彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

日本の祭り

「割烹やました」で祇園祭・神幸祭の神輿渡御を愉しむ

京都で7月17日といえば大概の人は祇園祭の、山鉾巡行の日だという。

1アマチャカメラマンが群がる函谷鉾

函谷鉾の巡行

それは間違いではないのだが、祇園祭の起こりが平安初期、全国で流行った疫病の祟りを祓う神事、祇園御霊会を嚆矢とすることから、八坂神社を午後6時に出立する三基の神輿(神様)が氏子地域をめぐり四条寺町の御旅所まで渡御する神幸祭(24日が還幸祭)こそが祇園祭という神事の本義であり、最も重要な神事であるということを知る旅人は意外と少ない。

2舞殿にならぶ3基の神輿

17日の渡御を待つ三基の神輿:八坂神社舞殿

だから神幸祭の露払いとしての役割を担う山鉾巡行だけを観覧し、コンコンチキチン、コンチキチンの祇園囃で舞いあがり「いやぁ祇園祭は壮麗で迫力があった」と帰路につく観光客は、実は夕刻から催行される祇園祭の肝心かなめの神事を見ないまま、極論すれば真の祇園祭を見ずして京都を後にするといってもよいのである。

3鶏鉾の音頭とり

鶏鉾の音頭取り

と、たいそうな御託を並べたが、まずは「割烹やました」で腹ごしらえである。

例年、「やました」の店前に行列がやってくるのは午後7時頃である。それまでの時間、旨い料理に舌鼓を打ちながら、祇園祭の本義たる神事をお待ちするという算段である。

25笑顔の大将と板長の足立さん そして前田君

いうも明るい割烹やましたの板場

さて、当夜の喰いっぷりであるが、まず先付にはじまって、

4先付

先付

まずはと・・・カウンターの上の材料を物色していると、大将の「岩ガキのいいのがあるよ」のひと声で一品目は7、8年物の大ぶりのクリーミーな岩ガキを所望。

5 7、8年物の岩ガキ

7、8年物の岩ガキ、久しぶり・・・

次に夏の定番、鱧!

薄造りもできるというので、初めて注文。

6鱧の薄造り

レアものの鱧の薄造り

もちろん、やました名物の炙り鱧も堪能しました。

7田辺君が鱧を炙る

田辺君が鱧を炙る

それから3月にお邪魔したときに仰天した蛤のイタリアン仕立てをお願いした。

8蛤のイタリアン・リストランテやました

蛤のイタリアン風炒め

料理に名前がついていないので、こちらで勝手に「リストランテ・やました」と命名したが、これがなかなかな美味で、長崎組の叔母もご満悦。

そして、野菜料理には芋茎(ずいき)の煮物をお願いした。

9芋茎の煮物

芋茎の煮物

いつもながら上品な味つけで、長崎組は珍しいといって味わっていた。

そして、怒涛のオーダーから1時間半が過ぎた7時過ぎ、いよいよ当夜のおたのしみ、神輿渡御の鑑賞である。

仲居さんの「きましたよ!」の汽笛一声ならぬ「合図一声」が店内に響き渡る。

するとお客がすわと、「一斉」に箸を置き、ワイワイと表へむかう。

さて神幸祭であるが、神輿の到着の前にまず百名ほどの神宝奉持列が粛々と都大路を練り歩いてくる。

外へ出るとまだ明るい。とおくから太鼓と幟を先頭に、三駒の騎馬武者が近づいてくる。

11神幸祭の行列がやってきた

太鼓と幟が神宝奉持列を先導

12騎乗の鎧武者が3騎、威風堂々やってきた

騎馬武者もゆく

威風堂々の一隊である。

そして神宝を奉持する一隊の先頭には祇園祭の格式を示す円融天皇(在位969-984)の勅令が記された「勅板」を抱える宮本組講員の面々が立つ。

13宮本組のみが抱えられる円融天皇の勅令を記した勅板

勅板を奉持する宮本組講員

そのあとから数々の神宝を奉持した講員がわれわれの目前を通り過ぎてゆく。

14神宝奉持列

緋色の和傘も艶やかな神宝奉持列

そして白馬に跨る久世駒形稚児がやってくる。その可憐で雅な様はまさに王朝絵巻の世界である。

6白馬に跨る久世駒形稚児

白馬に跨る可愛らしい久世駒形稚児

その行列が過ぎてから神事の肝たる神輿がやってくるわけだが、それまではもう少し間がある。

そこでいったんわれわれはまた店内へと戻り、宴のつづきがはじまる。

再開の手始めは、お野菜と併せて鱧の天ぷら・・・と、鱧づくしで迫った。

15鱧と野菜の天ぷら

鱧と野菜の天ぷら

次にグジ(甘鯛)の塩焼きをいただいた。さすがにお腹が一杯になってきた。

16 グジの塩焼き

グジの塩焼き

・・・が、最後の〆に、なんとステーキを頼んでしまったわたしの餓鬼道ぶりには、細君以下皆さんさすがにあきれ顔であった・・・

17ステーキ

…牛?だったか、ステーキです

もちろん、みんなで少しずつシェアしたのだけれども・・・

柔らかくて肉の味がしっかり、「やました」の肉はいつもひと味違うと納得・・・

さて、そうこうするうちに本番の神輿がやってきた。

御旅所への神輿渡御は三基のうち木屋町通りを通るのが素戔嗚尊(すさのおのみこと)の御霊をのせた中御座(なかござ)と、重さ2トンの最重量の神輿である八角屋根の西御座(素戔嗚尊の子、八柱の神々)の二基である。

まずやってきたのが中御座である。時刻は午後7時40分過ぎ。

18中御座がやってきた

中御座が「やました」の前を通過する

そして中御座が去ってから1時間40分経って、漸く、仲居さんから「来ました!」の聲。いつもはこんなに間隔はあかないのだが、今年は待つのが長かった。

19 漸くやってきた西御座

遠くに西御座の灯りが見える

いよいよわたしの祇園祭がはじまるのだと、心臓が高鳴る。

西御座は錦組(錦市場)が輿丁(よてい=担ぎ手)を勤めるため、商売上の縁の深い「割烹やました」に屈強な若衆が担ぐ神輿が門付けをする。

20割烹やましたの前で角付けをする西御座

やましたに門付けする西御座

22錦市場の男衆が担ぐ西御座
「ほいっと!ほいっと!」の掛け声とともに神輿が縦に横に大きく揺らされる。


その荒々しい担ぎを神様は殊の外、喜ばれるのだという。

21錦の西御座をもてなすために店頭で待つ大将

大将がおもてなしをする

そして「割烹やました」への口上を述べ、もてなしの酒やジュースを飲み干し、しばしの休憩ののち木屋町通りを北へのぼってゆく。


木屋町通りにいつもの静寂が戻る。

御客たちは火照った頬を夜風になぶらせ熱を覚ますかのように夜の帳のなかで物思いにふけり、三々五々、店内へと姿を消していった。

こうしてわたしの2023年の祇園祭、割烹やましたの祇園祭が終わりを告げたのである。

 

今年も大将、そしてやましたの衆、ありがとう!!

ジェットコースターのようだった2023年の夏 猛暑のなか祇園祭山鉾巡行を観覧

7月17日、祇園祭の山鉾巡行の日である。当日の人出はすさまじく、ホテル出立がひとり遅れたわたしは長刀鉾の注連縄切りを見ることが叶わなかった。

巡行スタート地点・四条烏丸交差点へ烏丸通を北上する保昌山
巡行スタート地点・四条烏丸交差点へ烏丸通を北上する保昌山

先発した細君以下の同行も人混みの中で離ればなれになり、後刻の聴き取りで、注連縄が生き稚児さんに切り落とされた瞬間を目にできたのは180cmを超す長身を誇る従妹の旦那一人だったことが判明。

生き稚児さんが注連縄を切った瞬間
2019年・生き稚児さんが注連縄を切り落とした瞬間

頭一つ抜けると群衆を睥睨し見通せたというから、“平等社会を”というお題目も所詮空念仏に過ぎないことを悟らされた「祇園精舎の鐘の聲」であった。

山鉾巡行を見る多くの観客 - コピー
沿道は黒山の人だかり

とくにわたしときたら杖を衝きながら歩道を埋める人だかりを一人、搔き分けてゆくのが難儀で、4番目の芦刈山に追いついたのが精一杯だったのだから。

芦刈山の巡行
4番目の芦刈山が目の前を通った・・・

そして、凄まじい群衆に気圧されたわたしは結局、四条河原町の高島屋の開店と同時に、クーラーの効いた店内へと入店、出たり入ったりしながら人の頭越しに山鉾を遠めに見るといった省エネスタイルの祇園祭観覧となった。

それほどに2023年の巡行日は猛烈な暑さと驚くような人出であった。

四条河原町で鶏鉾の辻回し - コピー
鶏鉾の辻回し

だから四条河原町交差点での辻回しを人垣越しに2、3基見て、汗だくになって早々にホテルへもどった。


四条河原町で鶏鉾の辻回し・3回目

ほぼ同時に先発組も猛暑とひと気にあてられて、ヤレヤレといった態でホテルご帰還となった。

一日目の宿はsequence KYOTO GOJO(下京区五条烏丸町)
sequence KYOTO GOJO(下京区五条烏丸町)

一日目の宿・sequence KYOTO GOJO(下京区五条烏丸町)は午後2時がチェックアウトタイムで朝・昼食付とお得なホテルで、我々一行も冷たい飲み物とランチをとりながら小休止。

6⓪KYOTO GOJOのビュッフェランチ
KYOTO GOJOのビュッフェ・ランチ

そして、夜に「割烹やました」で神輿の神幸祭を愉しむのがわたしたちの眼目であったため、二日目の宿、「やました」へ徒歩1分のホテルオークラ京都へ移動。部屋でシャワーを浴びてやましたへの出陣を待った。

