彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

対馬巡礼の旅

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 11(霹靂(ヘキレキ)神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 補足(参考・引用文献について)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 10(太祝詞(フトノリト)神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 9(雷命(ライメイ)神社)

神の宿る海

水際に立つ鳥居

 当社は、対馬神道の元祖である雷大臣命(中臣烏賊津使主(ナカオミノ・イカツオミ))を祀る清浄なる雰囲気に包まれた神社である。鴨居瀬住吉神社や後に語る曽根崎(ソネザキ)神社と同様に参道は海路につながり、水際に一之鳥居が立つ。

神社裏手、朝日山古墳の脇に立つ鳥居から入る

 

右手が朝日山古墳・正面左手が拝殿

切り通しを出て小さな境内に

 陸上からのアプローチは神社裏手にある切り通しに立つ鳥居を抜け、朝日山古墳の真横を通り猫の額ほどの海辺に出る。その小さな場所が当社の境内ということになるが、拝殿前に立って見ると分かるが、この神社を創った人々は、境内はどう考えても海の上であると考えていたに違いないと、確信に似た思いにとらわれるのである。

小さな境内

神秘的で鏡のような海

 そして気の遠くなるような歳月、鏡のように穏やかな海をただ真っ直ぐに見据えてきた鳥居の存在こそが、雷大臣命(イカツノオミノミコト)とその子、日本大臣(ヤマトオミノミコト)が海からこの浜に上陸したとする伝承が単なる作り話ではないことを、われわれに語っているように思えてならなかった。

一之鳥居から海の参道 

一之鳥居

 当社の由緒には、神功皇后の新羅征伐の凱旋の際、随行した雷大臣命がこの浜久須の浜に上陸し、阿曇磯良が5kmほど南東にあたる湾口の五根緒(ゴニョウ)に上陸したとあるが、双方ともに海に面して鳥居が立つ。ただ、海神に連なる(海神豊玉彦命の孫・豊玉姫の子である)磯良が上陸したとされる五根緒の海岸は外海に近く、打ち寄せる波も荒々しく、霹靂の海とは大きく異なっている。

五根緒の対馬海峡に面する塔ノ鼻

 先に見た阿連(アレ)の雷命(ライメイ)神社にも雷大臣命が新羅より帰国の時に、その地に上陸し、亀卜の法を伝えたとの伝承があるが、この浜久須には、亀卜を伝える話は残っていない。

 

 また霹靂神社は、新羅や百済、伽耶系の陶質土器の出土品が多い、海に突き出た朝日山古墳のすぐ脇、その敷地内に神社があると云った方がよい。当社の祭神たる雷大臣命は、新羅を征伐し、百済の女性を妻に娶るなど百済との関係が極めて強い伝承を有す。そこらの入り繰り、つまり新羅や伽耶系の土器も出土した古墳の主との関係をどう捉えたらよいのか、今後、さらに考察を進めねばならぬ点である。

すぐ脇に朝日山古墳

海水に裾を洗わせる朝日山古墳

案内板

 (霹靂神社の概要)

    住所:上対馬町大字浜久須字大石隈1073

    朝日山古墳の脇に在す

    祭神:伊弉諾尊・事解男・速玉男 (大小神社帳)/雷大臣命・日本大臣命・磯武良(明細帳)

    社号:「対州神社誌」に豊崎郷浜久須村の「熊野三所権現」とある。その(注)の「大帳」に「古くは霹靂と号(名づ)く」とある。また、「明細帳」に「霹靂神社」とある。

    由緒

「大帳」に、「神功皇后御時雷大臣命使於百済國便娶彼土女、産生一男名日本大臣也。里人傳云上古自新羅御渡之時大明神は五根緒(ゴニョウ)村浦口(上対馬町・旧琴村)に御上り、此権現は浜久須村に御船を被着御上り給と云。雷大臣也。今號熊野三所権現。」とあり、中臣烏賊津使主(ナカオミノイカツオミ)が浜久須村に上陸した故事を伝える。

さらに、「明細帳」に、「神功皇后の御時雷大臣命、安曇磯武良を新羅に遣せられ、雷大臣命彼土の女を娶り一男を産む。名づけて日本大臣の命と云ふ。新羅より本邦に皈(カエ)り給ふとき、雷大臣日本大臣は州の上県郡浜久須村に揚り玉へり。磯武良は同郡五根緒村に揚れり。各其古跡たる故、神祠を建祭れり。雷大臣日本大臣を霹靂神社と称し、磯武良を五根緒浦神社と称す。」とある。

 

 拝殿は神社というより村の集会所のような建屋であり、雷大臣の伝承を考えると、拍子抜けする造作ではあった。

拍子抜けの簡素な拝殿

 その拝殿の裏のガラス戸を開けると、急勾配の石段が見える。本殿は、それを昇った高処に鎮座している。小さな本殿ではあるが、その様はまるで湾奥から海上を睥睨するかのようにも見えた。

裏手の急勾配の石段を昇ると本殿が
 
湾奥を睥睨する本殿

 また、境内の奥の方に、社号が「熊野三所権現」であった時代の鳥居の扁額が無造作に立て掛けられていたのも印象的であった。

熊野権現の扁額

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 10(太祝詞(フトノリト)神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 9(雷命(ライメイ)神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 番外編(中臣烏賊津使主と雷大臣命)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 番外編(対馬の亀卜)

 

 太祝詞(フトノリト)神社は、雷命神社と異なり海から2km余内陸に入り込んだ山間(ヤマアイ)に、大きな樹々に囲まれて静謐の時を刻んでいる。かつて「加志大明神」と呼ばれていたことを表わし、一之鳥居の扁額は、「賀志大明神」とある。

 


加志浦
太祝詞神社より2kmほどの加志浦



 
樹々に囲まれる太祝詞神社

 


賀志大明神の鳥居扁額
 
賀志大明神の扁額

 


 
一之鳥居から

 

当社の一之鳥居前と拝殿向かって左側に小さな川筋が認められる。現在、そこに清流はなく、石ころだらけの川底をさらすだけであったが、加志岳や大山壇山に雨が降った時などは、おそらく清冽な流れを見せるのだろう。

 

神社前の川底をみせる小川
 
神社前の川底を見せる小川

 

境内を流れる細い流れ
 
境内を通る細い流れ

 

実際に、鬱蒼と樹木の茂る境内でじっと耳を澄ますと、せせらぎの音がかすかに聴こえてくるようで、上古、この地において神聖なる亀卜の法が行なわれていた情景が目蓋の内にまざまざと浮かび上がってきた。

 


 
参道も古木に囲まれる

 


 
境内は緑色の光に染められる

 



 
鳥居越しに見る拝殿

 

そして、占い神事の本家とも云うべき太祝詞神社が、以下に述べるように、畿内の都に存在する、或いは存在した延喜式内社の太詔戸神社の本社であることが、この対馬が上古、特別の意味を持つ土地であったことを示していると云える。

 

 

昼なお暗い森中に立つ鳥居


 境内を仕切る素朴な石垣

境内を仕切る荒削りの石垣

 

延喜式神明帳に「宮中・京中」に「宮中神36座、京中神3座」と分類される神々がいる。その「京中神3座」のなかに、現在は京中にその痕跡を止めぬ神社であるが、京二条坐卜神二座」という記載が残されている。その二座とは洛中に「卜庭(サニハ)神」つまり、卜(ウラナイ)の神として祀られていた太詔戸(フトノリト)命と久慈真智(クシマチ)命(注1)であるが、そのことは、「日本三代実録」の貞観元年(859)正月27日甲申条から分別される。

 

即ち、京畿七道諸神進階及新叙。(中略)左京職従五位上太祝詞神久慈真智神並正五位下。」と叙勲において、京中に二柱の名前が見られることから、そうした神社が存在したことは事実である。(因みに、当社は承和10919日に従五位下、貞観1235日に正五位上へと昇格しており、年代のズレはあるが、勸請先より上位の官位を得ている)。

 

そして、延喜式の太詔戸命神の注釈には、「本社 大和國添上郡 對島國下縣郡 太祝詞神社」と記されているのである。久慈真智神の注釈は、「本社 坐大和國十市郡天香山坐櫛眞命」とある。

 

そのことから、大和国添上郡の太祝詞神社は、現在の天理市の森神社(祭神:天児屋根命)が比定されるが、天平神護元年(765)に対馬の当社から大和国添上郡にまず勸請され、平安遷都に併せて、さらに左京二條へと勸請されたと考えられる。そして現存するのが、本家たる当社と大和の森神社の二社ということになる。

 


 
樹間に見える拝殿

 

(注1)

藤仲郷の説では「宇麻志麻治命は久慈真智(クシマチ)命にして、太詔戸(フトノリト)と共に卜庭(サニハ)神であり、この二坐を併せて太詔戸神ということもある」としている。また、京中2座の注釈にある久慈真智(クシマチ)命の本社とされる天香山神社には、久慈真智命が深くうらないにかかわり、対島の卜部の神であったとの話も伝わる。

 

 つまり、「占い神事の宗家・元祖」である天児屋根命を祀る源流が対馬の太祝詞神社にあるという事実はもっと注目されるべきであり、わが国神道の系譜のなかで「対馬神道」が、本来、重要な位置を占めるべきことを意味しているはずである。

 


拝殿
拝殿

 

本殿

 


太祝詞神社の素朴な扁額
太祝詞神社の素朴な扁額

 

 

(太祝詞神社の概略)

    住所:美津島町加志

    社号: 加志大明神(古くは大祝詞神社と号す)(大小神社帳)

    祭神:大詔戸(フトノリド)命・久慈麻知命(大小神社帳)/大詔戸命・雷大臣命(大帳)/大詔戸神(明細帳)

    由緒(明細帳)

神功皇后が新羅を征し玉ふ時、雷大臣命は卜術が優れて長(タ)けたるにより御軍に従へり。新羅が降属して凱還の後、津島縣主たり、韓邦の入貢を掌(ツカサ)どる。対馬下県郡阿連村に居り、祝官をして祭祀の禮(レイ)を教へ、太占亀卜の術を傳ふ。後に加志村に移る。今、大詔詞社に合祭す。

 

以上のように、当社は延喜式神名帳のなかで、最高の格である名神大社に列せられている。そのことは、当社が「占い神事の宗家・元祖」である太祝詞神(天児屋根の別名)を祀る神社の本社であったことの証であり、ここで、古代神道の亀卜が行われていたことを証するものである。

 

なお、拝殿に向かって右脇には、雷大臣命の墓との伝承の残る宝篋印塔(ホウキョウイントウ)が立つ。阿連から加志に移り住み、ここで亀卜の法を行なったとの言い伝えから、この地で雷大臣命が終焉の時を迎えたと考えてもおかしくない。おそらく雷大臣命の遺名を偲び邑人たちが、慰霊の石塔を建てたのだろう。

 


 
雷大臣命の墓と伝わる宝篋印塔

 

本殿を背景にひっそり立つ雷大臣命の墓
 
本殿を背景にひっそり立つ雷大臣命の墓


雷大臣命に寄り添うように蘇鉄の樹が
 
雷大臣命に寄り添うように蘇鉄の樹が

蘇鉄は室町時代の頃に貴人の証として庭に植えるのが流行した

 

