久しく途絶えていた「コキコキドライブ旅」だが、わたしの人生行路の記録を残したいとの虚仮の一念でふたたび書きつないでゆくことにする。前回は「永平寺」で終わっている。
さて、その永平寺から南西に8km、車で20分弱のところに戦国大名、朝倉氏の一乗谷遺跡は位置する。

永平寺山門からの水墨画
永平寺山門から中雀門と僧堂をみる

朝倉氏遺跡は九頭竜川水系のひとつである足羽(あすわ)川に流れ込む支流一乗谷川沿いに切れ込む谷内にある。

一乗谷川
一乗谷川
一乗城山(いちじょうしろやま・標高436m) の頂に一乗谷城を配し、その麓、東西500m、南北1.7kmの範囲にわたって南北の城戸で防御された城郭都市の発掘遺構である。
ここに中世の城郭都市があった
この谷間に城郭都市があった・・・

その存在は江戸時代から知られていたというが、昭和40年代の大規模水田改良事業のスタートにより、その遺跡規模が想像以上に広範囲にわたった。

下城戸
一乗谷の南端にある下城戸
しかも整然と残されていることがわかり、地元自治体、住民の強い思いから遺跡の一括保護がなされた。
一乗谷街並み遺構群
街並みの遺構群

その遺構がほぼ完全なままで発掘されていることから東洋のポンペイとも呼ばれている。

各戸に井戸が一個ずつ整備されていた
各戸に井戸を設けた街並みの遺構

先に訪ねた永平寺の開祖道元による開山が1244年であるので、一乗谷の城下町の形成はそれから約二百年後のことになる。

一乗城山
一乗城山

そして約百年間にわたり朝倉氏のもと繁栄を極めたが、織田信長により第11代当主の朝倉義景は討たれ城郭都市も灰燼に帰し、いつしか歴史のなかにうもれ、田畑のしたに名実ともに埋没することとなった。

復元街並み
復元された一乗谷の街並み

わたしどもが訪れたのは2021年の11月であったが、観光客もまばらで復元ざれた街並みや館跡をゆっくりと歩くことができた。

復元武家屋敷
武家屋敷の内部

戦国時代の城下町というものが、時代劇でよく目にする武家と農民・町民の居住地区がはっきり分かれてはいず、混在していたことに少々驚いたが、まだ武士が専業でない時代、城下町という形態はおよそこんなものであったのだろうと納得した。

商人の家
商人の家 中に井戸がある

いざ戦となったときには農民が刀や槍を引っ提げて戦場へと赴くことが当たり前の時代であったのだから。

朝倉氏の館内から門を見る
朝倉氏当主館内から唐門をみる

武士を初めて専業とした信長の軍事力によって、この中世の小京都とも称された文化都市が壊滅させられたのも歴史の必然と云えるのかもしれない。

街並み側から朝倉館遺跡と一乗城山
街並み側から朝倉氏当主の館をみる

一方で少々びっくりしたのが、各家々には必ず井戸が設けられていたことである。しかも各戸を網の目のようにつなぐ水道溝も認められ、16世紀の城郭都市にはすでに都市インフラがしっかりと整備されていたことを目にして、驚いた。

かつて信州松代江戸時代の歴史的道すじ散策したときに、「カワ」や「泉水路」と呼ばれる水路が家々をめぐり、街中に水道網が張り巡らされていたことに驚いたが、その時代をさかのぼること2百年の15、6世紀の越前において、すでにそうした都市インフラが整備されていたとは、日本人の技術力や頭脳、さらにはエコと殊更に唱えるまでもなく、日常的にそうした思想が身についていたことにはもっと誇りと自信をもってよいのだと思った。

松代の歴史的道すじ
信州松代の歴史的道すじ

私たちが伺ったときにはまだ存在しなかった「新・一乗谷朝倉氏遺跡博物館」が2022年10月にオープンしている。

朝倉当主の館跡
朝倉氏当主屋敷跡
JR一乗谷駅から徒歩3分の足羽川沿いに建っている。そこから一乗谷朝倉氏遺跡へは車で4分ほどとのこと。
当主館跡
朝倉氏当主館跡

170万点に及ぶ出土品のなかから選ばれた品々が館内展示されているそうだ。また朝倉当主の館が一部、原寸大で再現されているそうで、義景の日常を体験してみるのも一興と思われる。