数か月前の予約であったが、宵山の日は既にオークラは満室であった。

東山連峰が見渡せる部屋からは比叡山は勿論、真下に実は贔屓の「割烹やました」が見下ろせる。

部屋から割烹やましたを見おろす
割烹やましたが真下に:写真下縁青い矢印が用意された振る舞い酒

午後5時、「やました」が西御座・錦市場の衆にふるまう酒、ジュースなどの用意がはじまった。これは祇園祭神幸祭の「割烹やました」のいつもの決まりである。

その様子を見て、昼の猛暑の疲れも癒えた私たち勇躍「やました」へ出陣、5時半、やましたへ予定通りに入店した。

割烹やました
大文字山を意匠した「やました」の夏暖簾

高瀬川にはいつも通りに高瀬舟が浮かんでいる。

 

高瀬川に浮かぶ高瀬舟
「割烹やました」の前に浮かぶ高瀬舟
押小路橋から眺めるこの風情はいつ来ても心が落ち着く、「そうだ京都、行こう」そのものである。

ジェットコースターのようだった2023年の夏 祇園祭の宵山・前祭り

10月に入りさすがの猛暑もようやくおさまり、朝夕に秋冷えを感じ、虫の音がガラス戸越しにかまびすしく聴こえてくる、そんな秋の一日、私にとっていろいろなことがあり過ぎた2023年の夏を振り返ってみた。

今年の夏の前半はいつも通り、旅をメインに日本の夏を謳歌した。

まずは祇園祭。

コロナの影響で4年ぶりに完全な様式で催行されるとあって楽しみであった。

02019年長刀鉾 注連縄切り
2019年の長刀鉾の注連縄切り

加えて長崎の84歳になる叔母と娘夫婦を案内しながらの祇園祭である。

宵山(7月16日)、西と東から上洛した我々一行は2時過ぎから町の筋々にその勇姿をあらわす山鉾をめぐり歩いた。

鶏鉾 宵山
筋々に山鉾が建つ・鶏鉾

人出は多いものの炎天下とあって地元の人々はまだ市内に繰り出しておらず思ったより歩きやすい。

そこで行列が少なめだった放下鉾のお会所をたずねた。

放下鉾
放下鉾の会所を訪ねる

会所の受付で志しとして二千円を納め二階へ昇る。

懸装品がならぶ放下鉾会所
懸装品がならぶ会所

そして懸装品を見学し、仕来りから男性のみの搭乗がゆるされる鉾のうえに乗った・・・従妹の旦那だけ・・・杖を使用するわたしは急な階段のため遠慮した。

それから函谷鉾の会所では粽をもとめ、現在、わが家の玄関で疫病など外患の進入を許さじと目を光らせている。

玄関飾の函谷鉾の粽
函谷鉾の粽が目を光らせる玄関

これで今年の疫病対策は万全ということである。

それから烏丸駅から京都河原町までの一駅を阪急電鉄に乗って八坂神社へと向かった。

宵山の八坂神社
四条通の東詰めに八坂神社が鎮座する

足弱のわたしにとって、酷暑のなか一駅でも電車で移動できることはありがたいことであった。

宵山八坂神社
八坂神社西楼門

宵山の八坂神社の境内はさすがに参拝客でいっぱいであった。

参拝客でいっぱい
インバウンドも増えた境内

まずは祇園祭と縁の深い摂社・疫(えき)神社へお参りする。

疫神社・祭神蘇民将来
蘇民将来を祀る疫神社

西楼門をくぐってすぐのところに鎮座しているので、ほとんどの観光客は気づかずに通り過ぎてゆく、なんか不思議・・・

ご祭神が祇園祭の粽に記されている「蘇民将来子孫也」のまさに蘇民将来である。

ここへお参りして、本殿へ向かうのが祇園祭の参拝の所作ではなかろうかと、祇園祭オタクは考えてしまう・・・

実際、祇園祭の一連の儀式の最後を締めくくる神事が、7月末日に当摂社で執り行われる「疫神社夏越祭」なのであるから。

それから拝殿にお参りし、神楽殿に鎮座する神輿三基をみる。

神楽殿で出輿を待つ神輿
神楽殿に東御座・中御座・西御座がならぶ

翌日、洛中をめぐって御旅所へ遷座する神幸祭を待っているのである。

いつ見ても金色にかがやく神輿は堂々として素晴らしい。

そして太陽が傾きかけたので高張提灯に灯がともされた長刀鉾だけはしっかり見ておこうと、警察官の誘導に従い押すな押すなの人混みにもまれながら四条通を東へと移動した。

長刀鉾へ向かう夥しい人
長刀鉾を見ようと四条通はすごい人

警察官が「スマフォ撮影は歩きながら!」、「立ち止まっての撮影は辞めてください!」と声を張り上げて、いやがうえにも祭りの臨場感が盛り上がる。

その切迫した大声を打ち消すかのように、鉾の頭上からはコンチキチンと祇園囃の旋律がなだれ落ちてくる。

高提灯に灯が入った長刀鉾
高張提灯に灯が入った長刀鉾からコンコンチキチン・・・

その沸き立つようなリズムに見送られ、長刀鉾の脇を通り抜ける。

嬌声を張り上げる若いカップル。

幼児を軽々と肩に背負った親子。

わたしのような足のおぼつかない老人、それを支える細君、また健脚を誇る米寿間近の叔母親娘など鉾はさまざまな人々に、無病息災の厄除けという旋律の金粉をふりかけてくれた。

コンコンチキチン、コンチキチン!!

これから宵山はいよいよ最高潮を迎えることになる。

というとことなのだが、われわれ老人組は日中からの外出とあって疲れもあり、明日の山鉾巡行にそなえてホテルへと引き返すことにした。

驚いたことに、帰りの烏丸通にはおびただしい数の屋台や露店がたちならんでおり、黒山の人だかりで歩道が埋め尽くされていた。

宵山烏丸通
夥しい屋台と若い人たちであふれかえる烏丸通

これまでの祇園祭ではじめて経験した、少し恐怖を覚えるほどの人出であった。

翌日の京都新聞に16日の宵山には34・5万人の人が繰り出したとあった。

なるほど身に危険を感じたのも無理からぬことと納得した。

またコロナ明けのまさに災厄放逐の祈念の祭り、面目躍如の感があった2023年の祇園祭宵山であった。

2022年諏訪大社・御柱(おんばしら)祭、前宮御柱里曳の勇壮に酔う

コロナ禍のなか六年ごと(寅・申の干支)に実施される諏訪大社の御柱祭を幸いにもこの5月4日、観覧することができた。

2022.5.4 前宮御柱祭
前宮一の鳥居
諏訪大社上社の本宮・前宮に建てられる八本の御柱は、四月上旬に八ケ岳麓の八ケ岳農場下に設けられた綱置き場から曳き出され、天竜川水系に属す宮川を越えて御柱屋敷まで曳行される。

その一連の神事を“山出し”というが、此度はコロナ対応ということで人の手によるのではなく、トレーラーによって御柱屋敷まで運び出された。

その為、御柱祭の華といわれる斜度27度の木落し坂の“木落し”や“宮川の川越し”といった豪壮な行事は残念なことに省略された。

2010年諏訪大社上社の木落し
2010.4.4 諏訪大社御柱祭 木落し - コピー
5月上旬、ちょうどGW期間に催される御柱屋敷から本宮・前宮への“里曳き”も、車による移動と思っていた。

2016.5.3 本宮四之御柱 里引き
2016年上社本宮四之御柱 里曳き
ところが、“里曳き”、“建て御柱”は従来通り人手により執り行われるとの情報が耳に入ったので、急遽、御柱里曳の観覧となった。

2010.5.3 諏訪大社上社 里曳き 桟敷より
2010年上社里曳きを桟敷より観覧
5月上旬にわれわれ夫婦にジョインした娘と息子家族総勢6人での参加である。参加といっても氏子ではないので、当然、氏子たちが“めどでこ”に跨り、木遣りの唄に合わせ“黄色い”おんべ“の房を振り乱す祭りの熱気を感じ取ることしかできないのだが。

2022.5.4 前宮二之御柱 二の鳥居の最後の石段に挑む
2022年前宮二之御柱 里曳き
ということで里曳きは5月4日、前宮にて観覧することになった。

これまで本宮がもっぱらであったが、此度は守屋山中腹に鎮座する前宮への里曳きである。

前宮は本宮とは異なり、一の鳥居から社殿まではほぼ一直線の上り坂になっている。

特に二の鳥居を抜け、社殿境内に這入るにはさらに勾配はきつくなり、しかも石段を登りきるという力業となる。


初めて観覧する前宮境内への勇壮このうえない曳き込みである。耳に突き刺さる木遣りの唄や進撃ラッパが鳴り響くなか、氏子たちの掛け声、総指揮者のがなり声、その狂乱と迸る熱気はまさに“祭”の醍醐味であった。

氏子が振り絞る「ヨイサ!」「ヨイサ!」の掛け声とともに、二の鳥居の急こう配の石段に挑む。

その様は1200年もの長きにわたり守られてきた原始信仰の荒々しくも幼児(おさなご)のような無垢の魂の雄叫びそのものであった。

御柱の先頭の“めどでこ”が社殿境内に駆け込み、後尾の“めどでこ”が天空へと跳ね上がったときにはなぜか目頭が熱くなった。

2022.5.4 後尾のメドデコが跳ね上がる

そして6年後の御柱祭にこうして家族と一緒に健康な体躯で参加できるだろうかと頭を過ぎった。

千二百年にわたり信仰という一筋に綯()われてきた縄の先っぽに触れることのできた貴重な一日であったなぁと、諏訪の神様に感謝したところであった。

2016年祇園祭・後祭で大船鉾を見た 山鉾巡行一挙掲載!!

