大河ドラマ“平清盛” 京都を行く=平等寺(因幡堂・因幡薬師)
大河ドラマ“平清盛”京都をゆく=長講堂
京都市東山区五条通大和大路上ル東

本堂・扁額

六波羅蜜寺・本堂扁額
六波羅蜜寺南門
六波羅蜜寺南門より

六波羅蜜寺は、天暦5年(951)に、市聖(イチノヒジリ)と称され、踊念仏開祖である空也上人が開創した真言宗智山派の寺院で、西国三十三所(サイゴク・サンジュウサンショ)の第17番札所となっている。

西国三十三所17番札所

当寺HPの寺史によれば、上人存命時から既にそうした噂があったことから、その出自は醍醐天皇の第二皇子・光勝とされているが、空也自身がそれを語った記録はなく、真偽は定かではないということらしい。

駒札

こうして偉そうに解説をしているわたしだが、実は今回、六波羅蜜寺を訪ねるまで、その寺号は六波羅という地名の場所にある真言密教のお寺だから“六波羅寺”と呼ばれるのだと思っていたということを、ここで白状せねばならない。

本堂
貞観二年(1363)修営の外陣が板敷・内陣が一段低い天台式建築の本堂(重文)

まことにお恥ずかしい話だが、本稿をアップするに際し、本来の寺号が仏教の教えから来ている事実を知った次第である。そもそもわが家の宗派は真言宗智山派であり、般若心経の“観自在菩薩(カンジ-ザイボサツ)。行深般若波羅蜜多時(ギョウジンハンニャハラミタジ) ・・・”と、これまでどれだけ耳にしてきたことか。その“波羅蜜”がキーワードだったとは、とほほ・・・。


下の解説(養老山立国寺・仏教のお話)で“六・波羅蜜”の意味を理解したので、ご参考になればと思い、一応、記載しておく。


「仏道修行を通じ我執を取り除き、慈悲の心で自分と他人の対立・区別を無くし、他人の幸福は自分の幸福、逆に他人の不幸は自分の不幸という自他一致の心持ちで行動する者がいわゆる“菩薩”である。


その菩薩が生きて成仏するために行なう修行を波羅蜜(はらみつ)と呼び、その修行に布施(ふせ)・持戒(じかい)・忍辱(にんにく)・精進(しょうじん)・禅定(ぜんじょう)・智慧(ちえ)の六種類があるため、これらを総称し“六波羅蜜(ろくはらみつ)”という」のだそうだ。


また、“波羅蜜(多)”は「サンスクリット語でパーラミーター(“到彼岸”と訳す)のことで、欲望や迷いの多い此の岸を去って苦しみのない理想世界の悟りの彼岸に渡り達するという意味』だということだそうだ(曹洞宗 寺HP)。な〜るほど、彼岸に渡るには六つの実践が必要で、それを“六波羅蜜”というんだ!!


十一面観音像の立つ境内
もちろん国宝ではない十一面観音像が立つ境内

当寺のご本尊は空也上人自身が刻んだとされる十一面観音立像(国宝)であるが、秘仏として辰年のみに開帳されるということである。大河ドラマ“平清盛”が放映されるまさに2012年がその辰年に当る。御開帳期間は平成24113日から125日の33日間となっている。西国三十三所の“33”という数字は観音菩薩が衆生を救うとき33の姿に変化するという信仰に由来するが、御開帳期間もそれにあやかるものである。ただ2008年、西国巡礼中興者とされる花山院一千年忌にあたり、2008年から2010年にかけ西国33所の全札所で秘仏の御開帳が特別になされ、この六波羅蜜寺も200911月に結縁開帳がなされた)

燈籠と本堂
燈籠と本堂

大河ドラマが佳境に入る11月からの秘仏の御開帳。わたしも再度、六波羅蜜寺へ行ってみなければならぬと思っている。

痛いところがあれば、その個所をなでると治るという御利益のある”なで牛”

また宝物収蔵庫には、今年は嫌と言うほど目にすることになる“平清盛坐像(重文)”や教科書などに載っている“空也上人像(重文)”のほかにも“地蔵菩薩坐像(重文)”・“地蔵菩薩立像(重文)”など一度は写真や映像で目にしたことのあるたくさんのお宝がさり気なく並んでいる。その様は一言で言って圧巻である。(撮影禁止のため、実際に見ていただくしかない。非常に穏やか表情のお像がたくさんありました)

本堂脇に立つ平清盛公の塚

本堂脇には平清盛公の塚や歌舞伎壇ノ浦兜軍記「阿古屋」の白拍子・阿古屋を弔った鎌倉時代に造られた石造宝塔がある。阿古屋の石塔の脇に阿古屋を弔って坂東玉三郎が寄贈した石碑も建っている。

坂東玉三郎建立の阿古屋の説明石碑
鎌倉時代に造られた白拍子・阿古屋を弔う石造宝塔

そして、境内入って左手には都七福神の一となる技芸上達・金運・財運の神様であるありがたい“福寿弁財天”も祀られている。

都七福神の弁財天
都七福神の福寿弁財天

重要文化財の仏様や清盛公の坐像など歴史・文化という教養に触れられるだけでなく、蓄財の神様もおいでになるという六波羅蜜寺。いろいろと見どころ満載で御利益もありそう、一度足を運ばれても決して損はないと、お奨めするところである。