また、当社の宮司も雷命神社と同じ橘氏であるが、同氏はもと加志氏と名乗っていた。「対馬の神道」に橘氏についての註(P134)が、「阿連のミヤジ即ち神官たる橘氏は雷大臣の子孫と称し、雷大臣の家跡と伝えるミヤジ(宮司)壇なる神地は、代々橘氏の所有にかかる土地であった。橘氏もとは加志氏であったと伝えられる」と、ある。

 但し、神紋は雷命神社の「丸に橘」ではなく、対馬藩主宗氏の家紋である「桐」を使用した「五七の桐」となっている。

 

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 9(雷命(ライメイ)神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 番外編(中臣烏賊津使主と雷大臣命)
神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 番外編(対馬の亀卜)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 8(鶏知の住吉神社と阿比留一族)
 

雷命(ライメイ)神社は阿連川沿いに面した小さい丘の上にある。古くは「イカツオミ神社」、その後、明治までは「八龍大明神」と呼ばれていた。

 



 
阿連川に流れる水、川沿いに鳥居

 

 

八龍大明神の鳥居扁額
 
鳥居に掲げられる八龍大明神の扁額

 

対馬卜占に関して、伴信友はその著書「正卜考」(1858)の中で、「対馬国卜部亀卜次第」の著者、藤斎延(ナリノブ=斎長の父)がそれ以前にまとめたと云われる「対馬亀卜伝」を引き、「卜部年中所卜之亀甲を制作して、正月雷命社に参詣して、其神を祭る。雷神を祭る故は、対馬に亀卜を伝る事は 神功皇后新羅征伐之時に、雷命対馬国下県佐須郷阿連に坐して伝へ玉ふなり、依之祭之也」とあることに言及。

 

雷命神社の鳥居扁額
 
雷命神社の扁額

 

「対馬亀卜法」の伝道者が雷大臣命(中臣烏賊津使主)であり、その発祥地が「阿連(旧号・阿惠)」であることが、ここに語られている。

 


阿連の海 

 

 

雷命神社の入口前には鳥居が連なるが、一之鳥居の手前50mほどに、伝教大師入唐帰国着船之地という碑が立っている。

 


 
最澄着船の石碑

 

「対馬歴史年表」(対馬観光物産協会HP)に、「805年 第16次遣唐使に同行した最澄が対馬の阿連(あれ)に帰着。行きの船は、4船中最澄の乗った船以外はすべて難破、帰りの船も流されて対馬に漂着した。当時、玄界灘を渡るのは命懸けだった」とある。

 


 
境内へと鳥居が列ぶ

 

現在、当社は阿連の海まで500mほどの距離を隔てるが、この碑の存在が、当時、この地点が湊であったことを示し、雷命神社の一之鳥居も海辺乃至は水際に面し、立っていたことは確かと云える。

 


 
陽光に反射する阿連の海

 

 当日は、豆酘から久根田舎、小茂田浜を抜けて、阿連に入った。小茂田から山懐へ入り、曲がりくねった道が続いたが、最後の峠を越えると、突然、視界が開けて、阿連の海が目に飛び込んで来た。晴天に恵まれたこともあり、太陽の光に反射する海原は、まばゆく、神々しく、美しかった。

 


階段下の境内



階段の上に拝殿が

 

(雷命神社の概要)

    住所:厳原町阿連字久奈215

    祭神:対馬県主雷大臣命

    由緒(大帳)

県主雷大臣命の住せ玉ふ所也。又云八龍殿とは今云八神殿の事也。・・・載延喜式神名帳雷神是也。後�畍祭于與良郷加志村大祝詞神社之同殿。

(境内社の)若宮神社の祭神は日本大臣命(ヤマトオミノミコト)也。古くは阿惠乃御子神社。

・・・神下云、大八龍〔中臣烏賊津使主〕小八龍〔日本大臣命〕。亀卜傳云、昔神功皇后御時使于(ユク)三韓皈(カヘ)津島、留阿恵村傳亀卜於神人也。続日本紀云天応元年〔781年〕七月右京人正六位上柴原勝子公言、子公等之先祖伊賀都臣、是中臣遠祖天御中主命(注1:アメノミナカヌシノカミ)二十世之孫意美佐夜麻(オミサヤマ)之子也。伊賀都臣、神功皇后御世使百済便娶彼土女、産一男名日本大臣。遥尋本系、皈於聖朝時賜美濃國不破郡柴原地、以居焉。厥後(ソノゴ)因居命氏遂(ツヒニ)負柴原勝姓。伏乞蒙賜中臣柴原連。於是子公等男女十八人依請改賜云云。」
 

(注1)

『古事記』において、天地開闢の際に高天原に最初に出現した神で、その後に顕れた高御産巣日神、神産巣日神と合わせた『造化三神』のひとつ。『紀』においては、『神代上』の『天地開闢と三柱の神』の第四に「次(二番目)に国狭槌尊(クニサツチノミコト)。又曰く、高天原に生(ナ)れる神、名(ナヅ)けて天御中主尊〔造化3神〕と曰す」とある。

 


 
雷命神社



 
拝殿

 
橘の神紋

拝殿に橘の神紋

 


拝殿の奥に本殿

 


境内社の若宮神社
 
境内社の若宮神社(祭神:雷命の男子、日本大臣命(ヤマトオミノミコト))

 

 

「続日本紀」では、中臣烏賊津使主は「生二男。名曰本大臣。小大臣」と、二人の男子を百済の女性との間にもうけたとあるが、「大帳」では「産一男名日本大臣」となっており、その点も異なっている。

 

対馬の伝承では「一男」とあり、その男子は「日本大臣(ヤマトオミノミコト)」となっている。おそらく対馬には、亀卜の法を伝え、対馬県主に任じられた「日本大臣」のことのみが話として残り、「小大臣」は対馬を離れ、美濃国栗原の地を賜り、「栗原」の姓を名乗ったものと考えられる。

 

さらに「大帳」の由緒は、「姓氏録」を引用し、「津嶋直、天児屋根命十四世孫、雷大臣命乃後也云云」と記す。その対馬県の始祖たる天児屋根命「紀」【神代下第9段 「葦原中国の平定、皇孫降臨と木花之開耶姫」 】に、

 

「・・・且(マタ)天児屋命(アマノコヤネノミコト)は神事を主(ツカサド)る宗源者(モト)なり。故、太占(フトマニ)の卜事(ウラゴト)を以ちて仕へ奉(マツ)らしむ」と、「占い神事の宗家」であると記されている。

 

このことは、中臣烏賊津使主(雷大臣)とその子(日本大臣)が「対馬県主の祖」であると同時に、烏賊津使主が伝えた「対馬の亀卜法」がこの国の「占い神事の宗家」に連なる正統なる本流であることを示している。

 

 

境内より阿連川越しに田園風景

 

そして、対馬神道が雷大臣の伝来に始まると考えた時、雷大臣が、当初、住みついた阿連の地が、「対馬神道のエルサレム」であるとする鈴木棠三(トウゾウ)氏の言葉は、わたしが山間から目にしたキラキラと輝く神々しい阿連の海原と相まって、まさに得心のゆくところである。

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 番外編(対馬の亀卜)

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神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 番外編(中臣烏賊津使主と雷大臣命)
 

ここで、対馬神道の中核をなす対馬亀卜について説明をしておこう。

 

長崎県「県の文化財)HPにおいて、 対馬の亀卜(キボク)(無形民俗文化財)は次のように解説されている。

 

「亀卜は亀の甲を一定の作法で焼き、生じたひび割れによって吉凶を占う方法である。対馬豆酘(ツツ)の岩佐家は、亀卜を世襲する家筋で、『亀卜伝義抄』を伝え、今日なお旧暦正月3日の雷神社の祈年祭(トシゴイノマツリ)に奉仕している。対馬の卜部(ウラベ)は、壱岐や伊豆の卜部とともに古代には宮中の祭祀に関与していたものであるが,亀卜習俗の伝承は今日ではここのみとなった。そのため古代の民俗知識を伝える貴重な資料として記録保存を行うため国から選択された。」

 

 その卜部について、「延喜式・巻3」は「臨時祭」の条において、「卜部は三国の卜術に優れた長者を取る(伊豆五人・壱岐五人・対馬十人)」、「神託を得るには、役目に堪えられる人物を任じるべきで、それには、伊豆から五人、壱岐から五人、対馬から十人を登用すべし」との記述があることから、対馬・壱岐・伊豆を「三国卜部」といい、この三国が卜部族の本拠地と云われる。

 

 伴信友の著書「正卜考」(1858が引用した一書に、対馬の卜部が、「其の卜部上古十家あり、其家絶て中古五家あり、今僅に一家存せり」とあり、江戸末期において、亀卜を伝える家がすでに岩佐家のみになったことが記されている。ただ、鈴木棠三氏は、「橘窓茶話」に「今僅存二家」とあり、「明治維新前までは、豆酘の岩佐家、佐護の寺山家が藩のため歳の豊凶を卜する例であった」と述べている。

 



阿連の大野崎沖


阿連の大野崎辺り 

 

 

また対馬亀卜は「津島亀卜伝記」や「対馬国亀卜次第」に詳しいが、その中では「亀を捕る最上の場所は、阿連の『大野崎』とされ、捕獲した亀には酒を飲ませ、八龍神(八龍大明神=雷命神社)の祠に供え、殺亀日に甲羅を剥ぐ」などの古来の亀卜法が具体的に語られている。

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 番外編(中臣烏賊津使主と雷大臣命)

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神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 補足(参考・引用文献について)

 

これから頻繁に名前が出てくる「中臣烏賊津使主(ナカオミノイカツオミ)」と「雷大臣命(イカツオミノミコト」について、ここで「紀」の記述等を引用しながら説明をしておこう。

 

中臣烏賊津使主(雷大臣命)とは、一体、どういった人物であったのか?

