彦左の正眼!

世の中、すっきり一刀両断!で始めたこのブログ・・・・、でも・・・ 世の中、やってられねぇときには、うまいものでも喰うしかねぇか〜! ってぇことは・・・このブログに永田町の記事が多いときにゃあ、政治が活きている、少ねぇときは逆に語るも下らねぇ状態だってことかい? なぁ、一心太助よ!! さみしい時代になったなぁ

コキコキドライブ旅 「君が行く新たな道を照らすよう千億の星に頼んでおいた」万葉の里・味真野苑の恋バナもエッ!と驚く

昨日、今朝と朝ドラ「舞いあがれ」を観ていて、「エッ! エッ!」と驚くことといったらなかった。

1月放送の第73回、幼なじみの貴司君が主人公・舞の新たな人生をはげますため五島列島の小島から贈った絵ハガキに添えられていたのが、

「君が行く 新たな道を 照らすよう 千億の星に 頼んでおいた」

という短歌であった。

心に深く沁み入る歌で、さすが歌人の桑原亮子さんが紡ぐ物語はひと味もふた味もちがうと感心していた。

ところが、ここにきて舞と貴司君の臆病すぎる恋心がようやく互いの心の“底ひ”から溢れだしてくる、その背中を押す重要な役割を果たしたのが、この短歌であった。

そして、これがいわゆる本歌取りであったと昨朝、明かされたとき、冒頭の「エッ!エッ!」をわたしは連発したのだ。

平城京・朱雀門
平城京の朱雀門

その本歌こそ、狭野弟上娘子(サノオトガミヲトメ)が流刑の憂き目にあった夫、中臣朝臣宅守(ナカトミノアソンヤカモリ)を想い、詠んだ相聞歌23首のうちの一首、

「君がゆく 道の長手を 繰り畳(たた)ね 焼き滅ぼさむ 天(あめ)の火もがも」

(あなたのゆく長い道のりを手繰り重ねて焼き滅ぼしてくれるような天の火がないものか)

であった。

狭野弟上娘子 君がゆく
狭野弟上娘子の「君がゆく・・・」の歌碑

わたしが「エッ!」と驚いたのは、この2週間ほど、ブログ・「コキコキドライブの旅」で立ち寄った「万葉の里・味真野苑」をアップしようと、万葉集・巻15に収載された「中臣朝臣宅守(ナカトミノアソンヤカモリ)と狭野弟上娘子(サノオトガミヲトメ)が贈答せる歌63首」を詠み、

⓪万葉集・小学館日本古典文学全集 - コピー
万葉集巻15
またその背景にかかわる「続日本紀」の聖武天皇の時代を読み込んでいた最中であったからである。

万葉の里・味真野苑 万葉館と狭野弟上娘子歌碑
味真野苑・万葉館前に建つ狭野弟上娘子の歌碑(味真野に宿れる君が・・・)

味真野は二人の相聞歌のまさに舞台であり、「万葉の里・味真野苑」はその哀しい恋物語をテーマとしてつくられた庭園であった。

万葉の里・味真野苑
万葉の里・味真野苑

そして、狭野弟上娘子が詠った23首におよぶ相聞歌のなかで、もっとも魅力的な歌が「君が行く・・・」の短歌であった。

万葉の里・味真野 紅葉する苑内
紅葉の味真野苑
愛する夫を流刑地へ行かせぬように味真野までの道を折りたたみ天の猛火で焼き燼して欲しい、まさに女の情念が迸(ほとばし)り出る強烈なインパクトを与える凄まじい恋慕の歌であった。
大極殿内 高御座
平城京大極殿内の高御座

その歌を口ずさんでいた最中の、朝ドラへの登場である。

しかも舞と貴司の恋物語のキー・コンテンツであったとは・・・。

驚いたのは当然である。

貴司君の短歌の本歌が弟上娘子のこの狂おしいほどの情念の歌だとは思いもつかなかったし、素人にわかるはずもなかった。

あの俵万智さんも一本とられたといった風のツイートをしていたのだから、当然である。

それにしても、味真野の「比翼の丘」に建つ弟上娘子の歌碑が、

「君がゆく 道の長手を 繰り畳(たた)ね 焼き滅ぼさむ 天の火もがも」

であったのは、この歌が一番、心に訴えてくる秀歌であったからであろう。

宅守歌碑から狭野弟上娘子の歌碑を見る
比翼の丘に建つ狭野弟上娘子の歌碑 写真中央

それに比し、もう一方の比翼の丘に建つ宅守の歌はといえば、

「塵泥(ちりひじ)の 数にもあらぬ 我故に 思いわぶらむ 妹(いも)が かなしさ」

(塵泥の数にも入らないわたしゆえに落胆しているであろう、あなたのいとしさよ)

という、どこか卑屈でどう詠んでも胸を打たれるといった悲痛の想いが伝わってこない。

比翼の丘に建つ中臣宅守の歌
中臣宅守の歌碑(塵泥(ちりひじ)の・・・)
宅守の相聞歌は40首も収録されているが、どれも形式的といおうか型に嵌まったもので、正直、宅守の血の通った情感が感じ取れないものばかりである。

逆に、

「さすだけの 大宮人は 今もかも 人なぶりのみ 好みたるらむ」

(宮廷の人たちは今でもなお人を辱めることばかり好んでいることだろうか)

とか、

なりひら竹の林に宅守の短歌
なりひら竹の林に宅守の短歌の駒札

「世の中の常の理(ことわり) かくさまに なり来にけらし すゑし種から」

(世間の常の掟でこんな風になってきたのだろう自ら蒔いた種がもとで)

といった言い訳がましい歌や世間体を気にするばかりで、妻の胸をつぶすような悲嘆を慮(おもんばか)る気持ちなど、とんと伝わってこない。

さらにこの二つの歌からは、流罪となった原因がどうも人前では憚られるような行為であったことが窺われるのである。

この二人の相聞歌は古来、万葉の恋バナとして万人の心をうってきたとされるが、何かこの配流事件の裏には恋バナなどとは対極にあるどす黒い背景があるような気がしてならないのである。

そこで背景について調べていたのがこの二週間のことであった、というわけである。

そんなひねくれた老人とは別世界に住む貴司君(桑原亮子女史)の短歌は抑えてきた舞への想いがしずかに流れ出してくるようで美しい歌だと思った。

「君が行く 新たな道を 照らすよう 千億の星に 頼んでおいた」

そして、今朝詠まれた、

「目を凝らす、見えない星を見るように一生かけて君を知りたい」

さすが貴司君!!

人知れず潮が満ちてくるようなそんな情愛が沁みとおってくる素敵な歌である。

こんな言葉をかけられたら、女性はもう何も言わずにただそっと抱かれるだけ・・・

・・・・・・

上段の池に植わる連理の松
味真野苑・上段の池に連理の松が植わる

味真野の苑内には夫婦の愛、恋人たちの愛をあらわす「比翼の鳥・連理の枝」にちなみ、上段の池に「連理の松」が、またそこから流れ出る小川をはさみ宅守と弟上娘子の歌碑が建つ「比翼の丘」が配されている。

宅守と狭野弟上娘子の歌碑の建つ比翼の丘
比翼の丘に宅守と狭野弟上娘子の歌碑が建つ

花筐(はながたみ)像 継体天皇と照日の前像
ハートで飾られた継体天皇と照日前の銅像

カップルでお近くへ観光に行かれた際には、ぜひ、万葉の里へ立ち寄り、能・「花筐(はながたみ)」の継体天皇と照日前の銅像を拝し、そして比翼の丘に立ち、二人の愛を確かなものにされることを願ってやまない。

コキコキドライブ旅 7日目その三 「世界の中心で、愛をさけぶ」味真野

日本書紀・継体紀に、継嗣がないまま武烈天皇が崩御され、大伴金村大連等重臣たちによる僉議の結果、皇統をつなぐため応神天皇5世の孫、男大迹(オオド)王を26代天皇とする経緯が記述されている。

忽谷(しゃくだに)石で造られた継体天皇の石像 足羽公園
足羽山頂上に建つ継体天皇像

そのなかで「三国(ミクニ)」へ節旗(シルシ)を持ち御車を準備して男大迹王を迎えにいく下りがある。

現在の三国は九頭竜川の河口あたりの地名であるが、当時は越の国の坂井、足羽、丹生の三郡をあわせたものが「三国」にあたり、いまの坂井市、福井市、越前市までをふくむかなり広範囲をいっていたという。

九頭竜川河口と三国港
九頭竜川河口 この先が三国港

つまり古の重要な交通手段であった九頭竜川とその水系の足羽(アスワ)川、日野川という越の国の三大河川の流域一帯を男大迹王が支配していたといえる。

このエリア一帯に継体天皇の伝誦が数多く残っていることからそのことは明らかである。

古にいうその「三国」の南部、九頭竜川の扇状地の谷口にあった母の里、高向(坂井市)から山塊を二つ、

高向神社
九頭竜川の東、高向の地に鎮座する高向神社

足羽川扇状地に建つ男大迹王創建の足羽神社から山塊一つ越えた

足羽神社 拝殿
足羽山中腹に足羽神社

日野川東部流域に味真野がある。

味真野神社 鳥居前から
味真野の地に建つ味真野神社

男大迹王の寓居跡、また中世の豪族鞍谷氏の館跡とされる場所には味真野神社が建っている。

味真野神社鳥居横に継体天皇御宮跡の石碑が建つ
継体天皇御宮跡・鞍谷御所跡の石碑

そのため神社の三方に土塁が今もはっきり確認される。

中世の鞍谷御所を囲んだ土塁が残る
神社の三方を土塁がめぐる

神社の伝承によると、往古、北西1kmほどのところに鎮座していた式内社・須波阿須疑(スワアスギ)神社のご祭神三座が分かれ、その一柱が伊弉諾神社として現在地に本宮として建立されたという。

味真野神社鳥居と参道
味真野神社鳥居と参道

それが味真野神社の前身で、その後近隣神社の合祀を重ね、この地の地名をとって味真野神社と改称されたという。

白布で覆われた味真野神社社殿
雪囲いで囲われた味真野神社社殿

この一帯は越前国の国府があったとされるが、三大河川やその支流が網の目のようにめぐり、古来、交通軍事の要衝であったことは確かである。

さて室町時代初期、「風姿花伝」を著し能楽を大成させた世阿弥の作品に「花筐(ハナガタミ)」という演目がある。

世阿弥直筆の花鏡から採った”能”の字を刻む石碑
能楽発祥の地、京都・新熊野神社に建つ世阿弥揮毫の「能」の字

遠い昔、初めて国立能楽堂で観た演目が「花筐」であった。

花筐・継体天皇・照日前像
花筐・継体天皇と照日前の像

思い出と云えば、シテの照日前(テルヒノマエ)の動きがあまりにも悠暢で眠気をこらえるのに苦労したことばかり。これこそが味真野時代に寵愛した照日前と継体天皇との恋物語であったとは、此度の旅でそのことを知り、驚いた。

花筐(はながたみ)像 継体天皇と照日の前像
愛のしるし

社殿前にはそのことを知らせるかのように、「謡曲花筐発祥の地」の苔生してはいるがりっぱな石碑が建っていた。

謡曲花筐発祥の地 石碑
社殿前に立つ謡曲花筐発祥の地・石碑

継体紀を去ること八百年、室町時代に至っても味真野が継体天皇ゆかりの土地であったことが巷間に広く知れ渡っていたことになる。

「花筐」のワキヅレ(都からの使者)のセリフに「越前の国味真野と申す所にござ候」、「味真野の皇子におん譲りあるべし」と、味真野の地名がしっかりと登場しているのだから。

そんな地に建つ味真野神社は雪囲いなのか無粋にも社殿が覆われ、その姿を拝見することは叶わなかったが、その境内に拡がる光景は一見の価値があった。

雪囲いされた味真野神社社殿
味真野神社社殿

若き日の男大迹王と照日前の恋、そして、大和へ行ってしまった男大迹王を慕うあまり狂女となった照日前との邂逅・・・

そんな熱烈な恋情をあらわすかのようにハートの意匠が至る所に施されていた。

;ハートはいくつ?
ハート印はいくつあるか?

継体天皇と照日前の銅像前の情熱的な真っ赤な花輪はもちろんのこと、両脇の花も・・・また、地面に描かれた大きなハートマーク・・・

ハート形がいっぱい
ハートの向こうに継体帝と照日前

花壇もハート形。

ハートだらけの味真野神社
花壇もハート形

そして、休憩用の木製の腰掛椅子もハート、それに石造りのベンチの脚の型抜きもハート・・・

石造ベンチにもハート
ベンチにもハートマークが

いやはや、ここは古希、古希のカップルには少々、熱気が強すぎた。

恋人の聖地といわれ場所は各地にあるが、これほどまでに恥じらいなく「世界の中心で、愛をさけぶ」を体現している場所をわたしは知らない。

味真野神社ハートの境内
世界の中心で愛をさけぶ!!

次に細君の実家である高松にいくときには、映画「セカチュウ」のロケ地となった庵治町へいってみよう・・・と・・・年甲斐もなく心の中で呟いたところだ。

コキコキドライブ旅 7日目 その二 一乗谷朝倉氏遺跡

久しく途絶えていた「コキコキドライブ旅」だが、わたしの人生行路の記録を残したいとの虚仮の一念でふたたび書きつないでゆくことにする。前回は「永平寺」で終わっている。
さて、その永平寺から南西に8km、車で20分弱のところに戦国大名、朝倉氏の一乗谷遺跡は位置する。

永平寺山門からの水墨画
永平寺山門から中雀門と僧堂をみる

朝倉氏遺跡は九頭竜川水系のひとつである足羽(あすわ)川に流れ込む支流一乗谷川沿いに切れ込む谷内にある。

一乗谷川
一乗谷川
一乗城山(いちじょうしろやま・標高436m) の頂に一乗谷城を配し、その麓、東西500m、南北1.7kmの範囲にわたって南北の城戸で防御された城郭都市の発掘遺構である。
ここに中世の城郭都市があった
この谷間に城郭都市があった・・・

その存在は江戸時代から知られていたというが、昭和40年代の大規模水田改良事業のスタートにより、その遺跡規模が想像以上に広範囲にわたった。

下城戸
一乗谷の南端にある下城戸
しかも整然と残されていることがわかり、地元自治体、住民の強い思いから遺跡の一括保護がなされた。
一乗谷街並み遺構群
街並みの遺構群

その遺構がほぼ完全なままで発掘されていることから東洋のポンペイとも呼ばれている。

各戸に井戸が一個ずつ整備されていた
各戸に井戸を設けた街並みの遺構

先に訪ねた永平寺の開祖道元による開山が1244年であるので、一乗谷の城下町の形成はそれから約二百年後のことになる。

一乗城山
一乗城山

そして約百年間にわたり朝倉氏のもと繁栄を極めたが、織田信長により第11代当主の朝倉義景は討たれ城郭都市も灰燼に帰し、いつしか歴史のなかにうもれ、田畑のしたに名実ともに埋没することとなった。

復元街並み
復元された一乗谷の街並み

わたしどもが訪れたのは2021年の11月であったが、観光客もまばらで復元ざれた街並みや館跡をゆっくりと歩くことができた。

復元武家屋敷
武家屋敷の内部

戦国時代の城下町というものが、時代劇でよく目にする武家と農民・町民の居住地区がはっきり分かれてはいず、混在していたことに少々驚いたが、まだ武士が専業でない時代、城下町という形態はおよそこんなものであったのだろうと納得した。

商人の家
商人の家 中に井戸がある

いざ戦となったときには農民が刀や槍を引っ提げて戦場へと赴くことが当たり前の時代であったのだから。

朝倉氏の館内から門を見る
朝倉氏当主館内から唐門をみる

武士を初めて専業とした信長の軍事力によって、この中世の小京都とも称された文化都市が壊滅させられたのも歴史の必然と云えるのかもしれない。

街並み側から朝倉館遺跡と一乗城山
街並み側から朝倉氏当主の館をみる

一方で少々びっくりしたのが、各家々には必ず井戸が設けられていたことである。しかも各戸を網の目のようにつなぐ水道溝も認められ、16世紀の城郭都市にはすでに都市インフラがしっかりと整備されていたことを目にして、驚いた。

