7月下旬、猛暑の京都から東京へ戻ったが、こちらは酷暑の夏であった。
年々「日本の夏」が変貌してきていると強く感じるここ数年の異常気象である。
「金鳥の夏、日本の夏」のCMではないが、「縁側の江戸風鈴がチリリンとなる、その音色に涼感を覚えた」など、とんでもない。
「夜の帳がおりて窓を開け放つと、闇の底から夜気が首をもたげ、わたしの頬をするりと撫でて殊の外心地よい」といったふうな幼年時代の文学的風情は、この日本から疾うに失われているようだ。
不用意に窓を開けようものなら、エアコンで快適に保たれた室内に猛烈な暖気がなだれこみ、一挙に部屋はサウナ状態へと変じてしまう。
そんな東京ではサッサと所用をすませ、一路、信州へとトンずらした。
叔母たち一行も昨年5月の蓼科行が気に入ったと見えて、今年は夏の避暑地を体感したいとの希望で、早速に3泊4日の予定で蓼科へと車を駆った。
84歳の叔母は冥途の土産ではないが、一度、善光寺へお詣りしたいというので、行程に長野市ゆきを組み入れた。
善光寺・山門
善光寺のついでに隣接する東山魁夷館を訪れる予定であったため、初日は名画「緑響く」のモチーフとなった「御射鹿池(みしゃかいけ)」(茅野市奥蓼科)を事前に観ておくとよいと思い、諏訪南ICから奥蓼科へと直行した。
最近は観光バスのコースにも組み込まれ、御射鹿池の隣地に大型バスの駐車場が整備されている。
夏空を映すミラーレイク、御射鹿池
かつては道路から池の畔まで自由に行き来できたが、駐車場の整備とともに柵が設けられ、御射鹿池は道路から柵越しに見学する、まさにいっぱしの観光地と化している。
なんとも味気なくも世知辛い時代となったものだ。
そしてその日は蓼科名物の北インド料理「ナマステ」(東急リゾートタウン蓼科内)でおいしいタンドリーチキンとカレーで夕食。
絶品のタンドリーチキン
ママの「みどりさん」のいつものマシンガンのような途切れのない喋りを左から右へと聴き流しながら(失礼!!)の、心地よいひと時を過ごした。
ナマステの店内
そしてわれわれ夫婦とほぼ同い年のオーナーとママ、いつまで営業を続けてくれるのかなと、そろそろ心配になってきたこの頃ではある。
翌日、いよいよ今回の信州行きの目玉となった善光寺行きである。片道125KM、2時間15分の行程である。
いつも思うのだが、長野県は南北に広く、観光名所は数々あれど同一県内といっても移動が大変な県である。これまで長野市内を訪ねる際は、あちらで1泊というのがわれわれのパターンであったが、此度は蓼科3泊ということで、この日は日帰りという強行スケジュールであった。
叔母の念願であった善光寺へ車をつけた。猛暑の故か、予想に反し参詣客が少なく、ゆっくりと参拝が果たせた。
参拝客もまばらな善光寺本堂
そののち、隣接する長野県美術館へと移動した。
長野県立美術館
附属する東山魁夷館がお目当てだったが、なんと先週で「緑響く」の展示は終了したとのことで、常時展示の習作で我慢することとなった。
東山魁夷館 ラウンジから中庭をみる
その後、松本へと移動。松本ICで降りて青空を背景にそびえる国宝・松本城を見学。夕刻であったため城内見学は既に終了し、城郭をお堀越しにながめながらの散策となったが、青空をバックに聳える黒ずくめの天守閣はやはり格好良かった。
小天守を従える国宝松本城
そして夕食は松本のフレンチの名店「レストラン澤田(松本市沢村)」を予約していた。
レストラン澤田
久しぶりに澤田に予約の電話を入れたとき、「お父さんは(沢田宗武氏)お元気にされていますか?」と問うと、「実は父は昨年の11月に亡くなりました」とお嬢さんの返事。びっくりしたとともに、お世話になった澤田さんに随分と不義理をしてしまったと後悔の念が募ったが、後の祭りであった。
アンティークな造作の店内
安曇野の有明に宮大工の手になった純和風平屋づくりのお宅があったが、2度も泊まらせていただくほどのご厚誼を賜った。
その際には中房温泉の湯が素晴らしいと同氏の運転でわれわれ夫婦を連れていってくださったり、お嬢さんの手作りの朝食をいただいたりと心尽くしの歓待を受けた。
またある時は、小澤征爾氏指揮の「セイジ・オザワ松本フェスティバル」の貴重なチケットを手配していただくなど、本当にお世話になった。
お嬢様にならんでいただき手に入れた貴重なチケットでした
そんな思いで深きレストラン澤田で、懐かしいフレンチ料理をいただいた。
白身魚のポワレ
フィレステーキ
澤田の味である。いつものことだが、丁寧に作りこまれた料理のひと皿ひと皿にわれわれ5人は溜息と感嘆の聲を漏らすのみであった。
山のいえ ベランダより緑蔭を
蓼科の帰路は赤ワインでほろ酔いの私に代わり、従妹の夫が運転し、夜の中央高速をひた走り無事に山のいえへと到着した。