彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

日本の古代史

コキコキドライブ旅 6日目 その二 継体天皇と越の国

東尋坊を後にしていよいよ謎多き継体天皇(26)の伝承が多く残る福井県こと越前国へと分け入ってゆくことになる。

その越前国について簡単な説明をしておく。

全国を68か国に区分けした令制国(りょうせいこく)制度 (大化二年(646)の「改新の詔」にはじまり大宝律令、養老律令により整備された地方統治機構)において越前国は、国力基準(大国・上国・中国・下国)では「大国」13か国の一つで、日本海側では唯一、大国に分類されている。

また都からの距離基準(畿内・近国・中国・遠国)では、「中国」16か国の一つとされている。

このことから令制国制度が整備されていった7世紀から8世紀初頭にかけて、越前国は日本海諸国のなかで一頭地を抜いた国力を有する強国として認識されていたことがわかる。

その繁栄の礎を築いたのがこの地に多くの伝承を残す男大迹王(おおどおう)、のちの継体天皇であるという。

々谷(しゃくだに)石で造られた継体天皇の石像
足羽山公園三段広場の頂上に建つ継体天皇石像
その代表的なものを記すが、足羽神社に伝わる『越前国神社明細帳』などに残されている。

  日野・足羽・九頭竜の三河川のたびたびの氾濫で泥濘地から巨大湖(琵琶湖の約1/5)へ変貌したが、三国辺りで堰堤に水門を開き、湖水を日本海へ落とすことで肥沃な福井平野を創出した

  九頭竜川周辺の砂鉄から製鉄業を興し、刀剣など武具は勿論だが鉄製農具により灌漑用水の整備、農地の開墾を飛躍的に進めた

  男大迹王が壊れた冠を片山集落(鯖江市)の塗師に修理させたところ、見事に冠を修復し、加えて黒塗りの漆椀を献上。その出来栄えに感服し漆器づくりを奨励した

  男大迹王の時代に、川上御前(本邦唯一の紙の祖神)が村人に和紙漉き技術を伝え、日本三大和紙の一つとして最高品質の越前和紙技術をいまに残す

など、越前国の産業勃興にかかわる継体天皇伝誦の数の多さには驚く。

しかも畿外の地域でこの種の伝誦を数多残す天皇は私の知る限りこの継体天皇のみである。

‖羽山から福井市街が一望できる
継体天皇像から見渡す福井市内 

そんな継体天皇は応神天皇(15代)の5世の孫とされ、放埓暴虐を極めた武烈天皇(25代)が崩御され皇統が絶えなんとしたことを受け、仁賢天皇(24代)の皇女(手白香皇女(タシラカノヒメミコ))を娶り皇統をかろうじてつなぐこととなった。

書紀・継体紀(即位前紀)はその父母について、

「彦主人王(ヒコウシオウ)は近江国高島郡三尾(滋賀県湖西地方の北部)別邸から使者を遣わし、容貌端麗な振媛(フリヒメ)を三国の坂中井(=さかない・福井県坂井郡)より迎え、妃とした」と記す。

男大迹(オオド)はその父母の間に嫡嗣として近江で生まれた。

だが幼年時に父を失い母とともに郷里である三国の高向へ戻り、武烈帝の後を襲い即位する57歳までこの地方で王として威勢を張ることになる。

 

さて、応神天皇の五世の孫が皇統を嗣いだ経緯を詳らかに理解することは、昨年12月22日に岸田総理大臣に手渡された「皇位継承にかかる有識者会議」(座長 清家篤・元慶應義塾塾長)の最終報告書の内容を沈思潜考するうえで、きわめて示唆に富むものと思料する。

 

皇位継承にかかる有識者会議・最終報告要旨

制度的安定性が極めて重要で皇位継承の議論は機が熟していないとしたが、皇位継承の問題と切り離して皇族数を確保することは喫緊の課題であるとし、その方策として、

一、女性皇族が結婚後も皇室に残る 

二、旧皇族の男系男子を養子に迎える 

という二案を提示。

 

ここでいう旧皇族とは世襲親王家・臣籍降下宮家をいうものと理解するが、これが男系皇統をつなぐキーワードとなる。

 

そこで、皇族の定義についてであるが、大宝令(701)の原文が現存しないため、その後実情に合わせ改修した養老令(757)にまでさかのぼる。

養老令の全30編の第13「継嗣令」の1「皇兄弟子条」に、「親王より五世は、王の名を得るといえども皇親の限りにあらず」とされている。つまり、天皇の御子である親王を1世と数え、5代目は皇族にあらずということである。

 

また「続日本紀」によると大宝元年(701)3月に「初めて新令(大宝令)に基づいて官名と位号の制を改正した」とあり、それにつづく、新たな位階毎の服装を定めたり、中納言の官職が廃止されるなどの具体的記述をみると、大宝令が養老令と同程度に実態を伴ったものであったことがうかがわれる。

 

その「続日本紀」慶雲3年2月庚寅条(文武天皇・706年)、上記の養老律令発布の50年ほど前、大宝律令発布の僅か5年後に、大宝律令の7項目の改正が実施されている。

その「格・全7条発布、その7条」で、「継嗣令によると、天皇から五世の孫に相当する王は、王という名を得ているが、皇親(皇族)の枠にははいらない。現在、五世の王は皇親の籍から切り放し、臣下の扱いにしている。しかし親族をいつくしむ情からは戸籍を断ってしまうことに、心の痛みを覚える。今後は五世の孫も皇親の範囲に入れることとせよ」と、継嗣令の大改正が行われた。すなわち、天皇の皇子親王(1世)から五世の子孫までを皇族とするとこれまでの一代先の子孫まで皇族の範囲を広げたのである。

この改正により武烈天皇で途絶えようとした皇統を応神天皇5世の孫とされる男大迹王が皇統を嗣ぐにあたって正統性と法的根拠が与えられたことになる。

ではなぜ706年という年にこうした大改正が必要だったのか。

その時代、天皇の系譜を眺めるに皇統が絶える心配など微塵もないのにである。どうしても改正せねばならなかった必然性を次のようにわたしは考えている。

この時期、現在記紀と呼ばれる「古事記」(712)・「日本書紀」(720)の編纂の中身がほぼ固まったものと思われる。

そのなかで、天照大御神からの天孫族としての血統を時の天皇である文武天皇につなぐ正統性を示すには、武烈帝で途切れた皇統を継体帝につなぐ理屈をつくる必要に迫られた。そこで、急遽、継嗣令の改正に至ったと・・・。

皇統をつなぎ守ったわれわれの先祖の苦衷の選択を物語るはなしである。

 

そうした悠久の謎と先祖の智慧を胸に秘めて、東尋坊からわずか3kmのところにある九頭竜川河口の三国湊へと向かったのである。

日本書紀をたどり明日香を歩く―― 2=仏教公伝をめぐる権力闘争の場面で登場する海柘榴市(つばいち)6/6

海柘榴市はシルクロードの起点であると先に語った。日本書紀に仏教公伝の百済使節が海柘榴市に上陸したとの記述は見えない。


海柘榴市歴史公園と三輪山
三輪山麓、この辺りが海柘榴市・河原に海柘榴市歴史公園

しかし、隋の裴世清が遣隋使の小野妹子らと共に大和川を水行上陸したのが海柘榴市であったことは、後の推古紀16年8月条に記されている。海外の賓客が難波津から大和川を遡上し、この海柘榴市の河港に上陸し、明日香の京に陸行するというのが、その当時のメインルートであったことは確かである。


故に、それを遡ること五十有余年前にも、百済からの使節が海柘榴市に来着したことは間違いなかろうと考える。現在、大和川に架かる馬井出橋の脇、堤の上に “仏教傳来之碑”と彫り抜かれた大きな石碑が建っているのも頷けるところである。


仏教伝来地石碑
大和川岸に立つ仏教伝来の碑

仏教公伝については、欽明(キンメイ)13年(西暦552)10月の条に、「冬十月に、百済の聖明王、更の名は聖王。西部姫氏達率怒唎至契(セイホウキシダチソチルヌシチケイ)等を遣して、釈迦仏の金銅像一躯・幡蓋若干・経論若干巻を献る・・・」と伝えている。


そして、「仏法が諸法のうち最も優れたもので、三韓も皆、教えに従い、尊敬しないものはない」との百済王の上表文を読んだ欽明天皇は、「西蕃(セイバン)の献れる仏の相貌、端厳にして全く未だ曾(カツ)て看(ミ)ず。礼(ウヤマ)ふべきや以不(イナ)や」と、仏教受容の是非を群臣に問うた。


蘇我大臣稲目は「西蕃の諸国、一に皆礼(ウヤマ)ふ。豊秋日本(トヨアキヅヤマト)、豈(アニ)独り背かむや」と、仏教の受容を促した。


一方、物部大連尾輿(オコシ)と中臣連鎌子は、「我が国家の天下に王とましますは、恒(ツネ)に天地社稷(アメツチクニイエ)の百八十神(モモアマリヤソカミ)を以ちて、春夏秋冬、祭拝りたまふことを事(ワザ)とす。今方(イマ)し、改めて蕃神を拝(ヲロガ)みたまはば、恐るらくは国神(クニツカミ)の怒を致したまはむ」と、神道祭祀の長たる天皇が他宗教の神を祭拝すると国ツ神の怒りを買うと猛反対。


そこで、天皇は崇仏派の蘇我稲目に仏像を預け、試みに礼拝させることとした。稲目は自邸のある小墾田(オハリダ)にまず仏像を仮置きし、至近の向原(ムクハラ)の家を浄捨して寺とすると、そこへ移転安置し、仏道の修行に勤めた。


向原寺・本堂
向原寺(こうげんじ)・本堂

ところが、その後、折悪しく全土に疫病が蔓延、病死者が増嵩。この災禍につけ込んだ排仏派の物部尾輿・中臣鎌子は、これは国神の祟りであり、早々に仏像を棄てよと上奏、欽明天皇は「奏(マヲ)す依(マニマ)に」と、それを許す。


そこで、尾輿らは仏像を難波の堀江に棄てさせ、伽藍に火をつけ灰燼させた。この難波の堀江は仁徳天皇11年10月条に、「(難波高津)宮の北の郊原(ノハラ)を掘り、南の水を引きて西の海に入る。因りて其の水を号(ナヅ)けて堀江と曰ふ」とあるように、仁徳紀に治水工事として築造開鑿(カイサク)させた堤や運河のひとつである。


ただ、これには異説があり、現在の向原寺(コウゲンジ)に“難波池”という小さな池がある。この池が紀にある“難波の堀江”であるとの伝承が残されており、江戸時代にここから金銅観音菩薩立像の頭部が発見されている。明日香を遠く離れた難波の津までわざわざ仏像を棄てに行くのは不自然との見解である。


向原寺・難波の堀江
向原寺にある難波池

どちらにせよ、仏法の受入についてその象徴である仏像の棄却という行為は宗教戦争というよりも、これまで国家祭祀を掌って来た物部氏や中臣氏といった古豪族と擡頭著しい新興豪族である蘇我氏との姿を変えた権力抗争であったというのが事の本質である。


そして、神道派の攻勢のなかにあって、敏達天皇13年2月条にあるように、「蘇我馬子は百済から二体の仏像を請け邸宅内に造った仏殿に安置。そして、高麗の恵弁を師とし、三名の女を得度させ尼とし、これらに大規模な法会を催させる」など、蘇我氏は仏教の庇護者としての地位を徐々に固めてゆく。


そんな折、容仏派の頭目であった馬子が病に伏し、国内に再び疫病が起こり多くの民が死ぬことになる。


ここに排仏派の物部守屋(尾輿の子)大連・中臣勝海(鎌子の後継者か?)が、

「考天皇(チチノミカド=欽明)より陛下に及(イタ)るまで、疫病流行(ハヤ)りて、国民絶ゆべし。豈専ら蘇我臣が仏法を興し行ふに由れるに非ずや」と、上奏(敏達紀14年3月条=西暦585年)。


天皇の許しを得た守屋は早速に、仏像や寺の伽藍を焼き、焼け残った仏像は難波の堀江へ棄て去った。このことは仏教公伝の欽明天皇の時代に物部尾輿・中臣鎌子が同一の行為を行った記述があるが、ひとつの事件を重複して記載した誤謬ではなく、このような廃仏毀釈の迫害、弾圧が度々あったと理解すべきであろうと考える。


そして、病床に伏す馬子や仏法を修める法侶を責め尼を引っ立て、弾圧するのである。その見せしめの舞台として登場するのが、海柘榴市(ツバイチ)である。


即ち、「有司(ツカサ=役人)、便(スナハ)ち尼等の三衣(サムエ)を奪ひ禁錮(カラメトラ)へて、海柘榴市の亭(ウマヤタチ=駅舎)に楚撻(ムチウ)ちき」と、排仏の公開処刑の場として海柘榴市の馬屋館が使用されている。


それは、中世における政治犯の処刑の場としての六条河原そのものであり、川原は小屋掛け興行なども盛んに行なわれ人の往来が多いゆえに、そうした舞台にも使われたという意味において、海柘榴市が当時、殷賑を極めていたという証でもある。


それから時代は下って、1300年後の明治維新、国家運営の道具立てに宗教を利用しようとする一派により、まったく同じ蛮行、すなわち、廃仏毀釈という愚かな行為はなされることとなる。


まさに歴史は繰り返すの銘言通りの事象が起こっているのである。その一場面にこの海柘榴市も登場するという話であった。




日本書紀をたどり明日香を歩く―― 2=王権交替のさらに真相に迫る海柘榴市(つばいち)5/6

雄略に次ぐ清寧天皇の二代の間、政権中枢に据わっていたのは大伴室屋大連や平群真鳥大臣である。


紀に清寧天皇即位に両者が各々、大連・大臣に叙された際に、「並びに故(もと)の如し」とある。その前からこの体制であったと記されており、先代の雄略天皇の即位と同時に平群真鳥は大臣、大伴室屋、物部目(め)は大連に叙任せられたと紀にある。


そして、この三重臣のうち武烈天皇の時代まで残ったのが平群真鳥大臣である。


物部目は清寧天皇の即位の立役者としては登場せず、その後の皇位継承の過程のなかにも名を出すことなく歴史の世界から姿を消し去っている。


また、清寧擁立の立役者である大伴室屋も雄略23年10月4日の条(清寧紀即位前記)、「大伴室屋大連、使主・連等を率ゐて、璽(みしるし)を皇太子(清寧)に奉る」とあり、清寧紀2年2月の条に、「天皇、子無きことを恨み、乃ち大伴室屋大連を諸国に遣して、白髪部(しらかべの)舎人・白髪部膳夫(かしはで)・白髪部靫負(ゆけひ)を置きたまふ」とある後は、一切、紀の世界から姿を掻き消している。


その結果、武烈紀には大伴氏が室屋の孫である金村が連として一族の長として登場し、平群氏滅亡の大功により大連に昇進することとなる。


また、物部氏はまさに平群氏と武烈との間で娘を取り合いされる麁鹿火(あらかい)が大連として登場しているが、物部目の直系の血筋ではなく、雄略紀に重用された目の本流の方は凋落したものと推測される。