2014年祇園祭・山鉾巡行前祭(さきまつり)に興じる(2014.7.21)

(当ブログの写真の転用・二次利用を禁じます)


当ブログ、最近の記事は食う、喰う、食べるばかり、ここで少し伝統文化の話題でも。

2014年に初めて祇園祭を宵々山から堪能したことは2014年7月のブログに記載した。

その時、その年から半世紀ぶりに復活した後祭のためお目当ての山鉾巡行が従来の33基から前祭としての23基のみの見物となり、残念であった旨を記した。

1・後祭の山鉾ミニチュア
京都駅に展示された後祭の山鉾ミニチュア

そこで、今年は7月24日の後祭の10基の山鉾巡行、しかも150年ぶりに復活した大船鉾を見ることを楽しみに京都へやってきた。

2・大船鉾ミニチュア
大船鉾のミニチュア

後祭の山鉾巡行コ−スは17日に行われた前祭とは逆に、烏丸御池を東に向かってスタートし四条烏丸までのコースとなる。われわれは河原町御池の交差点に陣取り、巡行の行列を見物した。

3・河原町御池交差点
河原町御池の交差点 もうすぐ山鉾がやって来る

9時半に烏丸御池を出立し、予定では10時ころから順次、山鉾がわれわれの目の前で辻回しをやりながら通過することになっていた。


10時きっかり、時間通りに後祭巡行のトップバッターである橋弁慶山がやってきた。

4・10時に舁山(かきやま)橋弁慶山が来た
舁山・橋弁慶山がくじ取らずのトップバッター

後祭には舁山(かきやま)が7基巡行するが、この橋弁慶山は“くじ取らず”といって、毎年行われる巡行順番のくじを引くことなく、常にこの順位で巡行することをゆるされている町である。

5・五條の大橋の弁慶・牛若丸 橋弁慶山
五條の橋の弁慶・牛若丸

その代表的なものが祇園祭(前祭)の象徴的な鉾で必ず先頭で巡行する長刀鉾である。

6・祇園祭の象徴でもある長刀鉾
祇園祭の象徴、長刀鉾(2014年前祭)

その“くじ取らず”の山鉾が、後祭においては一番・橋弁慶山、2番・北観音山、6番南観音山、10番大船鉾の四基となっている。


ここで祇園祭をより楽しむための豆知識をひとつ。


祇園祭には山鉾33基が巡行するが、その内訳は鉾が10基、山が23基となっている。

鉾と山の違いだが、鉾は原則、屋根に真木という長い鉾を立てており、その頂きの鉾頭が疫病神を吸い取ると古来、信じられてきたという。鉾は2階建てでお囃子衆がのるほどの大型のものである。


山は鉾のかわりに真松と呼ばれる松の木をいただく。三基の曳山を除いては大型のものはない。

山は曳山と舁山にわかれるが、曳山が字義どおりに人々が綱を引き曳行し、そのため大きな車輪を有す。

また舁山は昔は人々が担いでいたが、近年は小さな車輪をつけて押して巡行する。曳山は前祭の岩戸山、後祭の北観音山・南観音山の三基のみで、残りが舁山20基となっている。


橋弁慶山につづいて飾り屋根を付けた曳山の北観音山が河原町御池の交差点へ入ってきた。

7・真松を立てた北観音山(曳山)
曳山・北観音山

一見すると鉾に見えるが、江戸時代後期・天保四年に山に飾り屋根をつけたのだという。堂々とした山である。そして、ここでこの大きな北観音山の力技、辻回しがある。

8・割竹を敷き、水を撒き、辻回し
辻回しの為の割竹を敷く

道に割竹を敷き、水を撒く。この上に大きな車輪を乗り上げ、人力で引っ張り九〇度の方向転換をするのだ。

9・力が入る辻回し
音頭取りが一斉に掛け声

曳山の先頭にのる音頭取りが扇を振り、声を振り絞って、辻回しに気合を入れる。9トンもの曳山がゆっくりと方向を変える。三回で90度まわせば普通。二度で回せば山鉾に負担はかかるが素晴らしい。四回は何をやっているんだ ( `―´)ということだと、沿道の通の人が教えてくれた。


そして、3回で無事辻回しを終えた北観音山はゆっくりと河原町通りを南下していった。

10・北観音山・辻回しが終わり、川町通りへ
これから河原町通りを四条河原町へ向かう

次に登場したのはかわいらしい浄妙山である。

11・舁山・浄妙山
浄妙山がやって来た

宇治川橋の合戦で繰り広げられた筒井浄妙と一来法師の先陣争いを題材とした人形が山を飾る。一来法師が浄妙の頭上を跳びこす様子や橋の欄干に幾本も刺さる矢がリアルである。

12・筒井浄妙の頭上を跳ぶ一来法師
宙を跳ぶ一来法師 宇治川の先陣争い

4番目に入ってきたのは役行者山である。

13・舁山 役行者山
舁山の役行者山が来た

修験道の祖である役小角をモチーフであることから法螺を吹く山伏たちが先導役を務める、京のビル街の辻に法螺貝のぶぉ〜という音が響き渡る。

14・法螺貝を吹きながら山伏が先導する
山を先導する山伏たち

山には左から一言主神、役行者、葛城神と人形がならぶ。

15・左から一言主神、役行者、葛城神
左から一言主神、役行者(洞の中)、葛城神

山が軽いこともあるが、辻回しを3回か4回行なうと、観衆から歓声と大きな拍手が起こった。担ぎ手に若い人が多いと小さな山でも見せ場はある。

16・役行者山の辻回し
拍手喝さいだった役行者山の辻回し

次に登場したのが黒主山。

17・舁山・黒主山
黒主山

六歌仙の一人、大伴黒主が桜の花を愛でる姿が山に載っている。

18・桜を仰ぎ見る大伴黒主
大伴黒主が桜を仰ぎ見る

そして、回数が少なく単調で、期待外れであった辻回しを終えた黒主山が河原町通りに入っていった。

19・黒主山の辻回し
ちょっと期待外れな辻回し

六番目に進んできたのが、曳山の南観音山。

20・曳山・南観音山
迫力のある南観音山

この南観音山は“下り観音山”と呼ばれ、“上り観音山”の北観音山と対となる曳山である。曳山の象徴である飾り屋根を備えた山はいかにも威風堂々の登場であった。

21・かざり屋根を付けた曳山・南観音山
曳山はやはりイイ!!

前後祭に祇園祭が別れるまでは、南観音山が巡行の最後を飾っていた格の高い?曳山である。お囃子衆がコンチキチンを奏でながら、辻回しを終えて、南下していく。

22・お囃子衆が乗る曳山
多くのお囃子衆が載る南観音山

7番目は鈴鹿山。

23・鈴鹿山
どこか静々と鈴鹿山が登場

瀬織津姫命の伝説をモチーフとした山で山鉾のなかで唯一の美女像となっている。

24・ご神体・瀬織津姫
ちょっと鳥居が邪魔だが、瀬織津姫である

ご神体人形の瀬織津姫命が山に立っている。

25・南観音山の後を追う鈴鹿山
鈴鹿山も河原町通りへ

次に八幡山が交差点へ入ってきた。

26・八幡山が入ってくる
八幡山

この山は神社の祠そのものを山に置くという大変変わった山である。石清水八幡宮から三条町へ勧請され、町内に祭られている八幡さまを祇園祭の山鉾巡行の日に限り、この山に遷座しお祀りしている。

27・遷座した金色の八幡宮
金色の祠である

云ってみれば、神社そのものを巡行させていることになる。山に置かれた八幡様が鎮座する祠は金色に輝いている。



後祭の巡行もいよいよ終盤。巡行9番目の鯉山がやってきた。

28・鯉山が登場
後祭巡行も9番目の鯉山はやって来た

黄河の難所、龍門の急流を登りきった鯉は龍となるという中国の故事をモチーフとしている。

全長1・5mになる木彫りの鯉は名工左甚五郎の作と伝えられている。

29・左甚五郎作と伝わる木彫りの鯉
傳左甚五郎作の木彫りの鯉

鯉山が河原町通りをゆっくりと南下していく後姿を眺めていると、沿道の観客からひときわ高い歓声が沸いた。

30・河原町通りを下る鯉山
鯉山も南へ下っていく

いよいよ後祭の殿(しんがり)を務める大船鉾の登場である。

31・大船鉾がやってきた
どよめきとともに登場する大船鉾

船鉾はそもそも、前祭の船鉾が神功皇后の新羅征伐にむけ出陣するさまを描き、後祭の船鉾は新羅から凱旋してくる船を表しており、二つの船鉾で物語として完結する形となっているという。

32・四条河原町で辻回しをする前祭の船鉾
2014年の前祭・四条河原町での船鉾の辻回し

幕末の禁門の変で焼失した大船鉾が150年ぶりに復活し、前後の祭りで古来の形式に復した姿を見物するが今回の大きな目的の一つであった。



われわれは大船鉾が復活した2014年、前祭の巡行を見物した翌日、くぎを一切使わず木と縄だけで鉾を組み立てる“縄がらみ”という技法を大船鉾の保存会・四条町で見学していた。

