) 美濃国菅田駅・・・現在の下呂市金山町菅田 

※(2) 飛騨国大野郡伴有駅・・・現在の萩原町上呂 

※(3) 下留駅・・・現在の下呂


そして飛騨地方の名誉のために、この地方ではいわゆる吐瀉物(としゃぶつ)のことは「げぼ」と呼ぶため、「ゲロ」に汚いといった語感は覚えないのだという。

さらに、飛騨川沿いに走る国道41号線を富山方面へ走ると、中呂、上呂という地名が途中の道路標示に認めることができる。


そのため、「呂」が何か土地の特性を表す言葉なのではないかと、調べてみたがよくわからなかった。

そこから「風呂」にも「呂」の漢字が充てられているが、「呂」に「豊かな湯の出る場所」といった語源でもないかと探してみたが、これもハズレで、結局、地名の由来は消化不良のままとなっている。


さて、当夜の宿は湯ノ島温泉の名を冠する昭和6年創業の「湯之島館」である。本館建物が登録有形文化財に指定されているなど、下呂温泉を今日の繁栄に導くきっかけとなった旅館である。

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湯之島館 本館
私たちが泊まったのはその本館3階建ての建物であったが、なるほど趣きはあるものの、後方に山の斜面に沿って増築されたコンクリート造りの建物は何の変哲もない普通の温泉ホテルであった。

下呂温泉の街並を部屋から見下ろす
部屋から下呂温泉の街を見下ろす
しかも、増築を重ねていったのか、館内の廊下は迷路のように廻らされ、特に大浴場への行きかえりに方向音痴の私が迷子になるのは必定であったものの、常にナビゲーターとして私を先導してくれる細君までが帰りに迷ってしまったというのだから、これは意図してつくられた迷路であったに違いないと思ったものである。

湯之島館 夕食
湯之島館の夕食
翌朝、下呂温泉の街並みというか、中心部分にある白鷺橋に立ち寄った。

部屋から紅葉と下呂温泉市街
お部屋から
そこに下呂温泉を世に知らしめた恩人たちの銅像が三体、建っている。

万里集九と林羅山は得心がいったのだが・・。

実は、もう一体、脇に座って記念写真が撮れるように配慮されたチャップリンの銅像があった。

チャップリンは1932年の初来日以来、4度も我が国を訪ねている。そのどこかで、この下呂温泉を訪れたのだと、さすがは天下の下呂温泉と夫婦してチャップリンとならんでにこやかに記念写真を撮った。

下呂温泉のチャップリン像
哀しげなチャップリン像
ところが帰京後、調べてみてビックリ!! 一度も訪れてはいないという。

ではなぜ、銅像がということだが、2001年に町おこしではないが、映画を語り合いながら温泉街を散策できるとよいとの観光協会の発案で、第一号の銅像設置の栄誉を授かったのが、チャップリンだったというのである。

しかし、その後その運動は尻すぼみとなり、2番目のブロンズ像が建てられることはなく、そのためか哀愁に満ちたチャップリン像が縁もゆかりもない飛騨の国にポツネンとして据え置かれているとは、清少納言ではないが、ホンマに「いとをかし」な風情ではあっ た。

そして古希を迎えた老夫婦が嬉々として記念写真を撮りあっている姿こそ、「いと可笑し」な光景であったに違いない。



コキ、コキ、ドライブの旅 二日目の◆[襟寺(りょうたんじ)

浜松城をあとにして、次は2017年のNHK大河ドラマ「おんな城主直虎」で一躍有名となった井伊家の菩提寺、龍潭寺(りょうたんじ)へと向かった。

山門
龍潭寺・山門
当寺は天平5年(733)、僧行基によって開創されたと伝わる古刹であり、浜名湖の北端、奥浜名湖のその北に位置している。
広い本堂廊下を庫裡から
庫裡から本堂の広い廊下
山門を抜け、庫裡の拝観受付を通り広い本堂へと入ってゆく。

