武甕槌神(タケミカヅチノカミ)を祀る鹿島神宮をゆく(下)
謎めいた経津主神(フツヌシノカミ)を祀る香取神宮をゆく(上)
謎めいた経津主神(フツヌシノカミ)を祀る香取神宮をゆく(下)
経津主神(フツヌシノカミ)と武甕槌神(タケミカヅチノカミ)=出雲で国譲りを成した二神の謎
春日大社をゆく=武甕槌神(タケミカヅチノカミ)・経津主神(フツヌシノカミ)に誘(イザナ)われ
東京から鹿島神宮へゆくには八重洲南口からの高速バス(JR・京成・関東鉄道)が便利である。10分間隔で運行されており、鹿島神宮駅まではわずか1時間56分の乗車である。
ただ、今回は香取神宮経由での鹿島参拝のため、一時間に一本のJR鹿島線を利用することになった。 香取駅から鹿島神宮までの乗車時間はわずかに16分というのにはちょっと驚く。
ところが、地図を見るとその間に利根川、常陸利根川、北浦と3つの大きな川や湖を渡っている。鉄橋や陸橋がなければ相当難儀な行程である。
往古、この間が海で隔てられていた頃は対岸が見渡せたとしても、当時の舟で行き来するのは湾口の潮流もきつかっただろう、そんなに容易なことではなかったはず。そんなことをぼんやりと頭に浮かべながら窓外を見やると、春の夕日が一条の帯地を広げたように北浦の水面を茜色に染めあげていた。
鹿島神宮駅は周囲を台地に囲ませた窪地にある。当夜の宿は駅前のビジネスホテル鈴章をとっていたが、なるほど鹿島神宮へ向かうには駅からひたすら坂道を登ってゆくのがわかる。ホテルまでのわずかな距離ですら坂道である。
香取神宮で歩き疲れたわたしの次なる愉しみといえば食事。当地名物の鯰(ナマズ)料理はどうかと奨められた。う〜ん、鯰ネェ〜と躊躇したが、何せ香取の要石を拝した身。やはり地震退治に協力せねばと老舗・鈴章での夕食となった。おいしかった話は別稿で(“鹿島のグルメ:鯰料理の老舗・鈴章”参照)。
さて、早起き苦手のわたしが9時にはすでに鹿島神宮の門前に立った。ホテル鈴章の方がこの登り坂は足の不自由なわたしには大変だと車で送ってくれたのである。前日の鯰料理・鈴章への送迎といい、今朝といい、感謝、感激である。
そして、いよいよ鹿島神宮参拝の始まりである。
嫌な予感はしていたのだが、まさか、初っ端からとは。二之鳥居の大鳥居がない。
前日の香取神宮といい、 鹿島でも肩透かしを喰らわされた形で、どうも心持ちが宜しくない。 ただ、鹿島神宮と大書された石標は隆々と青空の中に聳え立っていた。
御影石造りの大鳥居は2年前の9.11東日本大震災で倒壊したとのこと。大鳥居は境内側へ倒れたので、門前町への被害はなかったという。しかし、考えてみれば不思議である。鹿島神宮は坂を上り切ったところにある。通常であれば、傾斜に沿って下の方に倒れるものだが、人々に害を及ぼさぬようにわざわざ逆側へ倒れ込んだとしか思えぬのである。
その大鳥居は来年の御船祭りに向けて再建が進められ、此度は古来の木造に戻すそうで、6月の竣工予定である。鹿島の森に育つ杉の古木を使用するとのことで、それを語る氏子の方の誇らしげな笑顔が印象的であった。
なお、大鳥居が二之鳥居というのであれば、一之鳥居はどこに・・・となるが、大船津、北浦・鰐川の水中に立っている。今年の6月1日に約30年ぶりに川中の鳥居として復活したのだという。

東京新聞より
まぁ、そうしたわけで鳥居をくぐることなく鹿島神宮という聖地に足を踏み入れることになった。
御幣で囲われた大鳥居の柱跡を見ながら石畳を踏みゆくと、正面に大きな総朱漆塗りの重文・楼門が立つ。屋根は入母屋造りの緑青のふいた銅板葺きである。
その楼門左手前に手水舎がある。
手前を左に入ると小さな鳥居が見えるが、境内末社を祀る一画である。
左手前より熊野社・祝詞社・津東西社と並ぶ。右手は須賀社である。
そして正面には、境外摂社である坂戸社(祭神 天児屋根命・北に2km)と沼尾社(祭神 経津主大神・北に4km)を拝む遥拝所が設けられている。
次に参道へ戻り左手を見ると、目の前というより人を圧するように楼門が迫り、その造りに圧倒される。
その中央・高処には、香取神宮と同じ東郷平八郎元帥揮毫の扁額が掛かる。
楼門を抜けると左手に社務所や神札授与所がならび、朝の準備をしている愛らしい巫女さんが見えた。
そして、参道がまっすぐ奥へ奥へと続いているのが見える。19万坪におよぶ広大な境内を本堂までどこまで歩くのだろうと不安になる。
参ったなと楼門を振り返ったところ、ちょうど当神宮の鹿島則良宮司が歩いておられた。これは何かの瑞兆か・・・
と思った瞬間、右手に鳥居と何やら構築物が・・・