33・2014年大船鉾の鉾建て
2014年の大船鉾の鉾建て 地元TV局も取材

その年は舳先を飾る龍頭は未だ完成を見ておらず、この2016年に初めて大船鉾の舳先に龍頭が飾られるという。それもまた、楽しみであった。

34・大船鉾の登場
いよいよ目の前に大船鉾が・・・

目の前に現れた大船鉾は堂々としてまさに凱旋船と呼ぶに値する豪華さであった。

35・威風堂々の大船鉾
ワクワクするほどの大船鉾の威容である

その舳先を大きな龍がまた、見事というしかない。

36・舳先に龍頭
今年初めて取り付けられた見事な龍頭

保存会ではこの大船鉾の復興は引き続き継続されるのだという。

37・素晴らしい龍頭
白木の龍頭

見ての通り、まだ白木の部分が多く、この先数百年にわたり維持保存していくには漆塗りが必要とのことで、募金活動等今後も完全復活に向けた努力がなされてゆくという。

38・河原町通りを下る大船鉾
2016年祇園祭の後祭、山鉾巡行の見納め
大船鉾が川町通りに下がってゆくと、沿道の観客の群れが大きく崩れたが、後祭はこの後に花傘巡行が続くことを遠来の観光客はあまりご存じない様だ。10分もしないうちにその花傘巡行がやってきたが、その模様は次稿に譲りたい。


アップ遅すぎ! 横手の“雪まつり” (1/2) 横手城・平安の風わたる公園

横手の“雪まつり” (2/2) 憧れの“かまくら”に游ぶ(2015.3.25)

東京は明日の朝の寒さまでで今年の冬の寒さはおわるのと、NHKラジオの気象予報士・伊藤みゆきさんが云っていた。


そこで、今年の冬の積み残しはさすがに、本日までにアップしておかねばと思った次第。横手でお世話になった中学生諸君にも顔向けできないしね。


秋田県横手市の“かまくら”は小学生時代からなぜだか心惹かれる存在だった。一度は訪ねてみたいと思っていたが、ようやく今年の2月にその夢が果たせた。なのに、なぜ、すぐにアップしないのか。ごもっとも!! いろいろホントに野暮用があって・・・


さぁ、ぐずぐず言わずに“かまくら”実体験レポートにいこう。訪ねたのは、かまくら祭りの最終日の2月16日。天気晴朗の申し分ない旅日和。


10:20の東京発新幹線・こまち3号で一路、夢の横手へ。初めて乗車する秋田新幹線。

1・秋田新幹線こまち

盛岡駅で東北新幹線から別れて、大きく東北内陸部へと西進。窓外は雪景色へ一転。

2・雪原に岩手山
雪原の先に岩手山と青空

くっきりと雪原のなかに岩手山が見える。これは絶景である。

0・岩手山
岩手山、ビューティフル!!

13:35に花火競技会で有名な大曲に到着。ここで、新幹線を降車し、これまた初めて体験する奥羽本線・新庄行の乗り換え、横手に向かう。

3・大曲駅で奥羽本線へ乗り換え
新幹線が遅れても待ってくれる奥羽本線

13:42に大曲駅を発車、14:02にもう目的地、横手駅へ到着。わずか20分の乗車時間。

4・JR横手駅
JR横手駅 市内の道路はきれいに除雪されている

当日の宿泊先である駅前のホテルプラザアネックス横手というホテルにチェックイン。

5・ホテルプラザアネックス横手
温泉もあるホテルで、ほっこりします

このホテルは温泉併設のうえ、翌日の朝食の場所から、あの鳥海山が見えたのです。もうびっくり、北の人たちが自慢するのがよく分かった。美しいのひと言でした。

12・ホテルから鳥海山が見えた
出羽富士とはよくぞ言った、見事な鳥海山

さて、フロントに荷物をあずけたところでホテルマネイジャーに暗くなるまでの冬の横手の観光を相談。そして、タクシーをチャーターし、まず横手城へ。ここも“かまくら”がつくられていた。

6・かまくらと横手城
天守閣とかまくら

天守閣から横手市をまずは一望。空には徐々に雲が出始め、午前中のような青空を背景にとはいかぬが、見晴らしは最高。

7・横手城天守閣から横手川と横手市内を一望
横手川と横手市内を一望

そこから後三年の役・金沢(かねざわ)資料館へおもむく。後三年の役(1083−1087年)は奥州藤原氏が奥州に覇権を確立する契機となった戦である。源義家が清原清衡を扶け、この横手の金沢柵に籠る原家衡・武衡軍を破った。その後、清衡は実父の藤原経清の姓に改め、以後、藤原四代の繁栄の礎を築いた。


その金沢(かねざわ)柵のすぐ麓に建てられた後三年の役金沢資料館、この日はなんと休館日。“雪まつり”パンフレットにはこの日は開館すると記載されていたのに、あぁ、残念。記念に無念の閉館の写真のみを撮ることに。

8・後三年の役金沢資料館・休館日でした

あまりに悔しいので、ハズレついでに“平安の風わたる公園 (横手市金沢中野三貫堰)に立ち寄ってもらうことにした。


運転手さんもホテルのマネイジャーも冬は閉鎖されているので無理だと知らされていたが、八幡太郎義家が雁行の乱れで伏兵のあることを知り、難を逃れた場所であるという公園の傍に立ち、一一〇〇年前の世界に羽ばたいてみたいと思ったのである。


そして、平安の風わたる公園へ・・・

9・平安の風わたる公園
公園の散策なんて・・・

わずかに期待していた公園への足の踏み入れも、この一面の雪を見せられるとさすがに諦めがついた。こんな雪深いところで天下に名高い後三年の役という戦があったのかと思うと、感慨ひとしおである。そして、中央の雁がね橋が見通せたのはせめてもの慰めではあった。

10・雁行を象った雁がね橋
冬ざれた小枝の先に雁がね橋が見えた

そんな分厚い雪のなか注意深く目を凝らすと、此の戦の主役たちの銅像が雪囲いされて佇んでいた。

11・雪囲いされた源義家像
雪原のなかに八幡太郎義家の銅像が・・・

一一〇〇年前の恩讐をこえて、いま、こうしてならんでいる銅像を眺めていると、いまだに止むことのない世界中の紛争といった人間の営みや存念なんてなものは、千年経とうが何にも変わっていないのだとつくづく思うしかない。人間の宿業というしかないのだろうかと、やや、やるせない気持ちにもなった。


そんなブルーな気分はやはりこの目の前に展開する一面の雪景色がそうさせるのだろうか・・・



2014年祇園祭・山鉾巡行前祭(さきまつり)に興じる

2016年祇園祭・後祭で大船鉾を見た 山鉾巡行一挙掲載!!(2016.8.23)
2014年、祇園祭の“割烹やました”で、涼をもとめる=京都グルメ(2014.8.13)

2014年7月17日、気温35.5度の猛暑のなか、1100余年の歴史を有する祇園祭の目玉のひとつ、山鉾巡行・前祭(さきまつり)を観覧した。

8・大役果たした生き稚児さん

今年からは49年ぶりに後祭(あとまつり)が復活。これまで33基の山鉾が17日に一斉に巡行していたものが、17日の前祭に23基、残り10基が24日の後祭と、2日間に分けての巡行となった。

0011・宵山の八坂神社
宵山の八坂神社

そもそも祇園祭の本義は、八坂神社のご祭神(素戔嗚尊・櫛稲田姫命・八柱御子神)を三基の神輿に遷し、洛中の厄神をかき集めながら御旅所へと向かう神幸祭(17日)と、

0001・神幸祭を待つ宵山の神輿
神幸祭を待つ三基の神輿・八坂神社宵山

その厄神を神泉苑へ流し去った神輿が御旅所から八坂神社へ還る還幸祭(24日)にある。

001・御旅所
四条御旅所

山鉾巡行は神輿の先触れとして京の町衆が自発的に実施したものであり、本来、神事の外にあるが、美麗に飾りつけられた巡行が八坂神社の祭礼に賑わいと華やかさを添える大きな役割を持つに至ったことから不即不離の関係へと変わっていった。


そういう由来に照らせば、前祭と後祭に巡行が分けられたことの方が、祇園祭本来の姿に立ち戻ったということになる。


その49年ぶりの前祭が復活した祇園祭を、15日の宵々山から18日までの4日間、目一杯、堪能した。


宵山や山鉾建てなどの様子、そして神輿渡御については別稿に譲るとして、ここではまずは祇園祭のハイライトである山鉾巡行について記すことにする。


当日は注連縄切りがよく見える四条麩屋町より少し西に陣取った。7時半に現地到着、すでにその周辺は道路に面した一列目が長く伸びており、何とかわれわれもその一画にスペースを見つけた。

001・8時半頃、すでに沿道はいっぱい
8時半頃、沿道にはたくさんの見物客

いよいよ午前9時。

01・巡行がやって来る

四条通り烏丸から “くじ取らず”の長刀鉾を先頭に巡行が四条通りを西へと進んでくる。

3・注連縄に近づく

そして神域との結界である四条麩屋町角に張られた注連縄の前に長刀鉾が止まる。

4・止まる
四条麩屋町に張られた注連縄の前に止まる

四条通りに渡された注連縄を長刀鉾に載った生き稚児が太刀で断ち切る“注連縄切りの儀式”が執り行われる。


今年の生き稚児の大役を務めるのは、まだ愛らしい平井誠人君(9歳)。

09・正5位

この厳かな“注連縄切り”が山鉾巡行の一番のハイライトと云ってもよい。

5・注連縄切り
注連縄がまさに切り落とされる瞬間

注連縄が切り落とされた瞬間、沿道の見物客から拍手と歓声が挙がった。

7・無事終了

“生き稚児”が結界を破ることでいよいよ山鉾が神の領域に入ってゆく。

我々の目の前を2日の“くじ取り式”で決まった順番で山鉾が曳かれてゆく。

9・神の領域に入って来る長刀鉾
神の領域に入る長刀鉾

常に先頭をゆく長刀鉾(なぎなたほこ)と5番の函谷鉾(かんこくぼこ)、21番の放下鉾(ほうかぼこ)、22番岩戸山、23番船鉾は、“くじ取らず”といって、巡行の順番は常にその位置となっている。


