前夜(2021.11.15)は敦賀駅前に建つ「敦賀マンテンホテル駅前」に投宿したが、夕食にはそこから500mのところにある老舗・「ヨーロッパ軒・敦賀駅前店」で福井名物のソースカツ丼を食べる予定であった。
ところが綿密に立てた計画であったはずが、その日は定休日ときた。
脳内はすでにソースカツ丼でいっぱい、畢竟、肉、肉、肉とホテル前の「文楽園」なる焼肉屋で今後の過酷なドライブ旅にむけてのエナジー注入となった。
そんな文楽園、コスパ最高の掘り出し物であった。おいしい焼肉をたらふく食べて、幸せな眠りについた。
翌朝、この旅のひとつの眼目でもある越前国一之宮・式内社の気比(けひ)神宮に詣でた。
この気比(笥飯)神宮の建つ土地であるが、第15代天皇・応神天皇との関係が深いのである。
日本書紀に天皇の父母宮・仲哀天皇と神功皇后が「角賀(つのが)に幸(いでま)し、即ち行宮(かりみや)を興(た)てて居(ま)します。是を笥飯(けひ)宮と謂う」と当地に行幸、逗留したことを記している。
また神功皇后も「武内宿祢に命(おお)せて、太子に従いて角賀(つぬが)の笥飯大神を拝(おろが)みまつらしむ」(紀・神功皇后摂政13年2月)と、息子の応神天皇に笥飯大神を崇敬参拝させたとあるなど、三韓征伐を成し遂げたばかりの緊迫した国際情勢のなかで、応神系王朝にとって半島との中継基地である当地が重要かつ無視できぬ地であったことが窺い知れる。
その故か、境内には敦賀の地名の由来となった角鹿(つぬが)神社(祭神 都怒我阿羅斯等命(つぬがあらひとのみこと))が摂社として祀られているのである。
そして日本書紀は応神紀冒頭でまことに奇妙な譚を語るのである。
気比神宮の主祭神である伊奢沙別命(いざさわけのみこと)は、実は応神天皇の本名であったと書いている。
応神が太子の時代、臣・武内宿祢を伴い淡海や越国を歴訪したが、角鹿の気比(笥飯(けひ))大神が武内宿祢の夢に顕れ、「神の名をもって太子の名に替えようとおもう」と宣ったので、太子が「去来紗別(いざさわけ)尊」から「誉田別(ほむたわけ)尊」へ、一方の大神が「誉田別神」から「去来紗別神」へと易名(なかえ)したというのである。
因みに笥飯(けひ)とは風変わりな呼び名であるが、「笥(はこ・け)」は食物を盛る器の古語であり、笥飯を直訳すれば器に盛られた飯、「食(け)」の「霊(ひ)」すなわち食物神(御食津神)をあらわすのだそうだ。
そして時代が下り皇統が途絶えようとしたとき、越国を地盤とする男大迹(おおど)王(継体天皇)が応神天皇五世の孫として暴虐な武烈天皇の後を襲った。
記紀の説話は男大迹王の正統性を謳うため、出身国たる越国が応神系王朝にとって深い縁を有する地域である証として必要なものであったと考えるべきなのか、いずれにしても奇妙な神性具備の譚ではある。
そんな謎に後ろ髪をひかれながらも、次に常神半島の突端近くに鎮座する常神社(つねがみしゃ)へと向かった。
常神社は気比神宮の奥宮であったという言い伝えを残す式内社である。
氣比神宮社伝に「常宮は若狭の常神を移し祀りたるにて、古より氣比宮の摂社なりと云へり」と、常神が現在の奥宮である常宮神社(敦賀半島)へ遷った古記録と併せ考えると、この古色蒼然とした常神社こそが笥飯神宮発祥の社であったといってよい。
さて常神社の主祭神は神功皇后とあるが、相祀されている渡津松神、神留間神、三望大神の三柱が何者かはまったくの謎となっている。
そしてこの古社の旧地が半島の先端500mに浮かぶ御神(おんがみ)島であり、そのまた旧地が現在の地であるという行ったり来たりの魔訶不思議。
事程左様に笥飯大神という神様は本当に謎に満ち満ちているのである・・・
そして常神社が鎮座する常神半島をふくむ敦賀・若狭一帯が、先の易名説話や常神社に「従二位常大明神」という高い神階が授与されたこと、半島名の「常神」は言うに及ばず「御神島」、「神子(みこ)」といった「神」に由来する地名が残るなど往古、強い神威がおよぶ聖域と見做されていたのではないか、謎は解けぬままである。
また半島の遊子(ゆうし)浦および小川・神子・常神の4つの浦にはかつては産小屋を設けそこでお産をする習わしがあったという。
敦賀半島の手浦や色浜のサンゴヤや浜松市の旧山瀬家のコヤ、長崎県対馬鴨居瀬や御前浜に代表される海人族と同様の習俗が伝えられており、往古、海上交通の要衝として海民で栄えていたことがうかがわれるが、笥飯大神に海神の影が一切見えないのも奇妙なものと思っている。
さて、神さびた常神半島を南下し福井県最後の逗留地である小浜へ向かう途中、半島の根元近くに三方五湖と呼ばれる名勝があったので立ち寄った。
その道草は大正解であった。
青空に浮かぶ白雲が汽水湖の面に映る風景はまさに絶景。
ミラーレイクを吹きわたる風が心地よかった。
いよいよ福井最後の宿となる四季彩の宿へと向かうが、その前に神宮寺という古刹を訪ねた。
「お水送り」という千二百年もの間連綿とつづく神事を催行しているのがこの神宮寺である。
奈良東大寺の二月堂で3月12日に行われる「お水取り」はあまりにも有名であるが、その10日前にここ若狭の神宮寺で行なわれている「お水送り」という神事を知る人はあまり多くはなかろう。
お水送り神事の一連の流れであるが、ひと月前に境内の閼伽井で汲んだお水を、住職が本堂にこもり、日に6回の読経で浄め、3月2日の一斉勤行で聖なる水と化した香水(こうずい)を夜半、松明行列の先導により遠敷(おにゅう)川上流の鵜の瀬に流す、その最後の神事を指して「お水送り」と称されている。
その神事の由来が面白い。
東大寺のお水取りの創始者・実忠和尚が二月堂建立の際の「十一面悔過(けか)」の法要で全国の神々を勧請するも、若狭の遠敷明神だけが遅参した。遅れた理由が遠敷川で釣りに夢中となったためというのである。
爾来、十一面悔過の法要の際、その井戸から香水を汲みだしご本尊にお供えするのが仕来りとなった。
若狭の鵜の瀬から地下水系を通じ10日間かけて香水が二月堂の井戸に届くことから「若狭井」と名付けられたという。
まことに興味深い譚で、古代、大陸文化の流入地であった若狭と内陸深く位置する平城京との密接な関係を今に伝える奇祭である。
そしていつか機会があったら、お水送りの神事、松明行列に参加してみたいものと思いながら、小浜湾を眼前に見る瀟洒なホテル、四季彩の宿・花椿へと向かった。
女性の一人旅にうってつけのプチホテルである。お部屋からは可愛らしい小浜湾が見渡せる。
また早朝には白砂の浜辺を一人散策するのも趣きのある、素敵な宿であった。