神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 9(雷命(ライメイ)神社)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 番外編(中臣烏賊津使主と雷大臣命)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 番外編(対馬の亀卜)

 

 太祝詞(フトノリト)神社は、雷命神社と異なり海から2km余内陸に入り込んだ山間(ヤマアイ)に、大きな樹々に囲まれて静謐の時を刻んでいる。かつて「加志大明神」と呼ばれていたことを表わし、一之鳥居の扁額は、「賀志大明神」とある。

 


加志浦
太祝詞神社より2kmほどの加志浦



 
樹々に囲まれる太祝詞神社

 


賀志大明神の鳥居扁額
 
賀志大明神の扁額

 


 
一之鳥居から

 

当社の一之鳥居前と拝殿向かって左側に小さな川筋が認められる。現在、そこに清流はなく、石ころだらけの川底をさらすだけであったが、加志岳や大山壇山に雨が降った時などは、おそらく清冽な流れを見せるのだろう。

 

神社前の川底をみせる小川
 
神社前の川底を見せる小川

 

境内を流れる細い流れ
 
境内を通る細い流れ

 

実際に、鬱蒼と樹木の茂る境内でじっと耳を澄ますと、せせらぎの音がかすかに聴こえてくるようで、上古、この地において神聖なる亀卜の法が行なわれていた情景が目蓋の内にまざまざと浮かび上がってきた。

 


 
参道も古木に囲まれる

 


 
境内は緑色の光に染められる

 



 
鳥居越しに見る拝殿

 

そして、占い神事の本家とも云うべき太祝詞神社が、以下に述べるように、畿内の都に存在する、或いは存在した延喜式内社の太詔戸神社の本社であることが、この対馬が上古、特別の意味を持つ土地であったことを示していると云える。

 

 

昼なお暗い森中に立つ鳥居


 境内を仕切る素朴な石垣

境内を仕切る荒削りの石垣

 

延喜式神明帳に「宮中・京中」に「宮中神36座、京中神3座」と分類される神々がいる。その「京中神3座」のなかに、現在は京中にその痕跡を止めぬ神社であるが、京二条坐卜神二座」という記載が残されている。その二座とは洛中に「卜庭(サニハ)神」つまり、卜(ウラナイ)の神として祀られていた太詔戸(フトノリト)命と久慈真智(クシマチ)命(注1)であるが、そのことは、「日本三代実録」の貞観元年(859)正月27日甲申条から分別される。

 

即ち、京畿七道諸神進階及新叙。(中略)左京職従五位上太祝詞神久慈真智神並正五位下。」と叙勲において、京中に二柱の名前が見られることから、そうした神社が存在したことは事実である。(因みに、当社は承和10919日に従五位下、貞観1235日に正五位上へと昇格しており、年代のズレはあるが、勸請先より上位の官位を得ている)。

 

そして、延喜式の太詔戸命神の注釈には、「本社 大和國添上郡 對島國下縣郡 太祝詞神社」と記されているのである。久慈真智神の注釈は、「本社 坐大和國十市郡天香山坐櫛眞命」とある。

 

そのことから、大和国添上郡の太祝詞神社は、現在の天理市の森神社(祭神:天児屋根命)が比定されるが、天平神護元年(765)に対馬の当社から大和国添上郡にまず勸請され、平安遷都に併せて、さらに左京二條へと勸請されたと考えられる。そして現存するのが、本家たる当社と大和の森神社の二社ということになる。

 


 
樹間に見える拝殿

 

(注1)

藤仲郷の説では「宇麻志麻治命は久慈真智(クシマチ)命にして、太詔戸(フトノリト)と共に卜庭(サニハ)神であり、この二坐を併せて太詔戸神ということもある」としている。また、京中2座の注釈にある久慈真智(クシマチ)命の本社とされる天香山神社には、久慈真智命が深くうらないにかかわり、対島の卜部の神であったとの話も伝わる。

 

 つまり、「占い神事の宗家・元祖」である天児屋根命を祀る源流が対馬の太祝詞神社にあるという事実はもっと注目されるべきであり、わが国神道の系譜のなかで「対馬神道」が、本来、重要な位置を占めるべきことを意味しているはずである。

 


拝殿
拝殿

 

本殿

 


太祝詞神社の素朴な扁額
太祝詞神社の素朴な扁額

 

 

(太祝詞神社の概略)

    住所:美津島町加志

    社号: 加志大明神(古くは大祝詞神社と号す)(大小神社帳)

    祭神:大詔戸(フトノリド)命・久慈麻知命(大小神社帳)/大詔戸命・雷大臣命(大帳)/大詔戸神(明細帳)

    由緒(明細帳)

神功皇后が新羅を征し玉ふ時、雷大臣命は卜術が優れて長(タ)けたるにより御軍に従へり。新羅が降属して凱還の後、津島縣主たり、韓邦の入貢を掌(ツカサ)どる。対馬下県郡阿連村に居り、祝官をして祭祀の禮(レイ)を教へ、太占亀卜の術を傳ふ。後に加志村に移る。今、大詔詞社に合祭す。

 

以上のように、当社は延喜式神名帳のなかで、最高の格である名神大社に列せられている。そのことは、当社が「占い神事の宗家・元祖」である太祝詞神(天児屋根の別名)を祀る神社の本社であったことの証であり、ここで、古代神道の亀卜が行われていたことを証するものである。

 

なお、拝殿に向かって右脇には、雷大臣命の墓との伝承の残る宝篋印塔(ホウキョウイントウ)が立つ。阿連から加志に移り住み、ここで亀卜の法を行なったとの言い伝えから、この地で雷大臣命が終焉の時を迎えたと考えてもおかしくない。おそらく雷大臣命の遺名を偲び邑人たちが、慰霊の石塔を建てたのだろう。

 


 
雷大臣命の墓と伝わる宝篋印塔

 

本殿を背景にひっそり立つ雷大臣命の墓
 
本殿を背景にひっそり立つ雷大臣命の墓


雷大臣命に寄り添うように蘇鉄の樹が
 
雷大臣命に寄り添うように蘇鉄の樹が

蘇鉄は室町時代の頃に貴人の証として庭に植えるのが流行した

 

また、当社の宮司も雷命神社と同じ橘氏であるが、同氏はもと加志氏と名乗っていた。「対馬の神道」に橘氏についての註(P134)が、「阿連のミヤジ即ち神官たる橘氏は雷大臣の子孫と称し、雷大臣の家跡と伝えるミヤジ(宮司)壇なる神地は、代々橘氏の所有にかかる土地であった。橘氏もとは加志氏であったと伝えられる」と、ある。

 但し、神紋は雷命神社の「丸に橘」ではなく、対馬藩主宗氏の家紋である「桐」を使用した「五七の桐」となっている。