次々と目の前を過ぎてゆく山鉾を以下、順に紹介する。

2番目が山一番を20年ぶりに引き当てた占出山。占出山の順番が早い年は安産が多いといわれているとのこと。

11・占出山

3番目は芦刈山。

12・芦刈山

4番目が孟宗山。

13・孟宗山

5番目は“くじ取らず”の函谷鉾。鉾頭は月に山形。

14・函谷鉾

6番が山伏山。

15・山伏山

7番が囃し方を擁する綾傘鉾。

16・綾傘鉾

8番は伯牙山。

17・伯牙山

9番目が菊花の紋様が鉾頭の菊水鉾。

18・00菊水鉾も来る

10番目が太子山。山には松の木が取り付けられているが、太子山のみ杉が立てられている。聖徳太子が大杉の霊木で六角堂を建立されたとの六角堂頂法寺の縁起に拠っているという。

19・太子山

11番目が霰(あられ)天神山。小祠と鳥居が飾り物。

20・霰天神山

12番は人形と鳥居が載る油天神山。

21・油天神山

13番は鶏鉾。

22・鶏鉾

14番は木賊(とくさ)山。

23・木賊山

15番目が囃し方のいる四条傘鉾。

24・四条傘鉾

16番が飾り物の蟷螂(カマキリ)の羽や脚が動き、子供たちに人気の蟷螂(とうろう)山。

25・01蟷螂山

17番が鉾の天王が月読尊(つきよみのみこと)の月鉾。

26・02月鉾

18番が白楽天山。

27・白楽天山

19番が保昌(ほうしょう)山。

28・01保昌山

20番が唯一、屋根のある山、郭巨(かくきょ)山。

29・02郭巨山

21番目からが“くじ取らず”になるが、その21番目が放下(ほうか)鉾。

30・01放下鉾

22番が山でありながら形態は鉾と同じ岩戸山。真木として松を立て、高さは15mにおよぶ。

31・01岩戸山

そして、前祭の殿(しんがり)が23番目の船鉾。曳き鉾のなかで唯一、真木がないのが特徴。

32・01船鉾

巡行は先頭の長刀鉾が眼前を過ぎてからちょうど2時間が経過する炎暑のなかの長丁場であった。


翌日の京都新聞によると、山鉾の基数が10基減少した今年の巡行時間は、結局、15分の短縮がなったのみという。


原因は35・5度の炎暑により巡行関係者を中心に体調不良者が相次ぎ、救急搬送など対応に時間を費やしたためと説明された。


当日の人出は例年より3万人少ない11万人。後祭に分散したのではないかとのことであったが、われわれが陣取った四条通りの混雑は半端なものではなかった。


そして、23基の山鉾を見送った後、巡行行列を追いかけて四条河原町での辻回しも郭巨山からどん尻の船鉾まで4基を観ることができた。


祇園祭山鉾巡行の観覧は待ち時間を含めて5時間におよんだが、注連縄切りに辻回しも目にすることができ、実り多い時間を過ごせた祭りの一日であった。



秩父夜祭(平成25年12月3日)の朝・昼・夜=夜・御旅所桟敷席より屋台の団子坂登りを堪能

秩父夜祭(平成25年12月3日)の朝・昼・夜=朝
秩父夜祭(平成25年12月3日)の朝・昼・夜=昼・下郷笠鉾・中町屋台・中近笠鉾・上町屋台・宮地屋台
秩父夜祭(平成25年12月3日)の朝・昼・夜=昼・本町屋台の屋台芝居
秩父夜祭(平成25年12月3日)の朝・昼・夜=夜・花火大会 “あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない”
秩父夜祭(平成25年12月3日)の朝・昼・夜=夜・御旅所で御神幸行列・御斎場祭


神事が御旅所のなかで続くなか、われわれは屋台が到着するまでの間、桟敷席左斜めと左後方に次々と打ち上げられ、炸裂する大輪の花火の彩りに酔い痴れ、“うわ〜!”、“すごい!”、“キレイ!”などと嘆声をあげ、あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない”の世界にどっぷりと浸る。


そしていよいよ、午後8時半まえ・・・

団子坂方向から秩父囃子の軽やかな音に覆いかぶさるようにして、うねるような群集の響(とよ)みが地鳴りのように伝わってきた。団子坂頂上に、曳き子の人たちが姿を現し、“中近”と標した高張提灯が見えてきた。

00・団子坂頂上に中近の高張提灯が・・・

一番目に、毎年御旅所への一番乗りの栄誉をいただく中近笠鉾がやってきたのである。

1・中近笠鉾、団子坂駆け上る

御神幸につづく笠鉾・屋台の奏曳順は不変ということで、中近笠鉾、下郷笠鉾、宮地屋台、上町屋台、中町屋台、本町屋台の順で続いてゆくのだそうだ。


それから30分後。今度は下郷笠鉾が姿を現す。あの白木造りの笠鉾も、夜の闇のなか強いライトを浴びて身に纏う4千枚の飾り金具が煌めき、笠鉾は金色に輝いている。

2・下郷団子坂

場内になだれ込んで来る曳き子の数の多さにも観客は驚きの声を発する。ものすごい人数である。

下郷屋台一番乗り

場内には先行して到着した中近笠鉾が奏でる秩父囃子の太鼓の音が人間の情念を掻き毟るかのように響いている。“うお〜っ!”という大歓声が挙がる。最高斜度25度の団子坂を登り切ったのである。

6・中町屋台が団子坂を登って来た

そののちも、順次、屋台が多くの曳き子たちとともに場内へと入って来る。場内の空地も徐々にそのすき間をなくしてゆく。

そして、屋台の数が一基また一基増すにつれ、秩父囃子の旋律は秩父の夜空に反響するかのようにし、その響(とよ)みは場内にいる人間の情念の共鳴をひろげてゆくようである。

7・続々、到着する屋台

すでに場内には五基の笠鉾・屋台がそろい、シンガリの本町屋台を待ち受ける。

8・夜祭りも最高潮

午後10時を数分過ぎた頃、屋台芝居の舞台を解いた本町屋台の登場である。団子坂登りの最後の屋台である。

9・本町屋台・団子坂を登り切る

曳き子と屋台で立錐の余地もなくなった場内に、本町の曳き子が一直線にその引き綱と一緒になだれ込んできた。

10・大勢の曳き子により本町屋台が御旅所へ入ってきた

まさに千両役者の風格である。屋台囃子も天にも届けと太鼓や笛の音がその律動を早め、場内は祭りの終焉へ向けて最後の情念を燃やし尽くす。

11・最後に登場した本町屋台

そして、勢ぞろいした屋台の頭上に花火が二発、美しい輪を広げて、その炸裂音を遠く秩父の山脈へと響かせた。

14・最後を彩る”黄金の滝”

本町屋台のギリ廻しが終わると、御旅所の亀の子石を要に6基の笠鉾・屋台が扇を開いたように形を整える。

午後10時半。2013年の御斎場祭の終了である。

12・本町屋台の最後のギリ廻し
本町屋台のギリ廻し
13・すべての笠鉾・屋台が御旅所へ集結

10時を過ぎると桟敷席の観客は一挙に退席し始めるが、実は10時半から見物客も曳き子たちが一服する場内へ降りることを許される。

御旅所に6基の笠鉾・屋台がならぶ

興奮冷めやらぬ曳き子や氏子の群れのなかに入って祭りの熱気をより身近に感じ、そして、夜空を背景に灯り提灯に浮かび上がる笠鉾や屋台を真下から見上げることができるのである。

1・御旅所へ降りて、左:宮地屋台・右:上町屋台

夜の闇に浮かぶ宮地屋台や上町屋台は、昼間、市街で見た姿とは異なるどこか幽玄の美しさを感じさせた。

5・御旅所に勢ぞろいした笠鉾・屋台

二基の笠鉾がならぶ。

2・笠鉾二基・左:下郷 右:中近

四基の屋台を一望する醍醐味。

3・四台の屋台揃い踏み

いずれも壮観である。

そして日にちを越えた12月4日の午前零時20分頃から、各町内の収納庫へ向けて順次、団子坂を降りてゆく。秩父祭マニアは必見といわれる、いわゆる難度の高い“団子坂下り”が始まる。


寒さも身に応えるわれわれ老夫婦は、そちらは若い方々にお任せするとして、その前に会場を後にした。


それと、車で今夜の宿泊場所・
“彩の森カントリークラブ” へ向かうため、臨時駐車場の南小学校へ向かわねばならなかった。南小の駐車場は午前零時までの利用となっているので、“団子坂下り”を見ることは難しかったのである。


それでも・・・祭りである。


何か大事な忘れ物をしているようで・・・
昂奮した人声があふれ出している屋台が目に入る。
午前零時までにはまだ少し時間がある。“躰が冷えたね”と家内に呟く。“熱いオデンでも食べて行こうか”と、もう足は広い店内へ。すごい人である。当然、クラブハウスまでの運転は家内である。まことに申し訳ないが、わたしのみちょっと体内温度を上げさせていただくこととした。

観覧を終えた人々でいっぱいの屋台

そして暗闇にいたせいか、やたらに明るい。オデンにワンカップの熱燗もと家内にねだる。

おでんで熱燗・武甲で一杯

秩父夜祭の興奮はまだまだこれから夜明けまで続くのだろう。半被を着込んだ若い衆もおり、これからの団子坂下りまでの一服なのかもしれぬと、わたしたちもその興奮の渦の片波に少し体躯をゆだね、揺らさせてもらった。


瞼には秩父の夜空に花開くスターマインの金色の彩りが映る。

そして、耳朶(じだ)には口元まで込み上げてくるような秩父囃子の切迫した律動が響く。


秩父夜祭、存分に堪能しつくした2013年12月3日の一日であった。


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秩父夜祭(平成25年12月3日)の朝・昼・夜=夜・御旅所で御神幸行列・御斎場祭

