韓国へ初めて旅した!=新羅千年の王都、慶州を巡る その2---仏国寺 紫霞門・大雄殿
韓国へ初めて旅した!=新羅千年の王都、慶州を巡る その3 魚板・雲板
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20日から23日までの三泊四日で初めて韓国を訪ねた。


息子夫婦がわれわれ夫婦の還暦祝いにとプレゼントしてくれた海外旅行である。“韓国”を希望したのは、かねてより愛読している日本書紀に頻繁に登場する“新羅”の王都、“金城”(現在の慶州)をこの目で見、足で踏み、鼻でその空気を吸ってみたかったからである。


嫁と娘は海外って云っても韓国? しかも慶州って何?、えっ、どこ?ってな調子。息子は設営者のためこっちの意向にとやかくいう立場にない。還暦の片割れの家内はと云えば、古代史好きの旦那に去年も草深い対馬の神社巡りに運転手代わりで付き合わされるなど、端(ハナ)から美味しいものさえ食べることができればと謂わば悟りの境地に入っており、すんなりと被祝者(こんな日本語あるわけないか)一致で慶州行きが決定した。


そして韓国を初めて訪問するに当たり、その首都をひと目も見ないことはどうも失礼と思ったこともあり、ソウル→慶州→ソウルという何だか非効率な旅程となった。というのも慶州には空港がなく、慶州に近い釜山便も手頃な便がなかったため、ソウル経由の旅となった。


したがってソウルに入国当日と出国前夜の宿泊となったが、ソウルでは地中を縦横に走る地下鉄を駆使し、景福宮や明洞(ミョンドン)などを探訪。その詳細は後日アップするが、それはそれでソウル市民の日常の一端に触れることができ、有意義であった。

DSCF2450KTXソウル駅
ソウル駅8番線に入線するKTX

さてお目当ての慶州だが、201011月にソウルから超高速鉄道KTXの新ルート(ソウル-新慶州:2時間5分)が開通していたため、慶州一泊の旅程ながら、実質1日半の慶州観光を楽しむことができた。


新慶州駅

そして慶州では家族5名が一緒に移動できるようにと、日本語ガイド付きのジャンボタクシー(一日22万ウォン≒16千円)を利用した(日本から二日分を事前に予約)。


慶州での21日、22日は生憎と雨にたたられたが、趙(ジョウ)さんという素晴らしいガイド兼運転手さんに恵まれ、期待以上に濃密な慶州滞在が出来た。当方が希望した盛りだくさんな場所を効率よく廻り、その個所々々での説明も歴史背景を含め驚くほどに詳しく分かりやすいものであった。

新慶州駅に到着するKTX

21日お昼前に新慶州駅に到着すると駅前のタクシー2台に分乗し、宿泊先のコモドホテルへと直行した。そこで趙さんと落ち合う手筈となっていた。荷物をホテルに預けて早速、出迎えてくれたボックス・カーに乗車し、世界文化遺産の石窟庵(ソックラム)と仏国寺(ブルクッサ)を訪ねることになった。コースは趙さんがそうしようと云うので、お任せしたまでである。

石窟庵・世界遺産石碑
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吐含山石窟庵門をくぐり歩いて行きました
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石窟庵登り口の大鐘閣・この階段きつそうだったので、右手の山門(上の写真)から登りました

大鐘閣の梵鐘
石窟庵(創建751年)は吐含山(トハムサン・海抜745m)の頂上間近の東峰に花崗岩を削り築造された石窟寺刹である。その存在は李氏朝鮮時代に仏教が廃れていくにつれ忘れ去られたが、1909年、峠越えをしようとしていた郵便配達員が驟雨を避けようと転がり込んだ洞窟内で偶然、この石仏を発見したという。

雨の中、頑張りました!