かつて信州松代江戸時代の歴史的道すじ散策したときに、「カワ」や「泉水路」と呼ばれる水路が家々をめぐり、街中に水道網が張り巡らされていたことに驚いたが、その時代をさかのぼること2百年の15、6世紀の越前において、すでにそうした都市インフラが整備されていたとは、日本人の技術力や頭脳、さらにはエコと殊更に唱えるまでもなく、日常的にそうした思想が身についていたことにはもっと誇りと自信をもってよいのだと思った。

松代の歴史的道すじ
信州松代の歴史的道すじ

私たちが伺ったときにはまだ存在しなかった「新・一乗谷朝倉氏遺跡博物館」が2022年10月にオープンしている。

朝倉当主の館跡
朝倉氏当主屋敷跡
JR一乗谷駅から徒歩3分の足羽川沿いに建っている。そこから一乗谷朝倉氏遺跡へは車で4分ほどとのこと。
当主館跡
朝倉氏当主館跡

170万点に及ぶ出土品のなかから選ばれた品々が館内展示されているそうだ。また朝倉当主の館が一部、原寸大で再現されているそうで、義景の日常を体験してみるのも一興と思われる。

ひと夏の忘れもの 足摺岬エリア・大堂海岸アドベンチャークルーズ

ひと夏の忘れもの 竜串海岸、大堂海岸、柏島の碧い海

ひと夏の忘れ物 足摺岬で泊まりたい宿・TheMana Village(ザマナヴィレッジ)

ひと夏の忘れ物 足摺岬




さて、「ひと夏の忘れもの」の三日目は冒険の国を探訪する、大堂海岸を紺碧の海から見て回ろうというものである。

大堂海岸をゆく
大堂海岸アドベンチャークルーズ

足摺岬の西つかた、大月半島の南端をなぞる大堂海岸は約10kmに渡り白亜の絶壁や奇岩を聳え立たせる大景観を擁する。

白亜の絶壁がそびえたつ
花崗岩の絶壁がつづく

前日の大堂山展望台や観音岩展望台から見おろした景観も見事だったが、波間から見上げる景色はまた違った魅力で迫力があり、自然のダイナミズムを実感させられた。

白亜の花崗岩の絶壁
白亜の大堂海岸

今回、体験した大堂海岸アドベンチャークルーズは、要は小さな漁船に乗って、大堂海岸を海から観光するというものであった。

半世紀ぶりに大堂海岸をおとずれるという細君に、ぜひ、海上からの自然の醍醐味を体験してもらおうと探していたところ、四万十・足摺エリアの観光案内、一般社団法人 幡多広域観光協議会のHP“はた旅”にぶち当たった。

HATA-TABI」と題するそこに、アクアブルーの海中をダイビングするダイバーの姿があった。

この歳でダイビングはないが、せめて夏の海を船で疾駆したいと妄想し、探し当てたのが、「ホテルベルリーフ大月」至近の周防形(すおうがた)漁港から出発する「大堂海岸アドベンチャークルーズ」であった。

黒潮のうえをクルーザー?に乗って駆ける、最高の気分にちがいないということで9:30出港、おおよそ75分のクルージングをネット予約した。

周防形漁港で谷口渡船に乗船
当日のクルーザー?

2名様以上の参加で催行」との条件で、わが老夫婦の参加でクリアーした。

前日の夕刻に確認の電話があった。「谷口渡船ですが・・・」と名乗る声はだみ声のおじさんのもので、クルージングのスマートさとは対極にある聲音であった。そして客はわれわれ二人だけだという・・・

翌朝、周防形漁港にはものの2、3分で到着したが、岸壁に人影はなく小さな漁船が数隻浮かぶうら寂しい港であった。

周防形漁港
波静かな周防形漁港

もちろんクルーズに参加する人たちの姿などない。老夫婦ふたりっきりである。

すると埠頭にとびこむように軽のバンがやってきて谷口さん?(お名前を確認していないので、一応、谷口渡船だから・・・)がおりてきた。

赤銅色の肌をしたまさに海の男である。

海の男、船長
海の男

そして時間はちょっと早いが出航しようという。午後になると波が高くなる模様だから早い方が良いという。

海面を見たところ波静かでそんな気配は一切ないが、海の男の潮枯れた聲には説得力があった。

手渡されたライフジャケットを着て乗船した。

クルージングの優治丸
出港前の細君がスマフォ撮影

静まり返った港内に機関音が響き渡ると、白い漁船は水面のうえをすべるように動きだした。

小さな堤防で区切られた湾口を出ると、出力全開。

エンジン全開
エンジン全開!!

あっという間に港の景色が後方にすっ飛んでいった。

後方に景色がとぶ
あっという間に景色が後方へ・・・

外海の波のうねりは見た目ではわかりづらいが、速度をあげると船体はまるで波頭伝いに跳び跳ねているかのようである。

大堂海岸波を蹴る
波を蹴る

船底が波を叩きつけるドンドンという音とリズミカルな振動が心臓を上へ下へと揺さぶった。

右手に大堂海岸の山並みを見るだけで左手にはとおく水平線をみる。

水平線を眺めながら 大堂海岸
遠くに水平線・・・

風を切って谷口渡船の「優治丸」が疾駆する。

親切だった船長
優治丸が疾駆する

そのスピードはちょっと信じがたいほどに、速い!!

頬を叩く海風はわたしたちが発する聲を澪のかなたへと吹き飛ばす。

細君と交わす言葉はわずか数十センチの距離なのに大音声を張りあげねばならない。

久しぶりである。こんな腹の底から大声を発するなんて・・・

気分は最高である!!

そして風を切るという、絶えて久しくなかったこの感覚・・・

気分爽快
ドンドンと波を叩き船がゆく・・・

ひと風ごとに、“歳”という年層が体躯から引っ剥がされていくようで気分がよい。

ひと風、十歳、ひと風、十歳・・・と年齢の皮層がはぎとられていく。大堂海岸の白亜の絶壁を仰ぎ見るころには二人の聲と表情は確かに若やいでいた。

そして目指す観音岩の海域に到達したころには自分は二十歳の頃にもどったような気になった。

海風と振動と波しぶきに嬌声を発する細君を横眼にちらっとみると、彼女も半世紀前の姿になっていた・・・

風に波しぶき
二十歳の君・・・お顔をお見せ出来たら・・・

船が減速した。左手に絶壁がせまった。

海洞
海洞が山裾にいくつもある

絶壁の裾にはいくつもの海洞がみえる。

海洞に近づく
あの海洞に入ってゆくのだとか・・・

その一つに近づくと、狭い入口に舳先を突っ込みはじめた。

海洞に船を入れる 巧みな操船
舳先を上手に祠へといれていく

ほとんど停止した状態となり、船体が大きく上下動を繰り返す。

海洞を覗く
海洞をあとに、いざ観音岩へ・・・

海が荒れているとは見えなかったが、こうして波のうねりに身をゆだねると海上の浮き沈みが見た目とは大きく異なっていることに気づかされた。

船長の操船は巧みであったが、波が穏やかであればもう少し洞窟の奥まで入れるのだがと申し訳なさそうにいう。

半分ほど船体をもぐり込ませたところで、船を逆進させいよいよ目指す観音岩へと舳先を回頭した。

大堂海岸
いくぞ観音岩へ・・・

エンジン全開!!

疾駆する船首のむこうに海中から屹立する巨岩群があった。

観音岩に近づく
穴の開いた巨岩手前に立つのが背中を向けた観音岩

穴が穿たれた大きな岩壁の手前に背中を向けて立っている岩が観音岩である。

いよいよ目指す観音岩である。

船はまた減速し、その脇をゆっくりとすぎてゆく。

観音岩を横から
観音岩を横からみる

真横からみると平板な巨岩であった。見上げても観音さまには見えない。

観音岩をすぎていく
観音庭全景

少し通り過ぎてふりかえる。

観音岩を後方に見る
観音さまに見えた・・・

そこに見えたものは・・・なるほど・・・人型をした巨岩・・・

海の安全を祈る人たちには、その姿はまさに観音さま、真摯に手を合わせたにちがいない。

観音岩を覗く巨岩
観音岩の前をふさぐ穴が穿たれた巨壁

さらに先へ進み、岩壁の穴から観音岩が見えるのだと船を反対側にまわす。

なるほど巨岩の裂けた穴から観音岩が覗けた。

観音岩がみえる
穴からなんとか観音岩がのぞく・・・

だが全容をとらえるスポットで船を停船、固定するのは難しく、観音さまの全身を拝見することはかなわなかった。

おそらく逆光の時にはそのシルエットが観音さまのように見えるのにちがいない・・・

ここで通常は周防形漁港へと戻るのだが、当日は老体にムチ打ち四国最南端までやってきた二人のため、もう少し先の柏島まで行ってあげるという。

柏島を海上より
海上から柏島

前日に大堂山展望台から見下ろした柏島である。

⓪大堂山展望台から柏島を見下ろす
大堂山展望台からみえる柏島

そして・・・荒削りの景観の先、エメラルドグリーンの海のうえに柏島が浮かんでいた。

柏島漁港
柏島の船溜まりへはいってゆく・・・

小さな船溜まりのような湾に侵入しゆっくりと湾内をめぐった。

柏島港の透き通る海
陽光がさし、エメラルドグリーンの海・・・

外海とは一変、海面は静寂をたもち、陽光のさざめきで波のおだやかなうねりに気づく。まるで映画の一シーンのような息をのむ美しさである・・・

柏島 船溜まり - コピー
映画の一シーン・・・

船は柏島大橋の真下まで近づき、ゆっくりと回頭する。

柏島大橋とエメラルドグリーンの海
柏島大橋

するとキラキラとかがやく海面を透して小魚が回遊する姿が見えた。

魚がみえる柏島の海
小魚が遊泳している・・・

まさに加工をほどこした写真でしか見られないようなエメラルドグリーンの海が目の前にあった。

時間はゆっくりとすぎる。

この絶景のなか船中で昼寝でもさせてもらえたら至上の幸せと夢想したが、そこまで贅沢は云えぬ。

そして優治丸は柏島というパラダイスをあとにして一路、周防形漁港をめざして疾走をはじめた。

⓪飛沫をあげて
波頭を跳ぶ・・・

二十歳に化身した二人は帰路においても、感嘆の聲をあげながら大海原の解放感を味わった。

大堂海岸クルージングは晴天の下、人の好い船長さんにも恵まれ、ダイナミックでアメージングでドリーミングな“はた旅”となったのであった。

年をまたぎ大寒のころに季節外れもいいところの「ひと夏の忘れもの」、これにて終了と相成る。お付き合いありがとうございました。

ひと夏の忘れもの 竜串海岸、大堂海岸、柏島の碧い海

ひと夏の忘れ物 足摺岬


足摺岬の二日目は、細君が今を去ること50年前うら若きころ貧乏旅行をした竜串海岸や足摺海底館、観音岩といった奇岩のそびえる大堂海岸にもう一度、行ってみたい・・・そんな夢をかなえるためにやってきた。

大堂海岸 白亜の絶壁
花崗岩が白く光る大堂海岸

最近は夫婦してNHKの「ブラタモリ」のファンとなり、特に細君は地質構造やプレート移動といった地球規模の地殻変動に並みならぬ関心を寄せ、旅先で六角形の石柱に出逢うと、「アッ、柱状節理だ!」などとまるで旧知の友にめぐり逢ったかのような快哉をあげる

1億年前の地層・中央構造線・溝口露頭 長野県伊那市
長野県伊那市の中央構造線の溝口露頭 1億年前の地層が露出

そんな歴女ならぬ、地女(漢字を一字間違えるととんでもないことになるが・・・)に同行し、足摺の二泊目は大月半島の突端近くの「ベイリーフ大月」を宿にさだめた。

ベルリーフ大月外観
ホテルベイリーフ大月

足摺岬突端のTheMana Village(ザマナヴィレッジ)を出立、海岸沿いを西へ移動、その途上に「土佐清水ジオパーク」の一画をなす竜串海岸がある。

竜串海岸の奇勝奇岩 蜂の巣構造
竜串海岸

堤防からも異形の岩場が見渡せるが、もちろん細君はその先へと勇躍、足を運ぶ。

わたしも遅れじと杖を片手に用心深く岩伝いに移動したものの、細君の姿はいつしかわたしの視界から消え去った。

竜串海岸は日本列島がユーラシア大陸から離反移動してきた、地球規模の地震や津波の痕跡が残る岩場が陸地にあらわれた貴重な場所なのだという。

浸食奇岩
奇岩がいっぱいの竜串海岸

なるほど蒲鉾型の棒状の岩場や蜂の巣のように穴ぼこのあいた巨岩などそう思って眺めてみると地球の生命と巨大なエネルギーを身近に感じ取れる凄まじい光景である。

竜串海岸から遠くに足摺海底館がみえる
遠くに足摺海底館が見える

しばらくブラタモッタのち、海の向こうに見えた足摺海底館へと向かった。

爪白海岸と足摺海底館
爪白海岸と足摺海底館

海上に突っ立つように建つ海底館の入口に「50th ANNIVERSARY SINCE1972」とあった。

足摺海底館50周年
50周年記念

細君が遠い昔訪ねたのは、なんとこの海底館ができた直後に訪れていたことが判明した。

そして海底館の海底7mまで下る螺旋階段をおりていくと、ダークブルーの館内から小さな丸窓を通して海中の様子を見ることができた。

人間水族館
ダークブルーの館内

大小様々な天然の魚が游泳しているのがよく見えた。

⓪足摺の海中
泳ぎ回る魚たち

ただ、この状況をよくよく冷静に考えなおすと、狭い館内に閉じ込められた人間という陸上に棲息する生き物を、果てしない海中を遊弋(ゆうよく)している魚たちが興味深くのぞき込んでいるという逆水族館状態にあるといったほうが適切なような気がした。

黒潮を自在に泳ぐ魚たち - コピー
逆に魚がこっちを見ているのでは・・・

そして、おそらく魚たちは円筒状の筒に閉じこめられた奇妙な生き物が不自由の身を嘆き悲しんでいるのだとさざめき合っているのにちがいない。

そんな感慨にふけったあと、この日は大堂海岸の大景観を陸地から睥睨しようと、まず大堂山展望台へと向かった。

大堂山展望台
大堂山展望台
大堂山の頂上に建つ三階建ての展望台はだいぶ年季が入った代物だったが、そこからの景色は期待にたがわず圧巻であった。
⓪大堂山展望台頂上
大平洋が一望