秩父夜祭(平成25年12月3日)の朝・昼・夜=朝
秩父夜祭(平成25年12月3日)の朝・昼・夜=昼・下郷笠鉾・中町屋台・中近笠鉾・上町屋台・宮地屋台
秩父夜祭(平成25年12月3日)の朝・昼・夜=昼・本町屋台の屋台芝居
秩父夜祭(平成25年12月3日)の朝・昼・夜=夜・花火大会 “あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない”
秩父夜祭(平成25年12月3日)の朝・昼・夜=夜・御旅所桟敷席より屋台の団子坂登りを堪能

先にアップした秩父夜祭の花火大会は午後7時半から10時まで間断なく続いてゆく。その間、午後6時半に秩父神社を出発した御神幸(ごしんこう)の行列が1時間半のゆったりとした道行きで神社の真南に位置する御旅所へと到着する。


午後8時、会場内アナウンスのなか、御神幸(ごしんこう)の行列が先導大麻を先頭にしずしずと御旅所前の広場へ入って来る。その後方に長い列が続いている。

1・先導大麻を先頭に御神幸の列がつづく

秩父各町のお供物行列の掲げる高張提灯が厳寒の夜の底をぼんやりと灯し、幻想的な雰囲気を醸し出す。

3・高張提灯も幻想的

グラウンドが暗いうえに遠目なので行列の細部はよく分らなかったが、順番が決まっているとのことであり、先導大麻を先頭に、大榊、猿田彦、楽人、錦旗、御手箱、太刀箱、各町会の高張提灯と供物、神社神饌、大幣、神輿、宮司、大総代、そして2頭の神馬が続くのだそうだ。

2・御神幸の到着

今朝方、秩父神社境内で見かけた御神輿が見えてきた。

0・御旅所へ向かう御神輿

すぐ後ろに秩父神社の宮司や大総代が随う。夜の暗闇が厳かな行列をいちだんと近寄りがたいものにしている。 

4・神輿に続く宮司

その一団のあと暫くして、ご神馬が二頭、御旅所会場へと入って来る。

当夜はそのうち一頭のご機嫌が悪く、二頭揃っての入場とはいかなかったが、ご神馬が嘶(いなな)き、手綱引きの氏子を振り解くごとく場内を走る様は、まさに祭りが動き神々の荒魂の猛々しい息遣いが聴こえるようで圧巻である。

5・神馬の到着 6・二頭目の神馬の到着

そして、先行する各町の名前を誇らしげに標(しる)した高張提灯の行列とも併せ、この神事が古来、秩父神社の神職たちはもちろんのこと、多くの無名の氏子たちの手によって大切に守られ、営々と引き継がれてきたのだということを心底、実感させられた。


御旅所内での儀式の様子は桟敷席からは遠過ぎて、ほとんど詳細は分らぬ。

7・御旅所内での御斎場祭

しかし、ズームを効かせ撮った画像から、祭主の祝詞奏上なのだろうか・・・なんとなくその雰囲気は伝わって来る・・・。

8・祭主の祝詞奏上

そんななか、当夜の会場はこれでもかこれでもかというほどに花火の打上げ音や炸裂音、さらに加えて場内アナウンスの喧(かまびす)しい声々が・・・厳粛な神事とはおよそかけ離れた“晴れの日”の音響が支配していた。

9・御旅所神事と花火

そして、団子坂を登って次々と場内へ集結する屋台。

4・下郷笠鉾、団子坂を登る
下郷笠鉾、団子坂を登る

その最後の屋台が御旅所に到着し、すべての笠鉾、屋台が亀の小石を要として扇状の形に展開し終わった。

それを待って午後10時20分頃から、御旅所内で本義である御斎場祭の神事がはじまるのである。


その頃には桟敷席の見物客は帰宅の途につき、一部の観光客が場内へ降りて、提灯の灯に浮かぶ笠鉾や屋台を間近に見上げることに忙しい。

10・御斎場祭が始まっている頃、桟敷席に人はいない

われわれ夫婦も曳き子たちに紛れ、整列する屋台を見て歩く。実は、この時、御斎場内では、神前において素面で舞う代参宮神楽が奉納され、各屋台では稚児による三番叟が演じられているのだそうだ。

何だか、その時、そんな知識も持ち合わせていなかったので、漫然とグラウンドをさ迷い歩いていたわたしたちでありました。


その厳かな御斎場祭が終わった後、およそ午前0時頃だそうだが、笠鉾と屋台がまず御旅所から各町内に向け出発、団子坂を下る。


その後から御神幸行列がしずしずと続く。この御神幸行列が秩父神社に到着するのはなんと4日の午前3時を
まわるのだという。


そののち6日まで養糸祭や新穀感謝祭、そして例祭完遂奉告祭を最後に秩父神社の例祭の祭事はすべて終了するのである。




秩父夜祭(平成25年12月3日)の朝・昼・夜=夜・花火大会 “あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない”


われわれは秩父の山脈に日が隠れてしばらくして、休息をとっていた南小学校(臨時駐車場)から御旅所へと歩いた。


午後7時半から始まる日本芸術花火大会の尺玉や四号玉や9時20分からスタートするスターマイン大会を見ようと、国道140号線沿いに見物客がぞくぞくと繰出してくる。

c:3D

そして、ポン!ポン!という試し打ちの音が秩父の夜空に響き渡り、かすかな衝撃波が秩父盆地の冷気をゆるがす。


途中で軽く夕食をと思い、先刻、目星を付けていた国道沿いの蕎麦屋へ・・・。ところがいつしか貸切中の札が下がり、入店不可。さてさて困ったと探し出したのが、国道からちょっと入り込んだ小さな中華料理店。


え〜、そこも席は空いているが予約席とのこと。交渉のすえ、7時までならOKということで、取りあえず焼飯を注文、腹ごしらえをすませ、押っ取り刀で御旅所の桟敷席へ。


夜祭当日はこうした個人経営のお店は、地元の方々が早手回しに花火の時刻に合わせて借切って、途中、外へ出て道路傍から花火を鑑賞し、寒くなったらお店に入り暖を取るといった利用がされているのかもしれない。国道沿いにあったファミレスに四の五の言わず入っておけばよかったというのが、今回のひとつの反省点であった。


そして7時半頃に御旅所へ到着したが、桟敷席はもう見物客で一杯。

係りの人に席まで案内してもらう。躊躇なく頼むのがよい。暗い中、席を自分で探すのは至難の業である。

氷点下の時もあるという厳寒の秩父である(過去の秩父夜祭当日の気温)。深更におよぶ観覧である、用意してきた毛布をベンチに敷く。さらに準備してきたオーバーズボンを穿き、マフラーに帽子とエスキモーのような格好で、老夫婦二人して、あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない”の、さぁ、上映開始である


秩父夜祭のクライマックス。秩父夜祭花火大会のはじまり、はじまり〜

01・あぁあぁ・・・

まずは日本芸術花火大会のスタートである。全国著名の花火師による手練れの花火の打ち上げである。



02・青の饗宴

冬の夜空に広がる大輪の花々は彩り鮮やかで豪華絢爛。美しい秩父絹で巨万の富をつくった秩父商人の豪気さと栄華を想起させる。


あの亀の子石のある御旅所へと静々と広場を歩みゆく御神幸行列。その頭上で繰り広げられる光と音の競演。

1・豪勢な花火が次から次へ

スターマイン(速射連発花火)がその言葉通りに息もつかせぬ勢いで打ち上げられ、厳寒の夜空は華やかな光のマジックを映すスクリーンへと変貌する。



2・美しい・・・

あまりの花火の数、豪勢さに皆、息を呑む。

4・夜空に小菊がいっぱい 5・ぼけても幻想的

美しい!!

6・大輪の花

あぁ・・・すばらしい・・・

7・桟敷席の後方にもスターマインが打ち上げられる

これほど連続して尺玉が・・・

8・冬空に花火

ブラボー!!

9・光が弾ける

尺玉・・・、尺玉・・・

10・青の世界

あぁ・・・あぁ・・・

11・屋台に花火

凄すぎで〜す




12・色とりどり

午後10時10分頃、最後の花火が打ち上げられる。

14・最後を彩る”黄金の滝”

扇状に整列した笠鉾・屋台の頭上高く、大輪の花々が花開く。


当夜はなんと約8000発もの花火が打ち上げられたのだとか・・・

a:タマヤ〜!! b:お見事


夢のような迫力満点の秩父花火大会。ステキ!のひと言。

老夫婦でもほっこり、幸せ気分になれる。


若い恋人同士なら・・・・・・ 
コラッ!! 何を、にやついておる彦左!