即ち、雄略・清寧・顕宗・仁賢・武烈の五朝に亙って常に政権中枢に据わっていたのが平群真鳥ということになる。


そして、清寧天皇擁立に際し、平群真鳥は大臣でありながら、一切名を出していないことも奇妙である。その後も、朝廷内で大臣として権力を維持しているのにである。


さらに不思議なのが、清寧天皇と武烈天皇の間の二代の天皇、即ち、顕宗・仁賢紀において、大伴、物部はおろか平群の一文字すら出てこぬことである。


清寧天皇が皇統の血筋を引く二人(億計・弘計)が発見され、都へ迎えるときに、「『朕、子無し。以ちて嗣(ひつぎ)となすべし』とのたまひ、大臣・大連と策(はかりこと)を禁中に定めたまふ。」など、一般名詞の大連・大臣や百官(ももつかさ)公卿・百寮(ももつかさ)といった表現で臣下との遣り取りの様子が描かれる。


具体的な重臣の姓は一切、登場しないのである。その為、この二代の記述は雄略天皇の追捕からの二王子の逃亡、発見の様子は極めて具体的であるものの、即位からその治世、朝廷内の描写は平板でおそろしく抽象的な記述にとどまっている。


そして、武烈紀に入り、「(仁賢紀)11年8月に、億計天皇崩(かむあが)りましぬ。大臣平群真鳥臣、専ら国政を擅(ほしきまま)にして、日本(やまと)に王たらむと欲(おも)ひ、陽(いつは)りて太子(武烈)の為に宮を営(つく)り、了(つくりをは)りて即ち自ら居(す)む」と、具体的な重臣名でその専横ぶりが描写される。


この記述の極端な落差、顕宗・仁賢二代の沈黙は一体、何を意味するのか。


その治世・朝廷人事の具体性の欠如は、やはり、この二代の天皇の即位はなかった、履中天皇の孫であるこの両王子の逃亡、それから皇統を引き継ぐ者としての入京の事実はあったとしても、仁徳天皇の皇統が清寧で一旦、途絶え、武烈天皇で復活するまでは、皇統を引き継いだ天皇という存在はなかったと考えるのが、紀を精読しての私なりの結論である。


つまり、顕宗・仁賢の二代の14年間は天皇の椅子は空位であり、平群真鳥が政敵である大伴、物部氏を排斥し、実質的な王として君臨していたとするのが妥当な推論であると思う。


その冷や飯を喰らっていた大伴・物部氏が平群王朝を転覆させるには、皇位の正統性である仁徳天皇からの血筋が必要であったと見るべきであろう。


然るに、雄略天皇が一族を根こそぎ暗殺するといったなか、子が無い清寧帝の後に続く王家の血筋は本当に絶えたかのように見えたのであろう。


だから、かつて雄略が謀殺した政敵(市辺押磐皇子)の子孫であろうが、必死で仁徳の血筋の者を探し出し、億計王子(仁賢)の子(武烈)を傀儡として擁立し、平群真鳥と一発勝負に出たというのが、この武烈=暴君の存在意義であったのだろう考える。


空位の14年間に皇統の連続性を接ぎ穂し、その裏に実在した平群王朝の滅亡、皇統復活劇、そのオペラのような舞台に海柘榴市(つばいち)という当時、誰もが知る歌垣の場がセットされたのである。


そして、王朝転覆ストーリーの舞台廻し役、実は主役なのだが、その後の大和王朝を支える重臣、大伴金村・物部麁鹿火(あらかい)、その美しき媛を登場させたというのが、正史たる日本書紀の編者・舎人親王が脚色を巧みにし、老練な脚本家としての冴えわたった腕の見せ所だったのだろうと考える。



 


 



日本書紀をたどり明日香を歩く―― 2=脚色された皇統の正統性と連続性・海柘榴市(つばいち)を逸れて4/6

海柘榴市という本来、甘い恋を語らう歌垣の舞台を使って、陰謀渦巻く王朝交替という大政変を、さらりと恋敵同士の争い事にすり替えた日本書紀の編者・舎人親王(天武天皇の皇子)の狙いは何であったのか。


父たる天武の血筋・皇統が絶えなんとすることを見越しての預言をこの話に含ませたかったのか、この話に隠された舎人親王の符牒とは何か、海柘榴市の寓話に埋め込まれた謎とは一体何なのか、興味は尽きぬところである。


そこで、ちょっと海柘榴市より話は逸れてしまうが、この王権交替の不可思議な謎にさらに迫ってみたいと思う。


前稿で語った平群真鳥による王権簒奪がなぜ起こったかと日本書紀を精読すると、皇位争いの過程で兄弟・従兄らを次々と謀殺していった雄略天皇、その時代から清寧天皇の即位に至る間の吉備一族の一連の反乱劇として記述された真相は何か。


そして、武烈天皇の先代、仁賢天皇さらにその先代の顕宗天皇が子のない清寧天皇(雄略天皇の皇子)から皇位を継承した奇妙な経緯などを具に読み込むと、凄まじい王権争奪抗争の裏に暗躍する有力豪族の、その果てには他の王朝の興亡すらも見えて来る。


つまり、吉備一族は大和にそもそも服属などしておらず、それぞれの地方の王朝として存在していたのではないか、また各々の天皇擁立に奔走した豪族は誰か、武烈天皇の前二代の天皇は実際に即位を果たしていたのか否かといった皇統の正統性や連続性といった王権の根幹部分に疑義が生じてくるのである。


武烈の前の天皇とは、武烈の父にあたる先代の第24代・仁賢天皇と仁賢天皇の弟、即ち、叔父にあたる先々代の第23代・顕宗(けんぞう)天皇である。


顕宗(弟・億計(オケ)王子)天皇と仁賢(兄・弘計(ヲケ)王子)天皇は共に市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)の子である。市辺押磐皇子は父、第17代・履中天皇(仁徳天皇の長子)の長子であり、第20代・安康、第21代雄略天皇(共に第19代・允恭天皇の皇子)の従兄に当たるが、仁徳天皇の皇統でいえば、嫡流いわば直系の血筋にあたる。


億計・弘計王子の父・市辺押磐皇子は雄略と皇位継承上、対立関係にあった。その市辺押磐皇子に安康天皇が生前、皇位を譲る意向を示していたため、天皇崩御の僅か二ヶ月後の安康3年10月、雄略(允恭天皇の皇子)は策を弄し、同皇子を狩猟に誘い出し、猪と間違えたとして射殺し、その5か月後に即位を果たした。


市辺皇子の子、億計・弘計王子兄弟は、雄略天皇から次に命を狙われることは必至であり、忠臣の帳内日下部連使主(とねりのくさかべのむらじのおみ)とその子、吾田彦に守られ、まず丹波国の余佐郡に身を隠すことになった。


それでも、なお、雄略天皇の追捕を惧れた帳内使主は自らの名前まで変えて、播磨国の縮見山に潜伏するも逃れきれぬと思い、そこで一人縊死する。


使主と別行動をとっていた億計・弘計兄弟は、使主の子の吾田彦とともに今度は播磨国赤石郡へと逃れ、自分たちも丹波小子(たにはのわらは)と変名し、縮見屯倉首(ししみのみやけのおびと)の奉公人に身を落とし潜伏することとなった。


雄略の崩御一年前に清寧は皇太子(ひつぎのみこ)となるが、天皇の死後、吉備上道田狭の元妻であった稚媛と雄略の間にできた星川皇子が母・稚媛と組んで、雄略の後を襲おうと陰謀を巡らす。


吉備王朝を衰亡させた雄略天皇の遺詔(吉備上道臣の血を引く星川皇子は必ず王位を狙う。その時は清寧を守れ)により大伴室屋大連と東漢掬直(やまとのあやのつかのあたい)が稚媛と星川皇子一派を誅殺、さらに反乱に加担しようとした外戚・吉備上道臣の所領を一部収奪した。


真義定かならぬが、雄略天皇の遺詔という大義をもって、吉備王朝の影響力を大和王朝から一掃した大伴室屋大連と東漢掬直という有力豪族によって、ようやく雄略の皇子・清寧天皇に皇位を継承させることになる。


そうして皇統の正統性・連続性を整えたにもかかわらず、不思議なことに清寧帝に皇后が立てられることはなく、したがって皇子もなく、その皇統は絶える事態となっている。


真に以て不可思議な風景の記述なのである。



 



日本書紀をたどり明日香を歩く―― 2=王権交替の舞台に使われた海柘榴市(つばいち)3/6

あまりにも牧歌的な歌垣の情景のなかにあって、海柘榴市(つばいち)の日本書紀の初出は、仁徳天皇からの皇統の最後となった第25代武烈天皇(在位499−506)が太子(ひつぎのみこ)であった時代、仁賢天皇11年8月の条である。


有力豪族たる物部麁鹿火(あらかい)大連の娘・影媛を間に挟んで、時の権力者同士が恋の鞘当てを展開する場面である。


任賢天皇(在位488−498)が崩御し、時の大臣・平群真鳥(へぐりのまとり)臣は、「専ら国政をほしいままにして、日本に王たらむと欲(おも)ひ、陽(いつは)りて太子の為に宮を営(つく)り、了(つくりおわ)りて自ら居む。触事(ことごと)に驕慢にして、都(かつ)て臣節無し」といった王権を手中にしたかのような専横を恣(ほしいまま)にしていた。


平群真鳥は木莵(つく)宿禰(武内宿禰の子・仁徳天皇と同日の生まれ=仁徳紀元年正月の条)の子(雄略紀即位前紀11月条)である。重臣・武内宿禰の子であった木莵宿禰は第15代・応神天皇の御世において重用され、平群の祖とされる。


その平群真鳥の嫡子である鮪(しび)と、当時まだ太子であった武烈天皇との間で応酬された歌垣の舞台が海柘榴市であった。


本来、歌垣は男女で遣り取りされるものだが、ここでは恋敵同士が想い人の影媛を間に置いて相手を揶揄し合う歌合戦となっている。その様子が日本書紀には次のように詳細に描かれている。


太子が使者を遣わし媛に逢いたいと告げさせると、既に鮪と情を交わしていた影媛ではあるが無碍に断ることもできず、「妾(やっこ)、望はくは海柘榴市(つばきち=小学館・日本書紀のルビ)の巷(ちまた)に待ち奉らむ」と、海柘榴市で会いたいと応じた。

海柘榴市の馬井出橋と三輪山
大和川に架かる馬井出橋と三輪山山麓・海柘榴市がこの辺り

そこで、太子は馬に乗ってゆこうと平群大臣の管理する官馬(つかさうま)を出すように舎人に命じさせたが、「官馬は誰が為に飼養へや。命の随(まにま)に」と返答するものの、その態度は不埒千万で一向に命に服しない。


「太子、恨を懐(うだ)き、忍びて顔に発(いだ)したまはず」と、太子は平群(へぐり)一族の人を食った仕打ちにも面を伏せ、じっと忍従したとある。


その鬱屈した挙動から、後に、「女を躶形(ひたはだか)にして、平板の上に坐(す)ゑ、馬を牽(ひ)きて前に就(いた)して遊牝(つるび=交尾)せしむ」(武烈紀8年3月条)といった狂気を描かれた暴虐の大君を思わせる片鱗は一切窺うことはできない。


そんな太子がいよいよ海柘榴市で影媛と出逢い、その袖をつかみ、ぶらぶら逍遥しながら誘いをかける。そこに平群鮪(しび)が登場し、二人の仲へ割って入り、恋敵は群集の見守るなかで向かい合う形となった。


そして、まず、太子が鮪に向かって歌いかけるのである。

“潮瀬の 波折(なをり)を見れば 泳(あそ)びくる 鮪(しび)が鰭手(はたで)に 妻立てり見ゆ”

(潮の流れの早い瀬の幾重にも折り重なる波を見ると、泳いでいる鮪の傍にわたしと契った妻が立っているのが見える)


それに対し、臣下であるはずの鮪は挑発するかのように次の歌を返す。

“臣の子の 八重や韓垣(からかき) ゆるせとや御子”

(臣の子の家の幾重にも囲んだ韓垣の内に影媛を厳重に囲っているのだが、それを緩めて影媛をどうぞと差し出せというのですか、太子よ)


そこからさらに問答歌の応酬が続いたのちに、太子が影媛に次の歌を贈った。

“琴頭(ことがみ)に 来居(きゐ)る影媛 玉ならば 我が欲(ほ)る玉の 鰒(あわび)白玉”

(琴を奏でるとその音に引かれて神が影となって寄り来るという。その影媛は玉に喩えるならわたしの欲しい玉である、あの鮑の真珠のような)


それに対し、影媛に代わり鮪が答歌したのが次の歌。

“大君の 御帯の倭文織(しつはた) 結び垂れ 誰やし人も 相思はなくに”

(大君の御帯の倭文織(しずおり)の布が結び垂れていますが、その誰にも、わたしは思いを寄せておりません。思うのは鮪臣のみです)


ここにおいて鮪と影媛の相思相愛を知らされた武烈は、海柘榴市の満座のなかで赤恥をかかされた格好となる。


辱めを受け、怒りに震えた武烈はその夜、大伴金村連を召し、即座に鮪の暗殺を命じ、鮪は乃楽(なら)山で誅殺された。


鮪の死を知った影媛が泪して詠った歌が次の通りである。

“青丹よし 乃楽(なら)のはさまに ししじもの 水漬く辺隠(へごも)り 水灌(みなそそく)く 鮪の若子を 漁(あさ)り出(づ)な猪(ゐ)の子”

(乃楽山の谷間で、鹿や猪のように水浸しの片隅にこもっている水灌(みなそそ)く鮪の若様を、漁(あさ)り出さないでおくれよ、猪よ)


この絶句のよって武烈太子は完膚なきまでに打ちのめされた格好である。これほどの恥辱はそうそうないが、治天の君が太子の時代とは云え、ここまで貶められて描かれているところもいかにも奇妙ではある。


その後、鮪の父で時の一番の権力者であった真鳥も親族を含め悉く、大伴金村によって討ち果たされることとなった。


平群真鳥をはじめ一族を抹殺したのちの下りが仁賢11年12月の条である。武烈天皇即位に至る経緯を述べているのだが、それが何とも謎めいた記述となっているのである。


「十二月に、大伴金村連、賊を平定(たひら)ぐること訖(をは)りて、政を太子に反(かへ)したてまつる。・・・『今し億計(おけ=仁賢)天皇の子は、唯陛下(きみ)のみ有(ま)します。・・・日本には必ず主(きみ)有します。日本に主まさむには、陛下に非ずして誰ぞ・・・』とまをす」


一臣下たる大伴金村が“政を太子に反す”と言うこと自体甚だ奇妙であるが、それでは一体、その時点で誰が王権を有していたという認識であったのか。


また、「日本に主まさむには、陛下に非ずして誰ぞ」と、“日本に天皇がいないのはまずい、天皇になるのはあなたを措いて他にない”と、大伴金村は言っている。

普通に考えれば、武烈帝は仁賢天皇が崩御した仁賢11年8月にすんなり皇位継承しておかしくなかった。


何となれば、武烈は皇太子(ひつぎのみこ)に仁賢7年、崩御の4年前になっていたのだから、崩御後、即座に即位しても手続き上、誰も異議を唱えることはなかったはずである。


しかるに紀の記述は、武烈即位前紀としてたった4ヶ月の間の事柄として海柘榴市を舞台とする平群一族の専横ぶりを殊更に描いているのである。


つまり、平群真鳥が武烈(当時、太子)の為と称し宮殿を造営し、そこに自らが住まうなどその驕慢さや海柘榴市の平群鮪(しび)との遣り取りに至る一連の描写から、その時の王権は平群真鳥に移っていたと見るしかない。


