海柘榴市という本来、甘い恋を語らう歌垣の舞台を使って、陰謀渦巻く王朝交替という大政変を、さらりと恋敵同士の争い事にすり替えた日本書紀の編者・舎人親王(天武天皇の皇子)の狙いは何であったのか。


父たる天武の血筋・皇統が絶えなんとすることを見越しての預言をこの話に含ませたかったのか、この話に隠された舎人親王の符牒とは何か、海柘榴市の寓話に埋め込まれた謎とは一体何なのか、興味は尽きぬところである。


そこで、ちょっと海柘榴市より話は逸れてしまうが、この王権交替の不可思議な謎にさらに迫ってみたいと思う。


前稿で語った平群真鳥による王権簒奪がなぜ起こったかと日本書紀を精読すると、皇位争いの過程で兄弟・従兄らを次々と謀殺していった雄略天皇、その時代から清寧天皇の即位に至る間の吉備一族の一連の反乱劇として記述された真相は何か。


そして、武烈天皇の先代、仁賢天皇さらにその先代の顕宗天皇が子のない清寧天皇(雄略天皇の皇子)から皇位を継承した奇妙な経緯などを具に読み込むと、凄まじい王権争奪抗争の裏に暗躍する有力豪族の、その果てには他の王朝の興亡すらも見えて来る。


つまり、吉備一族は大和にそもそも服属などしておらず、それぞれの地方の王朝として存在していたのではないか、また各々の天皇擁立に奔走した豪族は誰か、武烈天皇の前二代の天皇は実際に即位を果たしていたのか否かといった皇統の正統性や連続性といった王権の根幹部分に疑義が生じてくるのである。


武烈の前の天皇とは、武烈の父にあたる先代の第24代・仁賢天皇と仁賢天皇の弟、即ち、叔父にあたる先々代の第23代・顕宗(けんぞう)天皇である。


顕宗(弟・億計(オケ)王子)天皇と仁賢(兄・弘計(ヲケ)王子)天皇は共に市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)の子である。市辺押磐皇子は父、第17代・履中天皇(仁徳天皇の長子)の長子であり、第20代・安康、第21代雄略天皇(共に第19代・允恭天皇の皇子)の従兄に当たるが、仁徳天皇の皇統でいえば、嫡流いわば直系の血筋にあたる。


億計・弘計王子の父・市辺押磐皇子は雄略と皇位継承上、対立関係にあった。その市辺押磐皇子に安康天皇が生前、皇位を譲る意向を示していたため、天皇崩御の僅か二ヶ月後の安康3年10月、雄略(允恭天皇の皇子)は策を弄し、同皇子を狩猟に誘い出し、猪と間違えたとして射殺し、その5か月後に即位を果たした。


市辺皇子の子、億計・弘計王子兄弟は、雄略天皇から次に命を狙われることは必至であり、忠臣の帳内日下部連使主(とねりのくさかべのむらじのおみ)とその子、吾田彦に守られ、まず丹波国の余佐郡に身を隠すことになった。


それでも、なお、雄略天皇の追捕を惧れた帳内使主は自らの名前まで変えて、播磨国の縮見山に潜伏するも逃れきれぬと思い、そこで一人縊死する。


使主と別行動をとっていた億計・弘計兄弟は、使主の子の吾田彦とともに今度は播磨国赤石郡へと逃れ、自分たちも丹波小子(たにはのわらは)と変名し、縮見屯倉首(ししみのみやけのおびと)の奉公人に身を落とし潜伏することとなった。


雄略の崩御一年前に清寧は皇太子(ひつぎのみこ)となるが、天皇の死後、吉備上道田狭の元妻であった稚媛と雄略の間にできた星川皇子が母・稚媛と組んで、雄略の後を襲おうと陰謀を巡らす。


吉備王朝を衰亡させた雄略天皇の遺詔(吉備上道臣の血を引く星川皇子は必ず王位を狙う。その時は清寧を守れ)により大伴室屋大連と東漢掬直(やまとのあやのつかのあたい)が稚媛と星川皇子一派を誅殺、さらに反乱に加担しようとした外戚・吉備上道臣の所領を一部収奪した。


真義定かならぬが、雄略天皇の遺詔という大義をもって、吉備王朝の影響力を大和王朝から一掃した大伴室屋大連と東漢掬直という有力豪族によって、ようやく雄略の皇子・清寧天皇に皇位を継承させることになる。


そうして皇統の正統性・連続性を整えたにもかかわらず、不思議なことに清寧帝に皇后が立てられることはなく、したがって皇子もなく、その皇統は絶える事態となっている。


真に以て不可思議な風景の記述なのである。