東側には白亜の花崗岩の岩肌が露出する絶壁が山並み沿いに見えた。

大堂山展望台から大堂海岸を
東に大堂山

翌日、大堂海岸アドベンチャークルーズに参加し、クルーズ船から仰ぎ見る絶壁である。

そして今度は反対側へ移り西側を見下ろすと柏島大橋でつながる柏島が見えた。

大堂山展望台から柏島を見下ろす
西に柏島

山頂からはその海面に光が乱反射しているのか思い描いたエメラルドグリーンの海ではなく、くすんだ緑色にしか見えなかった。

次にこの日最後の観音岩展望所へと車を回した。

そこからの観音岩の姿はほんとうに観音様のお姿だったと、細君は云うのであるが・・・

こうした観光用にネーミングされた奇岩というものはたいてい、「そういわれれば・・・」といった態のものがほとんどである。

これまでで、こりゃすごい!と思ったのはただ一度。

壱岐の島で訪れた高さ45mの猿岩である。

壱岐の島・猿岩
壱岐の島の猿岩は見事 夕暮れにさびしそうな表情・・・

その姿かたちには息をのんだのだが、まつ毛まで本物そっくりなのだから・・・これはまさに命名通りの本物の猿岩であった。

さて、こちらはどうか・・・

観音岩展望所への登り口は、「えっ!」というほどに狭くて急勾配であった。

50年前の感動をもう一度という細君の思いに、引きずりあげられるようにして喬木の枝葉をかき分けて頂にある展望所をめざした。

観音岩展望所への登り口
観音岩展望所への狭い登り口

草生した狭い頂を通り過ぎて海側へ少し石段をおりたところに、観音岩展望所があった。

⓪観音岩展望所はこの先を少し下りた先にある
この先すぐ下に展望所

前方には茫漠たる太平洋が見渡せた。海風が肌に心地よい。

観音岩が見えない観音岩展望所
茫漠たる太平洋

早速に観音岩を探すが、どうもピンとくる岩が見当たらない。

観音岩展望所から大堂海岸を
展望所からの大堂海岸

そして細君がつぶやいた。

「こんなところじゃなかった・・・」

「もっと尾根のようなところを登っていって、下に観音岩が確かに見えたはず・・・」

向こうの尾根伝いに遊歩道があった
向こうの尾根にも登り路があった・・・

「おい、おい・・・」わたしは心中で呟いた。急こう配の坂を息を切らし登ってきたのに・・・

それでも、観音様は姿を顕さない・・・

後ろ髪をひかれたのだろう、坂道を下りながらも細君はどうも納得がいかぬ様子である。

中腹まで下りたところで、大堂展望台へむかう尾根道との分岐点で小休止。

観音岩を見る分岐点 大堂展望台方向へ行くとすぐ
分岐点

「そっちに少し行ってみたら・・・」といって、わたしの方は申し訳ないが、先に駐車場までおりておこうと階段をおりだした。

するとものの一分もしないうちに細君がわたしの名前を呼んでいるではないか。

小躍りしている様子が目に浮かぶような若やいだ声である。

わたしは萎えた心をもう一度奮い立たせて、踵を返し登り返した。

分岐点からほんの2、3mほどもいくと右手下に細身の岩が屹立しているのが見えた。

観音岩展望台途中から
あれが・・・観音岩か

彼女がと〜い昔に観たのはこの岩に違いない・・・

この棒状に突っ立った岩が観音さま・・・であると・・・世の人はいう・・・

不遜にも「鰯の頭も信心から」という言葉が頭に去来した。

なにごとも深く念じれば観音さまに見えぬこともない・・・

観音さまが胸元で手を合わせてくれているようにもみえる。

観音岩
観音岩

わたしは観音岩を見ることができたことより、無邪気に喜びをあらわし写真を撮っている細君の姿の方が実は微笑ましく見えていたのだが・・・

観音岩展望所と観音岩
中央岩の頂の緑の中、白い部分が観音岩展望所 右下の低い独立岩が観音岩

そんな不届きな想いをいだいたためだろうか、左肩に強烈な穿通感をおぼえた。

気づいたら頭の周りを大きな蜂がブンブンと不気味な羽音を響かせ飛び回っているではないか。

刺されたに違いない。手で必死に払うもその一匹の蜂はわたしから離れようとしない。

わたしの大声に驚いた細君が撮影もそこそこに蜂の撃退戦に参戦してくれた。

必死に階段を下り、車へとなんとか逃げ込んだが、蜂はなんと車まで私の頭上を旋回し続けたのである。

わたしにはそんな観音岩の思い出であったが、細君は半世紀ぶりの観音さまとの再会をもう少し愉しみたかっただろうにと、ホテルへ戻って申し訳ない気持ちになった。

⓪ベルリーフ大月ロビー
ホテルベイリーフ大月ロビー

「ホテルベルリーフ大月」は昔の国民宿舎のような飾らない作りで、スタッフの方もホテルマンというより近所の気の良いおじさんというのがぴったりで、当方もリラックス感満載でチェックイン。

ツイン ベルリーフ大月
ロッジ風の室内

ところが泊まる部屋はロッジ風のお洒落な造りで、バルコニー・・・ベランダからは谷筋に深く切れ込んだ美しい海まで見えた。

ベルリーフ大月の部屋から
バルコニーから見える景色

心鎮まるおだやかな風景であった。

夕食は簡素で小さな食堂で、地元の幡多郡自慢の海の幸をいただいた。

海の幸いっぱいの夕食
素朴だが海の幸がおいしかった

お刺身も新鮮だし、大きな海老のグラタンもおいしかった。

大きな海老の天ぷらも
大きな海老の天ぷらもおいしかった

さきほどのレセプションのおじさんに訊いたところ、お客さんの多くは釣りやダイビングを目的にやってくるのだそうで、なるほどコスパは最高の宿であった。

そしてお土産を買おうと呼び鈴を鳴らすと、さきの近所のおじさんが出てきてくれる・・・いやはやなんともつい頬が緩んでくる温もりのある宿であった。

ひと夏の忘れ物 足摺岬で泊まりたい宿・TheMana Village(ザマナヴィレッジ)

ひと夏の忘れ物 足摺岬


ひと夏の忘れ物でどうしてもお伝えしておきたいのが、足摺岬探訪で泊まった「TheMana Village(ザマナヴィレッジ)」という奇妙な名前のホテルである。

theMana village ロビー
大平洋を望む開放的なラウンジ
ネットで足摺岬に近い「評判の宿」を探していたら、「TheMana Village」と書かれた一枚のスライド写真に目が釘付けになった。

TheMana Village(ザマナヴィレッジ) HPショット
HPの写真
夕暮れ時、茜色の雲を映す水上に浮かぶデッキで憩う人たち・・・

そこには「悠々とながれる時間」が切り取られていた。

TheMana Village(ザマナヴィレッジ) エントランス
TheMana Village(ザマナヴィレッジ)エントランス

即座にこのホテルへ泊まってみたい、泊まろうと決めた。そして予約を入れた。

ウェルカム・ドリンク
ウエルカム・ドリンク
TheMana Village(ザマナヴィレッジ)はそもそも「足摺パシフィックホテル花椿」といっていた老舗旅館で、今般、それを一新、アジア屈指の滞在型リゾート施設として再生させて地方創生のひとつのモデルとしていきたいというのだそうだ。

海側 ツインルーム
ツイン でも掛布団が・・・
ただ宿泊してみて、予約したツインルームのベッドメイキングなど相応のホテルとして洗練度をブラッシュアップしてゆく点は多いと感じた。
部屋からレストランエリアを
宿泊棟からレストラン棟をみる

またホテル棟からレストラン・温泉棟へ移動する長い廻廊、周りのガーデニング、付属建物など「アジア屈指」を謳うにはまだまだ手を加え整備すべき箇所があり未だ改装途上にあるというのが実際のところである。

室内から太平洋をみる
ツインルームからの景色

そうした未熟さを知ったうえでも、当ホテルを推奨する所以は、ひとつは黒潮をながす大海原を前面に随える比類なき立地条件である。

室内からの眺望
室内から
広いラウンジやツインの部屋、どこからでも空と海を劃す水平線を一文字に引く太平洋が見渡せる。

もう一つが大自然と一体化したかのようなイタリアンレストランAzzurrissimo(アズリッシモ)の存在である。

Azzurrissimo店内
Azzurrissimo

このレストラン、今年3月にオープンしたばかりだという。

その事実こそが「TheMana Village(ザマナヴィレッジ)」がまさにこれから「名」に「実」をともなわせ「アジア屈指」へと変貌をとげてゆく、その可能性の途上にあるのだとおもわせたところである。

イタリアンレストラン
夕暮れのテラス 
Azzurrissimoよりみる
三つ目が「ONSEN」である。

懸崖に設けられた小さな露天風呂から眺める足摺岬の大海原は掛け値なしに素晴らしい。

残念ながら撮影禁止のため写真をお見せすることはできないが、遥か遠くに水平線を見晴るかし露天の岩風呂につかる。風にのって潮の仄かな香りがとどけられる。そっと瞼を閉じると磯をあらう潮騒の音や岩肌をたたく風の音が聴こえてくる。そして瞳をあけると頭上にはどこまでも蒼い空がひろがっている。

デッキから太平洋が一望
レストランからの景色
青い国、四国のはずれで猥雑な喧噪から解き放たれ大自然を体感できるTheMana Village(ザマナヴィレッジ)は都会の生活や人間関係のうっとおしさに疲れた人にはまさにうってつけの宿であるといってよい。

 

さて、そんなホテルのレストラン・「Azzurrissimo(アズリッシモ)」からは部屋から見渡す大海原を、より間近に感じることができる。

デッキから大海原
水平線が空と海を劃す
と云うよりも、大海原の真っ只中に浮かんでいるレストランであるといった方が感覚としては近い。

ザマナヴィレッジ
レストランのデッキ
レストランのデッキの突端に立ってみるとわかるのだが、爽快感というのとは少しちがう、潔(いさぎよ)さのような不思議な感覚に囚われるのである。

海風のなかで
朝のデッキ
朝食後の珈琲を突端にならぶテーブルで喫んだのだが、目の前にひろがる青海原と白い雲・・・その涯しない風景のなかで自分の姿はあまりに小さかった。

青海原で珈琲を
デッキ突端で珈琲を喫む
そして連綿と流れる時間のなかで「人の一生」とは瞬きの間にも充たぬと実感させられた。

人生の思い切りとでもいおうか、「見切る」時がすぐそこにきた・・・そんな潔い心持に自然とさせられる、不思議な小世界がこのデッキの突端には息づいていた。

夏の終わりに
ひと夏の忘れ物

さて、そんな絶景のなかでいただく「Azzurrissimo(アズリッシモ)」のイタリア料理であるが、

これがまた地産地消、地元の有機野菜をつかった一皿もおいしいし、盛り付けもきれいだ。
生ハムと山崎さんの有機野菜
地元の有機野菜と生ハム

海の幸は勿論おいしいにきまっている。

土佐清水の鮮魚のカルパッチョ
地元鮮魚のカルパッチョ
まず鮮魚のカルパッチョ。野菜との色合わせもよい。

鮮魚丸々一尾のアクアパッツァ
鮮魚一尾のアクアパッツァ
さらに、お薦めが鮮魚丸々一尾のアクアパッツァが豪快である。

手際よく骨をとってくれます
若い男の子の手さばき・・・
若い男の子が・・・、細君はそれだけで満足の様子・・・手際よく骨と身をとりわけてくれるから、不器用で面倒くさがり屋のわたしも問題なく美しくいただけた。

食べやすくなったアクアパッツァ
こんなきれいに捌いてくれました
この一皿が「あぁ土佐の国だぁ」と老夫婦を一挙に納得させたことは言うまでもない。

大きいピザ
この大きさ!!
さらに「安芸・土佐の赤うし」も旨かった。
土佐の赤うし
土佐の赤うし これで一人前なんです・・・

その前に実は、えっ!というほど大きなピザがサーブされていたので、赤うしの時には二人とも「いやぁ・・・おいしそうだけど・・・こりゃお腹が大変!」と、やや尻込みし、苦笑いの態・・・。

パスタ てっぺんトマト
形だけ・・・
さらにパスタがあるのだが、これは希望する量をちゃんと訊いてくれたので、

「お姿だけで結構」と、麺類党のわたしもさすがに形だけパスタをいただいた。

デザート
ティラミス・・・無言・・・
デザートもティラミスが・・・新鮮フルーツと一緒に・・・

夕暮れのテラスでディナー
テラスから夕暮れを・・・
その最中に夕暮れの闇があたりにおりてきたが、テーブルにそなえられたランプの灯がそこここでボ〜ッと浮かびあがってくる情景も興趣が掻き立てられた。

テラスで
テラスはランプの灯だけ・・・
そしてすっぽりとまわりが闇に支配されたころには、遠くの灯火が鬼火のようにもみえて、これも幻想的であった。

ランプのなかで
デッキにはランプの灯だけが浮かぶ・・・
こうしてこの夜、お腹は足摺の金剛福寺ではなく・・・満腹寺となったのだが、料理の美味しさ、レストランの景観のすばらしさもさることながら、わたしどもが「これは!」と感心しきりとなったのが、「Azzurrissimo(アズリッシモ)」に代表されるこのホテルのスタッフの皆さん方のはち切れんばかりの若さと笑顔とhospitalityであった。

hospitality溢れる若いスタッフ
若いスタッフの笑顔が素敵!!
退職後全国各地を旅してまわり常々実感させられているのが、昨今の厳しいホテル・旅館事情である。

人件費の圧縮策により人手が絶対的に少ないうえに従業員の高齢化、加えて日本語が今一つの外人スタッフの多さに興をそがれることが多々あった。

さらにかつての地方の老舗旅館のゆきとどいたサービスを覚えている者として、昨今の接客サービスの品質の劣化はさびしく嘆かわしい。

ところが、ここ「TheMana Village(ザマナヴィレッジ)」は違っていた。

なぜか? それは「映()える」のである。

前菜3種盛合せ
バエルと褒められた写真・・・うれしかった・・・
「バエます!バエます!」といって、わたしのカメラアングルをほめてくれた女の子。

そして、老夫婦のディナーの様子を何枚もスマフォで写真に撮ってくれた女の子。

わたしはその子に訊ねてみた。

「どうしてあなたみたいに若い人たちがこんな遠くのザマナでたくさん働いているの?」

「みんなダイビングとかマリンスポーツがやりたくてここで働かしてもらっているんです」と、

ゴム毬のように弾けた聲が間髪入れずに返ってきた。

柏島のエメラルドグリーンの海
こんな海がそこここに・・・柏島にて
なるほど四国西南端にはブルーオーシャンとブルースカイがあった。

そして若者の華やいだ聲や褐色の笑顔はこんなにも素晴らしかったのかと、あらためて思った。

そしてそうした時代が自分たちにも確かにあったのだと・・・なぜか胸に熱いものがこみあげてきた。

最後になったが、おそらくこれから訪ねる人たちは、わたしがお伝えした宿の姿とは異なる感慨を覚えることとおもう。

デッキのコーヒー
珈琲を一杯、いかが?
そしてその感動をあなたはきっとだれかに伝えたくなる、TheMana Village(ザマナヴィレッジ)はそんな素敵な宿になっているに違いないとわたしは確信している。

ぜひ機会を見つけて四国の突端まで足を延ばして、大自然の醍醐味と若者の弾ける笑顔を味わいに行ってもらいたいと願う。

ひと夏の忘れ物 足摺岬

ひと夏の忘れ物 足摺岬で泊まりたい宿・TheMana Village(ザマナヴィレッジ)

ひと夏の忘れもの 竜串海岸、大堂海岸、柏島の碧い海


今年も残すところあとひと月余。この一年もコロナ自粛の間隙を縫って、残り少ない余生、思い残すことのないようにと数多旅へでた。

旅に出かけてもどっては次の計画を練ってまた旅先へ移動と忙しく、まだお薦めしたい旅行先や泊まってみたい宿などブログ掲載が間に合っていないのが不甲斐ない。

白骨温泉・湯元斎藤旅館
今年4月に訪れた白骨温泉・湯元斎藤旅館
そこでまず、ぜひ訪ねてみてほしい高知県南西部、四国最南端の足摺岬と大堂海岸など土佐清水ジオパークの壮大な自然の景観をトップバッターとしてご紹介したい。

海上から大堂海岸をみる
海上から大堂海岸を探訪
季節は8月21日から23日にかけての二泊三日の夏旅である。

高松市内にある細君の実家が常々、わたしの四国探訪の橋頭保となっている。義父母も既に鬼籍に入り、時々の法要と風通しのため年に数度の高松行きであるが、四国を知れば知るほどその歴史と自然の景観の奥深さに驚かされている。

そもそも2021年3月30日に5年半に及ぶ四国88ヶ所の霊場めぐりを終え、車遍路ではあったが四国一周を果たしている。

女体山と第88番札所・大窪寺本堂
88番札所・大窪寺
88番札所の讃岐・大窪寺から反時計回りに1番札所の阿波・霊山寺(りょうぜんじ)まで巡礼するいわゆる「逆打ち」をおこなった。

一番札所霊山寺
1番札所霊山寺
途中、式内社を中心に神社や名所旧跡、温泉を訪ねながらのぶらり遍路旅であったが、まだまだ四国の魅力を味わい尽くすまでには至っていない。

高野山 満願成就御朱印
満願成就の高野山奥の院の御朱印
そこで、この8月は仁淀川の透き通るような仁淀ブルーを鑑賞したいと計画を立てたのだが、至近の宿、「中津渓谷ゆの森」の予約が満杯で、急遽、予定を変更、遍路旅の際に雨に見舞われ突端まで足をのばせなかった足摺岬に再チャレンジしようとなった。

ついでに細君が20歳のころ訪れた足摺岬の西方、大堂海岸の懸崖の景観をもう一度見てみたいということになり、此度は海上から仰ぎ見ようと計画を練った。

そのため、一泊目は土佐清水市足摺岬の「TheMana Village(ザマナヴィレッジ)」を、二泊目は幡多郡大月町の「ベルリーフ大月」を予約した。

ザマナヴィレッジ
TheMana Village(ザマナヴィレッジ)
一日目は高松市内を9時に出立、四国横断自動車道と高知自動車道を経由、途中、道の駅「かわうその里すさき」でランチ休憩。