そして、武烈天皇は大伴金村の強力な支援を受け、平群王朝を倒し、即位した。


武烈王朝の立役者となった大伴金村はその勲功により大連へと昇進することになる。その後、金村は守屋の孫で武烈から欽明五朝にわたり大連を拝命するが、とくに武烈天皇で絶えることとなった仁徳天皇(応神天皇第四皇子)の皇統に替わり、応神天皇五世の孫である継体天皇即位を実現させた大功労者として有名である。その金村に同調し、継体天皇即位を後押ししたのが、大連となっていた影媛の父、物部麁鹿火(あらかい)であった。







日本書紀をたどり明日香を歩く―― 2=歌垣の舞台、いわば公設の合コン会場でもあった海柘榴市(つばいち・つばきち)2/6

飛鳥時代の政治・文化の中心であった三輪山麓一帯、とりわけ南西部の初瀬川両岸に展開した海柘榴市(つばいち)は多彩な物品の交流する市として殷賑を極めた。

大和川の堤に立つ仏教傳来之地の石碑
大和川の堤に立つ仏教伝来の碑・この辺りが海柘榴市

そうした衆人が集う場所であったがゆえに、そこはいつしか若い男女にとっての出逢いの場所ともなり、恋を語り合いまた恋の駆け引きの舞台ともなっていった。

飛鳥時代の衣装・明日香村埋蔵文化財展示室
この様な衣装を着た若人が恋を語らったのか(明日香村埋蔵物展示室)

それは春や秋祭りの頃、若い男女が集い、五、七、五といった調子の長歌で互いの想いを伝え合う歌垣(うたがき)という風習である。


小学館古典文学全集の万葉集第3巻の注釈によれば、“歌垣は本来、呪術的な儀礼の踏歌から発した古代の習俗で、多数の男女が特定の日に集まって飲食・歌舞し、性的解放を行なった遊びをいう”とある。


当世のLineやメールを駆使する若者たちと較べると、何とも悠長であり牧歌的であり、その天真爛漫とした微笑ましい情景のなかには純朴でそれ故に心豊かな飛鳥人の笑顔が零れ落ちて見える。


そこで、ここは日本書紀というより、まず万葉集からその歌をご披露することにしよう。


巻第十二 2951番

“海石榴市(つばきち)の 八十(やそ)の衢(ちまた)に立ち平(なら)し 結びし紐を 解かまく惜しも”

(海柘榴市のいくつもの路が交錯する辻に立ち、あなたと足踏みし踊った時に結び合わせた紐と紐、その熱い夜のことを想い出すとその時の紐の結び目を解くことなどとても惜しくてできませんわ)


初々しいが、何ともストレートで情熱的な愛の告白の歌で、乙女の火照った頬の赤く恥じらう様までがはっきりと見えてくる。


もう一つ、当時、異性に名を尋ねることは求婚を意味したのだが、その有名な恋の駆け引きの問答歌を。


巻第十二 3101番(問歌)

“紫は 灰さすものぞ 海石榴市(つばいち)の 八十(やそ)の街(ちまた)に 逢へる子や誰(た)れ”

(紫染めには椿の灰を加えるとさらに美しくなるもの、そんな椿の植わる海石榴市で出逢った娘さん、素敵な貴女の名前はなんとおっしゃるの)


巻第十二 3102番(答歌)

“たらちねの 母が呼ぶ名を 申さめど 路行く人を 誰と知りてか”

(母がわたしのことを呼ぶ本名を教えてあげたいけど、行きずりの逢ったばかりの貴方ですものお教えすることなどできないわ)


乙女心をとろかす機知に富んだ甘い言葉に対し、乙女が切り返した歌などは、女性の初心(うぶ)さを見せるようでいて男を焦らす手管、お若いのになかなかの恋のお手並みとお見受けした。


こんな牧歌的な歌垣の情景が目に浮かぶ万葉の時代のなかにあって、日本書紀に初めて登場するのは、大和政権の覇権を巡る生々しい抗争を描く舞台装置としてここ海柘榴市が効果的に使われているのである。


それは第25代武烈天皇(在位499−506)が太子(ひつぎのみこ)であった時代、第24代仁賢(にんけん)天皇(同488−498)11年8月の条である。詳しくは次稿に譲る。




日本書紀をたどり明日香を歩く 2 =国際交流・国内交通の要衝として殷賑を極めた海柘榴市(つばいち)1/6

古墳時代後期にかぶさる飛鳥時代、その政治・文化の中心であった三輪山麓の南西部山裾、大和川を跨いで海柘榴市(つばいち)という交易市場が存在した。

海柘榴市の馬井出橋と三輪山
大和川を跨ぐ馬井出橋と三輪山山麓

海柘榴市から南西方向に池之内(橿原・磐余)から明日香にかけた一帯には、大和政権のその時々の天皇が居住し、政務をこなす宮殿が数多く存在した。


実在した初めての天皇とされる第10代・崇神天皇の磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)は、桜井市金屋にある志貴御県坐(しきのみあかたにます)神社の辺りと比定されているが、海柘榴市から北西に500mほどの至近の位置にある。

2・志貴御懸坐神社  3・崇神天皇・磯城瑞籬宮跡の石柱の立つ境内
志貴御懸坐(シキノミアガタニマス)神社  同神社境内に立つ磯城瑞籬宮跡の石柱

また、百済からの仏教公伝の舞台となった第29代・欽明天皇の磯城島金刺宮(しきしまのかなさしのみや)は、海柘榴市から南東へ500mほど県道105号線の高架下、大和川沿いにある磯城嶋公園の辺りに比定されている。

4・欽明天皇の宮殿跡地・土手の向こうは飛鳥川  百済王から釈迦仏が献上された欽明天皇宮殿址
磯城嶋公園と三輪山山麓 公園の東端に立つ磯城嶋金刺宮跡石柱

海柘榴市という市場はことほど左様に古代大和の中心に存在していたのである。


それほどに歴史的価値の高い場所であるにもかかわらず、現在、この辺りが海柘榴市であったという縁(よすが)は、海柘榴市観音堂(桜井市金屋544)にその名をわずかに認めるのみである。

6・海柘榴市観音堂
海柘榴市観音堂・本堂

それも、人家を抜けた路地の奥、三輪山の末裾に接するまことに小さな境内にぽつんと建つ現代風の簡易な造りの本堂からは歴史の重みを感じ取ることは至難で、ましてや千数百年前に殷賑を極めた海柘榴市のワクワクするような情景を思い浮かべることは甚だむずかしい。

7・突当り、階段上に観音堂・三輪山南西裾
この路地突き当り、階段上に観音堂

その観音堂から300mほど南下すると大和川(初瀬川)にぶつかる。

8・大和川に架かる馬井出橋
大和川に架かる馬井出橋と三輪山山麓

そこに架かる馬井出橋の両袂に“仏教傳来之碑”と“海柘榴市跡の説明板”が建っている。

仏教伝来地石碑  10・海柘榴市説明板

この馬井出橋の辺りに飛鳥と瀬戸内海を結ぶ水運の拠点となる湊があった。現在の大和川の水量からは想像しにくいが、西行する川筋を橋の中央部から見やると、その先に小さく二上山が見える。

11・馬井出橋から大和川下流を・先に二上山
川筋の先に小さく二上山

次に上流を振り返ると遠くに忍坂(おさか)山が見渡せる。

12・馬井出橋から海柘榴市歴史公園と大和川上流を・忍坂(おさか)山
上流に歴史公園と忍坂山

すぐ足元の河川敷には海柘榴市歴史公園が整備されているが、百済の使節を歓迎した様子を再現するかのように飾馬の可愛らしいレプリカが置かれている。

13・飾り馬
こんな飾馬で百済使節を迎えたのだろうか

その海柘榴市は五世紀後半、三輪山をめぐる山の辺の道、北へ淡海へと通じる上ツ道、磐余や飛鳥へ南西する安倍山田道、西に羽曳野・堺、東に長谷、伊勢へと至る横大路など幹線道路が交錯する陸路の要衝であった。


しかも、それぞれの道路は正味の路面幅で18mから35mにおよぶ大幹線道路であった。ちなみに現在の高速道路の一車線の標準車線幅は3・5mであるので、5車線から10車線の道路というとてつもなく大規模な道路網であったことが、最近の発掘調査によって徐々に明らかになってきている。


さらに古代物流の大動脈であった海路においても、三輪山南麓に沿って流れる初瀬川の河港として海柘榴市は大きな役割を担っていた。


初瀬川は下流で三輪山の北裾を流れる纏向川と合流、さらに下って飛鳥川や佐保川など奈良盆地を巡る支流を束ねて大和川となり、難波津において瀬戸内海へ出ることになる。

14・近鉄・新大宮駅国道369号線から佐保川の下流を見る
奈良市役所付近を流れる佐保川

そして、その潮路は遠く外洋へと続いており、その意味で海柘榴市は、唐、天竺など国際社会と繋がる古代シーレーンのまさに起点であり、異国文化との交流も盛んな国際色豊かな地であった。


日本書紀の推古紀15年(607)7月に小野妹子が隋へ遣わされたことが記されている。この時の国書がかの有名な聖徳太子の「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや云々」である。

15・日本書紀
日本書紀(明日香村埋蔵文化村展示室・個人蔵)

その翌年4月に遣隋使は隋の使者・裴世清を伴ない帰国、8月に明日香に到着。


紀の推古紀16年8月条に、「唐客(裴世清一行)、京に入る。是の日に、飾馬七十五匹を遣して、唐客を海柘榴市の衢(ちまた)に迎ふ。額田部連比羅夫、以ちて礼辞を告(まを)す」とあり、推古天皇の住まう小墾田宮から北東5・5kmにある海柘榴市に儀典用の飾馬75匹を引き連れて額田部連比羅夫が向かっている。


この記述から海柘榴市が7世紀初頭において海外からの賓客を迎える河港であったことがわかり、シルクロードの起点といって過言ではない殷賑を極めた市場でもあったことが容易に想像される。


日本書紀をたどり明日香を歩く=1・磐余(いわれ)の池・磐余宮

日本書紀において神武天皇(漢風諡号=しごう)の国風諡号(死後の贈り名)は、“神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこのすめらみこと)”という長〜いお名前である。因みに古事記では、“神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)”と“磐余”“伊波礼”となっている。

1・2005年11月 橿原神宮・外拝殿と畝傍山
橿原神宮と畝傍山(神武天皇橿原宮の跡)

漢風諡号は大宝律令(701年制定)に続く養老律令(757年施行)体制の下、養老律令(全三十編)の第二十一編・公式令(くうじきりょう・全89条)・平出(*へいしゅつ)条(の第十二)で、「天皇諡〔てんおうのし〕(=天皇の、生前の行迹を累ねた死後の称号。)」が定められているが、それに基づき天平宝字六〜八(762〜4)年に神武天皇から持統天皇、元明・元正天皇の諡号が一括撰進された事が漢風諡号を奉られた初見といわれている。

〔*平出(ひょうしゅつ=平頭抄出)とは文中に貴人の名や称号を記す時に敬意を表わす意味で改行しその名や称号を行頭に書くこと〕


つまり、それ以前に神武天皇といった呼び名(諡号)はなく、和風の“神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこのすめらみこと)”なり、“神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)”が、大和王朝の初代天皇に贈られた諡号であったということになる。


古代天皇制において天皇が死去した際、王権は一時的に群臣に委ねられ、新たな天皇が決まるとそこで王権を返上するという形であった。その王位継承の正統性を担保する儀式として諡号贈呈があった。そして、その国風諡号は崩御された天皇の生前の功績評価を群臣が行いその諡号を定め奉ったのだそうだ。


ということで、神武天皇の国風諡号の話に戻るが、そのなかに“磐余(いわれ)”という文字が入っている。王朝の初代の諡号に与えられた“磐余”という文字がその功績、王権の権威を知らしめるためにどのような意味、価値を持っているのだろうか。


日本書紀のなかに、神武天皇が大和侵攻の際にその地の首魁・長髄彦を討伐する前に、配下の兄磯城(えしき)が陣を布いていたのが磐余邑(いわれむら)という地であるとの記述が出て来る。

2・2005年11月 葛城山から大和三山
大和三山 中央・畝傍山の右上の低い山が香久山、その向こう側が磐余の地

その磐余の地は旧名を片居といっていたが、長髄彦軍を征伐し、天皇軍がその地に満ちあふれていた〔満(いは)めり〕ので、名を改めて“磐余(いはれ)”としたとある。


さらに日本書紀の神功皇后3年1月(202年)、誉田別皇子(ほむたわけのみこ=応神天皇)を立てて、皇太子としたので磐余に都をつくり、これを若桜宮と謂うとある。


さらにずっと時代は下り、履中天皇2年10月(401年)に、磐余に磐余稚櫻宮を造営し、さらに11月には磐余池を作るとある。

3・式内稚櫻神社・石柱
式内・稚櫻神社

最近、稚櫻神社(桜井市大字池之内字宮地1000)の西北西200mほどのところ、橿原市との境界あたりに、六世紀後半以前に人工的に造られた堤の遺跡が発掘された。

4・丘の頂上に稚櫻神社・北東から見る
右の小高い丘の頂上に稚櫻神社 北東より見る

現在、磐余という地名は字名(あざな)にも残っておらず、桜井市の南西部にある池之内の稚櫻神社の周囲一帯を磐余の地と呼んだのであろうと推定されている。

5・稚櫻神社・拝殿  6・稚櫻神社本殿
稚櫻神社 左:拝殿            右:本殿

履中天皇の宮に稚櫻とあることと、その名を冠する稚櫻神社は「池之内」にあり、辺り一帯に現在でも「池尻」(橿原市)、「橋本」(桜井市)など池に関する地名が多く残り、所在について諸説はあるものの、先の堤の遺構の発見などともあわせ、この一帯が磐余と呼ばれたことは確からしい。

7・拝殿内と奥に本殿・本殿左が天満神社、右が高麗神社
拝殿内から本殿 本殿左:天満神社 右:高麗神社

稚櫻神社の北北東700mほどにある吉備池廃寺・吉備池の畔には、天武天皇の第三皇子である大津皇子の辞世の句である歌碑、“ももづたふ 磐余の池に鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ”が建てられている。

0・稚櫻神社由緒書き
稚櫻神社・由緒書き

日本書紀で磐余に営まれた宮は神功皇后の磐余・若桜宮を嚆矢として、履中天皇(在位400−405)が401年10月に磐余稚櫻宮を造営、清寧天皇(在位480−484)が480年1月に磐余・甕栗(みかくり)で即位し、その地に宮を定めている。

8・南東から稚櫻神社を見る
稚櫻神社を南東側から見る

次いで継体天皇(在位507―531)が即位後20年目にして、磐余・玉穂に遷った(526年9月)とある。河内・楠葉宮で即位(507月1月)したのち、山背・筒城(511年5月)、山城国・乙訓(518年3月)と転々とし、大和へ入るのに20年もの歳月を要した理由は誠に興味深いところであるが、その大和の地として磐余を選んだことも、この地が王の地として人民が認識していた、王の居る聖なる地の証なのではなかろうか。