東門と庫裡
正面が庫裡
見事な龍虎の襖絵などが描かれた部屋や井伊家代々の位牌を祀る御霊屋など順路に沿って拝観する。

龍虎の襖絵の虎龍虎の襖絵の龍
大きな本堂の裏手に回ると、そこに裏山の斜面を巧みに活かした小堀遠州の作になる龍潭寺の石組み庭園がある。

龍潭寺小堀遠州作庭園

細長い縁側に一段高くなった畳敷きが設えられている。そこに腰をおろしてゆったりと庭園が鑑賞できる。

小堀遠州の作庭
小堀遠州の庭
斜面を中心に巧みに配された置き石は裏山の樹間に響き渡る種々の小鳥の鳴き声や世の雑音をあたかも吸いこむ吸音器のようであった。

小堀遠州作 庭園
静寂のなか小鳥のさえずり
チク・・・タク・・・チク・・・タクと分解写真のごとくゆったりと秒針が時を刻んでいるかのような静謐の小世界がそこにあった。

わたしはしばしコロナ騒動や世の喧騒を忘れて、小堀遠州が命を吹き込んだスピリチュアルな世界に身をまかせた。そして、さすが、小堀遠州!!と、通ぶってみた。

小堀遠州の石組み
小堀遠州の石組み
ただ、これは冗談ではなく、コロナ禍に襲われたこの嵐のような2年間。火照りきった魂をこのように鎮めてくれる時間に包まれたのはほんとうに久しぶりだと感じていたのは偽りではなかった。

/硫μ腓ら龍潭寺本堂を見る
仁王門から龍潭寺本堂を見る
その後、本堂脇にひっそりと鎮まる井伊家歴代の墓所にお参りした。

井伊氏歴代墓所 左奥から二基目が直虎の墓
井伊家の墓所
左右に並ぶ墓石の左側奥から2基目が「おんな城主直虎」の墓である。

四百数十年という永い時間を摩り込んだその苔むした五輪塔は、歴代井伊家当主の墓石のなかに肩を並べ、何を語らんとし、そんなにひっそりと立ちつくしているのだろうか。

おんな城主直虎
龍潭寺に置かれた井伊直虎の像
墓所の前を通り過ぎると、突き当りに後醍醐天皇の皇子・宗良(むねなが)親王の墓所がある。なぜ、この井伊谷(いいのや)という地に南朝の皇子の墓があるのか説明板を読むと、足利方(北朝)との抗争のなかで遠江国の豪族の井伊氏に身を寄せたことが縁とのこと。実は終焉の地はいくつかの説があるものの、明治政府が井伊谷宮の墳墓を陵墓と定めたため、現在、宮内庁の管理下にある。

宗良親王の墓所
宗良親王の陵墓
そして、宗良親王の陵墓に接して、明治維新の時、建武中興15社の一つとして井伊谷宮(いいのやぐう)を創建、親王をご祭神として祀っている。

井伊谷宮 拝殿
井伊谷宮の拝殿
井伊谷宮を後にして歩いて2、3分ほどのところに井伊家の始祖、共保(ともやす)公が出生したという井戸があるという。

出生した井戸とはこれいかに? 歴史上の人物の出生譚として、例えば弘法大師がここの水を産湯として使ったとの伝承を残す井戸など各地に多くあるが、この「井戸から生まれた」のだと伝えるものは初めてであるし、意味がよく理解できぬままに現地へ向かった。

案内板の通りにたどると、広々とした田んぼのなかに井戸らしき一画が見つかった。

井伊氏始祖が傍らで見つけられた井戸
井伊家始祖の出生した井戸
りっぱな漆喰塀に囲まれていたので、すぐにそれとわかった。

説明板によると共保(西暦1010年生誕)公はこの井戸の傍らで、当地の国司であった藤原氏に拾われ、そのやんごとない様子を認められ、養子とされたとの伝誦を残すとのこと。

井伊共保出生の井戸
現在は枯れ井戸
井戸から出てきたわけでなく、この井戸の脇に捨て子として置かれていたとのことらしい。ようやく、納得である。

そんな井戸が代々の井伊家当主によって千年もの間、大切に守られてきて、整然と整えられ今尚このように残されているというのは驚きであった。


そして、いよいよコキコキ・ドライブ旅も静岡県を離れて、今夜の宿、岐阜県の下呂温泉へと向かった。

コキ、コキ、ドライブの旅 二日目の ”余松(龍潭寺・下呂温泉)