麓の仏国寺から登ると普通の足で1時間ほどかかるとのことだが、もちろんわれわれは石窟庵の駐車場まで車で直行。そこからでも坂道や自然石の階段を15分ほど徒歩で登ってゆくのだが、雨の降る中であったため、海が見えるという頂上からの景色は残念ながら堪能することはできなかった。

石窟庵釈迦如来像
ガラス越しに見る釈迦如来像
石窟庵発見時写真・wikipedia
発見時の石窟庵(wikipediaより)

石窟庵はその名の通り切り出した石をドーム型に組んで作られ、洞内中央に花崗岩から彫り出した3.26m丈の大きな釈迦如来像が坐し、その周囲に仁王像や四天王像、菩薩像などが配置されている。

洞窟の前面を覆う御堂
岩山の前面をお堂で覆った石窟庵

もともとは円墳状の土盛りの内に石窟があったそうだが、現在は露出した石窟部分を木造の御堂で覆い、石像群は御堂内でさらにガラスで仕切られている。これは日本統治時代の解体修復の際に創建時の石組に戻すことができずコンクリートを使用するなど耐久性や除湿に優れた石組構造が損なわれ、密閉したガラス室による換気を余儀なくされているとのことであった。

石窟庵の釈迦如来像御顔
釈迦如来の柔和なお顔

釈迦如来の眉間少し上にある白毫(ビャクゴウ)は、もともとは水晶などの宝石であったとかで、東から射しこむ陽光で白毫が輝きを放ち、海上からその光を認めることができたのだという。仏が瞑想に入った時に東方一万八千世界を照らし出すという、まさにそのとおりの役割を果たしていた“白毫”も、いつの頃か盗まれガラス玉に変わっているのだそうだ。


それにしても暗い洞内にライトアップされた釈迦如来の美しさは見事の一言につきる。その柔和でふくよかなお顔と円やかな曲線で縁取られた堂々たる体躯は観る者の心に慈悲と寛恕の気持ちを浸透させてくれるようで、薄暗い御堂のなかにいつまでもずっと佇んでいたいと思った。


わたしは京都太秦広隆寺の弥勒菩薩像が大好きであるが、この石窟庵の釈迦如来像のお顔はそれと同等かそれ以上に柔和で慈愛に満ち溢れ、ふくよかな体形から、苦界で右往左往するわれわれ餓鬼でも誰彼問わずに救ってくれる寛やかな無限の心を感じとった。

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この雨煙りの遠くに出雲がある・・・、そして文武王の海中王陵も・・・

そしてお堂の外に出て雨に煙る東の彼方を見やっていると、趙さんが「釈迦如来の向かうまっすぐ先には日本の島根県がある。そしてその線上に文武王の『死して海龍となり倭から新羅を護らん』」として葬らせた海中王陵がある」と説明した。文武王は新羅30代の王(在位661-681)で、白村江の戦いで倭国・百済連合軍を討ち破り、高句麗を滅ぼし、初めて朝鮮半島を統一した統一新羅初代の王である。


東方にある出雲、文武王の海中王陵や白村江の戦いといい、この石窟庵の釈迦如来像は1400年前の韓郷と倭の交流、確執を息を吹きかけるような身近さで、わたしに語りかけて来るようであった。

石窟庵のすぐ下に”寿光殿”がある。


石窟庵・寿光殿扁額
寿光殿扁額
寿光殿本尊
御本尊

そこお堂の脇に復元時にうまく使用できなかった新羅時代の花崗岩のパーツが置かれた一画があった。

寿光殿内から
堂内より東方を
新羅時代の石組み残余
新羅時代の余った石組みが残されている

雨に穿たれるにまかせており、貴重な文化財をこんな扱いをして大丈夫かなと心配する一方で、どこか大陸的な鷹揚さと奥深い歴史を感じとったことも事実であった。

寿光殿と吐含山を見上げる
吐含山を望む・寿光殿はかすかに見えるが、その上の石窟庵は雨中に隠れて見えず

雨に煙る石窟庵への旅であったが、ぜひもう一度、ゆっくりとそしてじっくりとこのほの暗い御堂で、一人っきりで釈迦如来様に対面させていただきたいと思っている。そして、利見台から海中王陵を何としてでも望見したいと思った。