9・この辺りに市磯池(いちしのいけ)があったのかも・・・
稚櫻神社の東側 この辺りに市磯池があったのだろうか

最後に聖徳太子の父、用明天皇(在位586−587)が586年9月に磐余に宮を造り、池辺双槻宮(いけのへのなみつきのみや)と名づけたとある。磐余の池のまさに畔に宮殿を構えているのである。


神武天皇紀に初出の、この“磐余”の土地は、神功皇后の御世を経て401年の履中にはじまり用明天皇の586年まで、時々の抜けはあるにせよ数百年の間、王家の宮殿を擁する聖なる地として特別な崇敬を集めていた場所であったといえる。

10・稚櫻神社の南裾、東から西を見通す
神社の南裾 東側から西を見通す

それから千数百年後の現在、この磐余の地には、小高い丘にぽつんと取り残されたようにして稚櫻神社が鎮座するのみで、周辺は田地と人家が散在する鄙びた何の変哲もない場所となっている。

11・境内階段上から西(磐余の池)方向を見る
稚櫻神社の階段から神社西方向、磐余池の辺りか

哀しいかな、稚櫻神社の丘をめぐる一帯には磐余の池や市磯池の痕跡はもちろんない。往時の栄華を偲ばせる縁(よすが)は微塵もないのである。




縄文時代のパワースポット“尖石(とがりいし)遺跡”で国宝・“仮面の女神”を見よう

茅野市豊平4734-132


長野県茅野市にある”尖石(とがりいし)縄文考古館”を久しぶりに訪れた。

1・尖石縄文考古館
尖石縄文考古館

思い立った契機は蓼科の道を走っていて道路の両側に縄文のビーナスと仮面土偶をあしらった幟をそこここで目にしたからである。


縄文のビーナスは昔、尖石縄文考古館で見たことがあったのだが、仮面土偶を観た記憶はなかった。


仮面土偶を初めて見たのは、二年前に辰野へ蛍狩りに行った際に立ち寄った辰野美術館でのことであった。

2・辰野美術館
仮面土偶を展示する辰野美術館(上伊那郡辰野町)

その時、写真で見たことのある宇宙人のような遮光器土偶を想起し、不思議な土偶が長野にもあるのだなと感じたことを思い出した。辰野美術館の仮面土偶はここをクリックしてください。HP所蔵品サイトへ飛びます。


そして、これは新しく発掘されたものであるに違いないと尖石縄文考古館を訪れたというわけである。


”仮面の女神”と名づけられたこの仮面土偶は、実は今から14年前の平成12年8月に茅野市湖東にある中ッ原(なかっぱら)遺跡から出土したのだという。

4・発掘時の状態
出土時の”仮面の女神”

作製年代は縄文時代後期の前半(約4000年前)で、全長34センチ、重量2・7キロの仮面土偶と呼ばれるタイプの大型土偶である。

5・仮面の女神
国宝 ”仮面の女神”

発掘時の様子が館内写真に掲示されていたが、ほぼ完全な形で出土しており、当寺から国宝級との呼び声が高かったという。


そして、道路上に幟が立っていたのはこの3月の「“仮面の女神”は国宝指定が妥当」との文化審議会の答申を受けて、縄文のビーナスにつづく二つ目の国宝指定が待たれる茅野市が縄文遺跡の町をアピールする“町おこし”の一環としての企画であったと知った。


その記念すべき国宝指定がわれわれが訪ねたわずか2日後になされたことをこのブログアップの時に知って、喜びも一入(ひとしお)であった。


さて、“仮面の女神”に先立つ”縄文のビーナス”は、1986年9月に八ヶ岳山麓の茅野市米沢に位置する棚畑遺跡から完全な状態で発掘されている。

6・縄文のビーナス・発掘時の状態
国宝 ”縄文のビーナス”の発掘時写真

その後、1995年に国宝指定を受けた全長27センチ、重量2・14キロの大型土偶である

7・縄文のビーナス
国宝 ”縄文のビーナス”

その姿はお腹とお尻が大きく張り出した妊娠した女性である。それは生命に対する礼賛の心をストレートに表わしており、おおらかな縄文人の生きざまを見るようでもある。


この縄文のビーナスや仮面の女神などが展示されている尖石縄文考古館の付近一帯は縄文時代中期(今から4〜5千年前)の住居跡がこれまでに219ヶ所も発見されるなど縄文遺跡の宝庫となっている。

8・尖石遺跡説明図
尖石遺跡説明図

縄文考古館に隣接した北側に”与助尾根遺跡”が位置する。

9・与助尾根遺跡・竪穴式住居
与助尾根遺跡

ここには縄文時代の竪穴住居跡が39か所発見されており、現在、6棟の竪穴住居が復元されている。

10・与助尾根遺跡
復元された竪穴住居

また道路を挟んで考古館の南側には、”尖石(とがりいし)遺跡”が位置する。

11・広々とした尖石遺跡
開放感一杯の尖石遺跡

広々とした草地に昭和29年に三笠宮殿下が調査された33号住居址が遠い縄文の時代の悠揚とした営みを語りかけているようで、何とも心持ちが豊かになってくる。

12・尖石遺跡・33号住居址
尖石遺跡・33号住居址

そして、尖石遺跡の名前の由来となった“尖石(とがりいし)”がその遺跡群の原っぱの南端を少し下ったところに5千年を経た今もそのままの姿で鎮座する。

13・縄文人の人影・尖石遺跡
尖石遺跡に縄文人が顕れる

その先端の尖った自然石は地中の深さは不明であり、地上に顕れた個所で高さ1m、根元の幅が1・1mという大きさであるが、古くから村人の信仰の対象となっており、いつの頃か傍らに石の祠が祀られている。

14・信仰の対象”尖石”
尖石・右手階段を下りて来る

尖石の右肩の窪みは縄文時代の磨製石斧を製作した際に共同砥石として利用されたとも、また、地上に突出した尖石が祭祀の対象となっていたとの見方もあるという。


そんな一大縄文遺跡の中心地に展示された“仮面の女神”であるが、国宝指定を機に、当館での実物展示は、仮面の女神が11月12日(水曜日)までだというのだ。“縄文のビーナス”は残念ながら10月2日で終了している。

15・縄文のビーナスと仮面の女神
国宝の実物二つのそろい踏み写真

ここでは幸いにも心置きなく撮影できた“仮面の女神”の乱れ撮りを記録のためにいくつか掲載しておくこととしたい。

仮面の土偶の拡大写真。

16・仮面の女神・拡大

仮面の接近撮影。

17・仮面の女神・仮面

斜め正面から。

18・仮面の女神斜め正面から

側面から。

19・仮面の女神・側面より

後方から。

20・仮面の女神・後方より

頭部斜め後から。

21・頭部斜め後ろから

こうしてディテールにまでこだわった作者のことを考えると、そして“仮面の女神”が気の遠くなるような4000年前にこの茅野の地で製作されたのだと思うと、人間の持つ無限の可能性を無条件に信じたくなるとともに、現代人は果たして技術的に進歩していると云えるのだろうか、心をふくめ豊かさとはいったい何なのだろうかという思いにどうしても駆られてきてしまうのである。


何はともあれ11月12日以降はレプリカ展示となる。“実物”をじっくりと写真に収めたい考古オタクは今からでも遅くない、茅野市の尖石縄文考古館へと急ぎ、足を運ぼう。

22・館内
尖石縄文考古館館内

そして、やはり、何といっても実物の持つパワーは違う。生命力あふれる縄文人の放つパワーは半端ではない。


尖石縄文考古館ではこの10月11(土)、12日(日)の連休に茅野市5000年 尖石縄文まつりが開催される。


それを目当てにご家族で、縄文時代のパワースポット巡りをされてみてはいかがであろうか。

王家の谷、善通寺・有岡古墳群を歩く=王墓山古墳

王家の谷、善通寺・有岡古墳群を歩く=積石塚古墳・野田院古墳

王墓山古墳説明版 王墓山古墳案内板
王墓山古墳の説明版と案内板

王墓山古墳は王家の谷・有岡古墳群のほぼ中央に位置する全長46mの前方後円墳である。

王墓山古墳全景
王墓山古墳全景

この有岡古墳群を含む善通寺から北東部に広がる“弥生末期讃岐国の中心集落・旧練兵場遺跡”は45万岼幣紊肪し、佐賀県の吉野ケ里遺跡にも匹敵する規模であることが分かっている。

吉野ケ里遺跡
吉野ケ里遺跡(2004年撮影)

大和王朝の全国統一前に、この四国の地にも大きな古代の“クニ”が存在していたのである。

前方墳と我拝師山
前方墳と我拝師山
後円墳と香色山と五重塔
後円墳と香色山と五重塔

その古代国家の王家の谷の中心に位置するのが、この王墓山古墳なのである。

王墓山古墳と青空
後円墳を見上げる・横穴式石室の入口が見える

6世紀中頃に築造された横穴式石室内に石屋形を設置する特異な埋葬方式をとっており、その方式の古墳を多く残す九州・肥後地方との関係が強く類推されている。

羨道と玄室
狭い羨道と奥に石屋形を有する玄室が見える

この古墳の被葬者であるが、副葬品のなかに朝鮮半島製の金銅製冠帽や装身具、鉄地金銅張りの馬具がたくさん見られたこと、また、鉄製品や須恵器類など桁違いの数を誇ることなどから、この地で巨大な権力を振るい、瀬戸内海を通じ朝鮮半島や九州など他の先進地域とも活発に交流をはかる大きな文化圏の中心に坐っていた人物であったことが十分に想像される。(石屋形を有する横穴式石室は、6世紀前期頃から肥後地方の菊池川流域と白川流域に集中して設けられ両地域内に40例以上が分布している)

後円墳から前方墳を  前方墳下から後円墳を見上げる
前方墳から後円墳を見る
後円墳
後円墳
円墳から前方墳を見る
円墳頂上から前方墳を見る

その候補としては、やはり善通寺を氏寺として栄えてきた古代豪族、佐伯氏の首長を挙げるのが最も妥当であろう。

善通寺・五重塔
善通寺五重塔

そして、この王墓山古墳の主の何代かのち、およそ200年後に、佐伯氏の御曹司として生まれたのが、佐伯真魚、のちの空海である。

善通寺済世橋より大麻山と香色山裾を
善通寺済世橋より南に大麻山を見る。右の山裾は香色山
済世橋より香色山・筆の山を見る
済世橋より西に香色山と筆の山を見る

この国の創世記の宗教、思想の成熟に決定的な影響を及ぼした巨人が、卑弥呼の時代にすでに讃岐で栄えていた古代豪族、王家の出身であったことは、さまざまなことを考え、類推させ、まことにもって興味が尽きないのである。

王家の谷、善通寺・有岡古墳群を歩く=積石塚古墳・野田院古墳

善通寺市内に五岳山と呼ばれる屏風のように聳え立つ山塊がある。西から東へ、火上山・中山・我拝師山(がはいしさん)・筆の山・香色山(こうしきざん)と麓を連ねている。

火上山・中山・我拝師山  左:筆の山 右:香色山
左から火上山・中山・我拝師山 次の右手の尖っているのが筆の山・右端が香色山

その東端の香色山東麓に、「屏風浦五岳山誕生院善通寺」と号する四国霊場第75番札所・善通寺が大きな伽藍を配する。


善通寺
善通寺

弘法大師・空海はこの地の豪族、佐伯善通の子として生まれ、幼名を真魚と称したという。

善通寺の西院は佐伯氏の邸宅があった跡であり、弘法大師生誕の場所として、産湯井堂を再建するなど今でも大切にされている。

産湯井堂 空海が産湯を使った井戸
産湯井堂と中にある産湯の井戸

空海が生まれ育ったこの場所のすぐ西方、香色山・筆の山・我拝師山の連山と、南方の大麻山(おおさやま)に挟まれた弘田川流域、“有岡”と呼ばれる低丘陵部がある。


王家の谷・有岡地区
王家の谷・有岡地区
善通寺済世橋より大麻山と香色山裾を
善通寺・済世橋より大麻山を見る。右手の山すそは香色山

この地が1600年ほど前には住居跡などの痕跡が少なく、逆におびただしい数の古墳や祭祀の場所であったことが確認されている。


つまり、古は奥津城(おくつき)の地として聖域視された、いわば日本版“王家の谷”とも呼ばれる聖地であったと考えられるのである(『善通寺史』・総本山善通寺編を参考とした)。


善通寺市内には現在確認されるだけで四百を超える古墳が存在し、就中、この有岡地区には大小の前方後円墳が集中していることで、全国的に有名であるという。

左に樽池を見て、奥に見える大麻山へと向かいます
ここから奥に見える大麻山の頂上近くの野田院古墳を目指す

そのなかで、大麻山山麓の比較的高所に分布する大麻山椀貸塚古墳・大麻山経塚・御忌林(ぎょうきばえ)古墳・大窪経塚古墳・丸山一号、二号墳、そして大麻山北西麓(標高405m)に位置する“野田院古墳”は、古墳時代前期に築かれた古いもので、しかも石だけを積み上げてゆく積石塚古墳というこの時期の築造法としてはわが国ではきわめて珍しいものである。

野田院古墳と大麻山頂上
野田院古墳から大麻山頂上を見る

この三世紀後期から四世紀前半という古墳時代のごく前期に築造された積石塚古墳は、同じ香川県の高松市の岩清尾山古墳群で確認される二百余基の古墳のなかに20基ほど存在している。

二段の積石塚古墳
二段に石が積み上げられている

なお、この希少な積石塚古墳は、古墳時代後期に築造されたものが遠く離れた長野県や山梨県、群馬県に存在するが、その頃には讃岐地方で積石塚古墳はすでに消滅しており、それらとの関係はまだ研究が進んでおらず、不明とのことである。

円墳上部
後円墳の上部・二つの竪穴式石室の仕組みが見える

野田院古墳はその調査で傾斜地に築いた基礎部を特殊な構造で組み上げることで、変形や崩落を防ぐというきわめて高度な土木技術によって作られていたことが判った。

展望台より野田院古墳
展望台より見る

この特殊な古墳築造形式やその技術の起源だが、現在、まだはっきりとした定説はない。

前方墳より後円墳を見る
前方の方墳から積石塚円墳を見る

しかし、この形式の墳墓は高句麗や中央アジアの遊牧民の埋葬様式として数多く見られるという。また、慶尚南道にも積石塚古墳が見られるという。

方墳
前方墳です、手前に一部、積石塚円墳です

その積石塚古墳の形も、高句麗など北方は方墳、慶尚南道の朝鮮半島の南部は円墳が多いということであるが、当地の円墳という墳形を朝鮮半島南部と直接的に関連付けるのは、まだ早計との判断のようである。

野田院古墳
山腹を削った平坦地に野田院古墳がある

さて、野田院古墳であるが、大麻山中腹のテラス状平坦地で、王家の谷である有岡地区はもちろん善通寺から丸亀平野を一望に見渡し、瀬戸内の海、さらには備前地方まで見通せる特別な場所に位置している。

王家の谷を見下ろす野田院古墳
晴れ渡った日には瀬戸内海を越え、遠く備前の地が見える

しかも築造年代が三世紀後半、卑弥呼の時代(248年前後に死亡)の50年ほど後の古墳時代のごくごく初期となれば、その埋葬主も王家の始祖にも等しき重要な人物と考えてもよいのではなかろうか。


