伏見は京都の南、宇治川の北岸に展開し、江戸時代には水運で栄えた宿場町であった。
近くは坂本龍馬の寺田屋や鳥羽伏見の戦いなど沸騰する幕末の時代を、遠くは安土・桃山の豪華絢爛、自由奔放な時代を、伏見桃山城の眼下に、まさに直に眺めてきた土地である。
その伏見の地、京阪本線の伏見桃山駅、近鉄京都線・桃山御陵駅から徒歩1分のところに“総本家駿河屋伏見本舗”はある。
京町通りを隔てて対面には、明和元(1764)年、讃岐出身の初代・三郎兵衛が創業した老舗京懐石・“魚三楼(うおさぶろう)”がある。
その店先の格子には鳥羽伏見の戦いの際に受けた弾痕がいまも生々しく残されていた。まさに、幕末乱世の劇中に舞い降りたような気分になれる通りでもある。
今回は、前にご紹介した亀屋良長の“烏羽玉(うばたま)”や亀末廣の“竹裡(ちくり)”と同じく、戦時下の昭和17年、京菓子作りの伝統を後世に残さんと、時の京都府が砂糖など特別の配給を行ない保護した“和菓子特殊銘柄18品”のひとつ、“古代伏見羊羹”に迫ってみた。
総本家駿河屋は寛政二年(1461)、初代岡本善右衛門が船戸庄村(現在の伏見の郊外)に「鶴屋」の屋号で饅頭処の商いを始めたのを嚆矢とする。
天正年間に蒸羊羹を改良し「伏見羊羹」、別名「紅羊羹」を発売。それが、豊臣秀吉の大茶会で諸侯に引き出物として用いられ絶賛された(同社HPによる)。
ただ、どうもこの古代伏見羊羹は従来の蒸羊羹を改良して、澱粉、砂糖に赤色を加えた紅羊羹で、実際のところは今の煉羊羹とは異なるものであったようである。
さらに、駿河屋HPにある“天正17年(1589)の北野の大茶会で供された”ことについては、大茶会開催が天正15年であることから、総本家駿河屋の紅羊羹が引き出物として供され絶賛を博したのは、天正17年5月20日に催された聚楽第で公卿や徳川家康など諸大名に金6千枚、銀2万2千枚の金銀を配った、世に云われるところの“太閤の金配り”の際のことであったと推測される。
能書きはこれぐらいにして、早速に古代伏見羊羹を食べてみよう。購入したのは“夜の梅”と“練羊羹(紅羊羹)”の二棹の課題羊羹である。
それと、比較の意味で、現代版の“夜の梅”を一棹購入した。家内に言わせると、何が比較衡量だと申しておりましたが、やはりグルメの達人の道へと少し足を踏み入れた男として、それは、突然、偶然でもなく、必然の行為であると、強く主張したい。
それで、まず、現代版の“夜の梅”をいただく。見た目も肌裡細やかで、切り口に小豆が浮き出て、まるで夜の闇に浮かぶ梅の花のよう。
味も上品な甘さでとてもおいしい。
次に、古代伏見羊羹の練羊羹、いわゆる紅羊羹をいただく。見た目に砂糖が少し吹き出しているのが、何とも郷愁といおうか、懐かしさを感じさせる。
味はすっきり素朴で、甘みがしつこくなく、本当においしい。これぞ、“羊羹”である。昨今の甘みのきつい羊羹は、量があまりいけないが、これだと思う存分に羊羹の世界を堪能できる・・・
次に古代伏見羊羹の“夜の梅”にいく。
これはまた、見かけも漆黒の闇から咲き乱れた梅の花が浮かび上がってきたようで、なかなかの趣きである。
おいしい・・・おいしい・・・おいひ〜い!!
これが羊羹!! これぞ羊羹!!と、はしたなくも雄叫びを上げたものでした。
以上が“古代伏見羊羹を食す”のレポートであるが、この紅羊羹を製造販売する法人・(株)駿河屋の現況についても、残念ながら少し触れておかねばならぬ。
駿河屋(本社・和歌山市)は本年1月17日に和歌山地裁に民事再生法の適用を申請、保全命令を受けている。
ただ、同法の適用が受諾されたことから、これまで通り営業を続けながら同社の再生が図られてゆくわけで、古代伏見羊羹は今までと同じようにわれわれは口にすることが出来る。
“古代伏見羊羹”の熱烈なファンが少なくとも、一人、ここに厳然といることを同社経営陣は肝に銘じて速やかなる再建を果たさんことを強く願うものである。
そしてこの懐かしい味をわたしの舌の上に運んでくれる“紅羊羹”を、これからも大切に心を籠めて作り続けて頂きたいと望む。
そのためにも全国羊羹愛好会の一員であると自負して止まない方々は、総本家駿河屋に伺うもよし、ネットで購入するもよし(電話で頼めば、古代伏見羊羹も送ってもらえます)、彦左衛門のためにも、古代伏見羊羹を食べてくださ〜い!!

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