浜岡原発・全面停止要請で菅直人・政治家失格の烙印 (2011.5.7)
原発必要論者も大飯原発再稼働はNO!(2012.4.17)
結論から云うと、当面は発電電力量の電源構成で26%(2007年)を占める原子力発電の既存設備の稼働を続けるべきだということである。 理由は一次エネルギーの自給率がわずかに4%という脆弱なエネルギー安全保障の現実を踏まえると、わが国の自主独立・経済基盤の安定を担保するうえでは、原料の供給安定性に優れる(=自国資源と看做してよい)原子力に、現状、依存するしかないということである。
それを国民に理解してもらうには、当然、設備の安全性を総点検し、今次福島第一原発事故の原因の徹底解明とその防止策(フォールトトレラント)の多重化・多様化の手当てが十分になされることが必要である。 さらにこれまでの原子力推進政策のなかで意図的に議論されてこなかった問題についても詳らかにし、新規再生可能エネルギー技術の実用化可能性をにらみながら、新設も含めた原発の有効性について早急に国民的議論がなされ、結論を求めるべきである。
意図的に議論が避けられてきた大きなものは「発電コスト」の問題である。これまで原子力発電推進を図るうえから、原発による発電コストは4.8〜6.2円/kwh(電事連)と試算されており、石油(10.0〜17.3)、LNG(5.8〜7.1)、石炭(5.0〜6.5)の主要電源コストのなかで最も低いことを、温室効果ガスを排出しないクリーンエネルギーというフォローウィンドが吹く前から、原発推進の大きな根拠のひとつとして掲げてきた。
ここで問題として取り上げたいのは、この低コストはあくまで発電コストであり、核燃料サイクルに要するコストや最終的な課題である放射性廃棄物のコスト、さらには地元対策費といった原子力発電特有のコストがまったく含まれていないということである。地元対策費をどこまで見るか、将来の原発事故賠償コスト引当コストをどのように織り込むかといった点を考慮すれば、そのトータルの一気通貫のコストは、少なくとも現状の5倍程度にはなると試算される。
また逆の観点から物を言えば、エネルギーの安全保障にはそういう意味で大きなコスト負担を国民に強いる問題でもあるということである。
だからこそ、これまで避けてきたコストの問題について、今後のエネルギー戦略を考える際には、はっきりと国民の前で議論をすべきものと考える。
一方で、評論家や政治家が太陽光発電や風力、地熱発電といったクリーンな再生可能エネルギーを拡大せよと声高に叫ぶ。こうした新エネルギーは、産業面で活用できる実用化技術が開発されれば問題ない。
しかし現状はそう簡単にはいかない。 経済性から見てみると、発電コストは太陽光発電が49円/kwh、風力9〜14円/kwh(総合資源エネルギー調査会・2009年中間報告)と、とくに太陽光のコストが群を抜いて高い。もちろん、大量生産ということになれば、かなり費用も削減されることにはなる。
また、太陽光発電を原発に代替しようと考えるのであれば、相当量の規模の太陽光発電が必要となる。
因みに、2008年で一次エネルギーの総供給に占める太陽光・地熱・風力などの新エネルギーの比率は僅かに3.1%である。 太陽光発電で100万kwhの発電設備を建設する、すなわち液晶パネルを広げるとすると、10数年前の知識しかないので恐縮だが、山手線で囲まれた広大な地面、土地が必要だということである。
その後の液晶技術の長足の進歩を考慮しても、今後、その構成比を原子力と同程度の26%まで高めるには、山手線内面積の20倍程度の日照時間の長い土地を想像を絶する量のパネルで埋め尽くすということになる。国土を液晶パネルが埋め尽くす景観上、環境上の問題も別途検討されねばならない。
そうしたコストという経済性の問題のほかに電力を語る場合には、さらにもうひとつ重要な要素がある。すなわちわが国のきわめて高度な産業を支えてきた背景には「電力の高い品質」というアドバンテージがあったという点である。
精密機械を動かす電力は電圧などはもちろんのこと、微細な周波数の変動も許されない。モーターの回転がコンマ幾つかの誤差で異なるだけで不良品が山となって出て来るという。逆に云えば、わが国の産業は高度に均質な鉄鋼や非常に細かいオーダーメードのスペックに応える樹脂などを材料として、この高い品質の電力に裏打ちされた製造設備が精確に作動し、世界に誇れる高品質の工業製品が造られているのだということである。