金剛福寺 本堂と大師堂
金剛福寺の本堂と大師堂
午後2時過ぎに第38番札所金剛福寺前の足摺岬駐車場に車をとめた。

お参りのまえに前回、雨で断念せざるを得なかった足摺岬の突端へとまずは向かった。

細君に云わせるとここは2月が椿の花がきれいなのだというが、その日は8月21日。

つばきロード
足摺岬へ椿のトンネルをくぐってゆく
赤い花を想像しながら「つばきのトンネル」をくぐり、岬の突端の見晴らし台へと急いだ。

思いのほか狭い足摺岬の見晴らし台
思いのほか狭い見晴らし台
実は半世紀前、わたしは社会人としてのスタートを高松の地で3年間過ごした。その間独身寮の先輩たちと確かに足摺岬を訪ねている。そのはずなのだがなぜか見晴らし台からの雄大であったであろう景色の記憶は寸毫も脳味噌の襞に刻まれていない。

夏の大海原
足摺岬からみる太平洋
今度こそ渺渺たる太平洋の醍醐味をこの目にしっかり焼き付けてこようと思った。幸いかな当日は絵にかいたような真夏の晴天である。


夏の陽光にきらめく太平洋
夏の陽光にかがやく海原
駐車場からつばきトンネルを抜けてほんの数分で突端の見晴らし台へ到着。

足摺岬見晴らし台
途中に白い灯台があった。

⓪足摺岬灯台
足摺岬灯台
南国の蘇鉄を随えて真っ青な夏空にニョキッと伸びた灯台は美しい。

宏大な太平洋を睥睨するには、思いのほか狭い見晴らし台であった。

⓪足摺岬から
拡がる大洋
ただ、目の前に広がるどこまでも碧いパノラマは、まさに大海原という言葉がぴったりの胸のすくような眺めであった。

一望千里、海と空の境に一気に引かれた水平線がいさぎよい。

見晴らし台から太平洋の大海原を
真一文字
遮るものがなにもない、真一文字がすがすがしい。

その真一文字の頭上にのびやかに浮遊する白い雲。


夏の強い日差しのなか頬を打つ海風が殊の外心地よい。

胸一杯に遥か波浪をこえてきた潮風を吸い込む。

肺のすみずみまで仄かな塩気が染みわたったようで身がきりりと引き締まった。

足摺岬の海とキスゲ
キスゲ科の黄色い花がターコイズブルーの海に映える
そして一転、眼下をのぞき込むと陽光をすいこんでトルコ石のように青緑色に透けた海面に絶壁に咲くキスゲ科の黄色い花が鮮やかに映えて、美しい。

そう、遠いあの日も海風が崖下から吹き上げてきて火照った顔を弄(なぶ)っていった・・・そんな半世紀前に覚えた感覚がよみがえってきた・・・。

大堂海岸
飛沫を浴びた大堂海岸
この日、わたしは四国最南端の岬の突端に立ち、20代のころ置き忘れてきた探し物をようやく見つけだし記憶の棚にそっと納めることができた、そんなおだやかな思いにとらわれたのである。

「ミクニ伊豆高原」でランチが最高!!

伊豆半島最後の日のランチは知人が予約してくれた「ミクニ伊豆高原」で愉しんだ。

ミクニ伊豆高原
ミクニ伊豆高原
ミクニは、建築家・隈研吾氏と〈オテル・ドゥ・ミクニ〉三國清三氏のプロデュースで2019年に開業したレストランで、伊豆急行の伊豆高原駅前の小高い丘の上に建っている。

ミクニへの入口階段 右手は本日のメニュー
駅前のこの階段がミクニ伊豆高原入口
一部高床式になっている平屋建ての建物の外周は全面ガラス張りになっており、いたって開放的なレストランである。

ミクニ伊豆高原からの眺望
ガラス張が開放的 相模湾を一望
そんな館内には伊豆の紺碧の海から照りかえすまばゆい光の粒が縦横に飛び交い、まるで真っ白な世界に身をゆだねている気分だ。

コーナー席見晴らしがよい
コーナー席は眺望がすばらしい
またガラス越しにみえるテラス席はヒノキの木組み天井とそれを貫くように樹つ一本の松が印象的で、伊豆の軽やかな海風が吹き抜けているのが目に見えるようだ。

テラス席もありました
テラス席
当日はランチメニューの老夫婦向きの適度な量の「伊豆の輝き」(,655円)をオーダーしていた。

最初が、アミューズ (フレンチは難しい・・・) 鯵?の南蛮漬けか、もっと洒落た言葉で紹介されたが、覚えていない。

アミューズ 南蛮漬け
南蛮漬け・・・
次に、ポークのリングイッサ(生ソーセージ)・白いんげん豆のフェイジョアーダ

ポークの生ソーセージ・白いんげん豆のフェイジョアーダ
次の皿・・・
メインはお肉と魚のどちらかということで、わたしは魚料理を頼んだ。

鮮魚の炭火焼き ナージュ仕立て・ナス ズッキーニのグリエ・海老のラビオリ添え・・・これはメニューに書いてあったから・・・

メイン 鮮魚の炭火焼き・海老のラビオリ添え
メイン 魚料理

最後にデザートである。

⓪デザート 
年寄りにとってSimple is bestは至言である。

グリーンピースのソルベ・ルバーブのジュレ・柑橘とショコラのムースであったが、おいしかった。

ミクニ伊豆高原 外観
開放的なミクニ
広々とした館内で、厨房も見通しがきき、伊豆の陽光はどこまでも肌に心地よい。

愉快な仲間とうまい料理と笑顔のこぼれる談笑・・・

こうして伊豆高原の旅はおわった。

家族連れで行きたい赤沢温泉ホテル スパ・リゾート「赤沢温泉郷」

伊豆半島二日目の宿は知人の別荘から坂を下った海岸線に広がる伊豆高原のスパ・リゾート「赤沢温泉郷」のなかにある赤沢温泉ホテルである。

伊豆赤沢温泉ホテル
赤沢温泉ホテル エントランス
コロナ禍の影響で対面で談笑するのはほぼ三年ぶりとあって、互いの近況につき語り合うのが主たる目的であった。そのためホテル内の滞在時間がほとんどなく、スパ・リゾート赤沢温泉郷を味わい尽くすことができなかったのは残念であった。

ホテルエントランス
エントランス
ここにはスパ・エステ&マッサージ、プールハウス、ボーリング、テニスコート、フィットネスと多様な施設がそろっている。一泊ではもったいない機能が充実していて、そして、家族連れでにぎやかにやってくるのにふさわしい、そんなリゾートであるといえる。

ホテルから赤沢港をのぞむ
ホテルラウンジから赤沢漁港と別荘地を望む
またその広大なリゾート施設のなかには「赤沢迎賓館」なる豪勢な宿も併設されており、大人だけの財布に余裕のある方はそちらに宿をとって贅沢なリゾートライフを満喫することもできる。

といったホテル紹介はこれくらいにして、当方はというとその日は知人宅で話に花が咲き、また、広い庭に植わる果樹や野菜をもぎとったりと時間はあっという間に過ぎた。

伊豆赤沢・恒陽台別荘地 赤沢温泉ホテルから
伊豆高原の別荘群
そこで夕食は手間を省き赤沢温泉郷内にあるホテル横に建つ「ビストロ赤沢伊豆高原」でとることにした。飽くまでも会話が何物にも代えがたい馳走であったからである。

ということで、われわれはホテルは夕食無しの朝食付き一泊の予約をとっていた。

赤沢温泉ホテル・朝食ビュツフェスタイル
朝食・ビュッフェ形式
ビストロではアラカルトで確かピザやソーセージの盛り合わせなど何皿か注文したのだが、話に夢中となっていたので店内や料理の写真はただの一枚も撮っていない。

これまでの旅で食事の写真を撮影していないのは初めての経験であったと思う。

それほどにおしゃべりに夢中になっていたのだと思う・・・

このコロナの三年間、LINEの映像越しに何度か会話していたのだが、人という生き物は、どうも社会や他人との関わりのなかで異質で多様な事象・意識とぶつかりあうことで脳内細胞が活性化し、東京のミドリの狸ではないが自分の思考・意識を“アウフヘーベン”させることで知力をステップアップしていく生物なのだと、改めてそう感じたところである。

まぁ、そんな小難しいことは脇に置いて、互いに七〇歳という大きな節目を思い思いに超えて、それぞれ人生について深く思う日々が増えた仲間と語り合える時間はとても貴重であり、殊の外、愉しかったのである。

そしてそうした時間はあっという間に過ぎ去り、この伊豆の夜は更けていった。

その翌朝、好天に恵まれ、ホテルの部屋からは伊豆七島がよく見えた。

利島の島影とタンカー
神津島の島影とコンテナ船
前日は雲がやや多く午後ということもあり、高台にある知人宅からでもはっきりと島影を見渡すことができず残念な思いをしたばかりであった。

左利島  右 新島
左 利島 右 新島
それが伊豆半島最後の朝、こんな贅沢な景色を拝めたことは日頃の細君を含めた人生の仲間が積み重ねてきた功徳のお陰であると満腔からの感謝の気持ちでいっぱいとなった。

ホテルから新島の島影をみる
新島
そして伊豆半島最後のランチは別荘族の通う「ミクニ伊豆高原」である。楽しみである。

伊豆長岡温泉 若い女性客に手頃なお宿・香湯楼(こうゆろう)井川

その日最後の予定地、「鎌倉殿の13人」ゆかりの願成就院が、定休日の北條寺につづき、こちらは拝観受付が午後3時半までとのことで、われわれが4時過ぎに山門をくぐったときには国宝の阿弥陀如来坐像の安置された大御堂や宝物館は閉鎖され、境内の北条時政公の墓所のみをお詣りするにとどまった。

当夜はそこから10分ほどの伊豆長岡温泉の「香湯楼(こうゆろう)井川」を予約していた。

⓪井川・エントランス
香湯楼井川の玄関
HPから探し出したのだが、立地と宿泊料のお手頃感を第一に選考基準として選んだ。

加えて「香湯楼井川」に関しては、百年の歴史を誇る宿で「五感で楽しむゆらぎ」を謳うお洒落なHPから勝手に重厚ななかにも洗練された外観イメージを膨らませて選んだのも事実である。

その井川に到着してみると、いわゆるホテルかちょっとしたマンションのような外観で、正直、失望の感は否めなかった。

エントランス
モダンな椅子やオブジェが置かれたエントランス 
また中へ入ると、薄暗い空間にレセプションと洒落たラウンジが広がっていた。

百年の歴史の重厚さというのではなく、その対極にある現代アート造りのようなエントランスである。

アロマがひとつのコンセプトなので、空間をこのように落ち着いた薄暗い照明とほのかに薫るお香によって演出しているのだろう。

エントランス・ラウンジ
落ち着いたラウンジ
割り切って考えれば、こうしたリニューアルとアロマといったサービスがいまの若い人々にはふさわしいのかもしれないと思い直した。

チェックインをすませ、5Fのハリウッドツインルームへと向かう。

5F ハリウッド・ツインルーム40
40屬旅さのハリウッドツイン
広い畳敷きの部屋に大きなツインベッドが置かれていた。

ゆったりとした部屋で気持ちが良い。

井川・部屋から
5階から長岡温泉郷をみる
レセプションで貸切露天風呂を進められたので、夕食前に温泉を愉しむことにした。

この露天風呂は想像を超えて随分お洒落にできていた。

ドリンクでくつろげる貸切風呂
お洒落な貸切露天風呂
間取りはと説明するのも妙ではあるが、ここの脱衣所というのがいわゆる「次の間」といった感じで、板敷きの室内に白い二人掛けのソファが置かれ、広い窓越しに檜造りの木枠で縁取りされた露天風呂が見える。

井川 貸切露天風呂
お湯は熱くでも肌にやさしい・・・
ソファの前には氷の入ったボトルクーラーのなかに瓶ビールとミネラルウォーターが用意されていた。

まずは伊豆長岡温泉の源泉につかることにした。

さすがに「美人の湯」と称される井川の湯は肌にやさしく気持ちが良かった。

その証拠に、細君もちょびっと女っぷりがあがったと、報告しておこう。

こうした坪庭を眺めながらの露天というのも気持ちが落ち着きなかなか乙なものだと感じ入った。

そして湯浴みののちに冷えたドリンクでのどを潤したが、少々難を言えば貸切時間が一時間ということで、湯上りのボ〜ッとした時間があわただしく足りなかったのがもったいなかった。

雰囲気作りはなかなか秀逸であったので、もう一つ二つ、貸切露天風呂の数を増やして、もう少し利用時間を増やしてくれたら、香湯楼井川の大きな「売り」になると思った。


そして、いよいよ夕食である。

当夜のメニューは次の通りである。

食前酒 山桃酒

夏の彩り前菜 アサリのオイル煮・彩り野菜・鮭・バゲット

夏の彩り前菜 アサリのオイル煮・彩り野菜・鮭・バゲット
オードブル
コンソメ餡の茶わん蒸し

コンソメ餡の茶わん蒸し
茶わん蒸し
刺身4種 鮪・鯛・カンパチ・桜エビ

⓪刺身 鮪・鯛・カンパチ・桜エビ
地元の刺身
キンメダイの香草焼き

キンメダイの香草焼き
金目鯛の香草焼き
寿司 鰻棒寿司・パプリカ・井川ロール

寿司 鰻棒寿司・パプリカ・井川ロール
変わり種のお鮨
ビーフシチューパイ包

ビーフシチューパイ包
中身はビーフシチュー
トマト・チーズのハーブガーデン鍋

トマト・チーズのハーブガーデン鍋
これはヘルシー鍋
ハーブ塩鰹茶漬け

ハーブ塩鰹茶漬けのトッピング  ハーブ塩鰹茶漬けのトッピング
これをご飯にのせてお湯をかける
写真からわかるように野菜やハーブを多用したヘルシーメニューで、色使いなどちょっとお洒落感も演出して若い女性方が喜ぶ料理なのではと感じた。

さらにデザートが別途ラウンジに用意されており、これは食べ放題ということでこれも女性陣には好評のようであった。

デザートはラウンンジで食べ放題
だいぶ品数も減っていたラウンジに用意されたデザート
若いカップルがこれもよいあれも食べてみたいとじゃれあっている姿をみていると、年寄りも「そうそんな時代が自分たちにもあったなぁ」と自然と顔がほころんでくる。

そして旅は仲間内だけで愉しむのではなく、周りの人たちが喜び楽しむさまを眺めることで、その幸せ感が伝染してくる、そんな心豊かな気持ちになるのがいいのだなぁとあらためて実感させられた香湯楼井川のひと時であった。

その夜は広いベッドに潜りこむや二人とも瞬時にして完落ちしたのはいうまでもない。

「鎌倉殿の13人」ゆかりの地 蛭ケ小島・北条氏邸跡・願成就院・北條寺を巡る

先の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」ゆかりの地めぐり湯河原真鶴編につづき、その翌週、日を改めて二泊三日の「鎌倉殿の13人」ゆかりの地めぐり第二弾を決行。

この旅の主たる目的は伊豆高原の別荘で月のほぼ半分近くを過ごす旧知のご夫妻を訪ねるものであった。

伊豆高原の別荘地
伊豆高原の別荘地
ただ、せっかくの伊豆半島の旅である。

好奇心旺盛といおうか、貧乏性の古希・古希夫婦である。

今日、伊豆といえばもちろん「鎌倉殿の13人」。

ということで頼朝や鎌倉執権の北条氏ゆかりの史蹟巡りもかねてのんびり参ろうと計画を立てた。

そこで、一日目は伊豆長岡温泉の「香湯楼(こうゆろう)井川」を予約した。

香湯楼井川エントランス
香湯楼井川のエントランス
まず、頼朝流刑の地、「蛭ケ小島」は見ておかねばなるまいと、最初に向かった。蛭ケ島のあたりはいまは田園の広がる平坦地であるが、鎌倉の頃は狩野川の蛇行も今とは大きく異なり、このあたりを流れ、中洲がそこここにあったようである。

⓪蛭ケ島公園
蛭ケ島公園
その故、「島」のつく地名も多く残っているのだという。

もちろん頼朝もそうした中洲のひとつに流人として囲われていたのだと思う。

その蛭ケ小島の位置は正確には分かっていないとのことだが、江戸時代の郷土史家・秋山富南が推定した地(現在の蛭ケ島公園)を韮山代官の江川英毅が購入し、「蛭ヶ小島」の碑を建立させたのが始まりだという。

