天童に所縁の神社なれど、ご祭神は皇孫の神也(藤仲郷「対馬州神社大帳」

 


多久頭魂神社に到るには、先の「美女塚」からさらに1kmほど南下し、左手の脇道へ入り細い田んぼ沿いの道をゆっくりと行く。


対馬、赤米神田と豆酘の海
田の中央の茶色味を帯びた辺りが赤米神田、遠くに豆酘の海が見える

 

其の日は8月の末であったが、田んぼの稲穂は実りで頭を垂れ始めていた。途中に「赤米神田(アカゴメシンデン)」という標識が目についた。


赤米神田の標識

 

古代米の赤米である。多久頭魂神社で年間10回行なわれている「赤米神事」という祭祀用に栽培されているものである(「番外編 赤米神事」参照)。その神田の横を過ぎると多久頭魂神社の一の鳥居が突然、目の前に顕れた。その出現の仕方に唐突感があったのを覚えている。


多久頭魂神社の一の鳥居

 

人の気配の全くしない奇妙な感覚に捉われる空間である。鳥居前の小さな空き地に駐車し、一の鳥居の奥を覗く。高い樹木が鬱蒼と茂る境内に足を踏み入れると空は真っ青なのに参道はほの暗く、思った通り人っ子一人いない。


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一の鳥居から参道をのぞく

高御魂神社・多久頭魂神社の案内板

 

代わりに我々を迎えてくれたのは薮蚊の大群であった。夏場の参拝には虫よけスプレーおよび帽子、長袖シャツを装備、装着されることをお勧めする。薮蚊がそれほどに人に飢えているのは、当社を訪れる人がきわめて少ないということなのだろうか。それとも天道法師の遥拝所とされる当社に入る禊ぎの一つでもあるのだろうか。


参道左手の手すりの階段の上に鐘楼

梵鐘案内板

神仏習合の名残の鐘楼
康永3年(1344)改鋳の国指定重要文化財

鬱蒼とした樹木の中に続く参道

神仏習合の名残だろう、山門前に狛犬、正面奥に社殿

 

冗談はともあれ、「新撰姓氏録」に「多久頭魂神」は「神皇産霊尊(カミムスビノミコト)」の子とある。神皇産霊尊は神代三代の造化の神、国常立尊(クニノトコタチノミコト)・国狭槌尊(クニサツチノミコト=天御中主尊(アマノミナカヌシノミコト))に続く三代目の高皇産霊尊(タカミムスビノミコト)と同一と見られる神である。



対馬に関わる神々の系譜

高皇産霊尊に始まる対馬に関わる神々の系譜

 

天照大神の長子である天忍穂耳尊(アメノオシホミミノミコト)と高皇産霊尊の娘である栲幡千千姫(タクハタチヂヒメ)の間に生まれたのが、神武天皇の曽祖父たる瓊々杵尊(ニニギノミコト)である。ここにおいて天孫(高皇産霊尊からの血統)と皇孫(天照大神からの血統)が同一の血統へと収斂することになる。


境内社・高御魂神社

 

当社境内に多久頭魂神の父たる高皇産霊尊を祀る「高御魂(タカミムスビ)神社」があるのも、この地が天孫降臨族と深い関わりを持つ場所であることを示し、さらに赤米神事が当社の重要な神事として古来伝わっているのも、この豆酘の地が、天孫族が持ち込んだ稲作に特別の意味を持つ場所であったことを容易に推測させる。


多久頭魂神社・社殿
社殿前の橘
対馬亀卜の神官・橘氏との関係もあるのだろうか、橘の案内板

【多久頭魂(タクヅタマ)神社概要】

社殿内

社殿内の古い絵馬

色あせているが、絵柄はしっかりとした絵馬である

・    住所:厳原町豆酘

    社号:「神社誌」に「天道」とある。天神社(大小)・多久頭魂神社(大帳・明細帳)

    祭神:天照大御神・天忍穂耳命〔天照大神の子〕・瓊々杵尊〔天照大神の孫/皇孫〕・日子穂々手見命〔山幸彦〕・鵜茅不合葺命〔豊玉姫と彦火火出見命との子/瓊々杵尊の孫/神武天皇の父〕(明細帳による)

    天道信仰の聖地

    由緒

(明細帳)

神武天皇の御代天神地祇を祭らしめて玉ふ所にして、則勸請神武元年なり。又神功皇后三韓に向ひ玉ふ時、諸神を拝し給ふ所にして、承和四年(837年)二月被授従五位下、貞観十二年(870年)三月被授従四位下、延喜式神明帳に載る所の社なり。



