松代散策=1−松代町の概要

松代散策=6−松代の歴史の町並み(山寺常山亭・旧横田家住宅・文武学校・旧白井家表門・真田勘解由亭)

 松代駅から東に
700mほどに真田家の菩提寺長国寺がある。当寺は曹洞宗の寺院で山号を真田山と称する。もともとは1547年(天文16年)に信之の祖父にあたる真田幸隆が開基、伝為晃運を開山とし、上田市真田町に建立した長谷寺にその源をもとめる。信之の上田から松代への移封にともない、1622年に長谷寺住職を開山として迎え、この地に建立した。


長国寺
長国寺本堂

本堂・山号扁額
山号扁額
 

長国寺には初代藩主、信之から12代目の幸治までの真田家の墓が祀られている(藩主としては10代目の幸民まで)。13代の故幸長氏(19291984)は東京の青山墓地を墓所としている。現在の真田家当主は14代目にあたる幸俊氏(1969−)である。


長国寺本堂
厨から本堂を

本堂大棟の鯱と六連銭
真田家所縁の鯱と六連銭

鐘楼
鐘楼
 

 長国寺の大屋根の鯱は海津城から移されたものと言われ、他の寺院に備わる鯱とはその歴史、格において大きく異なっている。さらに大棟の下に真田六連銭の家紋が鯱を支えるかのごとく、大きく印されており、藩主の菩提寺としての風格を保っている。また、拝観料を支払うとボランティアの方が、歴代藩主が祀られる墓所へと案内し、説明をして下さる。

 

 年季の入った大きな錠前で黒門を開け、墓域に入る。まず目に飛び込んでくるのが、陽明門とまではいかぬが、色鮮やかな彩色が施された初代信之公の霊廟である。その横に二周りほど小さい4代目の信弘の簡素な霊廟が建つ。初代信之は蓄財に勤め、36万両の財産を子孫に残したが、幕府の度重なる賦役に財政は窮乏し、4代目の時にはお城の薪にさえ苦労する状況であったという。そうした時代背景が霊廟の装飾や規模にそのまま表われており、大名家も苦労が多かったのだと実感しきりであった。


信之公霊廟
初代信之公霊廟

信之公霊廟正面
信之公霊廟正面

四代信弘公霊廟
四代信弘公霊廟

 

 信之の霊廟は、国の重要文化財に指定されており、唐破風の上方に見事な二羽の金色の鶴が掘り込まれているが、名工左甚五郎の作といわれる。また霊廟内部には天井絵や壁画が描かれているそうで、狩野探幽の手になると伝えられる。いずれ国宝指定になるのではないかとの説明であったが、なるほど素晴らしい建築物である。


二羽の鶴
唐破風の上部に左甚五郎作の二羽の鶴
 

 最後に歴代藩主の宝塔が祀られる墓域を拝観した。実際に足を踏み入れることができ、写真撮影もOKという、まことに鷹揚な対応で、これまた歴史好きには堪らぬスポットである。


歴代藩主の墓所
歴代藩主の墓所

初代信之公の鳥居と宝筐印塔
初代信之公のお墓

真田幸村・大介の供養塔
信之公の前に幸村と大介公の供養塔

 

 写真に分かるように墓所の一番奥に祀られる初代の信之の宝筺印塔(ほうきょういんとう)にのみ、石造の鳥居が設けられている。またその対面には真田信繁(幸村)、大介(幸村の嫡男)の供養塔がある。両人とも大阪夏の陣で豊臣方の武将として奮戦したものの、大阪城落城を前に討ち死にした。徳川家にたてついた幸村を三百年後の大正時代になり、ようやく真田家の墓所で祀ることとができたという。

 

