信州の鎌倉 その1=塩田平
信州の鎌倉 その2=北向観音堂
信州の鎌倉 その3=安楽寺
信州の鎌倉 その5=独鈷山・前山寺
信州の鎌倉 その6=中禅寺・薬師堂(重要文化財)
別所温泉 旅館 「花屋」に行ってきました!

常楽寺は正式には天台宗金剛山照明院常楽寺といい、北向観音(北向山常楽寺)を護る本坊として観音堂の真北
300mの地に寄り添うようにして建っている。当山は天長二年(825)、比叡山延暦寺座主の慈覚大師円仁により北向観音堂が開創された際に、別所三楽寺のひとつとして建立されたのを始まりとする。

常楽台寺

本堂


現在の本堂は江戸時代の享保年間(
17161736)に建立されたもので、茅葺、寄棟造りで正面中央に唐破風の向拝(ごはい)の突き出たどっしりとした建物である。そして本堂前には地面を這うように四方に枝を張る樹齢300年の「御船の松」と称する老松が植わるが、その老松すらまだ新参者といった、別所温泉の由来にまで通じる古い歴史をこの寺院は有しているのである。

御船ノ松2

御船ノ松

 
本堂裏に
弘長2(1262)の銘が記された重文・石造多宝塔が建っている。その場所は、北向観音堂の本尊である千手観音菩薩が大地を割って現れ出でたところといわれ、別所三楽寺(常楽寺・安楽寺・長楽寺)と北向観音との深い因縁を伝えている。

 

そもそも北向観音の本坊は長楽寺であったという。しかし、長楽寺は江戸時代の正徳四年(1714に観音堂の火災とともに焼失し、以後、再興は果たされず現存していない。さらに焼失する20年前の元禄7年(1694)に、すでに観音堂の本坊が常楽寺へ移っている事実は不可解であり、その経緯をわたしは詳らかにできない。


本堂屋根

石像群


その謎の長楽寺は北向観音の階段を下りてすぐ左手に、同寺跡を示す石碑を残すのみである。本坊跡の位置や真っ直ぐの参道突き当りが観音堂という伽藍配置、長楽寺の山号が「北向山」であったと古文書にあることなどから、かつて同寺が観音堂の本坊であったことは確かであろう。石碑の裏面には「長楽寺は、常楽寺・安楽寺と共に別所三楽寺の一寺にして北向観音堂有縁の古刹なりしが、正徳四年(1714)北向観音堂火災によって惜しくも消失、以来再建の挙なく寺跡をとどむるのみ、今ここに碑を建立してその遺跡を永世に伝えるものなり」と記されている。

さて、常楽寺には塩田北条氏の二代目である北条国時が、鎌倉への出陣を前に自ら彫ったと伝えられる自身の肖像彫刻が残されているが、当日は常楽寺美術館が閉館になっており、残念ながら拝観することはかなわなかった。


つづいて、本堂を左側に回り込んだ山道を上ってゆくと、鬱蒼とした杉木立の森閑とした空間に入る。わたしは一瞬、聖域に足を踏み入れたようなそんな清浄感に襲われた。その昼なお暗い杉木立の突き当りのわずかな高みに鉄柵で囲われて、多宝塔と呼ばれる石塔が建っている。この多宝塔の建つ箇所から千手観音が現われ出でたのかと思うと、ひんやりとした山気を漂わせる静謐な山のなか、自然とおごそかで敬虔な気分になってゆく。

杉木立

石造多宝塔 


多宝塔に係わる北向観音出現の詳しいことは次のように伝えられる。

 

若竹屋紬店ホームページ総合御案内HPより引用


北向観音出現の話(常楽寺の石造多宝塔)


『今から千百年ほど前の天長二年(825)のころ「七久里の里」とよばれていた別所の東北の山の麓から、毎夜あやしい光がたちのぼりはじめました。やがて、にわかに地の底がうねり出して火の炎は黒煙となって空高く燃え上がり、日増しにはげしくなって人や家畜まで倒れてしまうほどでした。村を治めていた眞庭朝臣(まにはあそん)はこのことを天皇に申し上げました。天皇は大変御心配になり天文博士の安部泰能(やすよし)に命じて占わせましたところ、「奇怪のことなれど、仏縁による兆しあり」との易断が下されました。そこで勅使として良岑安世(よしずみやすよ)と比叡山の円仁慈覚大師とを「七久里の里」につかわされ、百日余の間安鎮の御祈祷を修めさせると、ふしぎなことに坑中から紫の雲が空中にたちのぼり、まぶしいばかりの金の光がさっと南の方へ移っていきました。勅使と円仁は紫雲のたなびいていった方向に行って見たが何も見えません。そこで慈覚大師は深禅定(しんぜんじょう)に入っていると空中に微妙な声がします。耳をすますと、「吾は万民救済を待って今この火坑に出現せる観世音なり、吾が像をとどめ、北に向って安置せよ。あまねく衆生を済度せん」という声と共にみ仏の影は紫の雲と共に大空に上りました。大師は一刀三礼して霊像をほり、その声のあがった場所にお堂を建てました。そして天長三年十月二十五日遷座式(せんざしき)を行い、新しい御堂に尊影を安置しました。そのとき観兜・蓮華・最勝・妙乗の四つの寺もいっしょに建て、観音様を中心とした霊場をつくったと伝えます。なお不思議なことに、このときから別所のここかしこに温泉が湧き出て、人々の病をなおしたのだと申します。この観音様が火坑から現われた霊場は、別所温泉の字大門の山麓にある、常楽寺の境内にありまして、大変神聖視されておりましたが、約七百年前に、頼眞(らいしん)という僧が一石一字の一切経を金銀泥で書き、火坑出現の跡へ納め、後世に石造り多宝塔を建立して火坑出現の跡を後世に伝えたのだと言われております。これが有名な常楽寺の「石造多宝塔」(重要文化財)であります。』


こうした伝承を胸にして杉木立のなかに佇み、苔むしたあまりに簡素な多宝塔を眺めていると、昔の人々の幸せあれかしと信心した心根の豊かさや世の安寧を祈る健やかな心持ちが思われ、殺伐とした現代に生きる者として、ある種の羨望を覚えざるを得なかった。

蓮池

ハギ 

また、常楽寺の前住職の半田孝淳大僧正(別所温泉生まれ)は平成192月に天台宗総本山延暦寺の第256世座主に上任された。また、座主の師父である故半田孝海常楽寺元住職は第一回の原水禁世界会議の議長を務めており、核廃絶、平和問題に深い関心を持っていることで著名である。