その王家というのが、前述した弘法大師、空海の出自である佐伯氏という豪族である。

五岳山・左より火上山、中山、我拝師山
野田院古墳から王家の谷を見下ろす

王家の谷を見下ろし、すぐ先に瀬戸内海を一望する特別の地に眠る王が、のちの国家鎮護の密教・真言宗の始祖、空海の祖先であるということは、大和王朝の成り立ちや天皇家との血筋の関係においても、色々と興味深いものがあると考えたところである。


如何せん、野田院古墳から見下ろす景色が壮大かつ雄渾であることは、ここの展望台に立ってみないと実感できぬ醍醐味であることは確かである。


経津主神(フツヌシノカミ)と武甕槌神(タケミカヅチノカミ)=出雲で国譲りを成した二神の謎

春日大社をゆく=武甕槌神(タケミカヅチノカミ)・経津主神(フツヌシノカミ)に誘(イザナ)われ
謎めいた経津主神(フツヌシノカミ)を祀る香取神宮をゆく(上)
謎めいた経津主神(フツヌシノカミ)を祀る香取神宮をゆく(下)
武甕槌神(タケミカヅチノカミ)を祀る鹿島神宮をゆく(上)
武甕槌神(タケミカヅチノカミ)を祀る鹿島神宮をゆく(下)

春日大社で不思議に思った経津主(フツヌシ)神と武甕槌(タケミカヅチ)神を尋ね、瑞々しい新緑が芽吹く頃、香取神宮(千葉県香取市)と鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)を訪れた。


経津主神と武甕槌神は高皇産霊尊(タカミムスビノミコト)から蘆原中津国の平定を命じられ、天安河原から出雲へ降り立ち、大国主命に国譲りをさせた武神である。


そのニ神について、日本書紀と古事記の記述は異なる。


〔日本書紀〕

高皇産霊尊(タカミムスビノミコト)が誰を平定のために遣わしたらよいかを諸々の神に尋ねている。

そして、一同が「磐裂・根裂神の子、磐筒男(イワツツノオ)・磐筒女(イワツツノメ)が生める子経津主神、是佳(ヨ)けむ」と推挙したところ、武甕槌神が進み出て、「豈唯経津主神のみ独り丈夫(マスラオ)にして、吾は丈夫に非ざらむや」と異議を唱えた。

その結果、「故、以ちて即ち経津主神に配(ソ)へ、葦原中国を平けしたまふ」と、武甕槌神を経津主神に添えて、平定に向かわしたとある。


〔古事記〕

天照大御神が「曷(イヅ)れの神を遣さば、吉(ヨ)けむ」と諮ったところ、思金神(オモイカネノカミ=予見の神)と諸(モロモロ)の神が、「建御雷之男神(タケミカヅチノオノカミ)、此、遣すべし」と推挙し、「天鳥船(アメノトリフネノ)神を建御雷神(タケミカヅチノカミ)に副へて遣しき」とある。


つまり、“経津主神”は、日本書紀では葦原中国平定の正使として顔を出すが、古事記には、一切、名前を出さない。一方の“武甕槌神”は“紀”では副使、“記”では正使と肩書は異なるものの両書に顔を出す。


そこで、古事記において“経津主神”を想起させる個所が、伊耶那美命(イザナミノミコト)が火の神・迦具土神(カグツチノカミ)を生んだ際、“みほと”を炙(ヤ)かれて亡くなった場面である。


怒った伊耶那岐命(イザナギノミコト)が、長剣の十拳(トツカ)の剣で迦具土神(カグツチノカミ)を斬り殺した時に飛び散った血から産まれた神として、


剣の切っ先から生まれたのが、石折神(イハサクノカミ)・根折神(ネサクノカミ)・石箇之男神(イハツツノオノカミ)の三柱。

剣の鐔(ツバ)から生まれたのが、甕速日神(ミカハヤヒノカミ)・樋速日神(ヒハヤヒノカミ)・建御雷之男神(タケミカヅチノオノカミ)の三柱。

剣の柄(ツカ)から生まれたのが、闇淤加美神(クラオカミノカミ)・闇御津羽神(クラミツハノカミ)の二柱。


合計八柱の神が十拳(トツカ)の剣に因って生まれた。


その一神・建御雷之男神の別名を“建布都神(タケフツノカミ)”あるいは“豊布都神(トヨフツノカミ)”と古事記は云っている。また、紀の第9段正文で経津を“賦都(フツ)”と云うとあることからも、“布都(フツ)”=“経津(フツ)”を想起させる。


次に、もう一方の日本書紀の記述を見る。

やはり、火の神である軻遇突智(カグツチ)の斬殺に起因して“経津主神”が生まれており、古事記にその名はないものの、“経津主神”は一連の“武甕槌神”誕生譚と深く関わっており、両神の祖は同根であると断じてよい。  


日本書紀は、伊奘諾尊が十握剣(トツカノツルギ)で“軻遇突智(カグツチ)”三段に斬ったが、第5段・第6書において、その刃から滴る血が天安河辺(アマノヤスノカワラ)に至り、五百箇磐石(イホツイハムラ)になった。それが“経津主神”の祖であると明記している。


第7書には、五百箇磐石の岩から「磐裂神、次に根裂神、その児・磐筒男神、磐筒女神、その児・経津主神」とある。


そして“紀”は、剣の鐔(ツバ)から激越(タバシ)った血が甕速日神(ミカハヤヒノカミ)になり、次に熯速日神(ヒノハヤヒノカミ)が生まれ、甕速日神が武甕槌神の祖であると記す。


さらに剣の鋒(サキ)から垂れ激越(タバシ)った血から磐裂神(イワサクノカミ)、次に根裂神(ネサクノカミ)、次に磐筒男神(イワツツノオノミコト)(一説に磐筒男命と磐筒女命)が生まれたとなっている。因みに、剣の柄(ツカ)からは、闇龗(クラオカミ=水神)、闇山祇(クラヤマツミ=谷のある山の神)、闇罔象(クラミツハ=谷の水神)


つまり“紀”および“記”ともに、“武甕槌神”は鐔から、“経津主神”は鋒(先)からと、部位こそ違え、同じ長剣の十握剣(トツカノツルギ)が生まれたことになる。


そして、経津主神と武甕槌神が古来、武神として崇敬されてきたのは葦原中国平定の偉業に加え、その出自が十握剣という聖剣に深く関わっていることによる。


こうした紀・記の記述を見てくると、武甕槌神の別名が“建布都神(タケフツノカミ)”あるいは“豊布都神(トヨフツノカミ)”と“フツ”を冠する神名であること、鹿島神宮に伝わる国宝・“韴霊剣(フツノミタマノツルギ)”、さらに物部家および天皇家の武庫であった石上神宮の御神体なる神剣・韴霊(フツノミタマ)と“フツ”の名を冠していることから、葦原中国平定を成した聖剣こそがすなわち経津主神、同神の御魂のようでもあり、謎は深まるばかりである。


さらに、経津主神について詳しく見ると、紀・第9段一書第二に、


「天神(アマツカミ)、経津主神・武甕槌神を遣して、葦原中国を平定めしめたまふ。時に二神曰さく、『天に悪神有り。名けて天津甕星(アマツミカホシ)と曰ふ。亦の名は天香香背男(アマノカカセヲ)。請はくは、先づ此の神を誅(ツミナ)ひ、然して後に下りて葦原中国を撥(ハラ)はむ。』とまをす。是の時に斎主(イワヒ)の神を斎(イワヒ)の大人(ウシ)と号(マヲ)す。此の神、今し東国(アヅマ)の檝取(カトリ)の地に在します。」


とある。


この斎主(イワヒ)の神については、“古語拾遺”に「経津主神云々、今下総国香取神是也」とあり、延喜式祝詞「春日祭」にも「香取坐伊波比主命」とある。つまり、“紀・第9段一書第二”に云う“斎主(イワヒ)の神”は“経津主神”であり、下に続くように、全国平定を果たしたのは、ひとり経津主神ということになる。


“一書第二”には、経津主神と武甕槌神の二神で出雲で国譲りを成就した後、「経津主神、岐神(フナトノカミ)を以ちて郷導(ミチビキ)として、周流(メグ)りて削平(タヒラ)ぐ」とある。


すなわち、ひとり経津主神が、帰順した大己貴神(オホアナムチノカミ=大国主命)が推挙した岐神(フナトノカミ=道祖神=猿田彦大神)を先導役として全国を斬り随えたとあり、出雲平定ののちの全国平定に関しては武甕槌神の名前が出ていないのである。

経津主神と武甕槌神、この二神はいったい別々の神なのだろうか。国家鎮護を成した人物とその佩いた聖剣を武の神として祀ったのではないのか。そうであれば、二神であるが、同一神とみてもよいとも云える。都よりも遠く離れた地にこの二神が相並ぶようにして鎮まっているのも、この神々が不即不離の関係にあることを暗示しているのかも知れない。

春日大社をゆく=武甕槌神(タケミカヅチノカミ)・経津主神(フツヌシノカミ)に誘(イザナ)われ

3月のお水取りを観覧した際に、久方ぶりに春日大社を訪ねた。

世界遺産・春日大社
世界遺産・春日大社

春日大社といえば、朱塗りの廻廊と釣燈籠のイメージしか浮かんでこず、その御祭神がどなたであるかも知らずにいたのが正直なところである。 

御廊(オロウ)
御廊(オロウ)
西回廊
西回廊

この機会に同神社の由緒などに当たると、「奈良遷都の710年、藤原不比等がその氏神である武甕槌命を鹿島神宮から奈良の御蓋(ミカサ)山山頂浮雲峰に迎えた。768年、称徳天皇の勅命を受け、左大臣藤原永手によって香取神宮から経津主命、また枚岡神社から天児屋根(アマノコヤネ)命・比売(ヒメ)神を迎え、中腹となる今の地に四殿の社殿を造営し祀ったのが当社の創始」とある。

中門・御廊(オロウ)
中門と御廊(オロウ)
中門奥に本殿
中門の奥に四柱の御祭神を祀る本殿がある

そう言えば、藤原氏の始祖である藤原(中臣)鎌足は常陸国の出身といわれている。


藤原道長など藤原氏の栄華を描いた“大鏡”に、「鎌足のおとど、む(生)まれ給へるは、常陸国なれば、かしこのかしま(鹿島)といふところに、氏の御神をすましめたてまつり給ひて、その御代より、いまにいたるまで、あたらしき御門、后、大臣たち給ふをりは、みてぐらづかひ、かならずたつ。みかど、ならにおはしまししときは、かしことほしとて、大和国みかさ山にふり奉りて、春日神社となづけたてまつりて、いまに藤氏の御氏神にて、おほやけ、をとこ女づかひたてさせ給ひ后宮、その氏の大臣公卿みな此明神につかうまつり給ひて、二月十一日上申日御まつりにてなん、さまざまのつかひたちののしる」とあり、藤原摂関家の栄耀とともに春日大社の権威も高まっていったことが分かる。

BlogPaint
弊殿・舞殿(ブデン)

そうした由緒を持つ春日大社に参詣し、その御祭神である武甕槌神(タケミカヅチノカミ)、経津主神(フツヌシノカミ)なる大国主命からの国譲りを成し遂げた二神に、俄然、興味を抱くことになったのである。

直会殿(ナオライデン)
直会殿(ナオライデン)

そして、藤原氏の旧姓、占部を職とする中臣氏の祖神は、確か天児屋根命のはず。藤原氏の氏神であれば、枚岡神社から天児屋根(アマノコヤネ)命のみを分祀すればよかったのではないのか。


なぜ武甕槌神(タケミカヅチノカミ)や経津主神(フツヌシノカミ)という国家平定二神を氏神として第一殿、第ニ殿へ祀ったのか。

四つの本殿
右手に並ぶのが四つの本殿(奥より武甕槌神・経津主神・天児屋根命・比売神)

春日大社は鹿が“神使(シンシ=神の使い)”とされているが、それは大社創建の際に、鹿島神宮の御祭神である武甕槌神が常陸国から神鹿に載ってやって来られたことに由来すると伝えられている。

春日大社の神鹿と二之鳥居
春日大社の神鹿と二之鳥居

鹿島神宮の祭神だけにとどまらず、神鹿まで印画する複製品のようなこの春日大社とは一体、何なのか・・・。


また、それほどの神力を有していた鹿島神宮とはいったいどういう由緒を持つのか・・・

春日大社で生まれた謎が謎を生み、そして止め処なく脹らみ続けてゆく。

春日大社参道
春日大社の厳かな参道

わたしはその謎を追うようにして、新緑を深めゆくこの春、武甕槌神(タケミカヅチノカミ)、経津主神(フツヌシノカミ)に誘われるように、その二神を祀る香取神宮と鹿島神宮、そして武甕槌神に打ち負かされた建御名方神(タケミナカタノカミ)を祀る諏訪大社を巡ることとなったのである。

丹後國風土記の世界に游ぶ=天橋立

2013年の最初の旅は、かつて天橋立を参道としていた籠(この)神社を訪ねることでスタートした。



籠神社
籠(この)神社

大寒直後の1月22日の早朝、東京駅から新幹線に乗り、一路、京都府・宮津を目指した。途中京都駅で家内の親しい友人と京都で大学教授として心豊かな第二の人生を送っておられるご主人のお二人と合流、賑やかな天橋立への道行きとなった。

  
京都駅31番線ホームで待合せ、特急”はしだて”に乗りました

さて、丹後國風土記は『奈具社』『天椅立』『浦嶋子』というわずか三つの逸文が残されているのみである。


丹後國は和同6年(713)4月、丹波國から加佐・與佐・丹波・竹野・熊野の5つの郡を割って成立した。


そのひと月後の5月、元明天皇によって、『1・畿内七道諸国の郡郷の名は好き字をつけよ』、『2・其の郡内に生ずる銀・銅・彩色草木禽獣魚虫等の色目を記録せよ』、『3・土地の沃塉(よくせん=肥沃か瘠せているか)、山川原野の名が名づけられた由来』、『4・古老が伝える古い伝承、珍しい話』を言上せよとの『風土記』撰進の詔が発せられた。


そして、出来たてホヤホヤの丹後國から報告されたもののうち、『地名の由来(3)』にも言及した『古老の相伝する旧聞異事(4)』に関わる前述の三つの逸文が現在に至るまで残っていることになる。


その一つが『天椅立』であり、今を去る1300年前に以下の如く記述されている。



傘松公園より”斜め一文字”
傘松公園より天橋立・手前の森が籠神社で府中側、海の向こう側が文殊側

「丹後の国の風土記に曰く、与謝の郡。郡家の東北の隅の方に速石(はやし)の里あり。此の里の海に長く大きなる前(さき)あり。長さは1,229杖(3.64km)、広さは或る所は9丈(26.6m)以下、或る所は10丈(29.6m)以上、20丈(59.3m)以下なり。先を天の椅立(はしだて)と名づけ、後(しり)を久志(くし)の浜と名づく。然云ふは、国生みましし大神、伊奘諾尊、天に通ひ行でまさむとして、椅を作り立てたまひき。故、天の椅立と云ひき。神の御寝(みね)ませる間に仆(たふ)れ伏しき。仍ち久志備(くしび)ます(霊異のはたらきをする意)ことをあやしみたまひき。故、久志備の浜と云ひき。此を中間(なかつよ)に久志と云へり。此より東の海を与謝の海(現在の宮津湾)と云ひ、西の海を阿蘇の海(現在も同名・内海)と云ふ。是の二面(ふたおもて)の海に、雑(くさぐさ)の魚貝等住めり。但、蛤(うむぎ)は乏少(すくな)し。」