秩父夜祭(平成25年12月3日)の朝・昼・夜=昼・本町屋台の屋台芝居

秩父夜祭(平成25年12月3日)の朝・昼・夜=朝
秩父夜祭(平成25年12月3日)の朝・昼・夜=昼・下郷笠鉾・中町屋台・中近笠鉾・上町屋台・宮地屋台
秩父夜祭(平成25年12月3日)の朝・昼・夜=夜・花火大会 “あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない”
秩父夜祭(平成25年12月3日)の朝・昼・夜=夜・御旅所で御神幸行列・御斎場祭
秩父夜祭(平成25年12月3日)の朝・昼・夜=夜・御旅所桟敷席より屋台の団子坂登りを堪能

境内に入ると、午前中に目にした本町の曳き廻し屋台(国指定重要文化財)が消えていた。

00・曳き屋台の本町屋台

なんと野外舞台へと見事な変身を遂げていたのである。


冬の青空に映えて、桃色の花飾りも美しく華やかな装いをほどこし、今や遅しと、重要無形民俗文化財指定の屋台芝居の開演を待っていた。

5・本町屋台の舞台出来上り

ここで、本町屋台のいわゆる曳き屋台から芝居舞台への“変化(へんげ)”を簡単に画像で追ってみる。


町を曳き廻される屋台が一部、勾欄などがはずされ、両袖に土台を作り、舞台が張り出してゆく。

01・左翼の張出し舞台の組込み

その一連のよどみない流れは、かつて息子が幼児の折に弄んだガンダムなど合体戦士の玩具を彷彿とさせた。

1・張出し舞台の組立て 2・張出し舞台の骨組み組立てと支え柱

それは、造り替えによっては大空を飛翔する“天空の舞台”の設営も決して不可能ではないと思わせるほどの“変化(へんげ)の技”である。

3・舞台の屋台本体への組込み

その大胆かつ自由な発想を具象化する精緻な計算と精巧な技術は現代のわれわれを括目させる。

4・本町屋台芝居の舞台造り

昔のこの国の匠の技が半端ではなかったことを物の見事に実感させてくれるものであった。

01・本町屋台芝居の舞台

その舞台で最初の演目、前座の“白浪五人男”が始まろうとしていた。舞台前には文字通りの立錐の余地もないほどに見物客が集まっている。

00・舞台前にひしめく観客

囃子太鼓が鳴り響くなか、いよいよ舞台の緞帳が揚がる。


まず、秩父市立花の木小学校5年生の春山夏美さんにより、堂々としてしかもユーモアあふれた口上が述べられる。歌舞伎座の口上よりも実際のところ、声の張り、その内容においてこの少女の口上の方が見事であったと感心した。

1・小学生女子による口上

そして、“白浪五人男”の始まりである。

2・白波五人男

ひとりずつ舞台へ登場し、見得を切る所作に入ると、場内から一斉に“電器屋!”といった屋号の掛け声がかかり、たくさんのお捻(ひね)りが舞う。

3・お捻りの舞う日本駄右衛門の名演技

前座は素人歌舞伎とはいえ、その迫真の熱演ぶりは秩父夜祭を盛り上げるに十分な出来栄えであった。

4・迫真の演技

このあと、秩父歌舞伎正和会による「熊谷陣屋之場」の公演が続くのだが、われわれは厳しい寒さが予想される深更におよぶ御旅所桟敷席での観覧に備え、車中で軽く仮眠をとるため、駐車場の南小学校へと一旦、移動することとした。


午後4時前の南小臨時駐車場と武甲山
午後4時頃の南小グラウンド臨時駐車場

遠くに武甲山の山容がくっきりと見えるが、なるほど、兜の形をしている。秩父出身の俳人、金子兜太氏の俳号の由来がここにあった。浅学非才の身を恥じいる次第。

武甲山

そして、これからわれわれは待ちに待った秩父夜祭のクライマックスである御旅所での神事・御斎場祭と奉曳されてくる笠鉾・屋台の集結、それからアニメ・あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない”有名な秩父夜祭の花火大会を観ることになるのである。


その様子は、秩父夜祭(平成25年12月3日)の朝・昼・夜=夜・花火大会で紹介する。

秩父夜祭(平成25年12月3日)の朝・昼・夜=昼・下郷笠鉾・中町屋台・中近笠鉾・上町屋台・宮地屋台

秩父夜祭(平成25年12月3日)の朝・昼・夜=朝
秩父夜祭(平成25年12月3日)の朝・昼・夜=昼・本町屋台の屋台芝居
秩父夜祭(平成25年12月3日)の朝・昼・夜=夜・花火大会 “あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない”
秩父夜祭(平成25年12月3日)の朝・昼・夜=夜・御旅所で御神幸行列・御斎場祭
秩父夜祭(平成25年12月3日)の朝・昼・夜=夜・御旅所桟敷席より屋台の団子坂登りを堪能

まだ11時ではあるが、歩き疲れもあり、本町交差点近くのビルの2階にあるジョナサンで取りあえず腹ごしらえ。

0・腹ごしらえ

 
窓際の席があいていたので、そこに坐る。ここから本町交差点へ向かう屋台や笠鉾を目の前に見ることができるはずである。そして、われわれは目論見通りに食事中に通過した“下郷笠鉾”の曳行を見ることができた。

1・ジョナサンから下郷笠鉾の曳行を見る

まさに間近で見る白木造りの笠鉾の屋根に彫られた仙人と鳳凰の彫刻は素晴らしい。

2・下郷笠鉾の見事な彫刻が目の前に

そして、4千枚ともいわれる金色の飾り金具を纏った笠鉾はキラキラと輝き、神々しくさえ見えた。


食事を終え、外へ出ると、先ほどの下郷笠鉾が秩父神社境内に向かうため方向転換をしようとしている。いわゆる“ギリ廻し”が行われているのだ。重さ20トンの笠鉾を人力だけでギリ廻す、大変な智恵と技である。

3・ギリ廻しで傾く下郷笠鉾

本町交差点を直角に曲がった笠鉾がゆっくりと神社への参道へと入ってゆく。

4・方向転換完了。秩父神社へ


その姿を左手に見ながらわれわれは見物客であふれかえる本町通りをまっすぐ歩いてゆく。

6・人混みでいっぱいの本町通り

遠くに屋台が見えてきた。

1・中町屋台

四台の屋台のなかで一番大きな鬼板(屋台前後の両端を飾る板)を掲げる“中町屋台”である。前部の鬼板は天の岩戸開きが掘り出されている。

2・中町屋台の大きな鬼板

 屋台の上で、地方(じかた)の伴奏による曳き踊りが子供の演者によって披露されている。

3・地方は大人、立方は子供

演目は“雨の五郎”、本格的な見得を切る立方(たちかた)の男の子、相当な練習を重ねてきたに違いない見事な所作である。

4・中町屋台の曳き踊り

この屋台の後ろ幕には荒波を泳ぐ赤い魚。鯛であろうか、これも豪華である。そして、後ろの鬼板の意匠は素戔嗚尊(スサノオノミコト)による八岐大蛇退治となっている。

5・中町屋台後部・八岐大蛇退治の鬼板

さらに進むと、次に“中近笠鉾”が見えてきた。本来は花笠がつけられていたが、電線が架設された大正3年から笠をはずして曳行されるのだという。

1・中近笠鉾

この笠鉾は少し小振りだが、その分、瀟洒で端正な風格が漂う。総体は黒塗りでどこか宮殿風の造りとなっている。

2・宮殿風造りの中近笠鉾

この中近笠鉾は常に秩父神社を一番に出立し、御旅所に“いの一番”に到着する役どころなのだそうである。

3・中近笠鉾・正面

それから、御旅所なるものを見ることが可能であればと、桟敷席の確認も兼ねてお花畑駅の方へと向かう。


0・秩父鉄道・御花畑駅

その道すがら、“上町屋台”が路上に止められ、お昼の休憩をとっていた。

1・休憩中の上町屋台・みごとな鯉の滝上り

間近にじっくりと見上げる上町屋台はやはり、迫力満点である。

2・牡丹に唐獅子刺繍の水引幕がみごとな上町屋台

四台の屋台の内、最も大きな屋根を持つ屋台なのだそうだ。前面の鬼板は応婦人と龍が彫出されていて、それは見事である。

3・上町屋台の応婦人と龍を彫り上げた鬼板

後方に回ると、秩父夜祭の屋台ショットでよく目にする金糸を垂らした鯉の滝上りを見ることが出来た。

4・上町屋台後部・鯉の滝上り

後面の鬼板も素晴らしいのひと言。

5・上町屋台後面鬼板

そして、お花畑駅の踏切。

0・御花畑踏切を通過する秩父鉄道
御花畑駅踏切を秩父鉄道列車が通過


いよいよ御旅所も近い。

踏切からまっすぐに団子坂、その先に開けた御旅所前の広場の入口が見える。

1・お花畑踏切より団子坂、御旅所前広場を見る

踏切を越すと、両脇の家々に“当日桟敷席有り”といった張り紙が貼られている(今年は平日なので、席が余っているのだろうか)。

3・団子坂近辺にはこういった張り紙が  2・団子坂桟敷席です

秩父夜祭のクライマックスとも云える“団子坂の曳き上げ”と屋台の上に昇る花火を観るには、ここが最良のポイントであることは確かである。


最大斜度25度という団子坂。団子坂上より見た写真である。


4・この団子坂を手前へ登って来る

見た目にはさほどの勾配を感じさせないが、ここを重さ12〜20トンもある屋台や笠鉾が上ると思うと、見ぬ前からその豪壮な光景が目に浮かぶ。


御旅所前の広場(秩父公園)はかなり大きい。ここに午後8時過ぎ頃からこれまで見てきた屋台や笠鉾がぞくぞくと上って来るのである。

5・御旅所前から右手が桟敷席、幟の立つところが団子坂上
右手が桟敷席、左手に御旅所。正面幟が団子坂を登り切った処

自分たちの桟敷席の場所を大体の目星で確認していると祭りの係りの方がやって来て、この筋の上あたりだと
教えてくれる。親切である。

6・御旅所の大桟敷席

桟敷席の正面に、高い幟の立ったところがあるが、ここが御旅所であった。

7・御旅所

この御旅所に秩父神社の御神輿が渡り、ご斎場祀りが執り行われる。

8・御旅所にある亀の子石

御旅所には妙見菩薩を表わしているという亀の形の「亀の子石」がある。

9・御旅所の亀の子石

この場所で年に一度だけ、12月3日の夜に秩父神社に祀る妙見菩薩(女神)と武甲山に棲む龍神(男神)が逢い引きするのだと言われている。何とも艶っぽいといおうか気宇壮大なデートではある。


