ときはなる吉備の中山おしなべてちとせを松の深き色かな(新古今和歌集)
古来、古今和歌集、新古今和歌集などで詠われている吉備の名山・“吉備の中山”は、現在の岡山市北区に位置し、標高170mの龍王山をはじめ幾つかの山塊から成り立っている。
江戸後期の儒学者・頼山陽はその一連の山容が鯉に似ているとして“鯉山(りざん)”と呼称したが、吉備国の中心に位置することから“吉備の中山”と号した昔からの呼び名がやはり、この聖なる山の名称としては最も適切であり、意義のある名前と言えよう。
そして、その山腹から頂上にかけては古代吉備国の謎を秘める、首長の墓や巨石信仰遺跡の磐座群が多数存在する。
古より神奈備の山として崇められてきた“吉備の中山”。古代史オタクには堪らぬ魅力と豊富な謎に満ちたスピリチュアル・スポットである。
なかでも、箸墓古墳より古く最古の前方後円墳といわれる矢藤治山古墳や100mを超える大型前方後円墳の尾上車山古墳、御陵と呼ばれる中山茶臼山古墳など前期古墳の一群、石棺が収められた石舟古墳など後期古墳などが注目すべきものとしてあげられる。
4月13日と14日の2日にわたり、“吉備の中山”の山麓に鎮座する備前一の宮・吉備津彦神社と備中一宮・吉備津神社を参詣したが、往古、ご神体でもあったはずの聖なる山・吉備の中山をぜひ散策してみたいと考えたのである。
第一日目は別稿に記す吉備津彦神社を参拝したのちに、本殿向かって左側にある中山登山道口から入山した。その日は標高170mの龍王山の頂上を目指し、元宮磐座、八大龍王の石祠や経塚、そして天柱岩を順次、見学して戻る予定であった。
ところが、境内におられたボランティアの方からこれから雨が降るとの予報であるし、足の不自由なわたしが杖を突きながら登ってゆくには、途中の急坂が半端ではなく、その行程は険しすぎるとのアドバイスをいただいた。
それでは途中まで登ってみて無理だと思ったら戻ってきますということで、ボランティアの方の「注意されて登ってらしてください。くれぐれも無理をなさらずに」との言葉を背に拝殿の左側を廻り、登山口へと向かった。
稲荷神社の朱塗りの鳥居群前を左手に迂回すると、正面に登山口の石柱があった。
登山道入口の脇に、吉備津彦命薨去之地と刻まれた堂々たる石碑が建っている。吉備津彦命(大吉備津彦命)とは、吉備津彦神社のご祭神で、中山の頂上に築かれた中山茶臼山古墳に眠る吉備國平定の英雄である。
さて、その登山道であるが、入口付近はきれいに整備された山道で、歩くのに何の不安感も覚えぬものであった。
その山道に入る前に、左手の平坦な草地の奥に、大きな台石の上に建つ忠魂碑が見える。
忠魂碑もりっぱだが、その下の巨大な台石を見落としてはならないと言うことであった。その昔、この巨石は今の場所より後方、一段高いところにあったものを、この地に忠魂碑建立の際に、下へおろしてきたのだそうだ。
そして、巨石の元あった場所が、境内に案内される“古代御社図”に見える“御本社(もともと本殿があった場所)”の位置とほぼ一致することから、これこそが古代吉備津彦神社の本殿といおうか磐座(いわくら)であったというのである。
つまり、古代の神社は現在のような本殿のような建物はなく、自然の中に存在する“磐座”やその背後に麗しい姿を見せる“吉備の中山”こそが信仰の対象であり、聖なる神の憑代(よりしろ)であったという。
その古代の磐座を後にして、いよいよ吉備の中山へと分け入っていった。ゆるやかな傾斜道をゆくと右手に卜方(うらかた)神社(輝武命【備前国岡山藩主の池田氏の祖・信輝の霊を祀る】)が建っている。
そこから100mほどゆくと、こんもりとした盛り土の上に藤原成親の五輪の供養塔が見えて来る。
成親は俊寛や西光と平家討伐を謀ったいわゆる“鹿ケ谷の謀議”の発覚により備前国に流されたが、配流の1か月後には早やこの地で殺害されたとのことである。
その五輪塔は、なぜか横穴式石室を持つ後期古墳の上にひっそりと建っている。
供養塔と石室をのんびり観察していた時、予報通り雨がパラパラと降ってきた。こりゃまずいと、杖の支えも借りて少し足を速め、勇躍、登山にかかりだした。
途中、龍神谷あたりまではゆるやかな坂がつづき、道幅もそこそこに広かったので、歩行はいたって快調であった。まぁ、余裕の歩きであったと、言っておこう。
だが、次第に道幅が狭まるにつれ勾配もきつくなり、九十九折となった道も粘土質で滑りやすい状態へと変わっていくなど、わたしの歩きに不安の兆しが見えてきた。
そして、ところどころ、杖を支えに体を持ち上げねばならぬような急勾配の傾斜が多くなるや息も上がって来る。
加えて雨がポタポタと大粒になる気配。このままでは帰りの下り坂がこの雨で滑りやすくなり危険だと判断するに至った。登山道入り口に入ったのが2時12分。そして2時52分に無念の反転を決断。残念至極ではあったが、一人旅、無理はよくない。
それから、ゆっくりと吉備津彦神社へ向かい、下って行った。雨で山の上の清掃作業を終えた人たちがわたしを軽々追い越して、下山してゆく。齢はわたしより上のはずのその一群、足取りのあまりの軽さにほれぼれするしかなかった(通常の足であれば不安を感じるほどの山ではないのだろう)。
そして、吉備津彦神社に到着。再度、お参りした後、吉備線で岡山へ戻り、当夜の宿であるホテルグランヴィア岡山に辿り着いた。
過酷?な山歩きで両脚は筋肉痛というか、もう一歩も歩を進められぬといった状態で、バスタブに急いでお湯を張り、じっくりと足をもみほぐし、明日の吉備津神社からの御陵登攀に備えた。
その後、一息ついてから駅前の赤ちょうちんにでも繰出そうと考えていたが、そぞろ歩きする体力も残っておらず、ホテル内の“吉備膳”という和食店で、ママカリの南蛮漬けをつまみに“鬼の城”など地酒で英気を養う形となった次第である。