神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 16 海神神社(上)
神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 16 海神神社(中)
神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1
神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 補足(参考・引用文献について)
神々のふるさと、対馬巡礼の旅---対馬に関わる神々の相関図

神々のふるさと、対馬巡礼の旅--- 15 阿麻テ留(アマテル)神社(上)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 6(鴨居瀬の住吉神社・赤島)


  
海神神社の鎮座する木坂・伊豆山に残る風習


鳶崎と御前浜

御前浜

 

   藻小屋(もごや)

     海神神社の前に広がる御前浜の海岸端に石造りの壁を持った数棟の小屋が見えた。海岸に流れ着いた藻やカジメなど海藻を収納し肥料にするため貯蔵しておくための小屋だといい、壁が石造りとなっているのは冬場の強い風に耐えるためだという。地元ではこれを「藻小屋(もごや)」と称し、御前浜には現在、6棟存在する。但し、これは復元されたものであるが、かつては全島一帯に設けられていたものである。


藻小屋と手前に「ヤクマの塔」

 

     この「藻小屋」の存在は、対馬における海人族のあり方を語っている。民俗学者の宮本常一氏はその著「海の民」(未来社)のなかで、海人が海藻を採るのは藻塩焼製塩に用いるほかに、鰯などとともに農耕の肥料として用いるといった用途があったため、「対馬では近世まで、農耕地を持つ者のみが海藻の採取権を持ち、土地を持たぬ漁民は藻を刈ることはできなかった」と記している。このことは古来、対馬では農耕を行う者が海人族であったことを意味し、海人族が跋扈する土地であったことの傍証となるものである。


   ヤクマ祭り・ヤクマの塔

     韓国済州島の石塔(タブ)にそっくりの「ヤクマの塔」(頂上に置く縦長の石はカラス石と呼ぶ)【「古代朝鮮と倭族」(鳥越憲三郎著・1992中公新書P118)より】以下の写真の出所も同様。


     手前の海岸にある石積みの塔は「ヤクマの塔」と呼ばれ、旧暦6月の初午の日に行われるヤクマ祭りの時に、その石塔に御幣を挿し、男子誕生と健やかな成長を願う。石塔の頂に置かれている縦長の石を「カラス石」と称す。上県郡峰村郷土誌によれば、古来、旧暦6月の初午の日に五穀豊穣を祈るため競馬を行なう風習があったという。6月初午の日を、「ヤクマ」と称して祭る風は、現在ではこの木坂と同じ海神神社の氏子村である青海(オウミ)に残るのみだが、昔は対馬全島で広く行なわれていた。


     ヤクマは「厄魔」という説を採るのが、藤仲郷の「対馬州神社大帳(天明年間(17871-1789の著作))である。大己貴神(オオナムチノカミ=大国主命の別名)、少彦名命(スクナビコノミコト=大国主命の協力者)という「医薬」・「穀物」の二神を祀る薬師神社と関連付けて、「ヤクカミ」・「ヤクシ」と呼び、それが「厄魔」に変じたとする。また同氏は、薬師神は土俗信仰でいう郡津(グンツ)または寄神(ヨリガミ)と同質のいわゆる国津神であるという。巷間で「ヤクマ」と称し、六月初午に初穂を神に供え厄払いの祭りをするが、それは薬師(ヤクカミ=厄神)に祈って厄除けをするものだとも解説している。


     もうひとつが、鈴木棠三氏が「対馬の神道」で若干触れている「役馬の神馬」の見方である。


対馬に残る安徳天皇御陵墓伝説地(厳原町久根田舎)から2kmほどの地に安徳帝に所縁の納言殿塚や馬塚、犬塚があるが、その御料の馬が埋葬された場所を「役馬神馬」といい、当地で茂地(シゲチ)という「不入の聖地」となっているとの話が掲載されている。

その久根田舎の聖地にさらに「ゴンシゲ(午(護)王の茂地)」と呼ぶ場所があり、そこがヤクマの競馬場であったと云われていると紹介されている。そして場所は異なるがとして、「峰村郷土誌によれば、旧暦六月の初午の日に豊作を祈念し競馬を行なう風が古来、行なわれていた。そして、その風習は対馬全島で広く行なわれていた」と、木坂の話も取り上げられている。


また木坂の北北東約10kmにある仁田地区では、2002年、「仁田の厄馬(ヤクマ)」別名「馬跳ばせ」の風習が、町おこし・対州馬種の保存の目的とも併せ約40年ぶりに復活を見、現在に至っているという事実がある。


ここで考えるべきは、旧暦六月の初午の日に催される「ヤクマ祭り」で、今も競馬が行なわれていることと、古来、五穀豊穣を祈り競馬が行なわれていたという事実の符合である。