蛭ケ島碑 寛政年間建立
蛭ケ島碑
現在野公園中央にその石碑が建っている。

また、平成15年に富士山を望んで立つ頼朝・政子の「蛭が島の夫婦」像が建立されている。

頼朝・政子夫婦像
源頼朝・政子夫婦像
往時を偲ぶ縁をこの公園内に見つけることなどもちろん無理な話だが、八百数十年前、源頼朝が確かに北面に日本一の山、富士山を日々仰ぎ見たであろうことは確かである。

頼朝像から望む 富士山は雲のなか
富士山は雲のなかだった
そして臥薪嘗胆の末か、それともそんな大望などなくただ運命の糸に引き寄せられるようにしてか、歴史の大舞台にその身をさらすことになり、日本一の男となった。

蛭ケ小島はそんなことを想起させる悠揚たる風のわたる宏闊な土地であった。

そこから「鎌倉殿の13人」とは無縁であるが、頼朝が興した武家政権の終焉の頃、攘夷擾乱の幕末に外敵排除のため大砲製造を目的として建造された世界遺産明治日本の産業革命遺産・韮山反射炉が至近であったので見学した。

韮山反射炉
韮山反射炉
さらに建造者の韮山代官であった江川英龍の屋敷も拝観した。

江川邸・門から大玄関をみる
江川邸屋敷門と奥に大玄関
いわば武士の時代という大河の流れの入口と出口がここ伊豆半島の根っこ近くにあるというのも、不思議な気がしたものである。

そこから標高100mほどの小さな山、守山の北西側の谷戸(やと)にある北条氏邸跡へと向かった。

30年ほど前に発掘調査され、この地が平安時代から住みついた北条一族の館跡であることが確認されたという。

北条氏邸跡入口
北条氏邸跡入口
その館群の規模はまことに狭隘で、北条氏が頼朝という取るに足らぬ流人を押し立てて大博打に打って出た田舎者の武士団であったのだと納得させる景観であった。

アナログバーチャル 往時の北条館群
こういう風に館群があった 発掘遺跡
負けてもともと頼朝の首を差し出し、尻尾を巻いて一族もろとももっと北方へと逃げ出せばよいくらいに思えるほどの貧相な地味(ちみ)であった。

北条館があった一帯
この狭い谷に北条氏が居を構えていた
そんな田舎者の北条氏がパトロンとなって築いた鎌倉文化が質実剛健であったというのも、このやぼったい景観を目にして妙に得心したところである。

この狭い一帯に北条氏の館が建っていた
遺跡がこの下に埋まっている
その守山の東側の麓に北条時政が造営した願成就院がある。

願成就院 山門
願成就院・山門から奥に大御堂
簡素で気負いのない山門をくぐると少し右に屈曲した石畳の先に大御堂が見える。

願成就院・大御堂
大御堂
その大御堂には、「鎌倉殿の13人」で仏師・運慶が掘り出す場面が描かれていた阿弥陀如来坐像が時を超えて現在国宝に指定され、祀られている。

願成就院・阿弥陀如来坐像
阿弥陀如来坐像・絵葉書より
薄暗い堂内で対面するご本尊は全体的にふくよかなお姿で、穏やかなお顔立ちをされていた。

大御堂に至る参道途中、大きな石燈籠手前の細道を左に入ると、茅葺の本堂が建っている。ただし内部の拝観はできない。

願成就院・本堂
願成就院・本堂
また山門から近い六地蔵堂前を左折すると、鐘楼前に創建者である北条時政公の墓所がある。

北条時政公墓所
北条時政公の墓所
角の取れた細身の五重塔のようなお墓である。その質朴な印象は大河ドラマで描かれる権謀術数を弄する人物の墓とはどうにもそぐわなかった。

時政墓 願成就院
時政公の墓石
でっぷりとした短躯の五輪塔のほうが、そうした奸智に長けた男には似つかわしい気がした。坂東彌十郎さん、ゴメン!

そして最後に控えしが、「鎌倉殿の13人」の主役、小栗旬演じる北条義時が創建した北條寺である。

北條寺御朱印
北條寺御朱印
実は前日に参拝しようと立ち寄ったのだが、山門前に「水曜日定休日 境内立入禁止」の立て札。

定休日の立て札
定休日の立て札
お寺にまさか世俗的な定休日なるものがあるとは正直驚いた。

だが大河ドラマの主役ともなるとそう簡単にはお会いできぬものだと妙に納得したところでもあった。

そういう事情で翌日改めて北條寺を詣でた。

北條寺・山門
北條寺山門
願成就院にくらべると小ぶりのお寺で、本堂もコンクリート造りになっていた。

巨徳山北條寺・本堂
北條寺本堂
本堂左手に広がる墓地を抜けると小四郎山と呼ばれる小高い丘がある。

小四郎山の頂上に北条義時夫妻の墓
ここを登ってゆくと義時公夫妻の墓所
その丘を斜面に沿って登って数分、頂上の平坦地に北条義時夫妻の墓が立っている。

⓪北条義時夫妻の墓
北条義時公夫妻の墓
二基の墓石の右手が義時、左手が怪演の光る菊地凛子扮する“のえ(伊賀の方)”のお墓だという。

北条義時夫妻の墓 右 義時 左 伊賀の方
右が義時 左が伊賀の方
新垣結衣演ずる八重姫ではなくて残念・・・って・・・菊池さんに失礼か。

伊賀の方の墓が現代まで義時に寄り添うように立ち続け、大切に供養されてきた丘上の様子からは、藤原定家の「明月記」に云う「伊賀の方が義時に毒を盛った」(安貞元年6月11日条)とのおぞましい風説は俄かに信じ

がたい。

今後の三谷幸喜氏のシナリオは如何に? 興味は尽きない。

そんなことを考えながら小四郎山から狩野川の先、蛭ケ小島の方向を見渡した。

小四郎山から蛭ケ小島方向をみる
小四郎山から
そしてこんな狭隘な地から七百年におよぶ武士の時代が誕生したのだと、歴史の群像が眼下に蠢くさまを想い描きながら、ゆっくりと石段を下り、当日の宿、伊豆長岡温泉の香湯楼(こうゆろう)井川へと向かった。

「鎌倉殿の13人」土肥実平ゆかりの地・湯河原町をめぐる

素晴らしいフレンチを堪能したラクラッセ・ドゥ・シェネガをチェックアウトし、まず4kmほど西に位置する五所神社(足柄下郡湯河原町宮下359−1)へ向かう。

五所神社鳥居から拝殿
五所神社
当社は天智天皇の時代に土肥郷の総鎮守として創建され、伊豆国で挙兵した源頼朝が石橋山へ出陣する前夜、社前において戦勝祈願の護摩を焚いた神社である。

五所神社石段の上に拝殿
石段の上に社殿
当日は平日であるにもかかわらず境内には参拝客が絶えることがなかった。
茅の輪くぐり 五所神社拝殿
茅の輪めぐり 拝殿
そのなかに地元の方だろう境内に散らばる七福神をお詣りする人もおり、今でも篤い崇敬を受けていることがわかる。

七福神廻り 大黒様
七福神巡り 大黒様
そこから今度は東に転じて1kmほどの湯河原駅へと向かった。

JR湯河原駅
JR湯河原駅
源平時代の頃、土肥郷(現在の湯河原町、真鶴町)を支配していた豪族が、頼朝挙兵に参陣して以来、平家討伐や奥州征伐に活躍した土肥実平であった。

湯河原駅前に建つ土肥実平夫婦像
湯河原駅前に建つ土肥実平夫婦像
湯河原駅前にはその土肥実平夫妻像と土肥氏館跡碑が建っている。

土肥氏館跡の石碑
土肥一族の館跡石碑
実平の妻女は石橋山の戦いで大敗した頼朝を真鶴から安房へ逃亡する際に、食糧の差入れや大庭景親手勢の探索の様子を知らせるなどの働きをしたのだそうで、駅前に夫婦像が建つのもそうした逸話に基づいたものであるという。


そして駅のすぐ北側傾斜地には土肥一族の菩提寺である城願寺(足柄郡湯河原町城堀252)が建っている。

城願寺本堂
城願寺本堂
城願寺の境内奥に広がる墓地に新しい墓石群と隔絶するかのようにして隈の暗がりの一段の高みに、古びた墓石が集まる一画があった。

高台に土肥一族の墓所
土肥一族の墓所
そこが64基の墓が鎮まる土肥一族の安息の場所となっている。

土肥一族64基の墓石が建つ
古い墓石がならんでいる
その中央部分に建つ五輪塔が実平の墓であると伝えられている。

実平中央、左に実平の妻、右が遠平とその妻の供養塔
土肥実平の墓 中央供花のある五輪塔
その左が妻女のお墓だそうだ。

右手が謡曲「七騎落ち」で有名な実平の嫡男・土肥遠平(とおへい)の墓だと伝わる。

この身を寄せるようにして64基もの墓石が集まり、いまなおその墓前に花が手向けられているのを目にすると、実平やその妻女が実直で人望が厚く信義の人であったに違いないと感じたものである。

質朴な人柄を後の世までも慕いつづける、そのことをまた忘れずに孫子の代に引き継いでゆく心根の優しさを想い、とても心鎮まる墓地であった。

その奥津城の高みから振り返るとすぐそこに相模湾を見下ろすことができた。

土肥一族の墓所からは相模湾が一望
そこに相模湾がみえる
また境内にはいろいろと頼朝や実平にまつわる史跡がある。

能・「七騎落」の舞台は前日に訪れた岩海岸である。

簡単なあらすじは安房の国上総へ逃れんと乗船しようとした頼朝主従八騎が、八という数字が源氏にとって不吉な数字であるとして(頼朝の父義朝が落ち延び落命した時、主従八騎・祖父為義が九州落ちの時も八騎)、一人を下船させることとなる。その結果、実平の息子遠平が泣く泣く浜に取り残される。和田義盛が遠平を拾い、頼朝一行に合流、無事、安房へ逃げおおせることになるという譚である。謡曲でも名高い譚だという。

七騎堂 岩海岸を出た頼朝主従七人を祀る
七騎堂
その七騎を祀っているのが、境内にある七騎堂である。

また本堂の前に謂れを伝える石が置いてある。

ひとつは頼朝が腰かけた石である。前日の貴船神社の頼朝腰掛石といい、この大将、行く先々でよっこらしょとよくよく腰を降ろしていたと見える。

伝 頼朝腰掛石
頼朝の腰掛石
そして、土肥実平が腰かけた石もすぐ傍らにあった。

伝 実平腰掛石
実平の腰掛石
仲良く腰かけて、はてさて安房国へ渡った後の算段でも語り合ってでもいたのだろうか。


そこから城願寺をあとにして西へ向かって、五郎神社(足柄下郡湯河原町鍛治屋724-2)を目指した。

五郎神社 鳥居から
五郎神社 鳥居奥に拝殿がみえる
石橋山の戦いに敗れて土肥郷に逃れた源頼朝が陣を張ったという鍛冶屋に鎮座する社である。

先の五所神社とくらべるとずいぶんと簡素な神社である。

五郎神社の拝殿
小さな拝殿
「鎌倉殿13人」が放映されているのだから頼朝とのゆかりの説明のひと言くらい境内のどこかに説明板がないかと探したが、見事なまでに何もなかった。
頼朝はさぞ命からがら逃げてきたのだから、ここにこそ「頼朝の腰掛石」があってもよさそうだが、その欠片もなかった。

五郎神社と灯籠
誰もいない、何の説明もない五郎神社境内
これはこれで清々しい神社であると感じた。

もちろん、参拝客も我々夫婦二人きりであった。

こうして湯河原真鶴岬めぐりはまず当所を最後とし、翌週、再度、蛭が小島や北条寺などを訪ねようとこの日は帰京の途に着くことにした。

湯河原 ラクラッセ・ドゥ・シェネガで見た白日夢

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を観ていて真鶴岬、伊豆半島へ行ってみたいと突然思いたち、ネットで探して公式HPから予約を入れたのが「湯河原ラクラッセ・ドゥ・シェネガ」という舌を噛みそうで、やたら覚えにくい名前のホテルであった。

ホテル ラクラッセ・ドゥ・セネガ
ラクラッセ・ドゥ・シェネガ
予約の決め手はおいしそうなフレンチ料理の写真であった。食いしん坊のわたしにとってそれはとても大事な宿選択の決め手である。

ということで、当日、真鶴岬に点在する源頼朝や鎌倉武士ゆかりの地をめぐって、午後3時半過ぎにホテルへ辿り着いた。

石造りの外観はやや黒ずんだ箇所があるものの、その曲線の造形と門前の椰子の樹はまさに南欧のリゾートホテル、たぶん・・・

コートダジュールあたりにはこんな小洒落た建物があふれかえっているに違いないとイメージしたのである。Never been なのだから想像するのは勝手である・・・

実際にホテル前の通りの先には地中海ならぬ相模湾が覗いていた。

相模湾はすぐそこ
確かに相模湾が見える
そして、眼前の電柱とおびただしい電線、カーブミラーにガードレールといった猥雑な障害物を取り除いてみれば、そこにはキラキラと陽光に照り映える群青の海原が瞼の内に広がっていく・・・南欧・・・南仏プロヴァンス・・・

想像の翼はどこまでもひろがってゆく

ラクラッセ・ドゥ・シェネガの入口
ここから入車
そして地下1階にあたる車寄せからどことなく小洒落たエントランスへ・・・

ラクラッセ・ドゥ・シェネガ エントランス車寄せ
ホテル入館の扉(ここが地下1階にあたる)
木製のドアを開けると・・・正面に南欧のホテルにはきっとあるに違いない優雅な曲線を描くサーキュラー階段が待ち受けていた。

エントランス
これはプロヴァンスのプチホテル
わたしは勇躍、期待に胸膨らませて1階のレセプションへとむかった。

温もりを感じさせるレセプション
レセプション 壁にはたくさんの絵画
木造りのぬくもりに満ちたレセプションの前がラウンジになっていた。

館内にはフランスの画家ルイ・イカールのアンニュイただよう絵画が数多く飾られ、この雰囲気は若い女性やカップルには最高なのだろうなと思ったりした。

さて、広い窓の向こうに水色の水が張られたガーデンプールが見えた。

ラウンジからガーデンプールを見る
ラウンジからガーデンプール、相模湾がみえる
そしてプールサイドに咲く赤紫色のブーゲンビリアが相模湾の海原をバックに映える・・・

ガーデンプール
ガーデンプールとブーゲンビリアと夏空
これが最近、若い娘たちがしばしば口の端にのせる“バエ、バエ”、“映えスポット”というのじゃなかろうか?

ラウンジからガーデンプールを
右手に伊豆半島が見える
・・・てな気分で脳内はう〜ん・・・ニースのプチホテル・・・

気分はアゲ!アゲ!・・・多分、これって死語・・・そしてチェックインをすませて3階のツインルームへと向かう。

オーシャンビュー ツイン
3階のオーシャンビューのツインルーム
室内に入るとオーシャンビューの窓際には長椅子が置かれ、ゆったりとした空間が演出されている。

レースカーテンに透けて小さなバルコニーが見える。

カーテンをあけて窓を開放するとプロヴァンスの白い太陽の光がまばゆい。

バルコニーから初島と伊豆半島を見る
バルコニーに夏の白い陽光がふりそそぐ・・・
しかもバルコニーに何気なく置かれた二脚の真っ白な椅子がふるっている。

室内から相模湾を一望
二脚の白い椅子
これはもう洋画「太陽がいっぱい」の世界である・・・

なにせ太陽がいっぱいなのである!!