 

まず、「紀」の中で、中臣烏賊津使主に関する部分は以下の通りである。

 

【仲哀天皇(在位西暦192200年)89月 「天皇神託を疑い、崩御」】

「是(ココ)に、皇后と大臣(オホオミ)武内宿禰、天皇の喪を匿(カク)して、天下(アメノシタ)に知らしめず。則(スナワ)ち皇后、大臣と、中臣烏賊津連(ナカトミノイカツノムラジ)・大三輪大友主君・物部胆昨連(イクヒノムラジ)・大伴武以連(タケモチノムラジ)に詔(ミコトノリ)して曰(ノタマ)はく、「今し天下、未だ天皇の崩りまししことを知らず。若し百姓(オホミタカラ)知らば、懈怠有(オコタリア)らむか」とのたまふ。

則ち四大夫(ヨタリノマエツキミ)に命(ミコトオホ)せて、百寮(モモノツカサ)を領(ヒキ)ゐて、宮中(ミヤノウチ)を守らしめたまふ。窃(ヒソカ)に天皇の屍(ミカバネ)を収め、武内宿禰に付(サヅ)けて、海路(ウミツヂ)より穴門〔アナト/P4049〕に遷(ウツ)りて、豊浦宮(トユラノミヤ)に殯(モガリ)し、天火殯斂(ホナシアガリ/喪を秘すために、灯火をたかない殯の意味。ただ、「ホナシモガリ」と云わぬことに疑問)をしたまふ。

甲子に、大臣武内宿禰、穴門より遷りて、皇后に復奏(カヘリコトマヲ)す。是の年に、新羅の役(エダチ/新羅征討)に由りて、天皇を葬(ハブ)りまつること得ず。」

 

と、あるように「中臣烏賊津連」は仲哀天皇の崩御を世の中に秘匿する相談に与るほどに神功皇后の信頼厚い四大夫〔他に大三輪大友主君・物部胆昨連・大伴武以連〕の一人であった。

 

なお、「紀」の(注)で、中臣烏賊津連について、

「神功摂政前紀3月(P417)・允恭紀712月条に『中臣烏賊津使主』とある。前者はここと同一人であるが、後者は同一人・異人、両説ある。『続紀』天応元年7月条に『子公等之先祖伊賀都臣(イカツオミ)、是中臣遠祖天御中主命二十世之孫、意美夜麻(オミサヤマ)之子也。伊賀都臣、神功皇后御世、使於百済、便娶彼土女』とあり、前者と同一人。しかし、『姓氏録』の『雷大臣(イカツノオミ)』と『中臣氏系図』『尊卑文脈』の『伊賀都臣(イカツノオミ)』の名もあり、これも『中臣烏賊津使主』と同一人か否か説がある。」

 

と、説明されている。「神功皇后の時代に『烏賊津使主』が、百済に使いした際に、彼の地の女性を妻とした」とあるのが、後述する雷大臣(イカツノオミ)の伝承と一致し、中臣烏賊津使主(ナカトミノイカツノオミ)と雷大臣が同一人であると認定してよい。

 

【気長足姫尊(オキナガタラシニメノミコト)神功皇后(仲哀天皇923月)】

「九年の春二月に、足仲彦天皇、筑紫の橿日宮に崩(カムアガ)ります。時に皇后、天皇の、神の教に従はずして早く崩りまししことを傷みたまひて、以為(オモホ)さく、祟れる神を知りて、財宝国(タカラノクニ)を求めむと欲す。是(ココ)を以(モ)ちて、群臣(マヘツキミタチ)と百寮(モモノツカサ)に命(ミコトオホ)せて、罪を解(ハラ)へ過(アヤマチ)を改めて、更に斎宮(イツキノミヤ)を小山田邑に造らしむ。

三月の壬申(ジンシン)の朔(ツキタチ)に、皇后、吉日を選ひて斎宮に入り、親ら神主と為りたまひ、則(スナハ))ち武内宿禰(スクネ)に命(ミコトオホ)せて琴撫(コトヒ)かしめ、中臣烏賊津使主(ナカトミノイカツノオミ)を喚(メ)して審神者(サニハ)(注1)としたまふ。」とある。

 

(注1)  審神者は、神が憑依した神功皇后の発する御言葉を、解釈し、皆に伝える役で、神事に関わる者である。

 

 以上の「紀」の二か所の記述から、中臣烏賊津使主という人物が、神功皇后の重臣中の重臣であり、かつ皇后に憑依した神の言葉を翻訳し伝える神職の役割を担っていたことが分かる。

 

対馬縣主の祖たる中臣烏賊津使主(雷大臣命)は「対馬神道」の祖である

さらに、「新撰姓氏録(シンセンショウジロク)」(815年嵯峨天皇の命により編纂)の氏族一覧3(第三帙/諸蕃・未定雑姓)」P342)において、氏族「津嶋直」は「本貫地:摂津国、種別:未定雑姓」に分類されるが、「始祖」は「天児屋根命(アマノコヤネノミコト)十四世孫、雷大臣命乃後也」と記載されている。このことから、対馬島内に祭神として数多く祀られている「雷大臣命」と同一人たる「中臣烏賊津使主(イカツノオミ)」が、対馬県主の祖であると断定できる。

 

天児屋根命については、「紀」【神代下第9段 「葦原中国の平定、皇孫降臨と木花之開耶姫」 】に、「・・・且(マタ)天児屋命は神事を主(ツカサド)る宗源者(モト)なり。故、太占(フトマニ)の卜事(ウラゴト)を以ちて仕へ奉(マツ)らしむ」とあり、この国の「占い神事の宗家・元祖」であることが記されている。

 

先述の通り、中臣烏賊津使主は神の憑依した神功皇后の発する言葉を解釈し人々に伝える審神者(サニワ)」と呼ばれる神務に携わる特別な存在の人物であった。そして、中臣烏賊津使主が神事の占い事の宗家たる天児屋根命十四世孫とあるのも審神者(サニワ)」の正統性を裏付けるものである。

同時に、中臣烏賊津使主(雷大臣命)が、対馬神道の特徴をなす「亀卜(キボク)」の伝道者とされ、占いを専業とする「卜部」氏の始祖と伝えられるのも首肯できる。

 

そのことを、「対馬国大小神社帳」は、「対馬国社家之儀者、往昔雷大臣対馬県主に被相任候より以来、雷大臣之伝来を得而祭祀�偃請を仕来り、則対馬神道と申候」と記している。つまり、中臣烏賊津使主(雷大臣)が「対馬県主」に任じられてから、祭祀�偃請(卜の法)を伝授したが、それが即ち「対馬神道」であると云っている。

 

また、卜占に関する伴信友の著書「正卜考」(1858)に本伝とする藤斎延(ナリノブ=斎長の父)の伝書にも、「卜部年中所卜之亀甲を制作して、正月雷命社に参詣して、其神を祭る、雷神を祭る故は、対馬に亀卜を伝る事は 神功皇后新羅征伐之時に、雷命対馬国下県佐須郷阿連に坐して伝へ玉ふなり、依之祭之也」とあり、対馬亀卜法の起源が、中臣烏賊津使主、雷大臣命にあり、その発祥地が「阿連(旧号・阿惠)」だと語られている(下線部分は「霹靂神社」参照)。

 

以上より、中臣烏賊津使主(雷大臣命)は、「対馬縣の祖」であると同時に、「対馬神道の祖」であることが分かる。

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 8(鶏知の住吉神社と阿比留一族)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 5(鴨居瀬の住吉神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 6(鴨居瀬の住吉神社・赤島)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 補足(参考・引用文献について)

 

鶏知(ケチ)は、ほぼ対馬の中央部に位置し、鎌倉時代中頃まで対馬統治の庁が置かれていた土地である。



 
鶏知の住吉神社



 
一之鳥居と参道

 

その鶏知に鴨居瀬同様に住吉神社(美津島町鶏知甲1281)が鎮座する。鴨居瀬の住吉神社を移祭したと由緒にあるが、祭神は綿津見系の海神であり、住吉の名を冠しながら、肝心要の住吉三神が同社に祀られていないのが奇妙である。

 


階段の上に神門が

二之鳥居


 



 
拝殿正面



 
阿(ア)形の狛犬



 
吽(ウン)形の狛犬

 


本殿

 

また、境内社が本殿脇にあるが、明細帳では和多都美神社(祭神:豊玉姫命・玉依姫命)、大小神社帳では宗像神社(祭神:宗像三女神)とされている。いずれにしても、住吉系の神ではないのが、不思議である。

 


 
境内社(和多都美神社or宗像神社)




 
拝殿脇に階段を昇って境内社が


 

(鶏知住吉神社の概略)


 住吉神社の扁額

扁額

    社号:住吉大明神、鶏知(ケチノ)住吉神社、住吉神社(大帳・明細帳)

    祭神:神功皇后(大小)、彦波瀲武鵜茅不合葺尊(ヒコナギサタケ・ウガヤフキアエズノミコト)(大帳)、彦波瀲武鵜茅不合葺尊・豊玉姫命・玉依姫命(明細帳)

    由緒(明細帳)

対馬國下縣郡鴨居瀬村紫瀬戸住吉神を移祭す。年月不詳。康永元年(1342年)九月十三日大宰府の命に由り放生會神事再興、明治七年六月郷社に列せらる。神功皇后新羅を征伐し対馬に還御、下縣郡鶏知村の行宮に入御し玉ひ、和多都美神社を造営し給ひし神社なりしが、現今白江山住吉神社に合祭す。

 


藤氏寄贈の燈籠
 
寄進者に「藤」氏の名が。対馬國総宮司職「藤」氏の末裔であろう

 


拝殿から広い上の境内を(土俵と神門を見える)

階段上も広い境内・拝殿脇に境内社が



 

 

 

 

    「神奈備」というHPは、「鶏知」の地名の由来を「神功皇后が黒瀬の城山に登り四方を眺望した時、東方から鶏の鳴き声が聞こえたので、村のあることを知り、当地に宮を造営した。」と紹介しているが、その伝承の出所を確認することはできなかった。

 


 

写真の左、北位方向に黒瀬の城山がある(上見坂展望台より)



 
鶏知、向こうに空港(城山は写真の外、左奥の方向)

手前右の町が

 

「鶏知(ケチ)」は、対馬の支配者であった阿比留一族の本拠地として、歴史を刻んでいた。寛元四年(1246)、阿比留氏に代わり宗氏が統治者となるが、阿比留一族への島民の崇敬の念は変わらず、祭祀の分野で一族を遇することで、侵略者たる宗氏に対する島民の反発をそらした。文永十年(1273)、豆酘寺の別当阿比留の講師長範の子長久に父の職を継がせるなど一連の処遇の中に、鶏知・住吉神社の神主任命があった。以下に、当社に関わる部分を「対馬の神道」から引用する。

 

「応永四年(1397)、大掾(ダイジョウ)阿比留三郎兵衛を鶏知の住吉神社の神主に任じたのも、動機は豆酘寺別当を復職させたのと同じであったろう。鶏知の住吉神社は、木坂の八幡本宮(国幣中社海神神社)および国府の八幡新宮(県社八幡宮神社)のいわゆる両八幡宮に次ぐ名社であったが、さらに時代を遡れば、紫瀬戸の住吉神社、木坂の八幡宮等と三社並ぶ古社でさえあった。かかる位置の高い、由緒の古い社の神官として阿比留氏が、宗家政権の下において祭祀に奉仕したという事実は大きな意味をもつものと考えざるを得ないのである。

大帳の記事によれば、康永元年(1342913日大宰府より御書が下って、木坂および国府の両八幡宮の例に準じて、鶏知村住吉神社においても放生会が執行せられることとなった。(中略)

この社の放生会に際して、阿比留大掾が奏する祝詞を『阿比留祝詞』と呼ぶ。(P147)」」とあり、

 

当社の対馬における社格の高さが記されている。加えて文政10年(1827)までの五百年の間は確実に、その『阿比留祝詞』が実際に奏上されていた事実は重い。しかもその内容も「虚見日高大八洲所知今皇帝西海筑紫乃於盧橘乃澳ナル津島国司以下百吏神主祝部等諸聞ト宣フ・・・」など、今後、解明すべき興味深いものがある。

 

 また阿比留氏に関しては、「古代文字たる謎の阿比留文字」の存在がある。

阿比留文字という対馬の阿比留氏(宗家の前の支配者)に伝わったというハングル文字に似た古代文字がある。その文字の刻まれた石碑や道祖神が、北九州や信州安曇野という安曇氏に所縁の深い土地で発見されていることも、海人族と天孫族の抗争を考える上でのひとつの考察の視点であり、今後の課題であると楽しい思いが膨らんでくる。

 

 