二日目は、昨日、時間がなくて寄られなかった浜松城を見学していこうと予定を1時間早めて午前9時のホテル出立となった。当日の空が見事に晴れ渡り、天守閣から浜松の街を一望できたらさぞ爽快であろうと思ったからである。

⓪本丸跡を巡る小径
浜松城本丸跡を廻る小径
此度の旅程を立てるにあたって、大切なコンセプトのひとつに「古希、古希」を中心にすえていた。

訪ねる先を詰め込んだ長旅ではもう身体の方が言うことを聞かず、節々がコキ、コキいって、移動することが苦痛になる、そういった事態になることだけは避けたい。スケジュールをこなすことが旅の主目的となってしまっては、旅情や旅愁を翫味する「老いの旅路」という言葉が醸し出す風情からはほど遠いものとなってしまう。そこで、原則、宿のチェックアウトタイムギリギリに出立する鷹揚な時間割で旅の計画を立てていた。

浜松城天守閣
浜松城
そして、余裕をもたせたはずの時間を早々に浜松城見学に充てることにしたというわけである。

そうした経緯をもつ浜松城であるが、あの徳川家康が29歳から45歳までの17年間を過ごしたという戦国時代真っただ中ゆかりの城郭である。

秋空に映える天守閣
秋空に映える天主閣
そしてこの城を語るときによく持ち出される話が1573年の三方ヶ原の戦いの際の家康の行動である。武田信玄に完膚なきまでに負かされ、命からがら浜松城へ逃げ込むも、城門を開けたままにする「空城(くうじょう)の計」という奇策によって絶体絶命の危機をしのいだという家康の豪胆さと智略を伝えるものである。


そんな激越な戦さの痕跡など勿論どこにも留めぬ浜松城一帯であるが、現在、市民にとって恰好の散歩コースとして整然と整備された浜松城公園となっている。

浜松城公園
整備された浜松城公園
その一画の小高い丘の上にコンクリート造りの天守閣が建っていた。

小高い丘に建つ浜松城

真っ青な空に映える美しい天守閣を仰ぎながら、この美しさだけを体現するシルエットに四百年前の陰惨な戦さの絵柄を重ね合わせて視ることなど、平和な時代に生きる自分にはどうしてもできなかった。

16世紀後半の野面積みの石垣が残る
往時を偲ぶ石垣
だが、その歴史の一端を伝えるものとして、天守閣を載せる石垣に16世紀末の野面積みが一部残っており、その野趣あふれる石組みに掌を添えてみて、ただ往時を偲ぶのみであった。

四百年前の野面積み石垣
四百年前の野面(のづら)積み石垣
現在、本丸跡や二の丸跡の発掘調査が続いており、今後に、往時の実像を示す遺跡が発見される日を待つとしよう。

二の丸跡の発掘調査が続く浜松城
今尚、発掘のつづく浜松城
その日は風が強い日だったが、3階建ての天守閣に昇ってみることにした。
天守閣内に陳列された甲冑
天守閣内に陳列された甲冑
そこから浜松の市街が一望できたものの、高所恐怖症のわたしは天主を一周する外回廊を何とか廻ってはみたものの、写真はわずかしか撮れなかった。特に北面の三方ヶ原方面の写真を一枚も撮っていなかったとは・・・トホホ・・・

浜松城天守閣より南側を一望
南方を写す 遠くに遠州灘
それと忘れてならぬのが、天守閣前の本丸跡に建つ「若き日の徳川家康公」の銅像である。

浜松城本丸跡に建つ徳川家康公銅像
若き日の家康像
なかなかの美男であり、偉丈夫であった。三方ヶ原の敗戦直後に自戒を込めて描かせたという「顰像(しかみぞう)」と呼称される肖像画の貧相なお顔とは正反対の精悍な面構えをしたりっぱな銅像であった。
精悍な顔の若き家康像
美男子な家康だ
そんな浜松城をあとにして、次はNHK大河ドラマ「おんな城主直虎」で一躍有名となった井伊家の菩提寺、龍潭寺(りょうたんじ)へと向かった。

