神々のふるさと、対馬探訪の旅 ―― 1

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 補足(参考・引用文献について)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 補足(参考・引用文献について)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 番外編(三柱鳥居と天照御魂神社の謎)

神々のふるさと、対馬巡礼の旅 ―― 3 和多都美神社の玉の井


海上より和多都美神社と境内を覆う原生林を 

 

 

 いよいよ、和多都美(ワタヅミ)神社(豊玉町仁位和宮55の境内へと足を踏み入れることにしよう。

 


三之鳥居から陸地へ


最後の五之鳥居から境内と三之鳥居を 

 

 

 

 「紀」の神代上(第五段)・一書第六に「底津少童命(ソコツワタツミノミコト)・中津少童命(ナカツワタツミノミコト)・表津少童命(ウハツワタツミノミコト)は、是阿曇連等が祭れる神なり」とある。伊弉諾尊(イザナギノミコト)が橘小戸(タチバナノオド)の海中で祓除(ミソキハラ)いをした時に産まれ出たのが上にある「綿津見三神」であり、さらに同時に産まれ出た「住吉三神」とともに「海神」とされる。

 

ワタヅミという名から当社が海と深く関わる神社であることは言を俟たない。また、当所に残された幾多の伝承や遺跡から、この地こそお伽話に出てくる「龍宮城」であるとするのは、この地に立ち、海上からこの宮を見た者が等しく抱く素直な感情ではなかろうか。当社の御祭神、由緒をまず詳細する。

 

【和多都美神社の概略(「対馬の神道」より)】

    社号:「明細帳」は「渡海(ワタツミ)宮」を和多都美に充てる。「大小神社帳」には「天神宮」を充てるが、同宮は古くは和多都美御子(オンコノ)神社と號したとある。

    祭神:彦火火出見尊(ヒコホホデノミコト・山幸彦)・豊玉姫命(海神豊玉彦命の娘)

    由緒明細帳)

當社は海宮の古跡なり。古くは海神豊玉彦命此の地に宮殿を造り住み玉ひ、御子に一男二女在して、一男を穂高見命と申し、二女を豊玉姫命、玉依姫命と申す。ある時、彦火火出見命、失せし鉤を得んと上國より下り玉ひ、此の海宮に在す事三年にして、終(ツイ)に豊玉姫を娶り配遇し玉ふ。良有て鉤(ハリ)を得、又上國へ還り玉ふが故に、宮跡に配遇の二神を齋(イツ)き奉りて和多都美神社と號す。又社殿を距る凡二十歩にして豊玉姫の山陵及豊玉彦命の墳墓あり。寛文年中(16611673)洪浪の為めに神殿悉く流れて、神体の(原文は「」)、渚に寄り来れるが故に、往古の棟札なく、勧請年月未詳。・・・」

 

 

さて、海上より数えて四つ目の鳥居に向かって白砂利の敷かれた境内に入ると、左手に石組みに囲われたプール状の潮溜りがある。その中央付近に三柱鳥居がある。3本の柱に囲まれて「磯良恵比寿」と呼ばれる「安曇磯良の墓」(伝承)が見えた。

 


四之鳥居に向かい左手の潮溜りに三柱鳥居に囲まれた磯良の墓が 

 

 

各種案内では、「鱗状の亀裂が入った」と形容されるが、その泥色をした岩は大きな拳状の塊がくっ付きあったような奇怪な形をし、思いのほか大きかった。海中に生活していたため鮑や牡蠣がくっついた見苦しい顔であったとされる磯良の気味悪さを表わしているような、そんな形状であった。

 


三柱鳥居


奇怪な形状の磯良恵比寿


説明板 

 

 

当日は狙い通り干潮から一時間ほど経った時刻に詣でることができ、磯良恵比寿の全貌を心ゆくまで堪能できた。そして、ひょっとしたらこの岩の下に、海中に通じる「橘小戸(タチバナノオド)」があるのではないかとあらぬ妄想に駆られたりした。

 


干潮時の社前の真珠の浜と一、二之鳥居


これ、ひょっとして橘の小戸? 

 

そこから少し進み四つ目の鳥居をくぐると、正面に最後の鳥居と拝殿がある。その拝殿の奥に神明造りの本殿がある。拝殿脇の松の古木の大きな根が龍のように体�默をくねらせ本殿を目指し這っている姿が印象的であった。

 

 

五之鳥居と拝殿



拝殿境内入口で睨みをきかす狛犬


拝殿正面


神明造りの本殿


本殿へと這う松の古木の根っこ 

 

拝殿の左脇にまた三柱鳥居を見つけた。その中心には大きな磐座のように見える岩があった。海神豊玉彦命の墳墓とも云われるものである。何の表示も説明板もない。各種のWEB SITEで書かれているので、そう思ったまでである。

 


三柱鳥居に護られた豊玉彦命の墳墓 

 

ただ、番外編の「三柱鳥居」で述べるように、水神なり海神と三柱鳥居が関係するのであれば、この磐座が海神、豊玉彦命の墳墓であるとしても、あながちおかしくはない。龍宮であるこの海神の宮に豊玉彦の墓が祀られていない方が奇妙と云えば奇妙なのだから。さらに、神社誌の注釈にも、「社殿を距る凡二十歩にして豊玉姫の山陵及豊玉彦命の墳墓あり」とあり、過去、神殿は流されてもご神体は渚に戻ってきたと記されていることから、次に見る豊玉姫の御稜と併せ、この磐座が豊玉彦命の墳墓と看做(ミナ)すのは妥当と考える。

 

次に鬱蒼とした薄暗い森の中へと入ってゆく。我々一行6人以外に誰もいない原生林は霊気を孕(ハラ)み、目に見えぬ神が語りかけて来るように感じた。

 


霊気の漂う境内の原生林 

 

細い小道をしばらく行くと、左手に鳥居が見えた。根っこが捻じり上がったような樹の根元に豊玉姫の御稜はあった。7080cmほどの楕円形の自然石に「豊玉姫の墳墓」と刻まれていた。その自然石はたくさんの平板な石が積まれた上に乗り、後方に武骨で大きな岩が見守るように寄り添っているのが印象的であった。

 


 

原生林と磐座に依る豊玉姫の墳墓


中央のだ円形の自然石に豊玉姫の墳墓と刻まれている 

 

 

境内をさらに進むと、おそらく雨が降った時には小さな川になるのだろう、そこに木橋が架かり、原生林を抜けると境内の裏から入る鳥居にぶつかった。 

 

木橋
境内の木橋 

 

扁額に「一宮和多」まで何とか読めたが、あとは緑色の苔が覆っていた。

 


苔むした裏の鳥居の扁額