今年も我がお寺の施餓鬼会(せがきえ)が7月6日に行われた。
昨年のブログ(“施餓鬼会(せがきえ)が終わり、梅雨が明け、夏が来た”)を読むと、書き出しは次の如く。
「7月6日はわが家のお寺の“施餓鬼会”です。今年もその日がやって来た。例年だと“施餓鬼会”は梅雨も真っ盛りの頃となるのだが、今年は関東甲信越の梅雨明け宣言が早々に出た日と重なった。東京の最高気温は33.7度。お寺へ向かう車中で外気温を見たら36度であったから、猛烈な暑さであったことは確かだ」
そう、2013年は7月6日が梅雨明けだったのですね。今年はまだまだ梅雨明けは先になりそうです。
そして、今日の最高気温は27.7度。蒸し暑い1日であったが、昨年よりは6度も低い気温。曇り空ということもあって意識するほどの日差しもなかった。
まぁ、施餓鬼日和?であったといってよい。
そんななか、日曜日ということもあり今年も多くの檀信徒が参列、本堂は立錐の余地もない。あふれた人は外の廻廊にて施餓鬼法要の読経の声を聴く。
まず、法要の前に恒例の法話がなされた。今年は真言宗智山派の大本山である高尾山薬王院修験部修験課課長である戸田令定(れいじょう)氏が講師として招かれていた。
戸田氏は新住職の中学、高校、大学のご学友ということで今年の法話の講師を引き受けられ、頭襟(ときん)を頭部につけ法螺貝を脇に抱えた山伏姿での登場であった。
演題は“山の魅力”。
不殺生戒、不偸盗戒といった仏教の十戒(じっかい)・“戒め”を、日常のなかで守ろうとする心の姿勢が大切であるとの内容。
“やってはならぬ”といっても人は過ちを起こす。仏教の十戒は文字通り“戒(いましめ)”であり、それを破った際の“律”すなわちペナルティはないということである。
“戒め”の“十戒”を頭の隅に留め、日々をおくる心づもりを忘れずに生きなさいということであったと理解した。
手前勝手な解釈であるが、仏教とは、ほんとうに凡人にはありがたい心弱きものにやさしい宗教であると感じたところである。
とくに俗世の垢に塗(まみ)れたわたしには何ともありがたい話にホッと胸をなでおろした次第であった。
そんな法話のあと、施餓鬼会の法要が粛々と執り行われた。
本堂内に共鳴する十数人の僧侶による読経はいつものことながら美しく、心に響く。
本堂内に設けられた施餓鬼棚は檀信徒の卒塔婆が立て掛けられ、その前で今年住職を退き、長老となられた前住職と息子さんの新住職が並んでお清めを行なう。
そして、長老が椅子に坐られ経机に積まれた過去帳を一冊一冊、手に取りお香に翳し、頁をめくってゆく。
彼岸に逝った一人ひとりの霊に施しを行なっているのである。
施餓鬼とは読んで字の如く、“餓鬼に施し、鳥類に施し、他人に施し”、まさに“情けは人の為ならず”の心なのだと、口のなかで念仏を唱えた。
法会もとどこおりなく終了。檀信徒は卒塔婆をいただき、各自の墓所へそれを立てるため本堂をあとにした。
つい先日と思った施餓鬼、もう今年の施餓鬼がやってきた。この齢になるとと、年寄り臭いことを言うが、年寄りなのだから許していただきたいが、ほんとうに一年が過ぎるのが速い、速すぎる・・・
来年はどんな速度でやってくるのだろうか。はたまた来年という年は私のうえにもひとしくやってくるのだろうか。そんな考えが脳中に去来した施餓鬼の一日ではあった。