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 7(梅林寺)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 5(鴨居瀬の住吉神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 6(鴨居瀬の住吉神社・赤島)

 

 梅林寺(美津島町小船越)は、国道382号線沿いの坂を少し上った処にある。その382号線の200m先を右に入った一帯が鴨居瀬地区になるので、先に紹介した住吉神社に行く途中に訪ねるとよい。

 


 

梅林寺


梅林寺と記す木柱
 

 

 梅林寺は日本への仏教伝来に深くかかわる伝承を有す寺であるが、仏教伝来についての「紀」の記述はあまりに素っ気ない。

 

【欽明天皇1310月 「仏教公伝」】

「冬10月に百済の聖明王(注1)、西部・姫氏・達率・怒リ斯到契・等(せいほう・きし・だちそち・ぬりしちけい・ら)(注2〜5)を遣(まだ)して、釈迦仏の金銅像一�默・幡蓋若干(ばんがいじゃくかん)・経論若干巻を献る」とあるのみである。

 

(注1)    聖明王(在位523554):百済26代王。

(注2)    西部:百済の王都五部(上部・前部・中部・下部・後部)の
  一つ。上下は東西、前後は南北を表すため、西部は下    
  部にあたる。

(注3)    姫:姓名の性の部分

(注4)    達率:百済十六等官品の第二品。それまで、遣日使として「達  
  率(だちそち)」のような高位の者の例はない。また、姓 
  に 氏をつけるのも異例。さらに官品は姓名の上に冠す
  るので、それも異例である。

(注5)    怒リ斯到契:姓名の名の部分

 

つまり、百済の聖明王が、欽明天皇13年(552年)に使者を遣わし、仏像や経論などを献上したとあるのみである。

 


  

本堂軒先に吊るされる梵鐘


本堂 

 

ただ、伝承として、その百済の使節は渡海途中の路津(ワタリ=船着き場)としてこの小船越に寄港したとされる。その際に、御堂を建て仏像を仮安置した場所が当地であり、日本最古の仏跡とされる由縁となっている。後に、その仏縁の地に建立されたのが梅林寺である。日本最古の寺院とも伝えられるが、その真偽のほどは定かではない。

 

 


山門より本堂を 

 

山門を入ってすぐ右手に歴代住職の墓碑が25基、並んでいたが、初代の墓碑にはただ、「開山」と刻まれているのみで、詳細を知ることは出来なかった。

 


  

25基の歴代住職の墓碑


自然石のだ円形の「開山」 の墓碑

 

また、この梅林寺は中世に入っても、日朝関係の橋渡しの役割を担うことになった。嘉吉3年(1443)に李氏朝鮮と宗貞盛の間に交易に関する「嘉吉(カキツ)条約」が結ばれ、対馬から朝鮮への歳遣船は毎年50隻を上限とし、代わりに歳賜米200石を朝鮮から支給されることとなった。その渡航認可証明書(ビザ)が「文引(ブンイン)」といわれ、発給権が宗氏に与えられた。その文引を発給する事務を担ったのが当寺であった。

 

朝鮮からの仏教伝来の通過地点であった当寺が、中世においても日朝交易のビザ発券業務を一手に引き受けることになったのも、その間も朝鮮と梅林寺の関係が強かったことを表わすものと云ってよい。

 

ただ、現在、境内にその縁(ヨスガ)をほとんど見出すことは出来ないのが、非常に残念である。

 


山門と本堂の真中に焼香炉が 

 

 

さて、話は逸れるが、聖明王から贈られた仏像のその後について、「エッ!」という伝承が残されているので、ここでご紹介することにしよう。

 

仏教を新たな国家鎮護の要として勢力拡大を企図する蘇我稲目と、それまでの神道を守ろうとする物部尾輿、中臣鎌子の対立が激化してゆく。そうした状況で、疫病が蔓延。その原因は異国から入って来た蕃神(仏教)のせいであるとされ、聖明王から献上された仏像は、物部尾輿により難波の堀江に棄てられてしまう。

 

半世紀が過ぎた推古紀10年(602年)、信州の若麻績東人(本田善光)が堀江の水中から阿弥陀仏像を発見、出身地の信州麻績へと持ち帰る。その後、皇極天皇元年(642年)、阿弥陀如来のお告げにより現在の善光寺の地に移り、そこに伽藍造営がなされた。それが信濃善光寺の起こりで、その仏像が善光寺の本尊「一光三尊阿弥陀如来」とされている。(「善光寺縁起」・「伊呂波字類抄」)

 

 但し、「紀」によれば百済より献呈された如来は「釈迦如来」であるが、「善光寺縁起」では「阿弥陀如来」となっており、実際の本尊も「阿弥陀如来」であり、伝承とは、仏像自体が異なっていることになる。

 

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 6(鴨居瀬の住吉神社・赤島)


神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 5(鴨居瀬の住吉神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 補足(参考・引用文献について)


 その豊玉姫が上陸し、山幸彦が産屋を造って待っていた浜こそが、この鴨居瀬であったという。さらに村名の由来が「
鴨著(ツ)く島」つまり「鴨の居る瀬戸」という、「紀」・「記」にある山幸彦の御歌にあることを、江戸の天明年間178189編纂の「対馬州神社大帳」が伝えている。

 

 

つまり、大和王朝ならびに天皇家の始まりに深くかかわる地がこの鴨居瀬ということになる。なんとも、ロマンを掻き立てる伝承である。それも此の浜や他の対馬にあった習俗を考えると、単なる作り話として退けてしまうのも、いささか乱暴の気味であると云わざるを得ないのである。

 


 
大正8年頃の住吉神社(拝殿内の絵馬)

 

即ち、かつてこの「神社の周囲の浦が『産ノ浦』と呼ばれ、ここに臨時の産屋を建てて女性は出産する」という驚くべき習俗が残っていたというのである。

 

しかも同種の出産習俗(原上り)が、豊玉姫を主祭神とする「海神神社」のある木坂にも残っていたという事実こそが、この国の創世期において、海神を祀る海人族と天皇家の祖たる天孫降臨族とは強くて深い関係があったことを物語っていると云える。

 

原上り(ハルアガリ)」については、『対馬紀事』(文化6年(1809))に、「当邑(木坂村) 産に臨んで 俄(ニハカ)に産屋を効に造り、其の産舎の未だ成らざるうちに分娩すと云。之を原上り(ハルアガリ)と曰ふ。是乃ち土風なり。相伝えて豊玉姫の安産に倣うの遺風也」とあり、さらに驚くべきことは、その特異な習俗が明治中頃まで残っていたことである

 

対馬の住吉神社と海神神社が海人族の祖神を祀り、出産と云う人間の営みのなかでも崇高でしかも危険な営みに係る難儀な習俗が永年にわたり続いてきたことこそが、海幸・山幸彦神話が単なる説話ではないことを確信させるのである。

 

 

日本海海戦(明治38年)戦捷記念行事の「船ぐろう」優勝時の艫櫓(トモロ)

対馬竹敷の海軍要港主催(明治42527日)

 


 
説明書きには「船ごろう」とあり、鴨居瀬ではそう呼ぶのだろうか

鴨居瀬の和船(乗員87名・櫓33丁)が対馬全島内で優勝

 

代々の女性が浜辺に建てた臨時の産屋で出産する、それも鴨居瀬だけにとどまらず、対馬の東(鴨居瀬)と西(木坂)に同様の特異な風習が残っていることも、その言い伝えが単なる昔話ではなく、対馬の人々にとっては、古来、誇りと為す歴史的事実があったからこそとの思いを強くするのである。

 


 
万延元年の石灯篭

 

加えて、「紀」の「海幸・山幸説話」には、山幸彦の死を「彦火火出見尊崩(カムアガ)りましぬ。日向(ヒムカ)の高屋山上陵(タカヤノヤマノヘノミササギ)に葬りまつる。」とある。

さらに「神日本磐余彦尊(神武天皇)ら四男神の誕生」に、「久しくして彦波瀲武鵜茅不合葺尊(ヒコナギサタケ・ウカヤフキアエズノミコト)、西洲(ニシノクニ)の宮に崩りましぬ。因りて日向の吾平(アノヒラノ)山上陵に葬りまつる。」とある。

 

即ち、海人族に深く関わった天孫降臨族の二人共が「西洲の宮」で亡くなったと推測され、対馬がその強力な候補地とするのは、仁位の龍宮伝説や鴨居瀬の鵜茅不合葺尊の出生伝承を併せ考えると、逆に自然なことなのである。

 

歴史書が語っていることと、「事実」の意味合いを再度、考え直してみる必要性があるのではないか、それだけの重みを記述の中に読み取り、感じ取る鋭敏で豊かな感性が殊に必要であるのではないかと感じたのである。

 

この住吉神社が面する浦は、別名、「紫瀬戸」とも呼ばれる。豊玉姫が出産した後産の胎盤などをこの地で洗ったために、藻が紫になったとの伝承が残る。当日は盛夏ということで藻の繁茂する季節ではなく、紫の藻を見ることはなかったが、透き通った海は、太陽の日差しに映えて、オモテを群青色に染めていた。

 


 
鳥居真下の階段は海の中へ

 

 

水が透明な鴨居瀬の海

 

 

 続いて、鴨居瀬のちょっと先に在る赤島を訪ねた。ここも豊玉姫がこの浜で出産したと云い伝えの残る浜である。

 

 

赤島大橋

 

 

赤島大橋より外海を

 


 
赤島大橋より入江奥側を

 

赤島大橋から見る海は夏の太陽の日差しを反射し、群青色の世界を眼下に展開して見せた。

 


 
エメラルドグリーンの海

 

 

対馬で最も海がきれいだと云われる赤島




 
海の深浅と日差しで海面も色を変える
 

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 5(鴨居瀬の住吉神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 6(鴨居瀬の住吉神社・赤島)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 2(和多都美神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 補足(参考・引用文献について)

 

 

 鳥居が水際に立つ鴨居瀬の住吉神社

 



 
赤島の鮮やかな群青色の海

 

 海幸・山幸物語の龍宮城(和多都美神社)を訪ねた後は、山幸彦(神武天皇の祖父)が帰って行った上国(ウハツクニ)ゆかりの海浜にある神社を訪ねることにする。鴨居瀬(カモイセ)の住吉神社である。鳥居が海に直接、面し、参道が海路となる形態は、先に見た仁位の和多都美神社をはじめ、浜久須の霹靂(ヘキレキ)神社、五根緒の曽祢崎(ソネザキ)神社など対馬に多く存在する。古くからの海の民の信仰を色濃く残している対馬ならではの特異な神社様式である。

 


境内の由緒説明


 

住吉神社拝殿

 


 
拝殿内部

 

 

拝殿より鳥居越しに鴨居瀬の入江を

 

鴨居瀬の住吉神社(美津島町鴨居瀬174)

    祭神:彦波●武鵜茅不合葺尊(ヒコナギサタケウガヤケフキアエズノミコト)(大帳・明細帳)三筒男命(住吉三神)(大小)

    社号:瀬戸紫住吉大明神/鴨瀬(カモゼノ)住吉神社(大小)/和多女御子神社(明細帳)