「初午」の日に「競馬」による祈りの儀式を行ないその年の「厄」を除けるという永年の習俗を現在においても見せつけられると、「ヤクマ」は「厄馬」と解するのが、妥当であると考える。


   鹽井(シオイ)川

「対州神社誌」の文中にある海神神社より130間にある「鹽井川」は「鹽斎(シオイ)」→「潮斎(シオイ)」と解すると、神功皇后が伊豆山(斎(イツキ)山)に「神籬磐境(ヒモロギイワサカ)を定め、斎き祭り給ふ」とある「斎」伝承に関連すると考えられ、新羅凱旋の折、佐賀の浦に設けた斎庭(サニワ)にも通じるものと推測される。


その「鹽井(シオイ)」は、海水や砂で家、田畑、人を清める御潮斎または御潮井(オシオイ)という風習にその名を認める。有名なところでは、博多祇園山笠に「お塩取り(お潮斎取)」という縁起物の儀式があるが、男たちが箱崎浜の砂を体に振りかけ身を清めるというものである。


また福岡県みやま市瀬高町文廣に「潮斎(シオイ)神社(別称:朝妻神社/祭神:水の神 瀬織津姫)」という名の神社があるが、そこには当社近くの朝妻川で景行天皇が禊ぎをしたとの伝承が残されており、その例祭に西側に流れる矢部川の清流を汲む「御汐井汲」という「鹽井」の名を冠する禊ぎの儀式が伝えられているという。こうした「シオイ」という地名にも、この伊豆山の地が神霊なる土地であることが強くうかがわれる。


   「原上(ハルア)がり」と山幸・海幸物語

     『対馬紀事』(文化6年(1809))に「当邑(木坂村) 産に臨んで 俄(ニハカ)に産屋を効に造り、其の産舎の未だ成らざるうちに分娩すと云。之を原上り(ハルアガリ)と曰ふ。是乃ち土風なり。相伝えて豊玉姫の安産に倣うの遺風也」とある習俗が明治中頃まで残っていた。この習俗は鴨居瀬の住吉神社がある「産の浦」と呼ぶ一帯に残る海浜に建てた仮設の産屋での出産と云う風習と同様である。


     対馬の郷土史家、永留久恵氏は木坂の里の産土の習俗に着目し、この海神神社を式内大社の和多都美御子神社に比定している。『対馬紀事』に「当邑 産に臨んで 俄に産屋を効に造り、其の産舎の未だ成らざるうちに分娩すと云う。之を原上り(ハルアガリ)と曰う。是乃ち土風なり。相伝えて豊玉姫の安産に倣うの遺風なり。」とある。鴨居瀬の住吉神社の項で、山幸・海幸に係る「紀」の記述に習う「産の浦」地区の出産習俗を紹介した。

 

     津嶋部神社という名の神社が大阪府守口市にある。その旧鎮座地が対馬江(北東約500m・寝屋川市対馬江町付近)であったとされ、延喜式神祇にも「津島朝臣・津島直の族此の地に来たりて住み、其の祖天児屋根命を祀れるならむ」とあることなどから、対馬の卜部たちが都に上る時に上陸地としてこの湊を利用するうちに対馬の民が棲みついたため「対馬江」という地名が冠されたものと推測される。


  そしてその地に、対馬の民が本貫の地の「津嶋女大神」という名の祭神を祀った。その大神が何を意味するかは謎であるが(その謎は別の項で語るとして)、かつてこの神社の近辺には、産婦は近くの海辺・川辺にわざわざ建てた産屋で子供を出産する習俗があったという。


海人族が力を有した対馬の習俗が遠く畿内の地にも伝播していた事実から、上古、「対馬の卜部」の影響力は想像以上に大きなものであったと考えられる。と同時に、「対馬」という地が、「日神」さらには「天孫族」の本貫地であったとするわたしの推測もあながち見当外れと云えぬのではないかと思うところである。

   「厳原」の名の起源が「伊豆原」

海神神社の本殿は、伊豆山の山腹を277段もの急峻な階段を上った中腹の辺り、伊豆原と呼ばれる平坦地にある。「イヅ(稜・威・厳)」とは神霊を斎(イツ)き祀ることの意味で、神功皇后が神霊強き山と呼んだところから「イヅヤマ」すなわち「伊豆山」と称された。後に八幡宮を国府の地に遷した(厳原八幡宮)ときに、その地を「イヅハラ」すなわち「厳原」と改名したのも、八幡本宮(海神神社)がそもそもあった伊豆原に由来したものである。