平安朝の摂関時代華やかなりし頃、この小さな島国に世界に類を見ない多くの優れた女流作家、歌人の輩出をみた。
そんな仮名文学に触れた青春時代、といっても、受験科目に古文が必須であったことから仕方なく難解な言い回しの古語の世界をのぞき込んだというのが正直なところであった。
夏休みを利用し初めて通読したのが菅原孝標(たかすえ)の娘が著した「更級日記」であった。
そこには13、4歳の少女が紫式部描く五十余帖の「源氏物語」を「几帳のうちにうち臥して引き出でつつ見る心地、后の位も何にかはせむ」と、源氏物語を読める幸福感の前には皇后の位なんかクソくらえと、物語の世界にどっぷりと耽溺している姿が描かれていた。
果てには、「光の源氏の夕顔、宇治の大将の浮舟の女君のやうにこそあらめ」と、光源氏に寵愛された夕顔や薫の想い人であった浮舟のようになりたいと、妄想を掻き立てているにいたって、当時十八歳であった私は随分ませた娘だなと思ったものだ。
当方、奥手だったのか、源氏の深遠な愛憎劇は難解で、試験問題も苦労したものだ。
そんな王朝時代の女たちのしるした日記や物語のなかに石清水八幡宮や石山寺といった名を度々目にしたのである。
それから半世紀を優に過ぎたころ、後宮官女たちが詣でたという彼の地を訪ねた。
琵琶湖の南端、瀬田川に裳裾を落とす伽藍山(標高236m)の麓に石山寺はある。
遠出の機会の少なかった平安時代、王朝貴族たちが物詣(ものもうで)先として足を運んだ代表的な寺院であった。
物詣とは神仏祈願が目的なのは当然だが、その道中の景色を愉しみ宮廷生活の息苦しさを忘れ、しばしの解放感を味わうプチ旅行といったものである。
ところが宮廷サロンで活躍した十二単の才媛方にとって、石山寺は息を抜く先というよりも悩ましい男女の愛憎ドラマの舞台となるなど異彩を放っているのである。
譬(たと)えば、夫が新たに通いつめる女への嫉妬の炎を鎮めようと石山寺の観音堂に籠った藤原道綱の母、更級日記の作者の伯母にあたる人物であるが、その著・『蜻蛉日記』に、間遠くなった夫を思い、石山寺堂内で一晩中泣き明かしたすえに見た夢の内容を記している。
それは寺の別当に男性の象徴とされる銚子で膝に水をかけられたという艶っぽいというか女の業を感じさせるエロティックなものである。フロイトも驚くこの霊夢、おぉ〜怖っ!と腰の引けた男性方、気をつけて!!
また、冷泉帝の皇子・敦道(あつみち)親王との恋の駆け引きに疲れ切った和泉式部。彼女は紫式部と同じ藤原道長の娘・中宮彰子に仕えた女房の一人だが、都から逃げるように石山寺に身を隠し参籠していると、その想い人から手紙が齎(もたら)される。そこで、「あふみぢは忘れぬめりと」、歌を贈る。わたしのことなど疾うに忘れたはずなのに、逢坂(あふさか)の関を越えてまで便りを届けてくれたのはいったいどなたと、いじらしく拗(す)ねて見せる。これぞ年増女の手練れの技。
この後、数度の交信を経てさっさと都へ戻った和泉式部。親王から仏の道を途中で抛(ほう)り投げて「あさましや」と呆れられるや、「今ひとたびのあふことにより」と、今度は“貴方に逢いたくて〜♪”と一気に歌いあげる。この一連のやり取り、さすが多情奔放の恋の達人たる面目躍如である。
一方で、幼き頃、源氏物語に夢中になった『更級日記』の菅原孝標女(たかすえのおんな)も、一七、八歳になっても読経もせず物語の世界に耽溺(たんでき)してきたのは余りに幼すぎたと反省し、現世の御利益や後世の往生を願おうと石山詣でへ向かう。
その道中、逢坂の関で雪に見舞われるや、「昔越えしも冬ぞかし」と35年前に東国から上京する途次、早く物語を読みたいと胸をときめかせこの関を越えたことを懐かしみ、「年月の過ぎにけるもいとあはれなり」と感傷にひたる。
こちらは歳を重ねても夢多き心映えが現生利益へと思いは変わったようで、先のお二人とは様相が少々異なる。