    「対馬州神社大帳178189年編纂)」は、その由緒に「鴨居瀬」の由来を説いている。即ち、「鴨居瀬村、一に鬘(カズラ)浦村という。一説に波●武尊(ナギサタケノミコト)を養ひ奉(タテマツリ)し處ゆえに、彦火火出見尊(山幸彦)の御歌に、「沖つ鳥 鴨著(ツ)く島に 我が率寝(イネ)し 妹(イモ)は忘らじ 世の尽(コトゴト)も」、是を以て今村の號として末世に傳ふと云う。」とあり、鴨居瀬の名が山幸彦の御歌に由来するとの説が、江戸の天明年間にあったことを伝えている。

また、「明細帳」は、「豊玉姫命の皇子を抱育し玉ひし古跡なり。」と記している。

    境内の案内には、

「本社ノ創建ハ橿原ノ朝ニシテ彦波●武鵜茅不合葺尊斎キ祀リテ津口和多女御子神社ト云ヒ彦火火出見命津島海宮ニ降ラセ給ヒ豊玉彦命ノ姫豊玉姫ヲ娶リ、海宮ニ住ヒ給ヒシコト、三年豊玉姫胎妊ノ身トナリ産室ヲ此ノ地柴瀬戸神浦ニ造ラシメ給ヒテ皇子彦波●武鵜茅不合葺尊(ヒコナギサタケ・ウガヤフキアエズノミコト)ノ御誕生御抱育シ玉ヒシ古跡ナリ神功皇后三韓御征伐ノ時、海神ヲ斎キ祀リ玉ヒシヨリ住吉神社ト云ヒシナリ。」とある。

 


 
拝殿内に飾られた神功皇后三韓征伐の絵馬(大正13年奉納)

 

さて、此の浜にかかわる神話の世界に戻ろう。

豊玉姫が山幸彦との間にできた子を出産するため海亀に乗ってやって来るシーンを「紀」は次のように記している。

 

【紀:神代下[第十段]一書第三 海幸・山幸説話と●●草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)の誕生

「『妾已(アレスデ)に有娠(ハラ)めり。天孫(アメミマ)の胤(ミコ)、豈(アニ)海中(ワタナカ)にして産みまつるべけむや。故(カレ)、産まむ時に、必ず君の処(ミモト)に就(マイ)でむ。如(モ)し我が為に屋を海辺(ウミヘタ)に造りて、相待ちたまはば、是所望(コレネガフトコロ)なり』とまをす。故、彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)已(スデ)に郷(クニ)に遷り、即ち鵜(ウ)の羽を以(モ)ちて、葺きて産屋を為(ツク)りたまう。屋の甍未だ合(フ)き及(ア)へぬに、豊玉姫自ら大亀に馭(ノ)り、女弟(イモ)玉依姫を将(ヒキ)ゐ、海を光(テラ)し来到(キタ)る。」

 

水際に立つ鳥居、参道は潮路




この海を光らして大亀に乗り豊玉姫がやって来た(鴨居瀬) 

 

そして、出産時に八尋の和邇に戻っていたことを見られた豊玉姫がそれを恨みながら去ってゆく時に、山幸彦が「沖つ鳥 鴨著(ツ)く島に 我が率寝(ゐね)し 妹(イモ)は忘らじ、世の尽(コトゴト)も」という歌を詠んだと「紀」は記す。

 


 
鳥居より住吉橋を見る

 

豊玉姫と山幸彦の間に産まれた皇子は、『彦波●武鵜茅不合葺尊(ヒコナギサタケ・ウカヤフキアエズノミコト)』(注1)と名付けられた(注2)。豊玉姫が龍宮城へ戻って後、御子の顔かたちがたいそう端麗であることを伝え聞き、自らが地上に戻り養育したいと思ったが、道理にかなわぬことであったので、代わりに妹の玉依姫(注3)を地上に遣わし、育てさせた。鵜茅不合葺尊(ウガヤフキアエズノミコト)は成長の後、養母であり、叔母にあたる玉依姫を娶り、その間に神武天皇を儲けるのである。

 

(注1)産屋の屋根を鵜の羽で葺き終えぬうちに産まれた子という意味で、鵜茅不合葺尊(ウガヤフキアエズノミコト)と命名。神武天皇の父である

(注2)当時は母方が子供の名づけをするのが風習であった。

(注3)海神豊玉彦命の娘で、豊玉姫の妹。

神々のふるさと、対馬巡礼の旅――番外編(対馬のことごと)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 4(大吉戸神社・鋸割岩・金田城・和多都美神社)

 神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 番外編(大吉戸神社と金田城の謎)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 5(鴨居瀬の住吉神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 6(鴨居瀬の住吉神社・赤島)


 北緯34度、東経129度、朝鮮半島より50km、博多より138km離れた海上に、ひとり対馬は険峻の峯を見せている。面積は696平方km(本島)と、日本の島嶼部としては佐渡島(854平方km)、奄美大島(712平方km)に次ぎ、592平方kmの淡路島を超え、3番目に大きい島である。島数は本島のほかに107(内、有人島5)の小島が存在する典型的な溺れ谷の地形を成している。

 


典型的な溺れ谷の島、対馬(上見坂公園より) 

 

H228月末現在の人口は35,635人(対馬市HP)と、ピーク時の69,556人(1960年)から半減しており、急速な過疎化が進んでいる。また、高齢化比率も直近の国勢調査(H17年)においても26.2%と、全国平均の20.1%を大きく超えている。さらに、住民票を移さぬまま島外に仕事を求め転出している人も多く、実際に島内で生活する住民は3万人を切っているとのことであり、その実態は一層その深刻度を増しているとみられる。

 

さて、そうした日本の現代社会を濃縮したような国境の島、対馬であるが、角度を変えて歴史的観点から眺め直して見よう。現在の行政地域において対馬は長崎県に属する「市」という行政単位で把握されるが、古来の律令制下においては、いわゆる「五畿七道」の「西海道11カ国」を構成する「対馬国」という国の位置付けにあった。それは、日本国土より朝鮮半島に近いという地勢的条件から、大陸・半島からの文物流入の道筋として、また、半島国家との軍事抗争における軍事拠点として、「津(湊)の島」が要衝の地として重要な位置づけを占めていたことを示すものでもあった。

 


異国の見える丘展望台より韓国を・・・ 

 

その対馬は半島との濃密な交流の真っ只中で、日本という国が形成されてゆく過程を伝承や習俗という形で今の世に残す語り部のような島である。それはまさに、日本の始まりを物語るDNAが悠久の時の流れのなか「津島」の湊や瀬戸に揺々として繋留されているかのようである。そして、静謐のなかエメラルド色をした鏡のような水面を張る美しい入り江を眺めているうちに、その国家創始というDNAの「鎖の艫綱」が何れの日にか、ロマンあふれる人物の手によりその謎が解明され解き放たれることを、静かに待っているように思えたのである。

 


対馬神道のエルサレム、阿連の海 

 

その謎解きのヒントとなるのだろうか、対馬にはかつてこの国が倭と呼ばれた時代、歴史上、大きな役割を果たし、重要な位置付けを占めていたことを示す伝承や神事が数多く伝えられている。

 

そして、その多くは対馬神道や天道といった信仰を通じ、神社や神籬磐境(ヒモロギイワサカ)、不入の地といった「場」の形式や、亀卜、赤米神事、船ぐろうといった古代習俗の継承保存や土地に伝わる伝承という形で、今の時代まで引き継がれ、語り継がれてきている。

 

それらのことは、これからもおいおい具体的な文献資料や伝承によって述べてゆくことになるが、ここでひとつ端的な例を挙げておく。

 

神社を語る時、「延喜式神名帳」の「式内社」云々という神社の格式を表わす表現をよく目にするが(注1)、その式内社の数が対馬と隣の壱岐において異様に数が多いことである。

 

即ち全国の式内社は2,861社を数えるが、その内西海道11ヶ国(注2)には107社が存在する。そして対馬には29社(名神大社6、小社等23)、壱岐に24社(同6、同18)、筑前国19社(同8、同11)と、この3地域で計72社と、西海道の式内社の2/3を占め、とくに対馬は29社と西海道最多の社数を誇っている。


海神神社一之鳥居

対馬一の宮 海神神社の鳥居


277段の階段を昇って海神神社拝殿に

 

そのことは「神意」を政(マツリゴト)の中枢に置いた「倭」という時代において、対馬の神々を朝廷が神の系統において高い位にあることを認める事情があったことを表わし、当時の対馬の重要性を素直に裏付けるものといってよい。

 

 

   注1:「延喜式」

平安時代の律・令・格の施行細則を集成した法典で、延喜5年(905)に編纂を開始、22年後の延長5927)年に完成。50巻三千数百条におよぶ条文は、律令官制の二官八省の役所ごとに配分・配列され、巻一から巻十が神祇官関係となっている。そのうち巻九・十「延喜式神名帳」と呼ばれるもので、当時の官社を網羅した格付け表である。そして祈年祭奉幣にあずかる神社2861社(天神地祇3132座)を「式内社」と称し、国郡別に整理羅列されている。

 

   注2:「西海道」

五畿七道という律令制時代の行政区画で、「西海道」は、筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後、日向、薩摩、大隈(以上9ヶ国が現在の九州本土)、壱岐、対馬の11の令制国から構成される。対馬、壱岐は現在、長崎県に含まれるが、令制国時代(この呼称単位は明治初期まで残る)には、対馬はひとつの行政単位たる国の位置付けにあった。ちなみに廃藩置県後に、対馬国(藩)は厳原県、伊万里県、三潴県を経て、1876年に長崎県に編入されている。

 

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 番外編(大吉戸神社と金田城の謎・金田城は椎根にあった!)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 4(大吉戸神社・鋸割岩・金田城・和多都美神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 5(鴨居瀬の住吉神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 6(鴨居瀬の住吉神社・赤島)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅――番外編(対馬のことごと)

 「神社明細帳」は、「大吉戸(オオキド)神社」(祭神 応神天皇・神功皇后・豊姫(大帳・明細帳))の由緒について「神功皇后新羅を征伐し御帰陣の時、対馬島黒瀬城を築かしめ
、防人を置かせ玉ひ、天神地祇を城山に祭らしむ。依りて大吉刀神社と称す。」と記している。吉戸(キド)は城戸(キド)を表わし、敵から守りきる縁起の良い城門の意味と解し得る。また「吉刀」という戦を象徴する刀の吉祥を願った社名は、国防の城塞の堅守を祈念するものでもあった。
 


大吉戸神社の鳥居。この上に本殿がある

城山に垣間見える石塁。金田城? 黒瀬城 ? 