その面で自然の天候に大きく左右される不安定な電源である風力や太陽光発電は、高品質な電力の安定供給を必要条件とする産業用電力としては、現状の技術レベルでは不向きと言うしかない。部屋を明るくする電気を造ればよいという「量」の問題だけで再生可能エネルギーを議論するのでは、国家の総合的な力、国力を維持、発展させてゆく使命を担う政治家としては、いちじるしくバランスを欠く、あまりに稚拙な考えであると断じるしかないのである。
品質にそうこだわる必要のない家庭用や事業ビル等民生部門(総消費電力の28%を占める)の電力向けに再生可能エネルギーを重点的に使用させるとした場合でも、再生可能エネルギーによる電力を配送する送電線を別途張り巡らさぬ限り(気の遠くなるコストがかかる)、品質の悪い(専門的には「シワ」と呼ぶ)電力を現状の系統(送電網)に混ぜる量が増えれば増えるほど、電力品質の維持は困難となり、高度な産業構造を支えることが不可能となる。つまり我が国産業の競争力が脆弱化し、まさに雇用も減るということになるのである。
そうした諸々の点を含めて、技術面の開発状況、産業の競争力に直結する電力コストや電力の品質といった面、それから発電規模とその発電形態の適応性、そして放射能漏れなどの安全リスクそして温室効果ガス排出規制促進策の視点など多くの問題を多元連立方程式として、電源をどういう形で構成したら良いのか、原発の是非の問題を議論する際には、安全性の担保の側面と、そういった国力をどう維持発展させるかとの問題と併せ、その「最適解」求めることが必須なのである。
その結果として、原発が否となれば、老朽化してゆく原発から順次、廃炉ということになるだろうから、現状の技術水準を前提とすれば、エネルギーの安全保障面からは極めて自給率の低い脆弱な国家となることを覚悟するということになる。
つまり、いったん資源国に紛争が起これば経済活動、市民生活に多大な影響・リスクを抱えることを已む無しとするということである。
経済成長面での制約、オイルショック以降、最も需要量の伸び率の高い民生(家庭・業務)部門、すなわち電気に過度に依存したわれわれの生活スタイルの変質を受容する、不便さを受け入れる「忍耐」が必須ということになる。これまでの快適な生活のある部分、いや、かなりの部分を切り捨てる覚悟が求められるということである。
オイルショックからこれまでの期間(1973〜2007年度)でエネルギー消費の部門別の伸びを見てみると、GDP(国内総生産)は2.3倍に拡大したのに対し、民生(家庭・業務)部門の消費電力量は2.5倍とGDPの伸びを上回り、産業部門など他部門の省エネ努力とは反対に、相対的にはエネルギー多消費型の生活スタイルにわれわれの日常生活が組み込まれていることもよく自覚しておく必要がある。
一方で、運輸(自動車・鉄道・船舶・飛行機等)部門はそれを若干下回る2.0倍の伸びとなっている。
それに対し、産業部門は必死の省エネ努力・技術開発により1.0倍と、そのエネルギー効率はいまや世界一の技術レベルに達している。
こうした技術レベル、エネルギー安全保障、電力消費を中心とする生活スタイルの広がり等の現実を冷静・総合的に考慮すれば、エネルギー自給率を向上させる新技術が工業レベルに達するまでの間は、現状の原発の安全度を高め、しかも使用済み核燃料の再処理、プルサーマル、放射性廃棄物の処理・処分までを自国内で完結させる「核燃料サイクル」を慎重に進めてゆくのが、やはり避けて通れぬ最善の策であるとわたしは考える。
ただ、国民がライフスタイルを本当に劇的に変え、国の独立も憲法9条のもとで「友好外交」で凌げるのだ、一次的いや恒常的混乱も我慢するというのであれば、それはそれでわたしも自給生活の山籠りでもする準備が必要だと考えている。
原子力はウランに限らない。ウラン以外の物を核分裂させてもいいのである。
反原発を唱える人間は反原発を唱えながら太陽系で最大の原子炉ともいうべき核融合炉、太陽を利用すべきと声高に主張しているに至っては滑稽としか言いようがない。