大相撲は、2007年の時津風部屋の力士の暴行による死亡事件、2008年のロシア人力士による大麻問題、2010年、野球賭博の発覚や暴力団組長の維持員席での観戦など、ここのところほぼ毎年にわたり決して軽微でない不祥事が連続している。


 そして今回の八百長問題である。野球賭博捜査の際に竹縄親方(元前頭・春日錦、春日野部屋)や十両千代白鵬(九重部屋)等から押収した携帯電話の消去メールの復元を行なったところ、八百長をうかがわせるメールが出てきたという。いま現在、竹縄親方、十両の千代白鵬、三段目の恵那司(入間川部屋)の3人が八百長への関与を認めており、以前から疑惑が囁かれていた八百長相撲が角界に存在していたことは、これで明白となった。

 

 テレビを始めメディアはここぞとばかり、開催中の国会ニュースの詳細を伝えるよりも、この八百長問題を熱っぽく語り、事細かに情報を流している。


 ただ、金銭で勝ち星をやり取りするのはさすがに問題だと思うが、大相撲が相撲興行と呼ばれているように、完全なスポーツであると信じている人もそうは多くないのではないか。私自身は相撲は純粋なスポーツというよりもあくまで「興行」であると思っている。


 だから、客がその取り組みを楽しみにし、その迫力ある立ち会いや次々と繰り出さられる技に熱狂し、贔屓力士の勝敗に一喜一憂し、観戦後に「あぁ楽しかった」となれば、それでよいのだと考えている。


 今回、野球とばく事件で押収した携帯電話のメール復元により八百長の生々しい実態が白日の下に曝され、こうした相撲の裏の顔が大っぴらになった。


だが、共同通信のアンケート調査にあるように、力士らのメールのやりとりが発覚する以前から「八百長はあると思っていた」が76.1%に達し、「ないと思っていた」の18.6%を大幅に上回っている。


また、八百長は58.7%が「絶対にいけないこと」としているが、「大相撲の性格上、やむを得ない面がある」という回答も27.8%を占めている。その背景となる意識と云ってよいと思うが、「大相撲がスポーツか伝統文化か」の問いに、「スポーツ」であるが15.9% 、「伝統文化」だと思うが57.2%、「どちらとも言えない」が25.3%と、大相撲を純粋なスポーツととらえていない見方が大勢を占めている。


私も純粋なスポーツととらえていないという意味において、観客を熱狂させるための多少の演出はあってもよいと考えている。その演出を八百長と云うのであればいたし方ないが、この手の古くからある興行には、庶民の喝采を博するための玄人の演出があるのだと思っている。


そしてそこには演じる者、観る者双方に暗黙の了解のようなものがあるような気がしている。ただ、今回発覚した金銭での星のやり取りはさすがに度を越えいただけないが、武士の情け的な取り組みがあってもそれはそれでよいのではないかとも思っている。


今回の八百長問題のあまりのメディアのハシャギぶりに、わたしは1984年のロサンゼルスオリンピックの山下泰裕選手とエジプトのモハメド・ラシュワン選手の柔道の決勝戦を思い浮かべた。


銀メダルに終わったが、肉離れを起こした山下選手の右足を敢えて狙わずに戦ったラシュワン選手(試合後に語った)に、「武士道」と清々しいフェアープレーを教えられたことを想起したのである。


柔道は「道」ではあるが、「スポーツ」である。勝つことを至上とするのであれば、ラシュワン選手は、明らかに痛めた右足を攻め立て、一本を取りに行くべきであった。山下選手は棄権せずに決勝戦に臨んできたのだから、そこに温情は必要ないはずである。


しかし、ラシュワン選手は確実に勝てる技を敢えて使わず、その結果、瞬時のすきを狙った山下選手に寝技に持ち込まれ、四方固めで一本を取られた。


試合後、足を引きずり表彰台に上がろうとする山下選手に手を差しのべたラシュワン選手の爽やかな仕種が今でも鮮やかに脳裡に浮かんでくる。ただこれも理屈を言えば、意図的に相手の弱点を狙わないのは、真剣勝負であれば相手に便宜を供与する一種の利得行為である。広い意味での「八百長」と云ってよい。


しかし、あのオリンピックの決勝戦を観て、これは「八百長だ!」と叫んだ人間は少ないのではないか。「これぞ、柔道!」「これぞ、漢(おとこ)」と叫んだ日本男児が多かったはずである。他ならぬ私もいたくこのエジプトの柔道家に惚れ込んだものであった。


今回の金銭でやり取りする八百長は、薄汚く、とてもいただけないが、観客を喜ばせるためにプロの演出があるのであれば、それはそれで興行ということで、わたしは十分認めてよいのではないかと考える。


何が何でも真剣勝負だと叫ぶのであれば、あの巨体同士で15日間ぶつかり合い、年6場所を戦うのはとても無理である。怪我人を出さないためにも場所数や1場所の番数を半減するなどして、純粋なスポーツ競技団体として再出発させるしかないのではないか。それでもけが人続出で、恒常的な開催は難しいのではないかと思う。


常に11敗で終わる地方の伝統的な相撲神事も、相撲のひとつの態様を表していることも最後に申し添えておく。