 その「明細帳」が、厳原町椎根(旧佐須村字鹿ノ采(コザトヘン))に鎮座する「天神社」の境内社である「吉刀(キド)神社(若宮八幡)」(祭神 応神天皇)について、「天智天皇の御代金田城を築き祭りて鎮守となせり。貞観十二年三月従五位上を授けらる。」と、その由緒を述べている。

 

これは一体、どうしたことか。金田城の麓に鎮座している大吉戸神社ではなく、「吉刀神社」が金田城の城塞を守護しているとは、この両方の記述をどう考えたらよいのか。 

  

現在、諸書では金田城の別名を黒瀬城としている。そして、城山の頂上の石垣や中腹にある石塁、城門などは、「金田城」として国の特別史跡に指定されている。城山にあるのは金田城とされているのだから、大吉戸神社の由緒だけを見る限りは、金田城=黒瀬城と考えるしか仕様がない。 

大吉戸神社と城山
特別史跡に指定される黒瀬湾の城山の金田城 

 

しかし、明細帳における椎根の「吉刀神社」の記述を見る限り、金田城と黒瀬城はまずは別物と考えてみる必要がある。

 

旁、「吉刀神社」がその境内にあったとする「天神社」の場所は、厳原町椎根である。

椎根は石屋根の倉庫で有名
高床式の石屋根倉庫
高床で戸にある穴が鍵穴  

 そして、そこは、黒瀬にある金田城からは西南方向に10kmも離れた遠方の地であり、かつ東シナ海という外洋に直接面した場所である。但し「吉刀神社」自体は、「大帳」の作成時点(17811789)において、すでに「今社領これ無く、古帳に云う、右三社は昔、神事として造営、上よりこれ有り。郡代これ無く、その時に社領は絶える也」とあり、現在にその痕跡を止めぬところとなっている。

 

そこで、現在の椎根の「天満宮」を「天神社」と比定して考察を進めることにする。そもそも、対象物を護るために造営された鎮守の社は、その対象物の近くに存在するか、その対象物に所縁のある地に存在するのが自然である。つまり、椎根の天満宮近くに金田城があったと考えるのが自然なのである。 

 

 椎根周辺の地図を子細に眺めて見た。すると、天満宮から佐須川を1.5kmほど上った南側に金田山(216m)という名の山がある。その至近の山頂にこそ、天智天皇が造営させた金田城があったと考えるべきではなかろうか。 

 

 現に、蒙古と高麗軍が襲来した元寇の文永の役(1274年)の時、宗助国(戦死)が激戦を展開した小茂田浜は佐須川の河口に隣接する北浜であり、この地が軍事上の要衝の地であったことは歴史が証明している。 

小茂田神社境内に建つ元寇七百年の碑 

 しかも、当時において小茂田浜は現在の海岸線より500mほど内陸に入り込んでいたとされるが、蒙古軍との激戦の地は今の金田小学校のあたりであったと説明されている(小茂田神社案内による)。その金田小学校は、金田山の真北、500mの所にある。まさに小茂田浜を真下に見降ろす所に、当時、金田山があったことになる。 

椎根周辺の地図

小茂田神社より内陸部を 

 大吉戸神社のちょうど上方に金田城とされる城の一ノ城戸が位置する。しかし、この辺りは古来、湾名にあるように「黒瀬」と呼称されて来ている。「大小神社帳」(1760年編纂)では、「大吉戸神社」を金田城八幡宮ではなく、「黒瀬城八幡宮」と呼んでいる。

 

そして、この黒瀬近辺に「金田」という地名の痕跡を探し出すことは出来ないのである。逆に黒瀬湾奥に皇后岬という岬があるが、そこに黒瀬城を造営させた神功皇后の遺骨を葬ったとの伝承が残されているほどである。

 

 こう考えて来ると、国の特別史跡たる金田城は、「紀」の天智紀に記述された「金田城」ではなく、対馬の伝承に残る三韓征伐の凱旋時に国防の拠点として築城された「黒瀬城」と考える方が、諸々の傍証からして妥当な結論だと云える。

 

 そう問題を整理して見ると、「大吉戸(オオキド)神社」は、明細帳にある通りに、神功皇后が黒瀬城を築かせ、その「天神地祇(アマツカミクニツカミ)を城山に祭ら」しめるために、造営された社だと見た方がよい。

 

 そして、今はない「吉刀(キド)神社」が、黒瀬城の後に朝廷が椎根の金田山に築城させた金田城を鎮護する社であったと考えるべきである。社名に「大」が欠けているのも、新羅に戦勝した後に造られた大吉戸神社と新羅に敗戦した後に造られた神社の格の違いのようなものを感じるのは、考え過ぎだろうか。

 

 さらに、現在の金田城とされている城山の古い石塁の築造が、放射性炭素式年代測定法によると6世紀後半と推定されるとの検査結果も出ており、白村江の戦い(663年)以前に城山に城塞があったことの可能性が極めて高い。白村江の敗戦に備えて築城されたはずの金田城が6世紀の築城ではおかしい。金田城は城山とは別の場所にあったとするのが、科学的な結果と整合性のとれる唯一の結論であると考える次第である。

【追記(2010.9.29)】
 「金田城椎根説」を裏付ける有力な資料を見つけたので、ここに追記し、当説の補強材料とする。

 資料は、対馬島誌所引の対馬編稔略である。

 そこに、阿比留一族が対馬の支配者となる経緯が書かれている。女真族といわれる「刀伊の賊」の来寇を防ぎ、殲滅した際の記述である。
「刀伊賊と佐須で合戦した後、椎根に引き入れ、金田を以て本城と為す」と、金田城が椎根にあったことを、明確に記述したものである。

 以下にその原文を記す。

「弘仁八年(817)、就刀伊国賊追討之事公卿僉議(センギ)有之処、被定申上総国流人比伊別当可然之間、別当卒去之故、重被召其子畔蒜太郎同二郎同三郎、三将催軍兵到当島、
早速於佐須合戦、賊徒引入椎根、以金田為本城、堅守不降、太郎中矢死、二郎三郎終始於和歌田奥、撃竜羽将軍獲其首」とある。

 金田城はやはり、椎根にあったのである。

 そして、国の特別史跡とされている城山の金田城は「黒瀬城」ということになる。

 したがって、黒瀬城は、「紀」に記述されなかった一群の神護石系の朝鮮式山城に属する城塞の可能性が極めて高いと推測される。残念ながら今回、私は史跡の金田城の石塁を間近で仔細に見ることができなかった。

高良大社の鳥居扁額
   高良大社(久留米市)鳥居の扁額

高良大社神護石
   高良大社の神護石の石塁

 もし、それが列石で造られた石塁であったとしたら、黒瀬城が大和王朝成立以前に築城されたものであることは確かなのだが・・・。


神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 4(大吉戸神社・鋸割岩・金田城・和多都美神社)

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 翌29日は事前に予約を入れておいた市営渡海船「ニューとよたま」(定員2030名)で、午前十時半から午後零時の間、浅茅湾を巡りながら海上から対馬を観光した。ルートは樽ヶ浜〜鋸割(ノコワキ)・城山(ジョウヤマ)〜和多都美〜樽ヶ浜である。

 


  

樽ヶ浜


樽ヶ浜に停泊する遊覧船


乗船する渡海船「ニューとよたま」

 

 当日は幸い好天に恵まれ、いや、相当に暑い日であったが、クルージングには最高の日和であった。その日はわれわれ6人に加え、やはり東京からの観光客一行7名を加えた二組だけのゆったりとした船旅であった。


樽ヶ浜から浅茅湾へ


丘の上に対馬空港


着陸態勢のANA機 

 

 樽ヶ浜は対馬空港から1km余、浅茅湾の東南隅の突き当りにある。小さな桟橋を出て、志々加島を右手に見て、みそくれ鼻を左に回り込んで鼠島を左手にかわすと、まず最初のビュースポットである飯盛山(126m)が見えてくる。丸いおにぎり型の山頂部分が夕刻になると白く輝き、本当においしいおにぎりソックリに見えるそうだ。

 


横からはゴリラの顔にも見える飯盛山


正面からの飯盛山。夕方、頭が白く輝くとお握りに見える。 

 

 その飯盛山を左後方に見ながら進むと、左手に、第二のビュースポット、突端に白い灯台が立つ芋崎が見えてくる。芋崎は西側海上から敵が攻めてきた時の浅茅湾の「のど仏」と云われ、古代から海上交通や軍事上の要衝の地であった。実際に、幕末の1861年、ロシア帝国海軍の軍艦「ポサドニック」が対馬租借を狙い半年にわたり占拠を続けた場所でもある。

 

 

芋崎の灯台



Uターンすると芋崎の岩肌は荒波で屹立している
 

その芋崎をくるりと左へUターンすると、正面に城山(272m)、ちょっと左に鶴ヶ岳(162m)が見える。その二つの山が迫る「細り口」という名前通りの狭い水路へと船は向かう。「細り口」から黒瀬湾へと入ってゆく鶴ヶ岳の南端に「鋸割(ノコワキ)岩」がある。このクルーズの最大の見どころと云ってもよい。石英斑岩の百メートル近い巨岩は海上から見上げると、まさに山を鋸でバサッと切り裂いたように垂直に岩肌が屹立し、豪壮とも評すべき絶景である。

 


正面は細り口。右が城山、左突端部が鋸割岩


鋸割岩に近づいてゆく


鋸割岩が迫る


間近に見る鋸割岩


海中に垂直に落ち込む鋸割岩 

 

そこから黒瀬湾に入ってすぐ右手、城山が海になだれ込む水際にまさに忽然と石の鳥居が姿を現す。湾というより静かな湖に居るようで、海面はこの船が起こす波紋が広がるのみで、船上に居ながら森閑とした深山のなかをゆく旅人の気分になる。その神秘的雰囲気のなかに、古くは黒瀬の「城八幡宮」とも号した「大吉戸神社」が静かに鎮座している。

 


黒瀬湾の入口右手に大吉戸神社の鳥居が・・・


鳥居の奥に石段が見える


城山の山裾に大吉戸神社がある 

 

右手に迫る城山中腹の樹林の合間に所々、石垣が見えてくる。

 


中腹に朝鮮式山城の金田城の石塁が 



はっきり見える山腹を巡る石塁
 

 

663年に白村江(ハクスキノエ)の戦いがあった。百済救援に向かった倭の艦隊が新羅を支援する唐の艦隊に大敗を帰した戦である。敗戦の後、天智天皇は667年に、新羅、唐からの侵寇に備え、金田城(カナタノキ)の造営を命じた。「紀」の「天智天皇611月の条」が、讃岐の屋嶋城、倭国(大和)の高安城と同時にこの金田城を築いたことを伝えている。その朝鮮式山城の城壁こそが樹林の隙間に見える石垣なのである。

 

 

 

現在も高さ2.5m〜6m、総延長5.4kmにわたりその石塁が残っている。一ノ城戸(キド)から三ノ城戸まで三つの城門があるが、近年、発掘も進み、その修復や復元とともに城壁に当たる石組みの修復も行なわれている。対馬が国防の拠点の最前線であったという当時の緊張した国際関係を肌で感じ取れる興味深い遺跡である。

 

 


正面上部に修復中の石塁が見える 

 

 

そして、そこで反転していよいよ、「ニューとよたま」は対馬観光の目玉とも云うべき海上からの和多都美神社観光へと向かう。

 


「ニューとよたま」 は黒瀬湾を出てゆく



聖なる山、白嶽山の頂上が見える

浅茅湾の真珠の養殖
浅茅湾では真珠の養殖が盛んである


湊の村


村の対岸に真珠の加工工場。毎日、工場へ船で行き来する
 

浅茅湾を北上し、仁位浅茅湾へと入り、時計回りに湾内を進んだ奥まった場所に、昨日、真珠の浜に降りて見上げた一之鳥居と二之鳥居が海上に浮かんでいるのが望見できた。

 


右手奥が真珠の浜。一之鳥居、二之鳥居が遠くに・・・


海中に立つ鳥居。前日は一之鳥居の少し 向こうまで歩いて来れた

 

 

船は鳥居の正面近くに停止する。海上から五つの鳥居をまっすぐに見通すのが、このクルーズの真骨頂ということだと、ガイドのオジサンが案内する。このスポットで鳥居をバックに記念撮影というのが定番ということなので、当然、われわれもパチパチとデジカメを撮り合った。

 


シャッター・チャンス!!船長さんお見事!