風土記編纂の時代の度量衡は“和同の制”によるが、その単位でメートル法に換算すると、1丈は10大尺(1大尺=曲尺0.978尺)、つまり2.96mとなる。つまり風土記内に記述されている天橋立の長さは3.64km、幅は26.6m以下或いは29.6mから59.3mとなる。


そこで1300年後の天橋立の姿はどうかということだが、現在、その長さは3.6km、幅は20170mと表示されており(天橋立観光協会HP)、長さは風土記の時代と同じ、幅が3倍ほどに広がった個所があるということになる。

雪舟観より与謝の海と天橋立
雪舟観:雪舟が天橋立を描いた場所(宮津湾東)から見た天橋立・手前が宮津湾

また風土記にいう橋立の基部を指した“久志の浜”は、現代では天橋立の先端部、つまり風土記とは反対側の、廻旋橋の方の文殊水道側の浜の呼び名となっている。


伊勢神宮外宮の祭神・豊受大神(天女)が舞い降りた地上界の地とされる“真名井原”こそが、“久志備(くしび)ます”処であるはずであり、天橋立の基部、即ち現在の籠神社・真名井神社があるあたりを久志の浜と名づけた風土記が理に適ったものといえ、なぜ、後世にその呼び名が反対側に転遷したのかは定かでない。


そして天橋立は伊奘諾尊が天に通った梯子が倒れたわけだが、どう倒れたかという、まことに瑣末なことだが・・・(『細かいことが気になるのが、私のイケナイ癖・・・』、杉下右京じゃぁ、あるまいし・・・)。


天女(豊宇賀能賣命=豊受大神)が降臨されたのが、真名井神社・籠神社のある真名井原ということになるので、籠神社側すなわち府中側に梯子の基部があったことになる。


だから梯子は宮津湾を分割するように府中側から文殊側に南方向に仆(たお)れたということになる。


のちに真名井原に籠神社が創建されて、海中に伸びる天橋立がその参道となったが、参拝客は梯子の上部から下へ向かって歩いていっていることになる。どうでもよい話ではある。


さて、われわれ4人は其の日、宮津湾沖に停泊する貨物船から沖採りする日本冶金所有の艀(はしけ)が阿蘇海とのピストン輸送を繰り返すという天運に恵まれ、廻旋橋の開閉を飽くことなく何度も見ることができた。日頃のわが身の行ないの良さ?いや、伊奘諾尊、火明命のご加護であろうと、感謝した次第である。



廻旋橋が開き、バージが通る
廻旋橋が開き、艀が通ります。橋上の赤い傘の人は開閉を指示する人で観光客ではありません
  
廻旋橋上より東側に文殊水道を見る・廻旋橋を渡る知人ご夫妻

橋立に赴く前に、智恩寺に参拝したあと、文殊水道(天橋立運河)に架かる廻旋橋(小天橋)を渡り、まずは小橋立エリアへ上陸。 

  
智恩寺山門と智恵の輪燈籠
  
小橋立に建つ昭和天皇御幸の歌碑(左)、日本三景の石碑(右)

そしてすぐの大天橋を渡るとそこが大橋立、いわゆる天橋立である。小雨が時折ぱらつく大寒の頃とて、天橋立に人影は見えず、森閑としている。

  
この大天橋を渡ると、上の大橋立エリア、いわゆr天橋立の松並木となる

およそ8000本もの松の茂る大天橋の松並木の一本道をたった4人で贅沢にもゆったりと散策した。松並木の道がひっそりととおく続くのみである。

天橋立松並木
当日は人影も見えぬ天橋立の松並木

/3ほどいったあたりに、天橋立神社がある。



  
天橋立神社・神社東側に松並木が府中へと続く

その西側に両岸が海に囲まれているにも拘わらず、塩気のない真水が湧くという不思議な“磯清水”がある。



  
左が天橋立神社、右奥に見えるのが磯清水・磯清水の真水が流れています

磯清水

さらに、岩見重太郎の仇討ちの場所や試し切りしたといわれる石が神社の東側にある。 

岩見重太郎仇討ちの場 
左:岩見重太郎仇討の場の石碑 右:試し切りの石だそうです・・・

その当りでちょっと松林を東に抜けて見る。白砂の浜辺へ出る。誰もいない浜辺に4人の声だけが響く。その声が渡る先に宮津湾(与謝の海)が拡がっていた。宮津の地名は籠神社をむかし吉佐の宮(天照大神が伊勢へ遷る前、4年間当地に遷座)と呼んでいたので、宮の湊というので、その名がついたと云われる。 

誰もいない浜辺と与謝の海
誰もいない白砂青松と与謝の海(宮津湾)

また、今度は取って返して西側へ松林を抜ける。すると、そこには冬の薄日がこぼれキラキラときらめく穏やかな阿蘇の海があった。その様はあたかも水面に薄絹の羽衣がひらひらと舞い落ちてきたようにも見えた。




阿蘇海

そこには古代人の息遣いが聴こえるようで、そのゆったりとした平安な時の流れに全身が抱きすくめられたような奇妙な気分にとらわれた。



  
神さびた苔蒸す松の古木・だれもいない天橋立

そして真名井原に舞い降りた天女、豊受大神を想い、往古、神が通った道の土の感触を味わうかのようにしずかに歩をすすめた。

韓国へ初めて旅した!=新羅千年の王都、慶州を巡る その3 魚板・雲板

大雄殿の廻廊に魚板(ギョバン)と雲板(ウンパン)が吊るされていたが、同形のものは日本では中国色の濃い禅宗寺院で見ることができる。

仏国寺・魚板と雲板
大雄殿廻廊にある龍頭魚身の魚板(ギョバン)と雲板(ウンパン)
仏国寺・魚板
下部が大きく空洞にされ、角の生えた魚板・この空洞の中を叩くという

日本の魚板は食事や修業開始の時を告げるときに叩くものと教えられたが、今回、もっと深い意味があったことをガイドの趙(ジョウ)さんから説明を受けたので、ここに記録として書き留めておく。

「魚板は水中で生きる衆生に、雲板は空に生きる衆生に、これを叩くことで仏法を教え、すべての衆生が天国へゆけるようにと祈るもの」だという。

「魚の口に見える珠は衆生の持つ3つの毒を表していて、魚板の腹中を叩くことで、この毒を体外に吐き出させる」のだそうだ。つまり、魚板は日本ではお腹の部分を表面から叩くが(下に穴が開いていない)、韓国では以上の意味から腹中から叩かないと吐きださせる意味がないとのことであった。なるほど・・・仏国寺の魚板には内臓が抜かれた肴のようにぽっかりと大きな空洞がある。

仏国寺・魚板
なるほど大きな空洞である・・・

それで三毒とは華厳経の一説である懺悔文(ザンゲモン)に云う、「貪(トン)・瞋(ジン)・癡(チ)」のことだと帰国して調べて分かったので、ここに記す。

「我昔所造諸悪業(ガシャク・ショゾウ・ショアクゴウ) 皆由無始貪瞋癡(カイユ・ムシ・トンジンチ) 

従身口意之所生(ジュウシンゴイ・シショショウ) 一切我今皆懺悔(イッサイ・ガコン・カイサンゲ)」

「我昔より造るところの諸々の悪業は皆無始の貪(トン=貪欲)・瞋(ジン=怒り)・癡(チ=愚かさ)に由る。身・口・意従(ヨ)り生ずる所なり、一切、我今皆懺悔す」

ということなのだそうだ。

そして韓国の魚板には肴の頭に角が生えているが、これはどうしたことか。よくは分からぬが「竜頭魚身」ということらしく、この形の木魚を魚板ということらしい。

通常日本のお寺で住職がポコポコ叩く丸いものを木魚というが、角の生えたこの魚の形をしたものが魚板と呼ぶのだと、どこいらに書いてあったが、これまで日本で見た“魚板”に角は生えていなかったので、どういうことなのか・・・、もう少し勉強してみなければ・・・。  


また、これまで“雲板”を目にすることは少なかったが(というより気づいていなかったのだろう)、江戸中期(1740年・第13代竺庵浄印)まで歴代住持を中国から招聘していた宇治の黄檗宗・萬福寺には、仏国寺と同様の雲板が存在するものの、魚板には角はなく、彩色もほどこされていず、下方に穴も開いていないため写真のようにお腹を表面から叩くため、腹部中央がへこんでいる。    

宇治・萬福寺の雲板(ウンパン)
宇治・萬福寺の雲板
萬福寺大雄宝殿
萬福寺大雄宝殿
宇治・萬福寺の魚板(ギョバン)
萬福寺の魚板・腹の中央部分が叩かれてへこんでいる
仏国寺・大雄殿の雲板
仏国寺紫霞門から雲板を見る

長崎の唐寺、長崎三福寺のひとつ興福禅寺の魚板は下腹を叩くのだろう、萬福寺とは異なり、下腹部がえぐられたように削り取られている。こちらの叩き方のほうが毒を吐き出させる意味合いから云うと、大陸の魚板の叩き方をわずかに今に伝えているのかも知れない。双方の魚板とも口には三毒を意味する珠を咥えているのだから。

長崎・興福禅寺山門
長崎興福禅寺山門
長崎・興福禅寺の魚板
長崎興福禅寺の魚板・下腹部から抉(エグ)り取られている

そして、哀しくも痛ましい雲板が、同じ長崎三福寺のひとつ福済寺の“片耳が落ちた”雲板である。原形は仏国寺のものと同形であるが、原爆投下により大雄宝殿以下七伽藍が一切焼失した際に、一片が毀損したものの雲板が今にその惨状を伝えるために生き残っている。

長崎・福済寺本堂
国宝の大雄宝殿址に建つ現在の福済寺・伽藍配置も一切断ち切ったお寺になっている

それは空に生きる衆生に仏法を教えるという“雲板”が、片耳を落としながらも必死の思いでわが身と引き換えに、原爆により空に昇った多くの魂を天国へと誘ったように思えてしかたがなかった。

長崎・福済寺の雲板
原爆で左肩が焼け落ちた雲板

現在の福済寺に往時の姿を偲ぶ縁(ヨスガ)はない。ただ“耳の落ちた”雲板が寺院の片隅に吊られているのみである。

元禄15年7月吉日と刻まれた裏面
雲板の裏面・鋳造された元禄15年7月吉日の日付が読み取れる

遠い韓国でたまたま目にした雲板に今更ながらに命の重みを知らされたところである。

韓国へ初めて旅した!=新羅千年の王都、慶州を巡る その2---仏国寺 紫霞門・大雄殿

高句麗は375年に仏教を公認。百済には384年に仏教が伝来したと云われ、新羅は両国に遅れること150年ほどたった527年に漸く公認されたという。


ただ、公認を果たした第23代法興王(在位514-540)は律令制の導入など中央集権的統治機構の整備を強力に推し進め、仏教も護国宗教と位置づけられ王権強化の舞台装置としてその影響力を急速に増していくこととなった。


そうした護国宗教のシンボルのひとつとして創建された(528年)のがこの仏国寺であり、当時は華嚴仏国寺、また“法流寺”とも呼ばれていた(因みに日本の“法隆寺”607年創建と伝えられる)。


法隆寺の五重塔・金堂・中門

そして新羅文化の黄金期である8世紀半ば、第35代景徳王10(751)に時の宰相、金大成により大がかりな拡充・整備がなされ、建造物60余棟を擁す現在の10倍もの壮大な規模を誇る大寺院となった。それを機に現在の“仏国寺”と寺号を改めた。


石窟庵世界遺産石碑

なお先に紹介した石窟庵も金大成による同年の設計・創建となるものである。


その後、高麗、李氏朝鮮王朝時代の“尊儒棄仏”という仏教衰退のなかでもこの仏国寺だけは補修、維持が続けられていたが、1593年の豊臣秀吉による壬辰倭乱、いわゆる文縁の役で全ての木造建築物は焼失したという。ガイドの趙さんの話では、敗色濃い李氏朝鮮の兵がここに逃げ込み、立て籠ったため加藤清正帥いる軍勢が大伽藍共々一網打尽に焼討にしたという。わたしはその時、織田信長が行なったあの凄惨な比叡山焼討のことを思い描いていた。


だから創建時のものとしては石造の多宝塔・釈迦塔や建物の基壇が残っているが、基壇の多くが黒く煤けているのは当時の無残な焦土の痕跡であるという。 


黒く煤けた大雄殿の基壇

その後、1604(宣祖 37)頃から1805年にかけ四十数回に渡って部分的補修も含め建物の再建がなされてきた。そして1969年の仏国寺復元委員会の下で、ようやく現在、われわれが目にすることのできる“新羅仏教芸術が一堂に会す韓国随一の仏教古刹”・仏国寺が復元された。


それでは、能書きはこれぐらいにして仏国寺の境内へと足を踏み入れることにしよう。仏国寺の伽藍配置は以下の写真の通りであり、ここでの案内は写真を主に説明をすることにする。何しろ当日は雨の中グルグル昇ったり降りたり境内を廻ったため、帰国後に配置図を見て、ああ、ここが○○殿だったんだってな調子でありまして・・・、シュン・・・(;´Д`)

仏国寺建造物配置図
仏国寺の配置図

さて、「仏国寺」と書かれた扁額の掛かる“一柱門”をくぐって仏国寺の広大な境内に入る。

日本で言う山門、一柱門

まず、般若蓮池に架かるアーチ型の解脱橋を渡る。渡り終わるとすぐ正面に十数段の階段の上に天王門がそびえる。

解脱門の正面に天王門が見える
DSCF2568
天王門扁額

般若蓮池には回遊式日本庭園にある鶴島のような松が植栽された島がひとつ浮かんでいる。紅葉が始まり雨の中とはいえ見事な景色である。

般若池と解脱橋
雨に煙る般若蓮池に浮かぶ島と解脱橋

天王門の両脇には広目天・多門天、持国天・増長天の四天王が参拝者に睨みを利かす。しかし、写真をご覧になって分かるように、日本の四天王よりずいぶんと愛嬌のあるお顔をしている。写真では分かりにくいが、四天王に踏みつけられている小鬼がまた実にかわいくて、ちょっと可哀そうな気がした。


京都東寺の五重塔

怒髪天を抜く形相の京都・東寺の立体曼陀羅の四天王とその足元に踏みしだかれる憎々しげな鬼の相貌とは似ても似つかぬ心持ちの良さを感じた。

四天王・広目天と多聞天
左が広目天・右が多聞天
四天王持国天と増長天
左が持国天、右が増長天
持国天と増長天に踏みしだかれた憎めない小鬼

天王門を抜け、小さな般若橋を渡ると正面に紫霞門、左手に極楽殿に通じる安養門を備える寺というよりどこか城塞のような石造りの宏壮な中核部分が聳え立つ。

紫霞門の左に泛影楼・その左に蓮華橋
紫霞門・下段が青雲橋、上段が白雲橋、左隅に安養門の上段七宝橋が見える

右手正面の大きな門が大雄殿に向かう紫霞門である。石の階段の下半分を「青雲橋」、 上半分を「白雲橋」と言うのだそうだ。階段をなぜ橋と呼ぶのか不思議であったが、趙さんの解説を聴いて納得。俗世から仏国に渡る橋なのだという。 青雲橋は17段で人間の青年時代、白雲橋は16段で老境へ向かう壮年・老年時代。合計33段は帝釈天が統治する「三十三天」を表すのだそうで、人間は年を取りながらその功徳を積み、これを昇り切って紫霞門をくぐると、そこが仏の世界だというのだ。