ドライブの旅 一日目 浜名湖を眼下に

第一日目は浜名湖をちゃんと見てみたい(新幹線の車窓を瞬時に横切る浜名湖しかみたことがない)という細君、もとい、観音様の要望で浜松のダイワロイネットホテル浜松とうなぎの老舗、「うな炭亭」を予約。

ダイワロイネット浜松  ダイワロイネットホテル浜松 ツインルーム
ダイワロイネット浜松        ツインルーム
当日の東京は朝から雨。ボランティアで首を突っ込んでいる公益財団のWEB会議が長引き、予定より1時間遅れの11時過ぎに自宅を出立することとなった。雨もひどくなってきたので、この日は浜松まで到着すればヨシ!と割り切りゆっくりと安全運転に徹して走ることにした。

しばらくはワイパーをフルに振り切り運転を続けていたが、静岡県に入るころだろうか雨が上がりはじめ、途中、富士川SAでトイレ休憩。そしてあろうことか浜名湖に近づくにつれ青空が広がってゆくではないか。もうビックリである。

青空が広がる浜名湖の舘山寺ロープーウェイに到着したのが、15時半過ぎ。

遊園地・浜名湖パルパルから大草山えロープーウェイ
舘山寺ロープーウェイ・山上が大草山展望台
早速、浜名湖上を渡るロープーウェイで大草山頂上へ。車中は我々夫婦の貸し切りである。

大草山展望台
大草山展望台
この日の日没は午後4時50分。ちょっと夕日鑑賞には早いが、まぁ夕景色のとば口でも味わえたらよいと展望台へ立った。

説明版の地図で確認すると、大草山は浜名湖の北東部に位置している。雨の後ということもあり晩秋の空気は澄み渡り、眺望は見事である。

東名高速が渡る浜名湖
東名高速も横切る浜名湖
頭上には午前中には考えられなかった青空が一面に広がっていた。

また展望台から俯瞰する浜名湖は予想と異なり、入江が複雑に入り組んだ汽水湖であったのには驚いた。

浜名湖を展望台より
入江が入り組む浜名湖
そして南方にじっと目をやると空との境は定かではないが遠州灘が見えてくる。

湖上を渡るロープーウェイと遠くに太平洋
浜名湖上を渡るロープーウェイと遠くに遠州灘
人影もいつしか消えてしまった展望台を右へ左へと移動しては浜名湖の異なる顔を堪能した。

そのうちにいつしか日が傾いてきた。秋の日は釣瓶落としとはこのこと。

湖面と大空にかすかに茜色の紅がさしてきたようだ。

夕日に映える浜名湖
浜名湖の秋の釣瓶落とし
いま振り返ってみると、朝方の長引く会議と強い雨という不調により、やむを得ず旅の出立を遅らしたことで、この澄み渡った夕景色を目にすることができたのだと思うと、人生とは巧みにその絵柄や色模様を転じてみせてくれる、万華鏡のようなものだとしみじみ感じ入ったところだ。

浜名湖の夕景色
茜色に染まってゆく浜名湖
さて、浜名湖の美しい風景を眼の肥やしにした老夫婦のその日の夕食といえば、当然、鰻にきまっている。

浜松・うな炭亭
老舗・うな炭亭
「うな炭亭」というホテルから歩いて7、8分のところにある創業70年の老舗をひと月ほど前に予約していた。

名物 うなぎまぶし
名物の”うなぎまぶし”
三回うなぎが味わえるという名物の“うなぎまぶし”を注文、いたく満足の態で第一日目を終えたのである。


会計をしようとレジに行くと、横に小澤征爾氏の写真が・・・

世界の小澤征爾さんも来店
小澤征爾さんも来店

世界の小澤さんも当店にしっかり足を運んでいるではないか!!

この旅、端から幸先が良い!!と、わがグルメ眼力の確かさに一人静かに唸ったものであった。

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