ガーデンプールと円型レストラン
バルコニーから陽光に照らされたアクアブルーのプールを・・
真下にはブーゲンビリアが咲き誇るアクアブルーのガーデンプール、そして石造りの円形レストランが見下ろせる。

映画の舞台はナポリとかイタリアだったような気もするが、それはそれ、脳内はコートダジュールである・・・

レストランと湯河原の町
ナポリならぬ湯河原の町が見える
長椅子に寝そべる細君はさしずめマリー・ラフォレ・・・

バルコニーの真っ白な椅子に坐っているのは、何を隠そう、アランドロン・・・

いやはや妄想は海原の涯てをつきぬけて水平線から夏空へと飛揚してゆく・・・

室内から初島と伊豆半島を一望
すばらしい眺望 右に伊豆半島 正面に初島が・・・ 

正気に返って・・・やっぱり・・・目の前には青い海が広がっている・・・

相模湾のとおくに伊豆半島の山並み
うつくしい・・・
う〜ん、やはり・・・ここはコートダジュールいやニースだ!! NEVER BEEN TO・・・

そしてはるか遠くに地中海に浮かぶ島影が見えている・・・

そんな白日夢をみせてくれるラクラッセ・ドゥ・シェネガはまさに大人のホテルである。

フランス語で灯台を意味する“Le Phare(ル・ファール)”が当夜のディナーをいただくレストランである。

Le Phare(ル・ファール)
レストラン“Le Phare(ル・ファール)
当夜のメニューは次の通り。

ディナーメニュー
メニュー
そのスターターに本日のシェフからの「ひと口小皿」ですと差し出されたのが、驚愕の一品料理。

駿河湾朝どり鯵のエクレア
鯵のエクレア?
「相模湾で当日採れた鯵のエクレア」というではないか。

誰でもそんな料理・・・生臭さとチョコレート“鯵”ならぬ“味”は想像できない。

おそるおそる口に入れてみる。

本日のシェフのひと品 駿河湾鯵のエクレア
イケル!!
鯵というより白身魚のような味にカカオの苦味がうまくまざった、イケル!!これは表彰物の一品である。

このサプライズで一挙にディナーへの期待が膨らんだのはいうまでもない。

すばらしい演出である。

それからきれいにデコレートされたオードブル・・・「伊豆天城産軍鶏プレステリーヌと赤パプリカムースとビーツジャム」がはこばれてきた。

オードブル
オードブル
次に魚料理の「鮎コンフィとラビゴットソースのフェンネル風味」

鮎コンフィとラビゴットソースのフェンネル風味
鮎のコンフィ
夏本番前の鮎、塩焼きだけが鮎じゃないと知らせる一品、おいしかった。

このあとにメニューにはない箸休めなるこれまた遊び心の一品が供された。

箸休め お稲荷さん
ソーセージ?
目の前の包みを開けて・・・エッ!! えぇえぇ〜!!なのである。

フレンチの箸休めが・・・お稲荷さんだなんて・・・

お稲荷さん
シンプルなおいなりさん
Le Phare(ル・ファール)”のシェフはお客を驚かし小躍りさせる名人であると彦左は喝破した、お見事!!のひと言である。

その興奮冷めやらぬなかお肉料理がやってきた。「黒毛和牛静岡育ちフィレ肉にグリル夏野菜と生姜香る仔牛のジュ」である。

肉料理
フィレ肉料理
もちろんお肉はやわらかく量もほどほどで助かった。

当日は繁忙期直前ということもあって、ほかに一組のみのお客であったのでゆったりとした雰囲気のなかで心落ち着く食事が愉しめた。

また宴たけなわの頃、ハッピーバースデイのメロディーがピアノから流れてきた。もう一組のお客さまの誕生日なのだろう。

もちろんアランドロンとマリー・ラフォレは惜しみない祝福の拍手をおくった。

そして・・・「ショコラムースとメロンのゼリーに紫陽花仕立てヨーグルトのソルベ」なる長〜い名前のデザートが供され・・・

デザート
デザート
南欧のフレンチの宴はしずかに終焉を迎えた。フレンチのしつこさをおさえたとても上品な味付けと適度な量にわれわれは満足!

ディナー前に
雰囲気、最高です
くわえてスタッフのスマートなおもてなしに・・・Merci beaucoup(メルシー・僕!!)と叫んだのはご愛敬である。

ところでラクラッセ・ドゥ・シェネガには2019年にできた温泉もある。

ここは湯河原である、温泉がなければと・・・ここはドロンも日本人・・・

この日の男湯はわたしの貸し切りであった。

ゆったりと温泉につかり、ミストサウナなる変わったサウナにも入り?至福のひと時を愉しんだ。

そしてベッドにはいるともう夢見心地。

翌朝の朝焼けも素晴らしかった・・・

相模湾の朝焼け 初島の先に大島が見える
大島も見える朝のバルコニー
・・・と、細君が写真を見せてくれた・・・

早朝の大気のなか遠くまで視界がひろがり、初島の先、大島の島影が見えた・・・

・・・と、話してくれた。

もちろん私だって夢の中で地中海に浮かぶ島影をいくつも見ていたのだが、その話は宝物なので、細君にも話はしてあげていない。

気分は南欧
まさに南仏のバルコニー・・・
これから本格的な夏になるとガーデンプールには白いパラソルがいくつも開くという。

この静寂の支配するプールサイドも南欧の気分がアゲ!アゲ!の生気あふれた若者にこそふさわしい世界へと姿を一変させてゆくのだろう・・・


そして真夏のまばゆい太陽の日差しに無防備に身を投げ出すアランドロンの世界、そんなシーンのなかに老夫婦が身を横たえる真っ白な椅子はもう用意されていない・・・

そうそのとき悟らされた・・・

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」ゆかりの地 湯河原・真鶴岬をめぐる

現在放映されている大河ドラマ、三谷幸喜脚本の「鎌倉殿の13人」が面白い。鎌倉武士が武士政権の時代を切り拓いてゆく最中、さまざまな人間が駆使しあう権謀術数や生臭く欲深で飾らぬ生身の人間の性が描きこまれていてとても魅力的だ。

鶴岡八幡宮
鶴岡八幡宮
そこで物見高い老夫婦は、源頼朝が流人として過ごし、彼の庇護者となって、結果、武家政権を確立した北条氏など鎌倉武士ゆかりの伊豆の地を訪ねることにした。

まずは桓武平氏の一党である土肥実平が勢力を張っていた湯河原町、真鶴町をたずねた。

その最初の訪問先が石橋山の合戦に敗れた頼朝が従者7人とともに安房国へと船出をした岩海岸である(源頼朝船出の浜:真鶴町岩957-1)。

頼朝が小舟で漕ぎ出した岩海岸
頼朝船出の浜・岩海岸
小さな浜辺であるが、ひっそりと舟を漕ぎ出した浜辺というには、思いのほか見通しの良いところであった。

現在はその湾口というか相模湾へ出てゆく辺りに橋がかけられている。

しかし、当時は人影もない鄙びた浜であったのだろう。

そこから落魄した頼朝主従7人が安房国へと逃げ出した。

その時の頼朝の心情を表しているかのようなまことに頼りなく儚い海辺である。


その浜辺から2kmもいかぬところに、一行が身を隠したと伝わる「鵐窟(しとどのいわや)」がある。

鵐の窟(しとどのいわや)
鵐の窟(しとどのいわや)
専用の駐車場がないので、真ん前の「真鶴 魚座(さかなざ)」(真鶴町真鶴1947)の駐車場に車を止め、ついでにランチをとった。

魚座 真鶴漁市場2階にある食堂
魚介料理の魚座
わたしは刺身定食を注文した。さすが相模湾で採れたての鯵、身がふっくらとしておいしかった。

ほっこりなアジフライ、絶品
このアジフライ、おいしかった!

海鮮丼
細君が注文した海鮮丼

さて「鵐の窟(しとどのいわや)」であるが、魚座の真ん前を走る県道・真鶴半島公園線を挟んで斜め前にある。

切り立ったかつての石切り場の根っこに小さな洞穴があった。入口はステンレス柵で閉ざされていて、覗いても奥行きは2、3mほど。

鵐の窟内部
鵐の窟内部
しかし説明板を見てびっくり。

小舟の先に隆起前の鵐の窟
海の上にあった鵐の窟
大正11年に撮影された鵐の窟は海水が這り込む奥行11mもある洞窟で、海に雪崩れ込む崖の裾にあった。翌年の関東大震災の際に隆起して現在の陸地になったと説明があった。

その隆起は数メーターにもなろうか、震災の規模がいかに凄まじかったかがわかるジオパークである。

そんな海水に洗われる洞穴に頼朝は隠れ、そっと抜け出し、岩海岸に用意された小舟に載って海上へと漕ぎ出したのである。

どう贔屓目に見てもそんな人物がのちの七百年におよぶ武家の時代を創り出したとは思えぬ洞穴と海辺の矮小さではあった。

そこから真鶴岬を南下すると、すぐに貴船(きぶね)神社がある。

真鶴町の貴船神社
貴船神社
社伝は、889年、三ツ石(真鶴岬)沖に木像12体と書状が流れ着て、社殿を建て村の鎮守として祀ったとのべる。江戸時代まで「貴宮(きのみや)大明神」と称し、明治元年に貴船(きぶね)神社に改称したといい、京都の貴船(きふね)神社とは無関係だということであった。

ただ、そんな貴船神社も頼朝ゆかりの地となっている。

縦に建てられた頼朝の腰掛石
由緒板の横に建つ頼朝の腰掛石
なんと「源頼朝の腰掛石」という貴重な石が史蹟として建てられているのである。

頼朝が休息した岩を「鵐の窟」付近より当地へわざわざ移設したのだそうな。

その腰掛石は直立して神社の由緒書きの横に麗々しく立っていた。

頼朝様に敬意を表し、その前で手を合わせた。

社殿はそこから急な石段を昇った高台にある。

真鶴貴船神社 拝殿
拝殿 茅の輪がつくられていた
丁度、「夏越の祓(なごしのはらえ)」の時期であり、社殿前には大きな茅の輪が作られていたのでぐるりと廻って今年の無病息災を祈った。

参拝をすませて次に三ツ石なる名勝のある真鶴岬の突端へと向かった。

真鶴岬の三ツ石
真鶴岬突端にある三ツ石
今回の目的のひとつに夫婦ともども、伊豆へ旅する機会は度々あれど、その途上にある真鶴はいつも通過地点でしかなかった。

要は「真鶴岬ってどんなとこ?」という単純な興味がたまたま「鎌倉殿の13人」にゆかりの場所であるとの知識を得て、一念発起、ホテルを予約して自動車を駆ってやってきた。我ながらこの歳でご苦労なことであると、つくづく思う。

さて、神社から車で10分もいくと「ケープ真鶴」に着く。岬といってもほんとうに小さな岬なのだと実感する。

ケープ真鶴
真鶴岬突端に建つケープ真鶴
その岬の突端から少し階段を下がった先に「カフェ・真鶴見晴らし台」があった。

相模湾が一望 カフェ真鶴見晴らし台
カフェ真鶴見晴らし台
旅行ガイドにある三ツ石海岸を見下ろし、相模湾が一望できる絶景の場所である。

真鶴岬 三ツ石
階段の途中からみえる三ツ石
いかにも“夏到来!!”という風情のカフェである。

岬のカフェ パラソル
夏!! カフェ!
幾枚か写真をとったところで、わたしが軽い熱中症で気分が悪くなり、館内で休憩させていただいた。

それを知ったオーナーであろうか女性の方が凍らせたペットボルや氷をいれたビニール袋で腋の下や首筋を冷やすようにテキパキと処置をしてくれた。

その手際の良さに感心しきりでしばらく休ませてもらった。そのお陰で事なきを得て、当夜の「ホテル ラクラッセ・ドゥ・シェネガ」へ早めに向かい、ゆっくりすることにした。

ホテル ラクラッセ・ドゥ・シェネガ エントランス車寄せ
ホテル・エントランス
ホテルは真鶴岬の西の根元あたり、真鶴道路の真上にあった。

初夏の京都グルメ旅 三日目その3 グルメ旅の大トリ・割烹まつおか

京都グルメ旅の最後の晩餐に用意したのが、「割烹まつおか」である。

割烹まつおか
割烹まつおか
木屋町通りの名店「割烹やました」で揚げ方・焼き方を担っていた松岡さんの知己を得てからもう20年が過ぎようとしている。

2009.10.15 割烹やました 松岡さん
2009年、割烹やましたで松岡英雄氏
昨年8月に寄ったとき、オーナーシェフ、いや大将の松岡英雄氏とその付き合いも20年ほどになると語り合ったところだ。

2021.8.3 割烹まつおか
2021年8月、割烹まつおかで松岡英雄氏
さて、此度は長崎の叔母やその娘夫妻を案内しての京都グルメ旅となったが、その大トリを「割烹まつおか」で飾ることができたのは幸いであった。

当日、割烹というスタイルの料理屋は初めてだという長崎組を松岡さんはもちろん、大槻さんはじめスタッフの皆さんは一丸となっておもてなしをいただいた。

割烹まつおか 大槻敬之さん
大槻敬之さん
食材の説明から調理法まで丁寧にご教授いただき、お客どもは大満足。

こざっぱりと飾られた先付にはじまり、まずは軽いジャブ!

先付
先付
最近よくお願いするカワハギの薄造り、これはみんなに変わっていると好評。

カワハギの薄造り
カワハギの薄造り
それからどういった話からそうなったのか分らぬが、ウニが大好きという女性陣のために、淡路島産と北海道産のウニの豪勢な競演を演出してくれた。

淡路島産と北海道産のウニの食べ比べ
豪勢な盛り付け
箱ごと盛り付けを匙で掬って口に運ぶ、女性陣の嬉しそうな顔と言ったらなかった。やはり笑顔はいいものだ。

ちょこっと、この私もお裾分けをいただいた。おいしかった。私は淡路産より北海道産の方が好みだったように思えた。

私にもお裾分け
ウニのお裾分け・・・おいしかった
その後も当方の食慾と好奇心に応えるように次々と食材を繰り出し、調理法も飽きが来ぬように目先を変えて料理を供してくる。

車海老の立派に奴があったので、塩焼きにしてもらう。

海老塩焼き
この反りをだすのが肝だとか・・・
そう言えば、この姿焼の調理法を根掘り葉掘り訊ねていたが、その後、長崎で調理してみたのだろうか・・・

人数が多いと便利なのは、種類を多く頼んで、それを小分けにしていろんな料理をたのしめる。

もちろん、これって板場は手間がかかり大変。

それを楽しそうにやってくれる「割烹まつおか」に従妹たちは大満足。

そうこうしていると、誰が頼んだのか山菜と海老の天ぷらがでてきた。

山菜と海老の天ぷら
山菜と海老の天ぷら
そして、これはわたしがお願いしたのだが、牛肉の炭火焼。

牛肉の炭火焼
このお肉、本当においしい
「割烹やました」同様、まつおかも肉料理とワインが実はおいしいのだ。

それに春の定番、鰆の西京焼きは飽きがきたとか生意気をいったところ、松岡君はこれも西京焼きによく合うのだ、ふっくらと焼けた魚を供してくれた。

謎の魚の西京焼き
このお魚、何だったけかな・・・
ほっこりとしてとてもおいしかったのだが、魚名を失念した。

今度、訊いておこう。

酒のアテに魚の骨の唐揚げが出てきた。

骨の唐揚げ
始末の一皿
そして、小魚、名前は確か・・・忘れた・・・南蛮漬け。

小魚の南蛮漬け
酒のアテに南蛮漬け
多彩な味と調理法により、食慾が衰えないのには驚いた。

日頃、小食で有名な叔母も出された料理に箸をつけていたのはびっくりした。

「割烹まつおか」、おそるべしである!!

