日本書紀・継体紀に、継嗣がないまま武烈天皇が崩御され、大伴金村大連等重臣たちによる僉議の結果、皇統をつなぐため応神天皇5世の孫、男大迹(オオド)王を26代天皇とする経緯が記述されている。
そのなかで「三国(ミクニ)」へ節旗(シルシ)を持ち御車を準備して男大迹王を迎えにいく下りがある。
現在の三国は九頭竜川の河口あたりの地名であるが、当時は越の国の坂井、足羽、丹生の三郡をあわせたものが「三国」にあたり、いまの坂井市、福井市、越前市までをふくむかなり広範囲をいっていたという。
つまり古の重要な交通手段であった九頭竜川とその水系の足羽(アスワ)川、日野川という越の国の三大河川の流域一帯を男大迹王が支配していたといえる。
このエリア一帯に継体天皇の伝誦が数多く残っていることからそのことは明らかである。
古にいうその「三国」の南部、九頭竜川の扇状地の谷口にあった母の里、高向(坂井市)から山塊を二つ、
足羽川扇状地に建つ男大迹王創建の足羽神社から山塊一つ越えた
日野川東部流域に味真野がある。
男大迹王の寓居跡、また中世の豪族鞍谷氏の館跡とされる場所には味真野神社が建っている。
そのため神社の三方に土塁が今もはっきり確認される。
神社の伝承によると、往古、北西1kmほどのところに鎮座していた式内社・須波阿須疑(スワアスギ)神社のご祭神三座が分かれ、その一柱が伊弉諾神社として現在地に本宮として建立されたという。
それが味真野神社の前身で、その後近隣神社の合祀を重ね、この地の地名をとって味真野神社と改称されたという。
この一帯は越前国の国府があったとされるが、三大河川やその支流が網の目のようにめぐり、古来、交通軍事の要衝であったことは確かである。
さて室町時代初期、「風姿花伝」を著し能楽を大成させた世阿弥の作品に「花筐(ハナガタミ)」という演目がある。
遠い昔、初めて国立能楽堂で観た演目が「花筐」であった。
思い出と云えば、シテの照日前(テルヒノマエ)の動きがあまりにも悠暢で眠気をこらえるのに苦労したことばかり。これこそが味真野時代に寵愛した照日前と継体天皇との恋物語であったとは、此度の旅でそのことを知り、驚いた。
社殿前にはそのことを知らせるかのように、「謡曲花筐発祥の地」の苔生してはいるがりっぱな石碑が建っていた。
継体紀を去ること八百年、室町時代に至っても味真野が継体天皇ゆかりの土地であったことが巷間に広く知れ渡っていたことになる。
「花筐」のワキヅレ(都からの使者)のセリフに「越前の国味真野と申す所にござ候」、「味真野の皇子におん譲りあるべし」と、味真野の地名がしっかりと登場しているのだから。
そんな地に建つ味真野神社は雪囲いなのか無粋にも社殿が覆われ、その姿を拝見することは叶わなかったが、その境内に拡がる光景は一見の価値があった。
若き日の男大迹王と照日前の恋、そして、大和へ行ってしまった男大迹王を慕うあまり狂女となった照日前との邂逅・・・
そんな熱烈な恋情をあらわすかのようにハートの意匠が至る所に施されていた。
継体天皇と照日前の銅像前の情熱的な真っ赤な花輪はもちろんのこと、両脇の花も・・・また、地面に描かれた大きなハートマーク・・・
花壇もハート形。
そして、休憩用の木製の腰掛椅子もハート、それに石造りのベンチの脚の型抜きもハート・・・
いやはや、ここは古希、古希のカップルには少々、熱気が強すぎた。
恋人の聖地といわれ場所は各地にあるが、これほどまでに恥じらいなく「世界の中心で、愛をさけぶ」を体現している場所をわたしは知らない。
次に細君の実家である高松にいくときには、映画「セカチュウ」のロケ地となった庵治町へいってみよう・・・と・・・年甲斐もなく心の中で呟いたところだ。