紫霞門から手前白雲橋と青雲橋を

大雄殿は日本で云う本堂である。わび、さびの日本の古色蒼然とした寺院と異なり、大雄殿をふくめ各伽藍は極彩色で彩られ、仏の世界の美しさを競っているように見えた。

大雄殿
大雄殿
大雄殿から紫霞門を
大雄殿から正面の紫霞門を

平等院鳳凰堂の堂内彩色の復元を見たが、まさに仏国寺の各伽藍の華やかさの通りであった。かつての日本の寺院もこのように絢爛豪華であったかと思うと、“わび・さび”の文化が、創建時の彩色に復元する努力を行なわなかった“ズボラ”の産物であったともいえ、何とも白けて来るのも正直なところである。

宇治の平等院鳳凰堂

大雄殿のご本尊は釈迦牟尼仏である。

大雄殿本尊・釈迦牟尼仏
釈迦牟尼仏

大雄殿の前庭には東に多宝塔、西に釈迦塔が立つ。どちらも10.4mの高さの石造で創建時(751)のものである。

釈迦塔
釈迦塔
仏国寺・多宝塔
多宝塔
仏国寺多宝塔を飾る獅子
唯一残る獅子像

多宝塔の造作は見れば見るほどその石工の造作は見事の一言につきる。一層目に一頭の獅子が配されているが、もともとは四方に四頭あったという。

石灯籠から見える仏様
石灯籠の灯りとりからお釈迦様のお顔が見える

大雄殿の真正面に石灯籠が置かれているが、その灯り取りからご本尊の御顔が見える。

平等院鳳凰堂正面から扉越しに阿弥陀さまのお顔が見える
平等院鳳凰堂の格子窓に阿弥陀如来のお顔が見える

これらも東大寺や平等院鳳凰堂などの窓や扉の格子越しにご本尊の尊顔を拝するのに似ている。

韓国(ソウル・慶州)へ初めて旅した!=新羅千年の王都、慶州を巡る その1---石窟庵

韓国へ初めて旅した!=新羅千年の王都、慶州を巡る その2---仏国寺 紫霞門・大雄殿
韓国へ初めて旅した!=新羅千年の王都、慶州を巡る その3 魚板・雲板
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20日から23日までの三泊四日で初めて韓国を訪ねた。


息子夫婦がわれわれ夫婦の還暦祝いにとプレゼントしてくれた海外旅行である。“韓国”を希望したのは、かねてより愛読している日本書紀に頻繁に登場する“新羅”の王都、“金城”(現在の慶州)をこの目で見、足で踏み、鼻でその空気を吸ってみたかったからである。


嫁と娘は海外って云っても韓国? しかも慶州って何?、えっ、どこ?ってな調子。息子は設営者のためこっちの意向にとやかくいう立場にない。還暦の片割れの家内はと云えば、古代史好きの旦那に去年も草深い対馬の神社巡りに運転手代わりで付き合わされるなど、端(ハナ)から美味しいものさえ食べることができればと謂わば悟りの境地に入っており、すんなりと被祝者(こんな日本語あるわけないか)一致で慶州行きが決定した。


そして韓国を初めて訪問するに当たり、その首都をひと目も見ないことはどうも失礼と思ったこともあり、ソウル→慶州→ソウルという何だか非効率な旅程となった。というのも慶州には空港がなく、慶州に近い釜山便も手頃な便がなかったため、ソウル経由の旅となった。


したがってソウルに入国当日と出国前夜の宿泊となったが、ソウルでは地中を縦横に走る地下鉄を駆使し、景福宮や明洞(ミョンドン)などを探訪。その詳細は後日アップするが、それはそれでソウル市民の日常の一端に触れることができ、有意義であった。

DSCF2450KTXソウル駅
ソウル駅8番線に入線するKTX

さてお目当ての慶州だが、201011月にソウルから超高速鉄道KTXの新ルート(ソウル-新慶州:2時間5分)が開通していたため、慶州一泊の旅程ながら、実質1日半の慶州観光を楽しむことができた。


新慶州駅

そして慶州では家族5名が一緒に移動できるようにと、日本語ガイド付きのジャンボタクシー(一日22万ウォン≒16千円)を利用した(日本から二日分を事前に予約)。


慶州での21日、22日は生憎と雨にたたられたが、趙(ジョウ)さんという素晴らしいガイド兼運転手さんに恵まれ、期待以上に濃密な慶州滞在が出来た。当方が希望した盛りだくさんな場所を効率よく廻り、その個所々々での説明も歴史背景を含め驚くほどに詳しく分かりやすいものであった。

新慶州駅に到着するKTX

21日お昼前に新慶州駅に到着すると駅前のタクシー2台に分乗し、宿泊先のコモドホテルへと直行した。そこで趙さんと落ち合う手筈となっていた。荷物をホテルに預けて早速、出迎えてくれたボックス・カーに乗車し、世界文化遺産の石窟庵(ソックラム)と仏国寺(ブルクッサ)を訪ねることになった。コースは趙さんがそうしようと云うので、お任せしたまでである。

石窟庵・世界遺産石碑
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吐含山石窟庵門をくぐり歩いて行きました
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石窟庵登り口の大鐘閣・この階段きつそうだったので、右手の山門(上の写真)から登りました

大鐘閣の梵鐘
石窟庵(創建751年)は吐含山(トハムサン・海抜745m)の頂上間近の東峰に花崗岩を削り築造された石窟寺刹である。その存在は李氏朝鮮時代に仏教が廃れていくにつれ忘れ去られたが、1909年、峠越えをしようとしていた郵便配達員が驟雨を避けようと転がり込んだ洞窟内で偶然、この石仏を発見したという。

雨の中、頑張りました!

麓の仏国寺から登ると普通の足で1時間ほどかかるとのことだが、もちろんわれわれは石窟庵の駐車場まで車で直行。そこからでも坂道や自然石の階段を15分ほど徒歩で登ってゆくのだが、雨の降る中であったため、海が見えるという頂上からの景色は残念ながら堪能することはできなかった。

石窟庵釈迦如来像
ガラス越しに見る釈迦如来像
石窟庵発見時写真・wikipedia
発見時の石窟庵(wikipediaより)

石窟庵はその名の通り切り出した石をドーム型に組んで作られ、洞内中央に花崗岩から彫り出した3.26m丈の大きな釈迦如来像が坐し、その周囲に仁王像や四天王像、菩薩像などが配置されている。

洞窟の前面を覆う御堂
岩山の前面をお堂で覆った石窟庵

もともとは円墳状の土盛りの内に石窟があったそうだが、現在は露出した石窟部分を木造の御堂で覆い、石像群は御堂内でさらにガラスで仕切られている。これは日本統治時代の解体修復の際に創建時の石組に戻すことができずコンクリートを使用するなど耐久性や除湿に優れた石組構造が損なわれ、密閉したガラス室による換気を余儀なくされているとのことであった。

石窟庵の釈迦如来像御顔
釈迦如来の柔和なお顔

釈迦如来の眉間少し上にある白毫(ビャクゴウ)は、もともとは水晶などの宝石であったとかで、東から射しこむ陽光で白毫が輝きを放ち、海上からその光を認めることができたのだという。仏が瞑想に入った時に東方一万八千世界を照らし出すという、まさにそのとおりの役割を果たしていた“白毫”も、いつの頃か盗まれガラス玉に変わっているのだそうだ。


それにしても暗い洞内にライトアップされた釈迦如来の美しさは見事の一言につきる。その柔和でふくよかなお顔と円やかな曲線で縁取られた堂々たる体躯は観る者の心に慈悲と寛恕の気持ちを浸透させてくれるようで、薄暗い御堂のなかにいつまでもずっと佇んでいたいと思った。


わたしは京都太秦広隆寺の弥勒菩薩像が大好きであるが、この石窟庵の釈迦如来像のお顔はそれと同等かそれ以上に柔和で慈愛に満ち溢れ、ふくよかな体形から、苦界で右往左往するわれわれ餓鬼でも誰彼問わずに救ってくれる寛やかな無限の心を感じとった。

DSCF2507
この雨煙りの遠くに出雲がある・・・、そして文武王の海中王陵も・・・

そしてお堂の外に出て雨に煙る東の彼方を見やっていると、趙さんが「釈迦如来の向かうまっすぐ先には日本の島根県がある。そしてその線上に文武王の『死して海龍となり倭から新羅を護らん』」として葬らせた海中王陵がある」と説明した。文武王は新羅30代の王(在位661-681)で、白村江の戦いで倭国・百済連合軍を討ち破り、高句麗を滅ぼし、初めて朝鮮半島を統一した統一新羅初代の王である。


東方にある出雲、文武王の海中王陵や白村江の戦いといい、この石窟庵の釈迦如来像は1400年前の韓郷と倭の交流、確執を息を吹きかけるような身近さで、わたしに語りかけて来るようであった。

石窟庵のすぐ下に”寿光殿”がある。


石窟庵・寿光殿扁額
寿光殿扁額
寿光殿本尊
御本尊

そこお堂の脇に復元時にうまく使用できなかった新羅時代の花崗岩のパーツが置かれた一画があった。

寿光殿内から
堂内より東方を
新羅時代の石組み残余
新羅時代の余った石組みが残されている

雨に穿たれるにまかせており、貴重な文化財をこんな扱いをして大丈夫かなと心配する一方で、どこか大陸的な鷹揚さと奥深い歴史を感じとったことも事実であった。

寿光殿と吐含山を見上げる
吐含山を望む・寿光殿はかすかに見えるが、その上の石窟庵は雨中に隠れて見えず

雨に煙る石窟庵への旅であったが、ぜひもう一度、ゆっくりとそしてじっくりとこのほの暗い御堂で、一人っきりで釈迦如来様に対面させていただきたいと思っている。そして、利見台から海中王陵を何としてでも望見したいと思った。

神々のふるさと、対馬巡礼の旅=番外編 古代神道を残す「赤米神事」

神々のふるさと、対馬巡礼の旅=18 多久頭魂(たくづたま)神社
神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1



 現在、古代神道の名残である「赤米神事」の習俗を残すのは、対馬の多久頭魂神社(タクヅタマ)と鹿児島の種子島にある宝満(ホウマン)神社、それに岡山の総社市にある国司(クニシ)神社の3か所だけである。この3地点に古代米と云われる赤米の神事が千数百年にわたり連綿と伝承されていることから、稲作の伝播経路に大きく二つの流れがあり、それが瀬戸内海を通り順次畿内へと普及していった姿が浮かび上がって来る。


対馬豆酘・赤米神田
豆酘・多久頭魂神社脇の赤米神田

 

その「赤米神事」(国選択無形民俗文化財)を対馬でただ一人継承しているのが、豆酘で漁業を営む主藤公敏さんである。2010213日付長崎新聞は『神事は、田植えや稲刈りなども含め年間10回あり、頭(トウ)仲間と呼ばれる住民が輪番で受け継いできた。1990年に10戸だった頭仲間は、神事に伴う金銭的な負担もあり、年々減少し、2007年に1人になった』と伝えている。


 農耕の種蒔きの時期や収穫の成否が占いに拠った時代、卜部(亀卜)の宗家たる天児屋命(アマノコヤネノミコト)の末裔である中臣烏賊津使主(ナカトミノイカツオミ)が縣主であった対馬に、「赤米神事」という形で古代農耕の姿が当地の一族により引き継がれ今に保存されている、その連綿と続く気の遠くなるような時間の流れにあらためて想いを致す時、深い崇敬の念を抱くのである。

2010_赤味がかった赤米神田


さて、「神意」に基づく政(マツリゴト)を中心に据えた上古の社会で、この「赤米神事」は「紀」もその由来について語っている。


【神代下第9段 「葦原中国の平定、皇孫降臨と木花之開耶姫」 】

「・・・且(マタ)天児屋命は神事を主(ツカサド)る宗源者(モト)なり故、太占(フトマニ)の卜事(ウラゴト)を以ちて仕へ奉(マツ)らしむ(注1)。高皇産霊尊(タカミムスビノミコト)、因(ヨ)りて勅(ミコトノリ)して(天照大神)曰(ノタマ)はく、『吾(ワレ)は天津神籬(アマツヒモロギ)と天津磐境(アマツイワサカ)とを起樹(オコシタ)て、吾(ア)が孫(ミマゴ)の為に斎(イハ)ひ奉(マツ)るべし。汝(ナレ)天児屋命・太玉命(フトタマノミコト)、天津神籬を持ちて葦原中国(アシハラノナカツクニ)に降り、亦吾が孫の為に斎ひ奉るべし』とのたまひ、乃ち二神(フタハシラノカミ)をして天忍穂耳尊(アマノオシホミミノミコト)に陪従(ソ)へて降らしめたまふ。

・・・(中略)・・・

又勅して(天照大神)曰はく、「吾が高天原に御(キコ)しめす斎庭(サニワ)の穂を以ちて、亦吾が児(ミコ)に御(マカ)せまつるべし」とのたまふ。〔これが赤米神事の起源となるものと考えられる〕

則ち高皇産霊尊の女(ムスメ)、万幡姫(ヨロヅハタヒメ)と号(マヲ)すを以ちて、天忍穂耳尊に配(アハ)せ妃(ミメ)として、降らしめたまふ。故(カレ)、時に虚天(オホゾラ)に居(マ)しまして児(ミコ)を生みたまふ。天津彦瓊々杵尊と号す。因りて此の皇孫(スメミマ)を以ちて、親に代へて降らしめむと欲(オモホ)す。故、天児屋命・太玉命と諸部神等(モロトモノヲノカミタチ)を以ちて、悉皆(コトゴトク)に相授(サヅ)けたまふ。且(マタ)服御之物(メシモノ)、一(モハラ)に前(サキ)に依りて授けたまふ。然(シカ)して後に天忍穂耳尊、天に復還(カヘ)りたまふ。」

(注1):「天児屋命」は神事を司る本家であり、太占の「卜」を以て仕えるとある。


    紀「神代上第7段」に、「中臣連が遠祖(トホツオヤ)天児屋命、忌部(イミベ)が遠祖太玉命」との、記述あり。


【神代下第9段一書第二】

「是の〔天忍穂耳尊を葦原中国に降臨させた〕時に天照大神、手に宝鏡(タカラノカガミ)(注1)を持ち、天忍穂耳尊に授けて(注2)、祝(ホ)きて曰はく、『吾が児(ミコ)、此の宝鏡を視(ミ)まさむこと、吾(アレ)を視るが猶(ゴト)くすべし。与(トモ)に床を同じくし殿(オホトノ)を共にして、斎鏡(イハイノカガミ)と為すべし』とのたまふ。復(マタ)天児屋命・太玉命に勅(ミコトノリ)したまはく、「惟爾(コレナムジ)二神も、同じく殿内(オホトノノウチ)に侍(サモラ)ひ、善く防ぎ護(マモ)りまつることを為せ」とのたまふ。又勅して(天照大神)曰はく、「吾が高天原に御(キコ)しめす斎庭(サニワ)の穂(イナホ)を以ちて、亦吾が児(ミコ)に御(マカ)せまつるべし」とのたまふ。