最後にサクランボと西瓜のデザートが出てきて、これもおいしいおいしいとにぎやかに京都の最後の夜の晩餐会は終焉を迎えた。

松岡君を入れてみんなで記念写真を撮るのに忙しく、デザートの写真は撮り忘れた。

それと、わたしは独り、岩ガキを頼んでいたことを写真を整理していて思い出した。岩ガキの殻の写真が残されていた・・・

よくぞこれだけの料理を食べつくしたものであると、今になって驚いている。

そして従妹たちは「割烹まつおか」は「これまで経験してきた食の世界で最高!!」と、大将に激賞の言葉を残し、塒(ねぐら)へと戻っていった・・・

もちろん、案内したわたしは鼻高々であったことはいうまでもない。

初夏の京都グルメ旅 三日目その1 奥嵯峨 鮎茶屋・平野屋

文化の薫り高い葵祭鑑賞、転じて、食慾の赴くくまま京のグルメ旅、三日目は奥嵯峨の鮎茶屋・平野屋で昼食をいただくことにした。

平野屋俯瞰
平野屋全景 絵ハガキより
当日は奥嵯峨まで足を延ばし、途中、寺院を巡ることからMKタクシーの6人乗りのアルファードを一日貸切にした。内装が織物仕様の5人がゆったりと坐れるなど一行の評判は良かった。
MKタクシー 特別仕様アルファード
MKタクシーHPから
さて平野屋であるが実は2011年の6月に訪れ、鮎料理に舌鼓を打った。
2011.6.14 平野屋母屋にて
2011年6月、平野屋母屋にて
それから夏の訪れとともに、その時味わった「鮎の背ごし」をもう一度食べてみたいと口にするのがここ数年、常のこととなっていた。そんな魂胆もあり、83歳になる叔母の京都観光案内で、菩提寺の本山である仁和寺をお詣りしたいとの要望にかこつけて、嵯峨野の奥まで足を延ばし平野屋の鮎を所望しようという算段となった。
2011.6.14 平野屋鮎の背ごし
2011.6.14 鮎の背ごしをいただく
電話予約の際に、5月中旬で「鮎の背ごし」は大丈夫かと確認を入れたくらい、「背ごし」への我執は半端なかった。お店の方はその場で料理人に訊ねてくれて、当日、手頃な鮎が入ったら準備させてもらうとの返答であった。舌のうえに載っけた瞬間のあのヒヤッとした触感!凍てたシャーベットを嚙み砕くときのシャリっとしたあの爽快感!この10年余、「夏がく〜れば思い出す♪ はるかな鮎 と〜い空♪♪」と、必ずわたしの口の端に上ってくる「麗しの背ごし」である。そのたびに、細君は「一度、行ってきたら」とあきれたようにおざなりな反応を示すのである。そして、今年、ようやく長年の希望が叶うというわけである。
2011.6.14 愛宕神社一之鳥居と平野屋
愛宕神社一の鳥居と平野屋 2011年
叔母たちにはあの白洲正子さんが絶賛していた平野屋の極上の鮎をぜひ紹介したいからと言ってあった、という裏事情はさておき、その日はまず仁和寺近くの龍安寺を拝観。
青モミジが美しい龍安寺の石段と龍安寺垣
龍安寺の石段と龍安寺垣
昨年12月から石庭の「油土塀(あぶらどべい)の杮(こけら)葺き」の張替えが終了、この3月19日から拝観が再開されたということでなかなかこの5人、運が強い。
杮葺きを葺き張替えた龍安寺の油土塀
龍安寺の油土塀と葺き替わった杮(こけら)葺き
わたしは石庭の石の配置の妙など何度みても、その良さが分からないのであるが、白砂と石組の背景となる油土塀の色合いについてはかねて好みのものであった。
龍安寺 石と油土塀
石庭の石と油土塀
そしてこの度、土塀の杮葺きが一新されていた。
2003.12 葺き葺き替え間前の石庭
2003年12月 古い杮葺き
かつての侘びの風情の枯山水とは異なり、少々驚いたのだが、陽光の降り注ぐ屋根は銅板を張ったように金色に光り輝き、これはこれで美しかった。
龍安寺石庭の石と油土塀と杮葺き
杮葺きが輝く石庭
意馬心猿の日々をおくる己を、禅の世界に閑に身を置くことでその性根を叩きなおし、心静かに稚鮎に箸をつけようと・・・殊勝な心持ちで石庭の一五個を数える石を心眼で観ようと努めた。
ミニ石庭 模型
石の配置がわかるミニ石庭
やはりすべての石を観ることは不可能であった。ところが、縁側を行きつ戻りつしていた従妹の連れ合いが一五個の石が見えたというのである。そんな馬鹿なと思ったが、彼は180cmを超える偉丈夫である。縁側中央に立って石庭を仁王立ちで見下ろしたら、かろうじて全ての石が見えるようなのである。
龍安寺・石庭
龍安寺石庭 15個の石は見えない
帰京後調べてみたら、龍安寺石庭の15個の石、本当は一度に見れます」というブログを見つけた。なるほど何とか一五個の石が見えている。そんな瞑想どころでない「見えた」、「いや見えるはずはない」といった他愛もない話題で盛り上がり、次の仁和寺へと向かう。
仁和寺仁王門
仁和寺・仁王門
雄大な仁王門はいつも訪れるものを圧倒する。
仁和寺・金堂
仁和寺・金堂
ここの金堂はもともと御所の正殿・紫宸殿で、江戸の寛永年間に移築されたとのこと。国宝に指定されている。
仁和寺・御室桜
御室の桜
また背丈の低い御室(オムロ)桜の葉叢が青々と茂っていたのが印象的だった。本山のお詣りをすませ、一行はいよいよ奥嵯峨を目指す。

仁和寺から平野屋へは距離にして6km、車でわずか10分余といたって近い。あながちわたしの我欲のみではない、平野屋での昼餉は当日の観光ルートであればごく自然な成り行きであるといってもよいのである。
2022.5.16 平野屋
やはり茅葺は風情がある 平野屋
苔むした茅葺屋根の平野屋のたたずまい。ここに降り立つだけで、詩情溢れる鮎茶屋のおもてなしが思い起こされた。
平野屋 離れの間
平野屋 離れの間
当日案内されたのは離れの間である。11年前にはなかった新しい建屋である。そこから以前に通された母屋と庭の池を見ることができる。
平野屋離れから本館を見る
左手の手すりが母屋の間
これはこれでひとつの風情である。いよいよ鮎料理が供される。夢にまで見た?鮎の背ごしである。
平野屋・鮎の背ごし
紀州の鮎の背ごし
この季節、まだ保津川の鮎は解禁前で、当日は紀州の有田川の鮎であるとのこと。一同に素人講釈をし、ありがたく戴いたことは言うまでもない。
鮎料理はもちろんまずは塩焼き。
平野屋 鮎の塩焼き - コピー
三尾の鮎の塩焼き
白洲正子女史は来るたびに五匹、六匹と塩焼きのお替りをしたという。
鮎粥
鮎のお粥
鮎粥も名物の一つ。最後に別途豆ごはんとみそ汁もあった・・・
志んこ 平野屋
名物・志んこ
愛宕神社への九十九折の岨道を模してつくられた捻じれた団子・「志んこ」は愛宕山の名物である。
平野屋・野菜の炊き合わせ
野菜の炊き合わせ
江戸時代、愛宕詣での参拝客が麓の茶屋で「志んこ」でお茶を喫し、山道へいどむ英気を養ったのだという。
野菜の天ぷら 平野屋
野菜の天ぷら
ランチといってもそれ以外に、野菜の炊き合わせや天ぷらなど次々とお皿がとどき、少々、年寄りにはきついくらいの平野屋の多彩なメニューであった。
そして、初夏の鮎茶屋・平野屋でのひと時を過ごしたわれわれは、次に奥嵯峨にある二つの念仏寺にお参りし、晴明神社経由でホテルへ向かい、夜の「割烹まつおか」に備えることとなる。

初夏の京都グルメ旅 二日目その2 鴨川納涼床・京フレンチきしもと

グルメ旅の二日目は京都の夏を味わうコースと洒落てみた。

昼は貴船の川床(かわどこ)で昼餉を愉しんだことは先のブログに書いた。

貴船川に設営された川床
貴船川の川床
そして、その日の夕餉であるが、鴨川の納涼床(のうりょうゆか)「京フレンチきしもと」の予約をとっていた。

京フレンチ きしもと看板
京フレンチきしもと
時季は五月中旬とちょっと気は早いのは承知だが、貴船・鴨川・高雄の「床」はいずこも5月1日から営業が開始されている。

そこで京の夏の風物詩である「床(ゆか・とこ)文化」を83歳の叔母に味わってもらおうと思った次第である。

鴨川の納涼床 - コピー
鴨川の右岸に連なる納涼床
夕刻に一同、ホテルを発ち、木屋町通り沿いに歩いて10分ほどのところにある先斗町にある「京フレンチきしもと」へ向かう。

鴨川納涼床
京フレンチきしもと 納涼床
途中、維新の激動の時代、若き志士たちが残した歴史の痕跡を案内しながらそぞろ歩いた。

「割烹やました」のすぐ近くで今を去ること150年前、佐久間象山が暗殺され、ほぼ同じ場所で大村益次郎が襲われたという。

佐久間象山・大村益次郎遭難の碑
高瀬川対岸に佐久間象山暗殺・大村益次郎遭難の地の石碑
いま歩く通りにそうした陰惨な雰囲気は一切感じられない。

これから百年後の木屋町通りは果たしてどんな姿を人々に見せているのだろう・・・。

そんななかで桂小五郎と芸者幾松が過ごした処にあった料理旅館幾松がコロナ騒動のなか2020年10月で廃業となっていたことを、今度、知った。

料理旅館幾松
かつての幾松
各地で老舗といわれる旅館や料亭が廃業の止むなきにあっているとニュースなど耳にしていたが、いつか行ってみようと幾松が閉店となっていたとは誠に残念である。

新選組が旅籠池田屋に集結した志士たちを襲撃した池田屋騒動の舞台となった処は、現在、居酒屋チェーン「はなの舞」となっているが、三条通りに面する店頭に「池田屋騒動の址」と刻む石柱が建っている。


池田屋跡に建つはなの舞
池田屋騒動の地
また、三条大橋の西詰めは日本橋を起点とした東海道五三次の終点となるが、二つ目の擬宝珠(ぎぼし)には池田屋騒動時に傷つけられた刀傷がいまなお生々しく残っている。

池田屋騒動の刀傷三条大橋の擬宝珠
三条大橋の擬宝珠の刀傷
また西詰の袂に十返舎一九の「東海道中膝栗毛」の剽軽な表情をした弥次さん・喜多さんの銅像が建っている。

弥次さん喜多さんの銅像
弥次・喜多像
そこから鴨川沿いの少し下り、龍馬通りから先斗町通りへ入ってゆく。

狭い通りにはぎっしりと飲食店が軒を連ねているが、その軒先には先斗町の紋章である千鳥をあしらった提灯がさがり、すでに灯がともされていた。

先斗町通り
先斗町通り
夕食時ということで結構な人出である。

「京フレンチきしもと」はもともとお茶屋であったというが、改装された店内はカウンター席が細長く連なるシックな造りとなっている。

きしもと店内
きしもと店内・突き当りが納涼床
突き当りのガラス戸を抜けると鴨川に面してテーブル席の納涼床が設営されていた。

’捨綻欧でた鴨川 三条大橋から
納涼床が連なる
河原に面する一等席がわれわれ五人用に用意されていたが、シッティング前の写真を撮り忘れたので、以前、訪れたイタリアン・ルンガモ(廃業)の納涼床の写真を載せることにする。

納涼床 ルンガモ
イタリアン・ルンガモの納涼床の風情
納涼床のイメージはおよそこんな感じである。

「京フレンチきしもと」はそもそもコース料理のみのお店のようで、納涼床は店内で頼む料理の二割ほど高い値段設定になっていた。

当夜はBコースを予約していた。

オードブル四品。

オードブル  オードブル4品のひとつ
オードブル4品のうち2品
メインが甘鯛のムニエルか、

ディナー 甘鯛ムニエル
甘鯛のムニエル
牛フィレのステーキ生わさび添えのどちらか一品。

⓪きしもと ディナー牛フィレステーキ
牛フィレ肉のステーキ
それと最後にデザート。

デザート
ちょっと・・・寒すぎた・・・
それにしても年寄りにはこれで十分の量であった。

午後六時の予約で、料理がスタートした納涼床のひとときであったが、実は夏の夕涼みにはやはり時季が早すぎた。

皆さん、サービスされた料理はテキパキと処理し、おいしかったんですよ「きしもと」さん!!料理は。

7時40分には食後の余韻を味わう余裕もなく、この時季、川風はさすがに年寄りの身に応えた。早くホテルで暖まりたい?とお店を後にすることとなった次第。

夜の先斗町
8時前でこのとおり
先斗町通りに出ると、まだ8時前というのに人通りはまばらであった。

やはりコロナの影響で、人々の夜の行動様式は一変したのだと、かつての先斗町の賑わいを知る男のひとりとして、人の心の移ろいといおうか、時代の変遷とでもいおうか、一抹の寂しさを覚えたところである。

そして京都の「床(とこ)と「床(ゆか)」をあわただしく堪能した一団は先斗町通りをワイワイといっぱしの感想を述べながら北へと上がっていったのである。

「葵祭」転じて初夏の京都グルメ旅 二日目その1 貴船の川床(ランチ)喜らく

グルメ旅の二日目は京都の夏を味わうコースを選んだ。

京都の夏の風物詩である「床(ゆか・とこ)」をしゃぶりつくそうという魂胆である。

⓪貴船の川床
貴船の川床
そういえば、6月18日土曜日のNHK番組「ブラタモリ 京都・鴨川〜川をたどれば京都がわかる!?〜」で野口葵衣アナウンサーが京都の水の考え尽くされた利活用を「しゃぶりつくす」と表現した際、「一滴残らず」という方が適切かなとタモリさんがやんわりと指導していたっけ。

‐絏賁仗声辧〔誠誓遒噺翳忌川の合流点
ブラタモリ・上賀茂神社の明神川と御物忌川の合流点
さすが「言葉の力」で人生を切り拓いてきた人物の言葉へのこだわりと日本語に向き合う真摯な姿勢に感じ入ったところだ。

余談はこれぐらいにして、当日はまず京の奥座敷・貴船(きぶね)の川床(かわどこ)で昼食をとり、夜は鴨川の納涼床(のうりょうゆか)で夕食という、「床」づくしの企画である。

ヽ川の納涼床がはじまる
鴨川の納涼床
まず出町柳から叡山電鉄鞍馬線に乗って貴船口(きぶねぐち)まで目にやさしい新緑を愛でながら30分弱。

ゝ船口駅
貴船口駅
駅前に川床を予約していた料理旅館「喜らく」の車が出迎えてくれた。貴船神社本宮前の「喜らく」まで2KM、5分の距離だが、脚に不安がある方は送迎をお願いするとよい。

ヾ遒蕕
貴船神社総本宮前の喜らく
昼食の予約時間までの1時間を利用して本宮から貴船川上流沿いに800Mほどいった先に鎮まる奥宮を参拝した。

ゝ船神社・奥宮
貴船神社・奥宮
海神・豊玉彦の娘で、神武天皇の皇母でもある玉依姫が淀川を遡上、鴨川の水源地であるこの奥宮の地に祠を造り都の水守りとして鎮まったとの伝説が貴船神社に伝わっている。

その時、坐乗してきた黄色い船(貴船の名の由来ともいわれている)を積み石で囲み匿(かく)したものと伝わる「舟形石(ふながたいわ)」が奥宮の脇にある。

―形石
舟形石
その傍らには朝廷の飲料水の管理をつかさどる主水部(もひとりべ)であった鴨族の祖神である味鉏高彦根命(あじすきたかねひこ)、別名、迦毛(かも)大神を祀る末社・吸葛(すいかずら)社が玉依姫の守人のごとく鎮座している。

)社・吸葛社(味鉏高彦根命)と船形石
舟形石のそばに吸葛神社
貴船山と鞍馬山に挟まれた渓谷に位置する貴船神社・奥宮の後背には鬱蒼と木々が繁っている。

その古木の所々に人形(ひとがた)に五寸釘を打ちこんだ痕が今でも残っているとかつて誰かがわたしに囁いた。この奥深い森には幾多の女が丑の刻参りを重ね、心変わりした男と新たな女を呪詛する風習が残っていたのだという。

能の演目・「鉄輪(かなわ)」は夫に捨てられ嫉妬に狂った女が貴船神社に丑の刻参りを重ね鬼に変貌、夫と後妻を襲うという禍々しい人の業を描いたものである。

2009.10.14 厳島神社・観月能
厳島神社・観月能 鬼に変じた女
この譚(はなし)には陰陽師・安倍晴明が登場し、その鬼女を追い払い二人を救うところで終わる。

ところがこの女、「まずこの度は帰るべし」と再度の襲来を予告し恨みを深く心に秘めたまま、一旦、身を匿(かく)しただけで、安倍晴明をもってしても止めは刺させなかったというものである。女の情念のすさまじさに背筋の凍る思いがし、その怨みはいまなお四条河原町あたりをうろついているのである。

\果誠声辧Π打楡果請
晴明神社の安倍晴明像 

そんな怪異譚の一方で、貴船神社はいまや恋人の聖地のようにいわれている。

奥宮への途中にある結社(ゆいのやしろ)のご祭神・磐長姫命が縁結びの神という。

〃觴
結の社
多くのカップルがその小さな祠の前で仲良く手を合わせている姿は印象的である。

恋多きスキャンダラスな女流歌人・和泉式部が、再婚した夫・藤原保昌の愛を失い、貴船神社で密教の秘儀・敬愛の祭りを執行、女性のたしなみを失わなかったことで、撚りを戻した? もとい、愛を取り戻したとの話が鎌倉時代の仏教説話集の「沙石(しゃせき)集」に載っている。