御旅所桟敷も無事確認したわれわれは、次に秩父神社境内で催される屋台芝居を見るため、神社へと移動することにした。


10・参道の人出もすごい

昼を過ぎると、神社近くの筋という筋には多くの人が入り込み、その混雑ぶりは、朝方の景色とは様相を異にする。


境内に入ると、6台の屋台・笠鉾のうち、まだ目にしていなかった“宮地屋台”が神門前で曳き踊りを奉納している最中であった。

2・境内神門前で曳き踊りを奉納する宮地屋台
屋台上で曳き踊り
1・宮地屋台
最も古い屋台・宮地屋台

この町は一貫して曳き踊りは“三番叟(さんばそう)”を奉納するとのことであった。

3・三番叟奉納・宮地屋台

こちらも立ち方いわゆる踊り手は子供であったが、その所作は玄人跣(はだし)であり、日ごろからの修練の積み重ねであると感じたものである。


この宮地屋台の後幕がまた印象的である。

4・後ろ幕の猩々が印象的な宮地屋台

“猩々(しょうじょう)”という顔は人間、躰は紅色の体毛で覆われ、声は小児の泣き声に似て、人語を解するという想像上の怪獣だという。なかなかに怪異である。


そしていよいよ、年当番の本町による屋台芝居の開演となるが、これは次稿に譲ることにする。

秩父夜祭(平成25年12月3日)の朝・昼・夜=朝

秩父夜祭(平成25年12月3日)の朝・昼・夜=昼・下郷笠鉾・中町屋台・中近笠鉾・上町屋台・宮地屋台
秩父夜祭(平成25年12月3日)の朝・昼・夜=昼・本町屋台の屋台芝居
秩父夜祭(平成25年12月3日)の朝・昼・夜=夜・花火大会 “あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない”
秩父夜祭(平成25年12月3日)の朝・昼・夜=夜・御旅所で御神幸行列・御斎場祭
秩父夜祭(平成25年12月3日)の朝・昼・夜=夜・御旅所桟敷席より屋台の団子坂登りを堪能

12月3日(火)、京都祇園祭、飛騨高山祭と共に日本三大曳山祭のひとつに数えられる“秩父夜祭”を観覧した。

団子坂を登り切る
団子坂を登る本町屋台


夜祭見学を思い立ったのは、秩父観光協会が設営する桟敷席の抽選予約最終日の10月21日であった。家内と「秩父の夜祭もいいね」などと語り合い、ネットで調べたところ、その日が桟敷席の申込み最終日で、しかもメールにての申込み可というではないか。

御旅所桟敷席
御旅所桟敷席

午後11時も過ぎた頃とて、家内にも相談せず、まずもって申込み。

それから秩父夜祭のあらまし・歴史を調べ、交通アクセスを調べ・・・と、およそ計画的でない今回の旅の発端であった。


そして、夜祭が深更に及ぶということを知り、日帰りは無理と判断、宿を探しだす。

しかし、一月半前では会場から歩いて戻れる便利な宿はすべていっぱい。こりゃ困ったと、もう少し範囲をひろげてみたところ、“彩の森カントリークラブ”の“秩父夜祭り限定素泊まり宿泊プラン”を発見。ツインキングルーム・朝食付きで25,960円(2人)とちょっと高めだが、ネットですぐ申込む。


問題はその場所が西武秩父駅から車で30分ということ。そこで、最悪、当日は車で秩父へゆき、会場の駐車場へ置いて、祭りの終了後にクラブハウスまで夜道を運転してゆくしかないとの結論に達する。


翌日、クラブハウスへ電話を入れ、会場からのタクシー移動等を相談するも、当日の夜が何時になるか、翌日の行動などを考えるとやはりマイカーでゆくほうが確実で安全と判断。しかもクラブハウスのチェックインは午前零時を過ぎても問題ないとのことで、少々、宿まで遠いものの夜祭を堪能するには仕様がないということで、車利用に決定。

観覧席入場券

そして、難関の桟敷席二席が当選との連絡が111日のメールにて届く。斯様にして秩父夜祭観覧計画はドタバタのうちに進んでいった。


12月3日。秩父夜祭の当日である。


駐車場の確保のため午前6時半に車で自宅を出立。途中、トイレ休憩などとったものの、秩父夜祭会場に用意された“南小グランウンド”へは8時50分には到着、気抜けするほどにガラガラのグラウンドに駐車完了。


午前8時52分の南小駐車場、ガラガラでした

臨時駐車場の南小グラウンド


ただ、日帰りの秩父夜祭観覧であれば、西武池袋線の特急レッドアロー号など鉄道の利用が便利である。西武池袋線が夜祭にあわせ臨時便を増発している。

さて、秩父夜祭とは何かであるが、第10代崇神天皇(紀:BC97-BC30)の御代に創祀された古社・秩父神社の例大祭にあわせて催される“付けまつり”であるという。


例大祭そのものは太古の昔まで遡ることになるが、この夜祭も江戸寛文年間(1661-72)、今から350年ほど前にはじめられたという長い歴史を有するものである。


例大祭当日の12月3日には、市街地に2基の笠鉾(中近町・下郷町)と4基(宮地町・上町・中町・本町)の屋台が繰出し、賑々しく曳き廻される。

本町屋台前方から
屋台芝居の年当番の本町屋台


その屋台はただ曳行されるのではなく、秩父神社境内において年当番の町(2014年本町)によって興行される“屋台芝居”や曳行中の屋台上での屋台囃子や屋台踊りといった伝統芸能を演じる動く舞台ともなる。

本町屋台芝居の舞台造り   本町屋台の舞台出来上り
本町屋台が一部解体され、両脇に翼を広げるように床を延ばし舞台が完成

これらは、「秩父祭の屋台行事と神楽」として、昭和54(1979)年2月3日、国の重要無形民俗文化財に指定された。


日中は町中をそぞろ歩きながら、屋台曳行や催しを楽しむことになる。

そして秩父の町が宵闇に覆われる午後7時、例大祭の本義である御神行(ごしんこう)が花園の御旅所へ向け
秩父神社を出立する。

その御神幸の行列を盛大にお迎えするのが、羊山公園で午後7時半から打ち上げられる豪壮華麗な花火の数々である。


そして、午後8時頃から御神幸の行列の後に続き6台の笠鉾や屋台が御旅所前の広場へと集結し始め、秩父の夜祭は佳境へと入ってゆくのである。

ここでは、そうした秩父の夜祭の模様を当日の朝から昼、夜と順を追って、レポートすることにする。

さて、われわれはガラガラの南小駐車場へ車を置いてから歩いて、まずは徒歩数分ほどの西武秩父駅へ向かった。

駅前に観光情報館があったので、そこで曳行のルートなど秩父夜祭のパンフレットを入手した。

西武秩父駅 西武秩父駅前の観光情報館
西武秩父駅            観光情報館

そこから歩いても10数分の距離なのだが、タクシーで秩父神社最寄りの秩父鉄道・秩父駅へ。

秩父鉄道・秩父駅
秩父鉄道・秩父駅

そこから歩いて秩父神社大鳥居前に9時半頃に到着。まだ人出がすごいというというほどではないが、境内から心躍るお囃子の音や祭りの喧噪が聴こえて来る。

例大祭当日の大鳥居


境内に入ると、やはり当り前だが人出は多い。屋台が二基見えた。

午前9時34分の境内  午前9時39分・秩父神社境内・中近笠鉾と本町屋台


ひとつが本町屋台である。境内において興行する屋台芝居の当番町である。

本町屋台

もうひとつが中近笠鉾である。

中近笠鉾


その豪華な彫物を見上げながら、まずは秩父神社へお参りせねばと、拝殿へ向かう。

屋台の集まる広い境内から階段を昇り、神門を抜けると、参詣客はパラパラである。

入ってすぐ右手に当夜御旅所へ御幸される御神輿が置かれていた。ラッキー!!

秩父神社御神輿


まずは拝殿にて落ち着いて参拝と、例大祭の準備の整う参道を歩む。

秩父神社・拝殿

お賽銭をあげ、二礼二拍手一礼。

拝殿を南東より  拝殿内

そして、東側からぐるりと社殿を一周する。

拝殿、本殿ともに見事な彫物が壁を覆い、その豪華さにちょっと驚く。

拝殿・東側  本殿・東側
拝殿・東側               本殿・東側


本殿東側の妻入り上部に、左甚五郎の作と云われる鎖で繋ぎ止められた“つなぎの龍”が見える。

左甚五郎作・つなぎの龍


本殿裏の天神地祇社には、この夜の御神行に同行する各町の供物籠が並んでいる。

天神地祇社に並ぶ各町の御供物台


本殿西側には素晴らしい彫刻が彫られている。

本殿・西側


こちらは、日光陽明門の“見ざる言わざる聞かざる”と異なり、“よく見、よく聞いて、よく話そう”という“お元気三猿”が愛嬌たっぷりに参拝客を迎えている。

お元気三猿


西側にもうひとつ変わった銀杏の樹がある。乳銀杏という変種で、澱粉が乳のように枝から垂れ下がる様は一
見の価値あり。

乳銀杏  乳銀杏の枝から垂れる乳(澱粉)


それから境内を出ようとしたところ、神楽殿で“神代神楽”が奉奏されていた。この神代神楽も現在三十五座あるのだそうだが、この日は朝から一日かけて12演目が奉納される。

その時刻はちょうど、“八握の劔”に続き、“御神前二本榊の舞”が踊られていた。


神代神楽・御神前二本榊の舞
 
神代神楽奉奏・八握の劔  


そして、秩父神社を出て、いよいよ屋台が曳行されている町中へ出た。

最初に本町交差点へ向かった。すると、上町屋台にぶつかる。

本町交差点で上町屋台に出会う


交差点で、高さ6・7m、重さ13トンもの屋台の方向転換を見学できた。いわゆる“ギリ廻し”というものである。

上町屋台のギリ廻し


迫力満点である。こうして朝から歩き回り、さすがにお腹も減ってきたということで、朝の観覧はここまでと最寄りのジョナサンへ入って、腹ごしらえをすることとした。



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