そして、参籠中に「中堂より麝香(ざかう)賜はりぬ。とくかしこへつげよ」と奇妙な夢を見ると、これは慶事の前触れに違いないと一晩中、誦経に励んだとある。かつて夢見る乙女であった人もいずれはこんな風に現金な姿になるのだと妙に納得してしまう飾らぬ女性ではある。
さて、「寺は壺阪。笠置。法輪。霊山は・・・あはれなるなり。石山。粉河(こかわ)。志賀」 、あまりにも有名な「枕草子」の一節である。石山寺を僅か二文字で昇華させたあたりはさすが王朝サロンの一方の旗頭、切れ味鋭い清少納言である。
そんなこんなの石山詣で。ご本尊の如意輪観音さま、いくら煩悩を打ち砕く法輪を手にしているとはいえ、艶めかしい御仁、また霊場を恋の道具立てに駆使して動じぬ女房、そして乙女心とリアリストの二面性を矛盾なく併せ持つ女人、果ては明晰な理屈で乱切りする女傑など多士済々の才媛にはタジタジといったところではなかろうか。
そして最後に控えるのが、王朝サロンの大スター、NHK大河ドラマ「光る君へ」の主人公、紫式部。
『石山寺縁起絵巻』に、物語の着想を得るため七日間参籠したとある。十五夜の月が琵琶湖に照り映える情景に接し、「今宵は十五夜なりけり」と不朽の名作・『源氏物語』の筆を落とした。
石山寺の本堂内に千年を経た今もなお、執筆に使った“源氏の間”がそのままリザーブされているとは、さすがは“日本紀の御局”と渾名された大物と感服するしかない。
『紫式部日記』のなかに後宮に伺候する女官たちの品定めの記述がある。譬えば、「若人の中もかたち(器量)よしと思へるは、小大輔、源式部」などと十一人の名を列挙し、褒めそやす。冒頭で欠点は言わぬと断っておきながら、文末にくるとこの容姿端麗な女官たちも「心ばせ(気立て)」という点ではこれはと思う人がいないとバッサリ。何のことはない、結論で辛辣に赤点をつける紫式部ではある。さすが透徹した観察眼と評するべきか、ただ単に底意地が悪いだけなのか判断は苦しく、難しい。
さらにその人物評はつづき、同僚の和泉式部さえも「けしからぬかた」と腐(くさ)し、古歌の知識がなく理論も覚束ない「まことの歌詠み」ではないとこき下ろす。
その極めつけが、かの有名な「清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人」からはじまる激越な酷評の下りである。「さかしだち(利口ぶって)」、「いとたらぬこと多かり」と散々である。そして最後のとどめに、「あだになりぬる人のはて、いかでかはよくはべらぬ」と、浮薄な人の涯などロクなことはないと言って退けるのである。才能への嫉みであろうか、あまりの凄まじさに背筋が凍ったのはわたしだけではなかろう。
式部のいう清少納言の晩年の落魄(らくはく)ぶりは、著名人の暴露話や秘話を集めた鎌倉初期の『古事談』に二話掲載されている。そのひとつに「鬼形の如きの女法師・・・」と変わり果てた鬼相となってもなお、清少納言が「燕王馬を好みて骨を買ふ事なり」と戦国策の一節を引用し悪態をつく様子が描かれている。
中宮定子に出仕した清少納言と関白藤原道長の娘・中宮彰子に仕えた紫式部。両人が後宮にあった時期は重ならぬが、先に名声を博した清少納言は定子の死去と共に宮仕えを辞去する。その後の零落ぶりがあざとくも大袈裟に語り継がれたことは、紫式部による酷評と相俟って、漢籍を自在に操る清少納言という希代の才媛が熱い憧憬を巷間から集め、時代の寵児であったことを逆に証明しているのだと言ってもよい。
それからすると、伯母と姪の血縁にある蜻蛉日記と更級日記の作者は紫式部とは世代が前後にずれ、確執を生む関係にもなく、その舌禍に遭わなかったことは幸せであった。
珪灰石(けいかいせき)という珍無類の岩盤に拠る石山寺の奇怪な景観に触れた後宮女官たち。邪な心や仏にすがる直向(ひたむ)きな思いなど数多の想念がこの森閑とした本堂に充溢していると感得したとき、人の一生とはあまりに儚く矮小であると悟らされる。それ故に千年の時を経ても、その才媛たちの生き様や懊悩はあまりにも身近にあり、全き共感すら覚えてしまうのである。