(注1)〔紀の注より〕

「宝鏡は一書第一では『八咫鏡(ヤタカガミ)』とあり、八坂瓊曲玉(ヤサカニノマガタマ)・草薙剣(クサナギノツルギ)と合わせて『三種の神器』とあるが、ここでは、この「宝鏡」一種についてのみ記され、他の記述はない」


(注2)〔紀の注より〕

宝鏡は一書第一では皇孫(天津彦彦火瓊々杵尊(アマツヒコヒコホノニニギノミコト))に授けるが、ここでは子の天忍穂耳尊に授けている。


この「斎庭の穂」の「斎庭」とは神に奉る稲を作る神聖な田のこと。そこで作られた稲穂を皇孫(瓊々杵尊)或いは子の天忍穂耳尊に持たせたとあることが、「赤米神事」で赤米を栽培する田が、神の田、即ち「神田」とかつて(8世紀初め頃)呼ばれていたことが「斎庭」に擬せられていることは容易に想像される。


そして「紀」の「顕宗(ケンゾウ)天皇3年春2月」の条に、対馬に在る「日神」が「磐余(イワレ)の田を以ちて、我が祖高皇産霊(タカミムスビノミコト)に献(タテマツ)れ」と大和王朝に命じたとある。


対馬の「赤米神事」がそもそも高皇産霊尊(タカミムスビノミコト)を祭神として祀る高御魂(タカミムスビ)神社(多久頭魂神社の境内社)の祭事であったことや「神田」で作った赤米を高御魂神社に奉納している事実は、「紀」の上の記述と併せ考えるときわめて興味深いことである。



加えて、折々にねずみ藻という海藻を使う「赤米神事」という古代農耕の習俗は、上古の対馬を「日神」の本貫とみなす「紀」の内容は単なる作り話ではなく、対馬が具体的事実に基づいた天孫降臨族と海人族の融合の地であったことを明確に示唆するものと云ってよい。



神々のふるさと、対馬巡礼の旅=18 多久頭魂(たくづたま)神社



 

   天童に所縁の神社なれど、ご祭神は皇孫の神也(藤仲郷「対馬州神社大帳」

 


多久頭魂神社に到るには、先の「美女塚」からさらに1kmほど南下し、左手の脇道へ入り細い田んぼ沿いの道をゆっくりと行く。


対馬、赤米神田と豆酘の海
田の中央の茶色味を帯びた辺りが赤米神田、遠くに豆酘の海が見える

 

其の日は8月の末であったが、田んぼの稲穂は実りで頭を垂れ始めていた。途中に「赤米神田(アカゴメシンデン)」という標識が目についた。


赤米神田の標識

 

古代米の赤米である。多久頭魂神社で年間10回行なわれている「赤米神事」という祭祀用に栽培されているものである(「番外編 赤米神事」参照)。その神田の横を過ぎると多久頭魂神社の一の鳥居が突然、目の前に顕れた。その出現の仕方に唐突感があったのを覚えている。


多久頭魂神社の一の鳥居

 

人の気配の全くしない奇妙な感覚に捉われる空間である。鳥居前の小さな空き地に駐車し、一の鳥居の奥を覗く。高い樹木が鬱蒼と茂る境内に足を踏み入れると空は真っ青なのに参道はほの暗く、思った通り人っ子一人いない。


2010_083110年8月対馬0084
一の鳥居から参道をのぞく

高御魂神社・多久頭魂神社の案内板

 

代わりに我々を迎えてくれたのは薮蚊の大群であった。夏場の参拝には虫よけスプレーおよび帽子、長袖シャツを装備、装着されることをお勧めする。薮蚊がそれほどに人に飢えているのは、当社を訪れる人がきわめて少ないということなのだろうか。それとも天道法師の遥拝所とされる当社に入る禊ぎの一つでもあるのだろうか。


参道左手の手すりの階段の上に鐘楼

梵鐘案内板

神仏習合の名残の鐘楼
康永3年(1344)改鋳の国指定重要文化財

鬱蒼とした樹木の中に続く参道

神仏習合の名残だろう、山門前に狛犬、正面奥に社殿

 

冗談はともあれ、「新撰姓氏録」に「多久頭魂神」は「神皇産霊尊(カミムスビノミコト)」の子とある。神皇産霊尊は神代三代の造化の神、国常立尊(クニノトコタチノミコト)・国狭槌尊(クニサツチノミコト=天御中主尊(アマノミナカヌシノミコト))に続く三代目の高皇産霊尊(タカミムスビノミコト)と同一と見られる神である。



対馬に関わる神々の系譜

高皇産霊尊に始まる対馬に関わる神々の系譜

 

天照大神の長子である天忍穂耳尊(アメノオシホミミノミコト)と高皇産霊尊の娘である栲幡千千姫(タクハタチヂヒメ)の間に生まれたのが、神武天皇の曽祖父たる瓊々杵尊(ニニギノミコト)である。ここにおいて天孫(高皇産霊尊からの血統)と皇孫(天照大神からの血統)が同一の血統へと収斂することになる。


境内社・高御魂神社

 

当社境内に多久頭魂神の父たる高皇産霊尊を祀る「高御魂(タカミムスビ)神社」があるのも、この地が天孫降臨族と深い関わりを持つ場所であることを示し、さらに赤米神事が当社の重要な神事として古来伝わっているのも、この豆酘の地が、天孫族が持ち込んだ稲作に特別の意味を持つ場所であったことを容易に推測させる。


多久頭魂神社・社殿
社殿前の橘
対馬亀卜の神官・橘氏との関係もあるのだろうか、橘の案内板

【多久頭魂(タクヅタマ)神社概要】

社殿内

社殿内の古い絵馬

色あせているが、絵柄はしっかりとした絵馬である

・    住所:厳原町豆酘

    社号:「神社誌」に「天道」とある。天神社(大小)・多久頭魂神社(大帳・明細帳)

    祭神:天照大御神・天忍穂耳命〔天照大神の子〕・瓊々杵尊〔天照大神の孫/皇孫〕・日子穂々手見命〔山幸彦〕・鵜茅不合葺命〔豊玉姫と彦火火出見命との子/瓊々杵尊の孫/神武天皇の父〕(明細帳による)

    天道信仰の聖地

    由緒

(明細帳)

神武天皇の御代天神地祇を祭らしめて玉ふ所にして、則勸請神武元年なり。又神功皇后三韓に向ひ玉ふ時、諸神を拝し給ふ所にして、承和四年(837年)二月被授従五位下、貞観十二年(870年)三月被授従四位下、延喜式神明帳に載る所の社なり。



幹周り7.09m、樹高30mの樹齢650年ともいわれる楠は当社のご神木
2010_083110年8月対馬0108
太い幹周り、左に見えるのは社殿

 

(大帳・藤仲郷の説)

多久頭魂神社は龍良山上に在る。古の神社は今の世の如く、宮殿を建てず。霊山霊地、亀卜を以って其の地を定む。そして鏡・鈴・劒は根曳きに着け、神魂(ヲガタマ)の木は中央に植える。其の廻り八町を以って神籬磐坂と為す。其の内の諸々の木は立ち仕る。敢えて人は入らず。天神地祇之座(イマ)す地と為す也。当地に在るは皇孫〔多久頭魂神社〕の神也佐古村に在るは天孫〔天神多久頭魂神社〕の神也。之を靱(ユキ)鋤(スキ)の神と謂う。当社は靱宮と号す。神武天皇、諸国に命令を下し、天神地祇を造らしむる也。其の時の神社也。又云う、天道地を神籬磐坂と称ぜしめる也。海道諸国記曰く、「対馬嶋の南北に高山有り、皆、天神名づく。南は子神と称し、北は母神と称す。家々素饌(ソゼン)を以ちて之を祭る。山の草木禽獣、人はあえて犯す者無し、罪人神堂に走り入りたるは、すなわち亦敢えて追捕せず」昔、伝燈法師と曰(モウ)す者、罪有りて此の大山に走り入り、そして隠れる也。その後、俗仏は、天道と伝燈、其の字の音が同じに因り、之を欺く。そして此の神社を為して、伝燈法師の入定の地と為す。次第にこの神社は亡び、知る人も無くなる。延喜式神明帳多久頭魂神社是也。承和四年(837年)二月五日奉従五位下、従五位上、正五位下、正五位上。貞観十二年(870年)三月五日奉従四位下。其の後段々有叙位、正四位下。神山を廻る八町にして、外に垢離川有り、横川と号す。潮湯浜有り、外浜と号す也。



明細帳記載の祭神を見ると、天照大御神天忍穂耳命〔天照大神の子〕・瓊々杵尊〔天照大神の孫/皇孫〕・日子穂々手見命〔山幸彦〕鵜茅不合葺命〔豊玉姫と彦火火出見命との子/瓊々杵尊の孫/神武天皇の父〕と、皇孫の血統が見事にそろい踏みしている。藤仲郷が「当地(多久頭魂神社)に在るは皇孫の神なり」と述べている通りであり、下記に示す天道法師との由縁を祭神から窺うことはできない。また、境内に天道伝説の痕跡を境内で見つけることもできなかった。



多久頭魂神社のすぐ北に位置する龍良山(タテラサン)山中の八町角と呼ばれる場所が天道法師の墓所といわれ、昔から「オソロシ所」と呼ばれ、「不入の聖地(アジール=聖域・治外法権領域)」とされていた。その為、墓所を直接参拝できぬ天道信仰の信者たちが南接する当社を遥拝所とみなし、天道の墓所である磐境を同社の神籬磐境とし崇拝したという。(2009対馬現地調査報告/豆酘龍良山国有林」・本田佳奈より


対馬・高御魂神社
高御魂神社

 

ただ、多久頭魂神の父たる高皇産霊尊を祀る「高御魂神社」という高い格式の延喜式内社を当社が境内社として抱える謎や、稲作の伝来ルートを印す「赤米神事」を習俗として残すなど詳らかならぬ当社の由来は、「対馬が神々のふるさと」である何かを現代の我々に伝えようとしているように思えてならぬ。


境内社・国本神社
境内社・神住居神社
境内社・師殿神社
観音堂
境内社・五王神社
境内社・下宮神社

 

「記紀」にも一切その名を登場させぬ、そして「神社明細書」や「対馬州神社大帳」、「対馬國大小神社帳」にも当社の祭神として名を顕さぬ「多久頭魂神」という神が天孫族たる高皇産霊尊の本貫(本籍)地、天孫族のエルサレムと呼ぶべきこの豆酘に祀られている理由は何なのか謎は深まるばかりである。



また上対馬佐護にある天孫の神を祀ると云う「天神多久頭魂(アメノカミタクヅタマ)神社」との関係も、天童伝説の母子関係で捉えるという後世のフィルターを捨象し、天孫と皇孫つまり高皇産霊神と天照大神を対峙的関係として見るのが妥当と考える。


神々のふるさと、対馬巡礼の旅=番外編 天道信仰と対馬神道(下)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅=番外編 天道信仰と対馬神道(上)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1


1.不入の地、神籬磐境(ヒモロギイワサカ)の祭祀
 

   龍良山(タテラヤマ)

龍良山559m・雄龍良山(オタテラヤマ)・雌龍良山(メタテラヤマ))は古来、天道山」と云われ、天道信仰の聖地とされてきた。故に禁伐林であったため榊・柞(ユス)など老木の繁茂する天然記念物原始林である。雄龍良山麓には八町角(ハッチョウカク)と呼ばれる天道法師の墓所と伝える場所がある。そして雌龍良山の山中には天道法師の母の墓所と称するものがあり、八町角呼ばれている。対州神社誌には、「天道は豆酘之内卒塔山に入定す云々。母今のおそろし所の地にて死と云。又久根の矢立山に葬之と云」とある。


龍良山辺り

海側から龍良山方向を

ある書に「龍良山・・・558m、大字豆酘の東北に屹立し、対馬縦走山脈南端の最高峰である。旧名雄龍良または天道山といい、神山で多久頭魂神社の神籬磐境であり、頂上に烽火台の跡がある。」とある。


かように母神・子神崇拝は、対馬に深い縁故を有す神功皇后・応神天皇母子二柱を祀る「八幡信仰」にその起源を有すとも云える。


   清浄の神地たる不入の地、浅藻(アザモ)

 対馬の南端に位置する豆酘に向かって県道24号線を南下してゆく途中に「美女塚」がある。


  これは昔、采女(ウネメ)制度(大宝律令)があったころ、豆酘に鶴という美しい娘がいた。母一人娘一人の仲の良い母娘であった。その鶴が采女として遠く都へと召されることとなった。鶴はその母一人を残し生まれ育った村を離れて行くのがつらく、役人に連れて行かれる途中で、「これからはわたしのような辛い思いをさせぬように、豆酘には美人が産まれぬように」と祈り、舌を噛み切って死んでしまったという。母や村人は村思い、親思いの鶴を深く哀れみ、「鶴王御前」と呼び、その命を絶ったという峠辺りに「美女塚」を立て弔ったという。対馬では実際に「豆酘美人」という言葉があり、昔から豆酘が美人の産地であったのは確からしい。


  天道法師が帝から病治癒の御礼に何なりと願いを聴くと言われた際に、その一つに「対馬撰女」すなわち対馬から采女を召し出すことを免じて欲しいと申し出ている。

 

 このことはこの「美女塚」にまつわる哀しい話が当時すでに人口に膾炙していたと思われ、また天道法師自身の母親がその素性を「内院女御」と呼ばれたことから、采女として召し出され、そうした母娘別離といった哀しい過去を背負っていたのかも知れぬと想像したりする。


 内院にある美女塚には天道法師伝説と深く関わる話があるように思えてならぬのである。

 さて豆酘(ツツ)村は、大きく分けて豆酘と浅藻(アザモ)に分かれている。


豆酘から浅藻への道
豆酘郵便局


  鈴木棠三(1911-1992)が「対馬の神道」を表わすために対馬入りした昭和12年(1937)時点は、「現在の浅藻の村ができたのは、明治何年かに中国筋の漁民が移住して以来のことである。(中略)豆酘と浅藻の距離は一里半余りであるが、浅藻には豆酘の本村から移住した家は全くなく、「内地」からの移住者のみから成り、通婚も最近の一二の例を除く他は、国元から配偶者を連れて来ているようだ」とあり、明治まではこの豆酘村の浅藻地区は不入の地として人が住むことはなかった。


浅藻湾
コモ崎からの景色

 しかし、明治初期に中国地方より漁民が移り住んで以来、人が住む土地となったが、もちろん、その移住者が死に絶えるなどということはなかった。


 ただ、豆酘の村人は死人のあった忌明けには、卒塔見(ソトミ)と称して、コモ崎の上に登り、眼下に見える浅藻の入江に向けて小石を投げて、後ろを見ずに帰る風習がつい先年まで残っていた。神地としての地元民の尊敬は残されていた。


浅茅近くの卒塔(ソト)山(天道山)山腹が天道法師が亡くなった地であり、「もし汚穢の人がその地に入れば、たちまちにして神罰が降り死に絶える」との言い伝えが古来、村人により守られて来た事実は重い。

この天道信仰と対馬の神社との関係を記すと、藤仲郷の説を採用した「津島紀事」(平山東山著・1809-1810)のなかで、「浅藻(アザモ)の八丁角が延喜式内多久頭魂神社の磐境、裏八丁が高皇産霊尊の本社」と推定されている。 

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