神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 5(鴨居瀬の住吉神社)
神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 1
神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 補足(参考・引用文献について)
その豊玉姫が上陸し、山幸彦が産屋を造って待っていた浜こそが、この鴨居瀬であったという。さらに村名の由来が「鴨著(ツ)く島」つまり「鴨の居る瀬戸」という、「紀」・「記」にある山幸彦の御歌にあることを、江戸の天明年間(1781〜89)編纂の「対馬州神社大帳」が伝えている。
つまり、大和王朝ならびに天皇家の始まりに深くかかわる地がこの鴨居瀬ということになる。なんとも、ロマンを掻き立てる伝承である。それも此の浜や他の対馬にあった習俗を考えると、単なる作り話として退けてしまうのも、いささか乱暴の気味であると云わざるを得ないのである。
即ち、かつてこの「神社の周囲の浦が『産ノ浦』と呼ばれ、ここに臨時の産屋を建てて女性は出産する」という驚くべき習俗が残っていたというのである。
しかも同種の出産習俗(原上り)が、豊玉姫を主祭神とする「海神神社」のある木坂にも残っていたという事実こそが、この国の創世期において、海神を祀る海人族と天皇家の祖たる天孫降臨族とは強くて深い関係があったことを物語っていると云える。
「原上り(ハルアガリ)」については、『対馬紀事』(文化6年(1809))に、「当邑(木坂村) 産に臨んで 俄(ニハカ)に産屋を効に造り、其の産舎の未だ成らざるうちに分娩すと云。之を原上り(ハルアガリ)と曰ふ。是乃ち土風なり。相伝えて豊玉姫の安産に倣うの遺風也」とあり、さらに驚くべきことは、その特異な習俗が明治中頃まで残っていたことである。
対馬の住吉神社と海神神社が海人族の祖神を祀り、出産と云う人間の営みのなかでも崇高でしかも危険な営みに係る難儀な習俗が永年にわたり続いてきたことこそが、海幸・山幸彦神話が単なる説話ではないことを確信させるのである。
日本海海戦(明治38年)戦捷記念行事の「船ぐろう」優勝時の艫櫓(トモロ)
対馬竹敷の海軍要港主催(明治42年5月27日)
説明書きには「船ごろう」とあり、鴨居瀬ではそう呼ぶのだろうか
鴨居瀬の和船(乗員87名・櫓33丁)が対馬全島内で優勝
代々の女性が浜辺に建てた臨時の産屋で出産する、それも鴨居瀬だけにとどまらず、対馬の東(鴨居瀬)と西(木坂)に同様の特異な風習が残っていることも、その言い伝えが単なる昔話ではなく、対馬の人々にとっては、古来、誇りと為す歴史的事実があったからこそとの思いを強くするのである。
加えて、「紀」の「海幸・山幸説話」には、山幸彦の死を「彦火火出見尊崩(カムアガ)りましぬ。日向(ヒムカ)の高屋山上陵(タカヤノヤマノヘノミササギ)に葬りまつる。」とある。
さらに「神日本磐余彦尊(神武天皇)ら四男神の誕生」に、「久しくして彦波瀲武鵜茅不合葺尊(ヒコナギサタケ・ウカヤフキアエズノミコト)、西洲(ニシノクニ)の宮に崩りましぬ。因りて日向の吾平(アノヒラノ)山上陵に葬りまつる。」とある。
即ち、海人族に深く関わった天孫降臨族の二人共が「西洲の宮」で亡くなったと推測され、対馬がその強力な候補地とするのは、仁位の龍宮伝説や鴨居瀬の鵜茅不合葺尊の出生伝承を併せ考えると、逆に自然なことなのである。
歴史書が語っていることと、「事実」の意味合いを再度、考え直してみる必要性があるのではないか、それだけの重みを記述の中に読み取り、感じ取る鋭敏で豊かな感性が殊に必要であるのではないかと感じたのである。
この住吉神社が面する浦は、別名、「紫瀬戸」とも呼ばれる。豊玉姫が出産した後産の胎盤などをこの地で洗ったために、藻が紫になったとの伝承が残る。当日は盛夏ということで藻の繁茂する季節ではなく、紫の藻を見ることはなかったが、透き通った海は、太陽の日差しに映えて、オモテを群青色に染めていた。
水が透明な鴨居瀬の海
続いて、鴨居瀬のちょっと先に在る赤島を訪ねた。ここも豊玉姫がこの浜で出産したと云い伝えの残る浜である。
赤島大橋
赤島大橋より外海を
赤島大橋から見る海は夏の太陽の日差しを反射し、群青色の世界を眼下に展開して見せた。
対馬で最も海がきれいだと云われる赤島
海の深浅と日差しで海面も色を変える