満ち潮に覆われた満珠瀬と豊玉姫の像


海上、満ち潮で隠れた太田浜から、玉の井の鳥居を
 

 

静かな入り江の海中に鳥居が立ち、それをくぐった奥に宮殿がある。海上から眺めてみて、ここがまさに龍宮城だということを確信した瞬間であった。 そして、和多都美の海は、わたしに夏の強烈な陽光を碧色に跳ね返して見せた。

 

ここが、龍宮城だと確信した瞬間!!!




樽ヶ浜へ

樽ヶ浜へ 

 
 船は一路、樽ヶ浜に向かい波を蹴った!

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 3 和多都美神社の玉の井

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 番外編(三柱鳥居と天照御魂神社の謎)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 補足(参考・引用文献について)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 4(大吉戸神社・鋸割岩・金田城・和多都美神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 2(和多都美神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1



 


左の舗装道をゆっくり上った先、左手に「玉の井」 ・正面、三柱鳥居

 

古くは和多都美神社の地続きの境内であったのだろうが、今は三之鳥居と四之鳥居の間をりっぱな舗装道路が横切り、その道路を車で1、2分行った左手、浜辺に降りる細い坂の先に「玉の井」はある。10mほどの坂を下ると、右手に石の鳥居があった。扁額に和多都美神社とある。その鳥居正面奥の木陰に「玉の井」が見えた。

 


玉の井周辺の地図


鳥居の奥正面に「玉の井」

玉の井の鳥居の扁額
和多都美神社と書かれた扁額 



玉の井で出逢う山幸彦と豊玉姫
 

 

「紀」の「神代下第10段」に、『(彦火火出見尊は)忽(タチマチ)に海神(ワタツミ)の宮に至りたまふ。其の宮は、雉�犬(チテフ・注1)整頓(トトノホ)り、台宇(ダイウ・注2)玲瓏(テリカガヤ)けり。門前に一つの井有り。井上(イノホトリ)に一の湯津(ユツ・注3)杜樹(カツラノキ・注4)有り。枝葉扶疏(シキモ=繁茂)し。時に彦火火出見尊、其の樹下に就(ユ)き、よろほひ彷徨(タタズ)みたまふ。良久(ヤヤヒサ)しくして一(ヒトリ)の美人(ヨキオトメ)有りて、闥(ワキノミカド・注5)を排(オシヒラ)きて出づ。遂に玉鋺(タママリ)を以ちて来り水を汲まむとす。因りて挙目(アフ)ぎて視(ミ)つ。乃(スナハ)ち驚きて還(カヘ)り入り、其の父母に白(マヲ)して曰(マヲ)さく、「一の希しき客者有り、門前の樹下に在す」まをす。海神、是に・・・』

とある。海神の宮に着いた山幸彦(彦火火出見尊)が門前の井戸のほとりにある桂の木の枝に腰かけ、水を汲みに来た豊玉姫が井戸の水面に映る山幸彦を見つける有名な場面である。

 

 その美しい鋺(ワン)に因んだ「玉の井」がこの満珠瀬と干珠瀬に挟まれた小さな浜のほとりにあった。脇に大きな木があり、緑の葉を繁茂させていたが、桂の木ではなかった。

 

大きな木の下に強い日差しをさけるように玉の井が
 

 

この井戸は今でも水が湧き出ているとのことであり、柄杓が井戸の蓋の上に置かれていた。周囲に夏草が生い茂り、草いきれも激しかったが、目を閉じて小さい頃に読んだおとぎ話を瞼の内に浮かべて見ると、雑草と思われた夏草は龍宮城を飾る色とりどりの藻に変じ、むっとした草いきれは、桂の木が放つ爽やかな薫りのように思えてきた。

 


今でも湧水が出ているという玉の井


周辺には夏草が生い茂る 

 

 

鳥居を背にして眼前には太田浜が広がっている。すぐ左手には満珠瀬があり、その左隣の浜が真珠の浜となる。満珠瀬には豊玉姫の銅像が建てられている。また、目を右手に転じると、汀に沿ってちょっと斜め右手に干珠瀬が見えた。穏やかで、豊な海がどこまでも広がっている、そんな気持ちがわたしを包み込んだ。わたしは、この和多都美の宮殿のほとりに、いま、まさに立っているのだと実感した。

 


穏やかな太田浜の水面


山の落ち込んだ突端部が干珠瀬(満珠瀬より撮影)


満珠瀬に建つ豊玉姫の像
 

 

 鳥居の脇に小屋があった。中に二艘の和船が置かれていた。二人の若者が一生懸命、船の手入れをしていた。近く、競漕があるとのことで、その準備に余念がないといった様子であった。後で調べたところ、その競漕は「船ぐろう」と呼ばれるものであった。

 


「船ぐろう」に 出る二艘の和船

 

境内の拝殿前の建屋に和船が一艘、収められていたが、この「船ぐろう」でかつて優勝でもした船であったろうか。

 


拝殿前の脇に置かれた和船 

 

和多都美神社では、古式大祭として毎年旧暦81日(今年は98日)に、「船ぐろう」と呼ばれる櫓漕ぎ和船二艘による競漕が行なわれる。櫓を11丁使い、神社へ向かって沖合から片道200mで争われる。

 


壱岐にも「船グロウ」と呼ばれる同様の習俗が残っている。当社の「船ぐろう」は昭和56年に復活したそうだが、対馬内でも海神神社をはじめとし多くの神社や海村で、この「船ぐろう」は催されている。船には神官が乗ったり、神功皇后の新羅征伐を彷彿とさせる女装をした老練の漁師が舳先に乗る例もあり、古来の神事と思われる習俗である。

 

出雲の美保関で白装束の氏子による二艘の古代船による競漕は、「諸手船(モロタブネ)神事」と呼ばれ、今に、「大国主命が国譲りの際に美保神社の祭神・事代主命に諸手船で使者を送った」との故事を伝えている。

 

対馬や壱岐の「船ぐろう」が沖(海)から浜(陸)へ向かって競争し、浜に飛び降り、旗や日の丸、御幣などを取り合うという行為は、今の私たちに何を伝えようとしているのだろうか。

 

対馬の随所でこの「船ぐろう」が絶えては復活、絶えては復活を繰り返しながら、現代に継承されて来ていることに、対馬の人々の血のなかに、神功皇后の新羅征伐を援けた海人族としての誇りというDNAを見つけたような気がした。

 

時間は移ろい、さっき歩いた真珠の浜に潮が満ちはじめ、二之鳥居までが潮に浸かっていた・・・

 


いつしか潮が満ちて来た・・・(満珠瀬より) 

 

(紀の注1)雉�犬(チテフ):城の長く高い女垣。「雉(チ)」は城の垣の尺度の単位で、横が三丈、高さが一丈。

(紀の注2)台宇(ダイウ):「台」は、「説文」に「台は四方を観るに高き者也」とある。「宇」は軒、屋根の意。二語でウテナの意。

(紀の注3)湯津:「神聖な」の意。

(紀の注4)「杜」は境界木としての木の意(新撰字鏡)で、ここでは、カツラの木(楓はヲカツラ、桂はメカツラ)。天神の降臨の木として登場。

(紀の注5)「脇の御門」の意で、宮廷人が日常通用する小門。

 

 

 

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 番外編(三柱鳥居と天照御魂神社の謎)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 2(和多都美神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 3 和多都美神社の玉の井

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 補足(参考・引用文献について)
 


磯良の墓を護る三柱鳥居。潮が満ちてくると鳥居は海水に浸される


磯良の墓


三柱鳥居は海水の入り込む潮溜まりに 

 

 

阿曇磯良の墳墓伝承のある磐座を中央に収める三柱鳥居は非常に珍しい鳥居様式である。全国でも数例(京都・木嶋神社、東京・三囲(ミメグリ)神社、)を数えるのみで、就中、京都の蚕の社と親しまれている木嶋(コノシマ)神社(京都市右京区太秦森ヶ東町)の三柱鳥居がつとに有名である。

 


海神の豊玉彦命の墓を護る三柱鳥居(横から)


三柱鳥居が美しい・中央に海神の墓が。 

 

  その木嶋の鳥居も拝殿正面にあるのは笠木に反り増すのない普通の神明鳥居で、三柱鳥居は拝殿左奥の階段を数段下った、薄暗い元糺(モトタダス)の池の中に立っている(現在は近隣の宅地開発の影響で水は枯渇し、枯れ池となっている)。 また三囲神社の三柱鳥居は中心にある井戸を護るように立っている。

神社の前

京都太秦の元糺にある木嶋坐天照御魂神社

元糺の池に立つ三柱鳥居

水が溜まる石組に囲まれている

湧水の水位を測るのだろうか、三柱鳥居の前に大きな石組みの池が

三柱の中心に磯良の墓を思わせる石の造作が・・・

こうした例と和多都美の潮溜りの海中に立つもの(磯良恵比寿)とを併せ考えると、謎と云われる三柱鳥居の由来に、海なり水、或いは潮の満ち引きに深く関係していることは確かなところであろう。

 

さらに木嶋神社の別名である木嶋坐天照御魂(コノシマニマスアマテルミタマ)神社という名が、後日、訪ねる対馬の阿麻テ留(アマテル)神社の御祭神が、「対馬下県主『日神命』または『天照魂命』」(「大帳」)とあるのが、「日の神」と「海・水の神」との融合に何か関係があるようにも思われる。

 

同様に、延喜式名神大社の摂津の新屋坐天照御魂(ニイヤニマスアマテルミタマ)神社の論社である西福井、宿久庄、西河原の新屋坐天照御魂神社(共に大阪府茨木市在)の祭神のなかに、大綿津見大神(西福井)、住吉三神・磯良神(宿久庄)、住吉神・磯良神(西河原)の顔が見えることも、「日の神」と「海の神」の融合を暗示させる。

 

とくに興味深いのが、西河原天照御魂神社の元境内社であった磯良神が独立して、茨木市三島丘に疣(イボ)水・磯良神社として祀られている。その地に「玉の井」という霊泉があり、山幸彦伝説の「玉の井」と同名の井戸があるのも興味深い。

 

そして、新屋天照御魂の3論社に共通して神功皇后の三韓征伐時の禊ぎや凱旋時にここの玉の井で洗顔し、美しい顔に戻った(出征時には男装し、顔に疣(イボ)をつけた)とされる皇后伝承が残っているのも注目すべき点である。

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 補足(参考・引用文献について)


神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 2(和多都美神社)


  和多都美神社を見てきたが、これから対馬の神社を取り上げてゆく際に、頻繁に引用させていただく文献について、以下に説明しておく。

 

 鈴木棠三(トウゾウ)の「対馬の神道」(三一書房)および「日本書紀」(小学館・以下「紀」と云う)、「古事記」(小学館・以下「記」と云う)を主たる文献として参考とした。就く、「対馬の神道・第二部」掲載の「対州神社誌原文」(貞享三年(1686年))並びに鈴木氏により補充された「明細帳」等の「三書」は、幾多の伝承を紹介するうえでの基礎的資料として有効に活用した。