象山壕の手前北に山号を象山と称する恵明はある。三代藩主真田幸道の開基、黄檗二代木庵禅師(中国僧・16111684の開山となる、1677年建立の黄檗宗禅寺である。文政8年5月(1825)本堂から出火、開山堂、霊屋、庫裡、鐘楼そして木庵禅師伝来の佛像などを焼失。その後、天保4年(1833年)に八代藩主幸貫17911852により本堂、霊屋、鐘楼、庫裡が再建された。現在では、創建当時のものは山門のみとなっている。


恵明禅寺山門から本堂を
恵明禅寺山門から本堂を

恵明禅寺縁起
縁起

恵明禅寺本堂
細雨のなか本堂へ
 

当日は生憎、小雨のパラつく天気であったが、家内と二人で小さな境内に入り、本堂でお参りをすますと本堂右手の母屋から住職の奥様が出てこられた。細雨の中、奥様は傘も差さずに恵明禅寺の由来や本堂の説明を丁寧にして下さった。


本堂より山門を・右手に鐘楼
本堂から山門を
 

 それによると、幸貫の再建から二百年近くが経ち、傷みもひどくなったため、とくにひどい本堂の屋根を数年前に修復したという。その際、鬼瓦をはずしたところ、そこに八代藩主幸貫が再興した旨の記載があったそうで、真田家の厚い庇護に改めて感謝されたという。

 

 以前の古い本瓦は真っ黒な瓦であったが、今回の修復の際は費用との兼ね合いもあり、黒い瓦を焼ける職人がいなかったとのことで、現在は銀色がかったグレーの本瓦とならざるをえなかったそうである(黒瓦を焼くには機械焼きでないため、費用がかかり過ぎる)。


母屋前より本堂を
母屋から本堂を

本堂内部と扁額
本堂

本堂・御本尊
堂内に御本尊の釈迦三尊像
 

 恵明禅寺にも真田家所縁の寺を表わす、鯱と六連銭の家紋が大棟に飾られている。職人が調べたところ、鯱は左右が阿吽(あうん)の対になっていたことが分かったという。下からよく目を凝らしてみると、口を開いた鯱と閉じた鯱になっており、なるほどと頷いた次第である。


見事な鯱
見事な鯱
 

 また、修復で完全に直らなかったのが、向かって右側の庇がちょっと下がっており、左右対称にはならなかったという。これも何気なく観ても分からぬが、言われてみれば、右に少し傾いているのが見てとれる。さらに、話は太平洋戦争時代へと続いた。私たちがこれから「象山地下壕」へ向かうと告げた時である。「象山は、戦争まではうちの寺領だったんですよ。戦争でお国のために軍部に収用されたのです。戦後、僅かのお金で戻すと云われても、蟻の巣のようになった山を戻されても、修復にどれくらい資金がいるか考えたら、お国にタダのようなお金で渡すより仕方がなかったのです」と、奥様が象山の方に目をやりながら語られた。その目はこうした静謐な山の中にも戦争によって奪われた尊い自然や伝統があるのですよと、私に訴えるようで、つらい思いがしたものである。


右に傾く上屋根
右に傾く上屋根
 

 本堂の手前左手に幸道公の奥方である豊姫の御霊屋とお墓がある。豊姫は宇和島藩主伊達宗利の娘(伊達政宗の孫)であるが、嫁入りの際に宇和島で作られていた「唐桃」と呼ばれていた杏(あんず)を持参し、松代に普及させた。この一帯が杏の里と今日呼ばれる殖産の礎を築いたのが、この豊姫であった。当日は豊姫の霊廟内にお雛様が飾られていた。豊姫の宝塔は廟の右手に建っている。


豊姫霊屋
豊姫の霊屋

霊屋に飾られるお雛様
お雛様が飾られていました

豊姫のお墓
豊姫のお墓
 

 左程に由緒ある寺であるが、そもそもが藩主の寄進で成り立っていた経緯から檀家が少なく(現在でも40軒ほどの檀家数)、こうした文化財維持の財政的厳しさを訥々と語られた奥様の伝統を実直に守ろうとする姿が印象的であった。