幹周り7.09m、樹高30mの樹齢650年ともいわれる楠は当社のご神木
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太い幹周り、左に見えるのは社殿

 

(大帳・藤仲郷の説)

多久頭魂神社は龍良山上に在る。古の神社は今の世の如く、宮殿を建てず。霊山霊地、亀卜を以って其の地を定む。そして鏡・鈴・劒は根曳きに着け、神魂(ヲガタマ)の木は中央に植える。其の廻り八町を以って神籬磐坂と為す。其の内の諸々の木は立ち仕る。敢えて人は入らず。天神地祇之座(イマ)す地と為す也。当地に在るは皇孫〔多久頭魂神社〕の神也佐古村に在るは天孫〔天神多久頭魂神社〕の神也。之を靱(ユキ)鋤(スキ)の神と謂う。当社は靱宮と号す。神武天皇、諸国に命令を下し、天神地祇を造らしむる也。其の時の神社也。又云う、天道地を神籬磐坂と称ぜしめる也。海道諸国記曰く、「対馬嶋の南北に高山有り、皆、天神名づく。南は子神と称し、北は母神と称す。家々素饌(ソゼン)を以ちて之を祭る。山の草木禽獣、人はあえて犯す者無し、罪人神堂に走り入りたるは、すなわち亦敢えて追捕せず」昔、伝燈法師と曰(モウ)す者、罪有りて此の大山に走り入り、そして隠れる也。その後、俗仏は、天道と伝燈、其の字の音が同じに因り、之を欺く。そして此の神社を為して、伝燈法師の入定の地と為す。次第にこの神社は亡び、知る人も無くなる。延喜式神明帳多久頭魂神社是也。承和四年(837年)二月五日奉従五位下、従五位上、正五位下、正五位上。貞観十二年(870年)三月五日奉従四位下。其の後段々有叙位、正四位下。神山を廻る八町にして、外に垢離川有り、横川と号す。潮湯浜有り、外浜と号す也。



明細帳記載の祭神を見ると、天照大御神天忍穂耳命〔天照大神の子〕・瓊々杵尊〔天照大神の孫/皇孫〕・日子穂々手見命〔山幸彦〕鵜茅不合葺命〔豊玉姫と彦火火出見命との子/瓊々杵尊の孫/神武天皇の父〕と、皇孫の血統が見事にそろい踏みしている。藤仲郷が「当地(多久頭魂神社)に在るは皇孫の神なり」と述べている通りであり、下記に示す天道法師との由縁を祭神から窺うことはできない。また、境内に天道伝説の痕跡を境内で見つけることもできなかった。



多久頭魂神社のすぐ北に位置する龍良山(タテラサン)山中の八町角と呼ばれる場所が天道法師の墓所といわれ、昔から「オソロシ所」と呼ばれ、「不入の聖地(アジール=聖域・治外法権領域)」とされていた。その為、墓所を直接参拝できぬ天道信仰の信者たちが南接する当社を遥拝所とみなし、天道の墓所である磐境を同社の神籬磐境とし崇拝したという。(2009対馬現地調査報告/豆酘龍良山国有林」・本田佳奈より


対馬・高御魂神社
高御魂神社

 

ただ、多久頭魂神の父たる高皇産霊尊を祀る「高御魂神社」という高い格式の延喜式内社を当社が境内社として抱える謎や、稲作の伝来ルートを印す「赤米神事」を習俗として残すなど詳らかならぬ当社の由来は、「対馬が神々のふるさと」である何かを現代の我々に伝えようとしているように思えてならぬ。


境内社・国本神社
境内社・神住居神社
境内社・師殿神社
観音堂
境内社・五王神社
境内社・下宮神社

 

「記紀」にも一切その名を登場させぬ、そして「神社明細書」や「対馬州神社大帳」、「対馬國大小神社帳」にも当社の祭神として名を顕さぬ「多久頭魂神」という神が天孫族たる高皇産霊尊の本貫(本籍)地、天孫族のエルサレムと呼ぶべきこの豆酘に祀られている理由は何なのか謎は深まるばかりである。



また上対馬佐護にある天孫の神を祀ると云う「天神多久頭魂(アメノカミタクヅタマ)神社」との関係も、天童伝説の母子関係で捉えるという後世のフィルターを捨象し、天孫と皇孫つまり高皇産霊神と天照大神を対峙的関係として見るのが妥当と考える。