 

「三書について」

「対馬国大小神社帳」(以下「大小神社帳」):代々の対馬國総宮司職の家系である藤斎長(トウ・マサナガ)及び神社奉行一宮藤馬の手で宝暦十年(1760年)に編纂された。「大小神社帳」に「藤内蔵助(斎長)」について、「右者(ハ)対馬国大小之神社社領地之事?(ナラビニ)年中恒例之祭祀等之儀、宮司社家社僧命婦神楽師社役人之支配を相勤め、役号を対馬国総宮司職と申候」とあり、総宮司職という職位の職掌範囲が説明されている。

 

「対馬州神社大帳」(同「大帳」):藤仲郷(トウ・ナカサト=斎長の子)の手になる天明年間(178189)の著作。大小神社帳・大帳の二書は、中世・近世の神道信仰の実態が記された貴重な資料として神道研究のうえで価値を有す。

 

「神社明細帳」(同「明細帳」):古くは内務省神社局、戦時は神祇院による神社行政の対象となる全国神社の台帳。戦後は神社本庁で新たに各神社から提出したものをまとめた明細帳が作成されたが、内容的には新旧大差はない。

 

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 2(和多都美神社)

 

神々のふるさと、対馬探訪の旅 ―― 1

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 補足(参考・引用文献について)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 補足(参考・引用文献について)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 番外編(三柱鳥居と天照御魂神社の謎)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 3 和多都美神社の玉の井


海上より和多都美神社と境内を覆う原生林を 

 

 

 いよいよ、和多都美(ワタヅミ)神社(豊玉町仁位和宮55の境内へと足を踏み入れることにしよう。

 


三之鳥居から陸地へ


最後の五之鳥居から境内と三之鳥居を 

 

 

 

 「紀」の神代上(第五段)・一書第六に「底津少童命(ソコツワタツミノミコト)・中津少童命(ナカツワタツミノミコト)・表津少童命(ウハツワタツミノミコト)は、是阿曇連等が祭れる神なり」とある。伊弉諾尊(イザナギノミコト)が橘小戸(タチバナノオド)の海中で祓除(ミソキハラ)いをした時に産まれ出たのが上にある「綿津見三神」であり、さらに同時に産まれ出た「住吉三神」とともに「海神」とされる。

 

ワタヅミという名から当社が海と深く関わる神社であることは言を俟たない。また、当所に残された幾多の伝承や遺跡から、この地こそお伽話に出てくる「龍宮城」であるとするのは、この地に立ち、海上からこの宮を見た者が等しく抱く素直な感情ではなかろうか。当社の御祭神、由緒をまず詳細する。

 

【和多都美神社の概略(「対馬の神道」より)】

    社号:「明細帳」は「渡海(ワタツミ)宮」を和多都美に充てる。「大小神社帳」には「天神宮」を充てるが、同宮は古くは和多都美御子(オンコノ)神社と號したとある。

    祭神:彦火火出見尊(ヒコホホデノミコト・山幸彦)・豊玉姫命(海神豊玉彦命の娘)

    由緒明細帳)

當社は海宮の古跡なり。古くは海神豊玉彦命此の地に宮殿を造り住み玉ひ、御子に一男二女在して、一男を穂高見命と申し、二女を豊玉姫命、玉依姫命と申す。ある時、彦火火出見命、失せし鉤を得んと上國より下り玉ひ、此の海宮に在す事三年にして、終(ツイ)に豊玉姫を娶り配遇し玉ふ。良有て鉤(ハリ)を得、又上國へ還り玉ふが故に、宮跡に配遇の二神を齋(イツ)き奉りて和多都美神社と號す。又社殿を距る凡二十歩にして豊玉姫の山陵及豊玉彦命の墳墓あり。寛文年中(16611673)洪浪の為めに神殿悉く流れて、神体の(原文は「」)、渚に寄り来れるが故に、往古の棟札なく、勧請年月未詳。・・・」

 

 

さて、海上より数えて四つ目の鳥居に向かって白砂利の敷かれた境内に入ると、左手に石組みに囲われたプール状の潮溜りがある。その中央付近に三柱鳥居がある。3本の柱に囲まれて「磯良恵比寿」と呼ばれる「安曇磯良の墓」(伝承)が見えた。

 


四之鳥居に向かい左手の潮溜りに三柱鳥居に囲まれた磯良の墓が 

 

 

各種案内では、「鱗状の亀裂が入った」と形容されるが、その泥色をした岩は大きな拳状の塊がくっ付きあったような奇怪な形をし、思いのほか大きかった。海中に生活していたため鮑や牡蠣がくっついた見苦しい顔であったとされる磯良の気味悪さを表わしているような、そんな形状であった。

 


三柱鳥居


奇怪な形状の磯良恵比寿


説明板 

 

 

当日は狙い通り干潮から一時間ほど経った時刻に詣でることができ、磯良恵比寿の全貌を心ゆくまで堪能できた。そして、ひょっとしたらこの岩の下に、海中に通じる「橘小戸(タチバナノオド)」があるのではないかとあらぬ妄想に駆られたりした。

 


干潮時の社前の真珠の浜と一、二之鳥居


これ、ひょっとして橘の小戸? 

 

そこから少し進み四つ目の鳥居をくぐると、正面に最後の鳥居と拝殿がある。その拝殿の奥に神明造りの本殿がある。拝殿脇の松の古木の大きな根が龍のように体�默をくねらせ本殿を目指し這っている姿が印象的であった。

 

 

五之鳥居と拝殿



拝殿境内入口で睨みをきかす狛犬


拝殿正面


神明造りの本殿


本殿へと這う松の古木の根っこ 

 

拝殿の左脇にまた三柱鳥居を見つけた。その中心には大きな磐座のように見える岩があった。海神豊玉彦命の墳墓とも云われるものである。何の表示も説明板もない。各種のWEB SITEで書かれているので、そう思ったまでである。

 


三柱鳥居に護られた豊玉彦命の墳墓 

 

ただ、番外編の「三柱鳥居」で述べるように、水神なり海神と三柱鳥居が関係するのであれば、この磐座が海神、豊玉彦命の墳墓であるとしても、あながちおかしくはない。龍宮であるこの海神の宮に豊玉彦の墓が祀られていない方が奇妙と云えば奇妙なのだから。さらに、神社誌の注釈にも、「社殿を距る凡二十歩にして豊玉姫の山陵及豊玉彦命の墳墓あり」とあり、過去、神殿は流されてもご神体は渚に戻ってきたと記されていることから、次に見る豊玉姫の御稜と併せ、この磐座が豊玉彦命の墳墓と看做(ミナ)すのは妥当と考える。

 

次に鬱蒼とした薄暗い森の中へと入ってゆく。我々一行6人以外に誰もいない原生林は霊気を孕(ハラ)み、目に見えぬ神が語りかけて来るように感じた。

 


霊気の漂う境内の原生林 

 

細い小道をしばらく行くと、左手に鳥居が見えた。根っこが捻じり上がったような樹の根元に豊玉姫の御稜はあった。7080cmほどの楕円形の自然石に「豊玉姫の墳墓」と刻まれていた。その自然石はたくさんの平板な石が積まれた上に乗り、後方に武骨で大きな岩が見守るように寄り添っているのが印象的であった。

 


 

原生林と磐座に依る豊玉姫の墳墓


中央のだ円形の自然石に豊玉姫の墳墓と刻まれている 

 

 

境内をさらに進むと、おそらく雨が降った時には小さな川になるのだろう、そこに木橋が架かり、原生林を抜けると境内の裏から入る鳥居にぶつかった。 

 

木橋
境内の木橋 

 

扁額に「一宮和多」まで何とか読めたが、あとは緑色の苔が覆っていた。

 


苔むした裏の鳥居の扁額 

 


神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1

 828日、福岡国際空港から対馬海峡を飛び越え、定刻の午後4時に浅茅湾東南奥、本島のほぼ真ん中に位置する対馬空港へ降り立った。これから34日の神々を巡る対馬の旅が始まる。

 


対馬海峡(デジカメで撮影可能な上空から)

対馬海峡に小さく浮かぶ小島が見える(同上) 

 

 空港へ迎えに来てくれた従妹家族の車で対馬グランドホテルへ直行(5分)、まず、チェックイン。従妹夫婦は小学校の教員であるが、長崎県の教職員には原則、4年間の離島赴任が義務づけられている。今年が彼らの対馬における最後の夏になるというので、押しかけた次第である。

 


宿泊先の対馬グランドホテル


日本海を見晴らすテラス

コテージ
ロッジに泊る。この先右手階段を下りると日本海の磯に繋がる


磯辺から日本海に昇る朝陽を(29日早朝)


水平線に朝陽が(同上)


素晴らしい朝焼けの空(同上) 

 

そして、ホテルでの休憩もそこそこにお目当ての和多都美(ワタヅミ)神社へ向かうことにした。予め、当日の干潮が午後430分であることを調べておいた。

 

干潮時でないと和多都美神社の海中に立つ鳥居の傍に歩いて行けない。また、潮溜まりにあるはずの阿曇磯良(アズミノイソラ)の墓との伝承のある磐座(イワクラ)が水没していては堪らないと思ったのだ。

 


和多都美神社


干潮で全貌を見せる磯良恵比寿 

 

 車で約40分。和多都美神社(豊玉町仁位)は、仁位浅茅湾の奥にあった。潮が引いた「真珠の浜」に降りて、早速、歩いた。残念ながら一之鳥居はわずかに足元を潮に濡らしていたが、二之鳥居と一之鳥居の土台がしっかり見えた。

 

 

真珠の浜に下りて、三之鳥居から拝殿を臨む



二之鳥居から一之鳥居を


二之鳥居正面から拝殿方向を

 

 右手の堰堤の突端の辺りが、山幸彦の神話に出てくる潮満瓊(シホミツタマ)・潮涸瓊(シホフルタマ)の宝珠にちなみ「満珠瀬」と呼ばれる場所である。その土手の上に潮満瓊をささげる豊玉姫の銅像が建っていた。


この堰堤の突端の辺りが満珠瀬




 晩夏の夕暮れ、干潮の真珠の浜にはわれわれ以外には人っ子一人いない。ただ、両脇に迫る小高い山から蝉しぐれが降り注ぐのみである。

潮満瓊(シオミツタマ)を奉げる豊玉姫の銅像

 


刻々と潮が満ちてくる浜に静謐の時間が・・・ 

 

 海神、豊玉彦命の宮殿の地を静謐の時間が充たした瞬間である。

 

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 2」で、和多都美神社の由緒等詳細を語る。


神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 2(和多都美神社) 

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 補足(参考・引用文献について)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 番外編(三柱鳥居と天照御魂神社の謎)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 3 和多都美神社の玉の井


神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 4(大吉戸神社・鋸割岩・金田城・和多都美神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 5(鴨居瀬の住吉神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 6(鴨居瀬の住吉神社・赤島)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 7(梅林寺)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 8(鶏知の住吉神社と阿比留一族)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 9(雷命(ライメイ)神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 10(太祝詞(フトノリト)神社)

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