今回の選挙結果を受けた感想を、JT生命誌研究館館長の中村桂子氏があるNPO法人の会報のコラムで、


「投票率が史上最低という形で終ったのは気になります。ここでしか意志を伝えることはできないのに。」

「その結果、安倍さんが思うままに憲法改正ができる数になってしまった恐さ」


と書いておられた。


前段の、戦後最低の投票率となった点はおっしゃる通りであるが、引っかかるのは後段の部分である。


中村桂子氏といえば生命科学分野で専門的業績は言うに及ばないが、難解な生命科学の世界を世の中にわかりやすく紹介、啓蒙された功績でも評価されている人物である。


そうしたいわゆる知識人と呼称される人たちは、どうしてこうも現行憲法について語る時に一瞬にして思考停止の状態になってしまうのか、不思議でしようがない。


日本の言論界(そんなインテリジェンスな世界がこの国にあったとしたら)やメディア、そして知識人と総称される中村先生のような聡明な方々が何故にこうも憲法改正を頭から否定し、改正は悪だと与件として語るのか。


わたしにはそこがいつも分らず、理解に苦しむところである。


特に、他の様々な分野のお話において非常に見識の高さを示される人物が、こと9条問題や憲法改正問題について話される時に、決まってその脳軟化症といおうか脳硬化症という方が適切だと思われる病状に陥るのか。


中村先生ももちろん色んなことは分ったうえで、小さなコラムにちょっと書かれた感想であるから、いちいち目くじら立てて云うんじゃないとお叱りを受けるのは覚悟の上で、少々、やはり申し上げるべきと思い、愚考するところを述べることとする。


今後、2017年の参議院議員選挙において議席の2/3以上を確保し、衆参両院で与党がその条件を満たすことになったとしても、中村先生がおっしゃるような「安倍さんが思うままに憲法改正ができる数になってしまった恐さ」になるわけではない。


国会は憲法改正案を国民に対し発議することができることになるだけで、その後の国民投票において国民の過半数の賛成を得て初めて憲法改正は成る。


憲法第96条は、現在、その発議に必要な2/3を1/2に改正したいという自民党内の動きで注目を浴びたが、この条項自体は日本国憲法のなかで第9章“改正”とわざわざ章立てがなされて規定されているものである。


次にその第9章を記載するが、第9章は第96条の1条(二項)のみで成り立っており、第2章の“戦争の放棄”が第9条の1条(二項)のみで成り立っていることと同じ扱いであるともいえる。


第九十六条

この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。

 憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。」


申すまでもないことだが、憲法改正の是非は主権者たる国民(2007年5月成立の「憲法改正手続法(国民投票法)」で18歳以上の日本国民)が判断するのである。


飽くまでも主権者たる国民が最終的に裁可するのであって、少なくとも、「安倍さんが思うままに」などはできないことは確かなことである。


もし、「思うままに」とおっしゃることが本音であるとしたら、それは国民主権というそもそも憲法の前文ならびに第一条で規定されている文言を信用されておらぬということになるし、また、国会で決められたことを国民は鵜呑みで賛成する、日本国民は愚かにも自己判断能力を持たぬということを言っておられることとなる。


もちろんそんなことを聡明な中村先生が考えておられるわけではないし、おっしゃるわけはない。


だから、憲法問題については丁寧な議論、言い回しが必要となるのではないかと愚考するのである。


1946年11月3日に公布された日本国憲法は、その後68年間にわたり改正は行われていない。


戦後70年目となる来年、その間に国際社会の構造やわが国を巡る周辺環境は大きく変化した。さらに民主主義に対する国民の理解も深まり、最近では税金の使い道といった視点でも、国民主権という考え方は、われわれ国民の血肉となってきたとも感じられる。


そうした歴史認識、現状認識に立ったところで、現行憲法を素直に読むと、この憲法が作られた70年前とは大きく国際情勢、国内情勢、そしてわが国国民の民度が変わって来ている。色々と現実にそぐわぬ、これは国の存亡にかかわるという点が多々、出てきているなというふうに正直に思うのである。


ひとつ、例えば憲法前文にある「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」と赤字の部分など、現下の竹島情勢、尖閣諸島情勢、小笠原諸島での珊瑚乱獲に見る領海侵犯の問題、北朝鮮の核ミサイル開発問題等を列挙するまでもなく、“平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して”、国民の生命と財産を守ることなど危なくてしようがないと考えるがどうであろうか。


第2章第9条の「戦争の放棄」も、もちろん第二次世界大戦を惹起した枢軸国の一員として大きな反省に立ってのものであることは否定しないが、前文の赤字部分の理想的な国際情勢認識といおうか願望を前提にしたものであることも否めぬのである。


現実にこの国は激変を重ねる国際情勢のなかで日米安保条約という軍事同盟を背景に戦後の経済発展を享受し、経済大国としての地位を確立してきた。


しかし、それは米国の核の傘があっての、日米地位協定という不平等で屈辱的な条件下での、平和の享受、経済繁栄の享受であったということも冷厳なる事実である。


真の独立国家とは何か。


この一点で戦後70年となる2015年、その目指すべき国家像を議論し、若者たちが誇りをもって生きていける国造りをなすために議論を尽くし、深めてゆくべき時機(とき)が来たと考える。


その詰まるところが憲法議論である。現行憲法を所与のものとする思考回路はもう棄てなければならぬ。硬直的な思索、いや、宗教ともいってよい“九条教”をまずは脇に置いて、誇りある真に自立した独立国家たるにはどういった課題を解決しなければならぬのか、核や国防軍など安全保障の問題を含めどういった国家としての構えが必要なのかを、真摯にかつ冷静に議論を進めてゆくべきである。


そう考えた時に、その“とば口”で、憲法改正は悪である、戦争国家への道だと決めつけて、憲法議論を脳内で封殺することだけは勘弁してほしいと思うのである。


安倍晋三が右寄りで怖いと考えるのはもちろん自由である。しかし、二一世紀の“複雑怪奇なる国際情勢”のなかで真の独立国家として生きてゆく道筋は何か、これからの誇りある日本人、若者たちのためにも、憲法議論に真正面から取り組んでいく覚悟が必要であり、その義務、責任がわれわれ大人にはあるのだと考える。