]太式部・歌碑
結社に建つ和泉式部の歌碑
平安時代から「貴布禰」神社が男女の愛を叶えさせるパワースポットだと信じられていたことをしめす譚である。

ゝ船神社総本宮
貴船神社・総本宮
また、総本宮では湧き水のご神水で水占いをするカップルが列をなす。
/綫蠅ぁΔ澆じ
貴船神社の水占い
清冽な貴布禰の渓谷には恋のキューピッドとともに、安倍晴明の神通力をも打ち返す嫉妬に狂う鬼女が夜の闇の底に潜んでいるということなどつゆも知らぬ若人たちに、老婆心ならぬ老爺心で「人間の業の闇は深いよ」とつい、耳打ちしたくなった。


そんな愚かで意地悪な白昼夢を見せてくれた貴船でいよいよランチである。いや、昼餉の時間である。

本宮前に店を構える「喜らく」に川床(かわどこ)の予約をとっていた。

ヾ遒蕕の川床
喜らくの川床
当日はまだ川床が設営されて間もないこともあり、涼風というより寒さが克つのではと、料理は湯豆腐コースを頼んでおいた。

川床の下を貴船川の清流が勢いよく流れている。

[辰笋な喜らくの川床
川床の下を清流が流れる
川筋を吹き抜ける山気ととどろく水音はコロナで鬱屈した気鬱病を一気に吹き飛ばしてくれる。しかし、さわやかというよりかなり肌寒い。

そんななかでいよいよ川床料理をいただくことに。

京の夏の定番、鱧の湯引きとお造り。

£腓療魄き・お造り
鱧の湯引きとお造り
鮎の塩焼き。

^召留焼き 喜らく
鮎の塩焼き 一人分ではありません
鮎の天ぷらまでも出てくる。

ヾ遒蕕の湯豆腐コース
お待ちかねの湯豆腐
そしていよいよ温かい湯豆腐の登場。このころには皆、早く暖をとりたい気分が横溢。

急ぎ小椀に湯豆腐をとりわけ、ようやく身体も心の中もほかほかと緩んでくる。

5月の中旬、湯豆腐料理。京の奥座敷では大正解との皆さんにお褒めをいただいた。

以前7月に細君と貴船を訪れた際には、老舗の「ひろや」で川床料理をたのしんだ。

⓪ひろや川床料理
ひろやの川床
その時、氷をアレンジした器で涼を演出した料理にはビックリ。暑さも吹き飛んだ。

涼をさそう氷器に盛られたお造り ひろや
氷器のお造り
そしていかにも涼感をさそう洒落た鮎の塩焼きも供された。

,劼蹐笋領担桐兇Π召留焼き
盛り付けが美しい鮎の塩焼き
夏本番にお昼からしっかりとした懐石料理を所望したいと思われる方は、「ひろや」の川床料理はお薦めである。

 

こうして風流な川床料理に舌鼓を打ち、一方でいつの世も変わらぬ男と女の情景に思いを馳せた貴船神社・・・

ゝ船神社・本宮石段
貴船神社本宮の石段
作家水上勉は短編小説「貴船川」のなかで「貴船は女の執念を考えさせる神社」であると書いた・・・そんな貴船を、夜の鴨川納涼床にそなえて、食慾という煩悩に病む一行は早めに退散することとあいなった。

「葵祭」転じて初夏の京都グルメ旅 一日目

長崎市在住の83歳になる叔母からかねて京都を案内しろと命じられていた。これまで延ばし延ばしにしていたが、元気印の叔母が一時体調を崩したこともあり、そろそろ手形を落としておかねばなるまいと今般の京都行きを決行した。

”屋から東山と比叡山
ホテルオークラ京都から比叡山と東山連峰をみる
叔母には従妹夫婦が付き添いで来ることとなり、わが夫婦と併せ総勢5名、平均年齢69歳となる「黄昏老人の修学旅行」となった。

コロナウイルスの猛威も沈静化した5月14日に京都で落ち合い、3泊4日で「葵祭」を愉しむ旅の計画を練った。

ところが旅の眼目であった葵祭であるが、コロナ禍のなか斎王代が行列をなして京都御所から下鴨・上賀茂神社へと巡行する「路頭の儀」は早々と2月頃には中止が発表された。

2014年・斎王代の参進
2014年葵祭・社頭の儀
そこで2014年に参列した「社頭の儀」に参加できたらと思い、下鴨神社に連絡を入れたが、今年は列席者の人数を絞っておこなうということで、5名もの一行は難しいと丁重に断られた。

_竺神社・神楽殿
下鴨神社・神楽殿
といった事情これあり、急遽、旅の目的は千四百年つづく「聖なる神事」に参列することから、急転、「食い意地」という「業の世界」にどっぷりつかることと相成った。

ゝ毒軌
菊乃井・本店(2019.1)
老い先短い人生、享楽に現を抜かし、京都の初夏を思いっきり「食い尽くす」ことにしたというわけである。

その一日目は二時頃にホテルで落ち合い、コロナ禍もあり上京もままならなかった叔母の元気な姿に安堵し、まず葵祭の下鴨神社に参拝を済ましておくことにした。

「五月一五日 賀茂祭」と大書された柱聯(ちゅうれん)がかかる燦爛たる楼門をくぐり本殿境内に入る。

_竺神社・楼門
下鴨神社・楼門
橋殿前には「社頭の儀」参列者用の椅子が整然とならべられていた。

ー卞の儀の列席者用の椅子が橋殿前にならぶ
橋殿前に参列者用の椅子
翌日の参加が叶わぬわれわれは、せめてもと本殿への昇殿参拝をさせてもらうことにした。

_竺神社・昇殿参拝
下鴨神社・本殿
本殿内の祈祷所で「黄昏老人一行」は権禰宜の方にありがたい祝詞をあげていただき、巫女さんに玲瓏な神楽鈴の音でお祓いをしていただいた。

_竺神社の巫女さんに修祓をうける - コピー
下鴨神社・巫女
その際に従妹の夫君は清冽な風が吹き抜けたのを感じたと社殿を退出してから興奮気味に繰り返し語った。

それに対し他の黄昏四人組は誰一人、神気など感じなかったと微塵の畏敬の念も見せぬ不逞ぶりであった。

そのあと女性陣は、京都の夏の風物詩である「足つけ神事」が斎行される「みたらし池」で「水占い(みずみくじ)」に興じた。

,澆燭蕕契遒醗羮綣
みたらし池と井上社
どんな卦()がでたのか、このお二人さん・・・

 匹澆燭蕕契遏匹膿綫蠅い鬚垢
水占いに興じる女が二人
どこか可愛らしくおだやかな人生の一景ではあった。

 

下鴨神社でのそれなりの敬虔な?ひと時を過ごした一行はホテルへと戻り、「煩悩の食慾」に身を焦がす「割烹やました」へ出陣する英気を養うことにした。

.曠謄襯ークラ京都・スーペリアツイン
ホテルオークラ京都のスーペリアル・ツイン
割烹やましたは昨年の三月下旬、醍醐寺の花見の際に訪れて以来、ほぼ一年ぶりである。

ヽ篷やました 押小路橋から
押小路橋から割烹やました
この夜は話に夢中となり、夏の定番の鱧の炙りをはじめ細君が取り仕切った料理が皿に盛られてきたというのが実際で、写真もあまり撮れていない。

〔5い覆ぅ灰蹈並弍のカウンター
コロナ対応の味気ないカウンター
ただ、何かいつもと趣向の異なる珍しい料理にお目にかかったので、これはこれでよしとするのであろう。

ゝ都の夏の定番 炙り鱧と大将
夏の定番・鱧の炙りは絶品
その中でも、やましたで鰻を食べようとは驚きだった・・・

,笋泙靴燭留靴粒焼
鰻の蒲焼
そんなことで、八時半頃には一日目の晩餐が終了。

店の暖簾の前で、大将と黄昏老人一行と記念写真を撮り、ホテルへと戻った。

,い弔發里出迎えの折り鶴
オークラのいつもの折り鶴のおもてなし
かつて八時頃から第二陣の客が押し寄せ、十時前まで賑わっていた超人気店の「割烹やました」ですら、八時を過ぎると入れ替えの客もほとんど来る気配もなく、コロナにより人の夜の行動パターンが確実に変わってしまったと実感させられた京都の夜でもあった。

 

そして、帰京後の6月18日に放映されたNHKの「ブラタモリ 鴨川編」の「川をたどれば京都がわかる?」を観てビックリ!!

我々が廻った行程をほぼそのまま辿った番組となっていたからである。

東京と長崎の間でスマフォのビデオ通話で旅のあれこれ会話が盛り上がったことは云うまでもない。

コキコキドライブ旅 7日目 その一 永平寺

福井県を訪ねて、曹洞宗の大本山・永平寺を参拝しないわけにはいかぬということで、朝一番で市内中心部から東へ16kmほど山間部へ入ったところにある永平寺を目指した。

門前町の土産屋・上街堂に車を置き、九時過ぎに龍門と呼ばれる正門についた。

々藩佞垢訥の参道
永平寺の朝の参道
11月半ばの平日の朝。人影もまばらな参道には“もみじ葉”が紅や黄の枝葉を重ねていた。

修行道場での思いがけないもてなしに、素直に道元禅師に感謝した。

参道の少し先にある参拝者入口の通用門をくぐりコンクリート造りの吉祥閣で拝観受付をし、雲水の方から伽藍配置など説明をいただいた。

 ̄癖浸参拝者入口
参拝者通用門
140名を数える雲水が現在修行中てあり、堂内で雲水の写真撮影は控えてもらいたいこと、修行中の雲水が起居する僧堂内には立ち入らぬことなど拝観の際の注意があった。

それから順路案内通りに伽藍内を拝観して回ることになる。

わたしに永平寺のイメージを一つ挙げろと言われれば、厳寒の季節、長大な階段を鉦を鳴らしながら疾駆する雲水の姿や無駄のない動きで素早く雑巾がけする若き修行僧のひたむきな面差しである。

座禅をくみ瞑想する“静”の世界より、堂内を駆け抜けてゆく颯爽とした“動”の映像世界こそが、わたしの「That's Eiheiji」である。

その“動”の象徴である大階段を、古希を迎えた老人がこれから杖を衝きながら黙然と上り下りするのである。

山の傾斜面を利用した七堂伽藍の最上部には他宗でいう講堂や本堂にあたる法堂(はっとう)がある。

)‘欧硫廊
法堂の廻廊
そこまで己の足で長い階段を昇ってゆき、そして降りてこなければ永平寺を拝観したことにはならない。左脚の不自由なわたしにとっては苦行の修行なのである。

そこで息を整え、杖を片手に握り直し、覚悟を決め、そして仰ぎ見た。

 ̄癖浸の長い上り階段
永平寺の階段
視線の先には・・・非情にも急勾配の昇り階段がつづいていた。

覚悟の先っぽからため息が洩れたが、踏み出してみると、階段の踏み面には奥行きがあり、蹴上げの高さも適度であったため、足や膝への負担は思ったほどでない。

‘Г潴未広い永平寺の階段
踏み面の奥行がある
とはいっても、時々小休止をとりながらの老体には結構な修行である。

陸上部で校庭を駆け抜けていた10代の頃、この程度の階段、どこまでつづこうが、一段跳びにも二段跳びにも飛び跳ねて行けたのになどと、誰への負け惜しみかわからぬが、雑念が次々と湧き出てきた。

そんな邪念とは無関係に、機械的に何とか一段一段、数をこなしていく。

階段に小さな踊場があった。僧堂への這入り口である。

〜瞭押[入禁止
僧堂への入口
140名もの雲水が起居しているとは思えぬほどの狭い廊下でつながっていた。

そこから少し昇った先に仏堂があった。

(殿 斜めより
仏殿
その前面の廻廊から右下に僧堂の全容をみることができた。

(殿より僧堂
仏殿前から僧堂をみる
このひと棟で雲水が起居し、厳しい修行に耐えながら生活しているのかと思うと、永平寺が今なお精神鍛錬の峻烈な道場であることが、実感できた。

さらに、ここから山門と仏堂の間に位置する美しい中雀門を見下ろすことができた。

(殿より中雀門を見る
仏殿から中雀門
しばしの休憩ののち、いよいよ最頂部の法堂へと向かった。

)‘
永平寺の法堂
法堂の外廻廊には長椅子が置かれていた。

そこで、永平寺の伽藍の佇まいを俯瞰した。

)‘欧らの眺望
法堂からの景色
眼前には伽藍の甍が重なり、遠く鬱蒼とした緑のなか一抹の黄葉を覗かせる山が見えた。

朝靄のように修錬場に流れ落ちる山気がわたしの胸中に満ち満ち、世俗の世で澱み、萎えた心のなかを一陣の清らな風が吹きぬけた。

永平寺という禅寺の佇まいはまるで水墨画のなかに鎮まっているようであった。その精神世界のなかに身を置いた己を見つめた。

)‘欧ら大庫院と仏殿の大屋根を見る - コピー
水墨画の世界
ここまで昇ってきた階段の数々・・・それはこれまでの人生の日々のようでもあった。

これから下ってゆくであろう長い階段・・・

 ̄癖浸の長い階段を下る
下り階段
それは残り少なくなったわたしの人生の下り階段のようにも思えた。

そして、そのどこかの踏み面にいまの自分の歪(いびつ)で小さな足跡がつけられるのに違いない。

その足跡はこれから訪れる無数の人々により踏みつけられ、削り取られて、いつの日にかそのわずかな痕跡でさえも、未来の雲水たちによって、きれいさっぱり拭き取られてしまう・・・そう思いなしたのである・・・

〇殻腓畔殿の間に位置する中雀門
山門と仏殿の間に中雀門
さて、永平寺の長い階段を下りきったその先にはどうした景色が待ちうけているのだろうか。

いや、人生という映像フィルムは唐突に断ち切れ、レンズの絞り羽根が閉まるように下り階段の途中で尻切れトンボの「終」を迎えるのかもしれない。

その時、世界はどんな色相を自分に見せてくれるのだろうか。それとも無意識界で色合いもへちまもないはず、そんな由無し事を考えながら下りはじめた。

途中で中雀門から表からは拝観できない山門を見下ろすことができた。

〇殻腓鮹羶門から_LI
山門を中雀門から見下ろす
この山門は一般人の通行は不可で、雲水のみが通ることを許されているのだそうだ。

しかもその雲水も、上山(修行開始)を認められて入門する際と厳しい修行に堪え行をおさめ乞暇(こうか=修行修了)・下山する際のたったニ度に限られるのだという。

大きな山門には外界と隔てる扉が存在しない。

その柱と柱の先の空間を見ると、この門は「入るにも易く出ずるにも易い」と感じるが、柱には「聯(れん)」と呼ばれる大きな長板が掛けられている。そこには「家庭厳峻不容陸老従真門入」、「鎖鑰放閑遮莫善財進一歩来」と難解な漢字がならんでいる。

永平寺を知悉する人の説明によれば、

「永平寺の家風は非常に厳しいものである。地位や富がある者でも、真に仏法を求める者でなければこの門から入ることは許されない」

「この門には扉も錠もなく開け放たれているのだから、真に仏法を求める者はいつでもこの門から入ることができる」

と告知しているのだそうである。

読み下すのも解文するのも、息も脳みそも詰まりそうな白文ではある。

その「聯」の戒律を今尚守る永平寺は鎌倉時代の厳峻な精神世界を現代に伝える生きた史跡であるといってよい。


そしてわたしは雲水によって磨き抜かれた階段を最後まで降り切り、入館した通用門から伽藍の外へと出た。

法堂の廻廊で覚えた諸々の雑念は、疲れきった足腰と思考力の失せた脳漿で物の見事に雲散霧消し、SNOBに戻ったわたしは思い切り胸をそらし深呼吸をした。

俗世へ舞い戻る龍門へと向かった。

ゆるやかな下り坂である。永平寺の下り階段はまだ続いていた。

〇殻腓らの水墨画
山門から中雀門と僧堂をみる
そして水墨画の小世界の廻廊を巡ってきたわたしの頭上には、色鮮やかな紅葉の世界が広がっていた。

々藩佞留癖浸参道
龍門への参道は錦の饗宴
永平寺の下り階段の先にこんな世界が待っていたとは・・・、わたしの足取りはすこし軽くなった。

はてさて、龍門の外の俗界は今度はどんな色合いを見せてくれるのか。

まだまだ古希のドライブ旅はつづいてゆくのだったと、思いなして正門の外へ初めの一歩を踏み出した。
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