信州の鎌倉 その2=北向観音堂
信州の鎌倉 その3=安楽寺
信州の鎌倉 その4=常楽寺
信州の鎌倉 その5=独鈷山・前山寺
信州の鎌倉 その6=中禅寺・薬師堂(重要文化財)
「信州の鎌倉」は長野県上田市の南西に位置する、東西5キロ、南北2キロ四方の「塩田平」と呼ばれる盆地のことを指す。江戸時代には、その肥沃な土地柄から上田藩の穀倉地として「塩田三万石」といわれほどの重きをなしていた。
そしてこの地域は鎌倉・室町時代の文化財の密集地域としてよく知られている。
具体的には、日本で唯一の八角の三重塔(安楽寺・国宝)をはじめ、中部日本で最古といわれる中禅寺の薬師堂(重文)、さらに重要文化財としては全国に二つしか指定されていない石造多宝塔(常楽寺)、「未完成の完成塔」と名高い三重塔(前山寺・重文)など、この小さな盆地には鎌倉時代から室町初期の国宝・重文級文化財が集積しているのである。
京都・鎌倉以外で中世の文化財がこれほど密集しているところは全国でも珍しい。そのためこの塩田平は「信州の鎌倉」と呼ばれるようになったという。
しかし、それではなぜ、信濃国で松本や諏訪という大きな盆地ではなく、この塩田平という小さな盆地に鎌倉文化が密集しているのかという疑問が湧いてくるのだが、解説は以下の通りである。
まず、鎌倉幕府と塩田との関係について見ることとする。鎌倉に幕府を開府した源頼朝は、その統治方式として諸国の要衝地に地頭をおき、地頭にその仕置きをさせることで鎌倉からの威令を徹底させ、中央集権政治を確立することとした。したがってその重要な鎌倉の手足となる地頭には、頼朝の信頼の篤い腹心の家臣を任命した。そしてこの塩田地方にも要衝の地として地頭がおかれることになった。
塩田地方は平安時代には「塩田庄」と言われ、京都の東寺を別当とする最勝光院【後白河法皇の后であった建春門院(平清盛の妻の妹)が、承安3年(1173)に創立した寺】の庄園であった。その荘園主の格式を考えれば、この地が以前より豊かな土地であることが中央において認識されていたことが分かる。頼朝もその重要性を十分理解し、己れのもっとも信頼する惟宗忠久(後に島津忠久と改姓、薩摩島津氏の祖)を塩田庄の地頭に任命した。ここに塩田平と鎌倉の最初の関係が生まれることとなった。
そして、幕府の実権が北条執権家に移るとともに、塩田平を含める信濃国の守護職には、二代執権である義時自らが就任し、信濃国は頼朝以上に重んじられることになった。その証に、義時の後の守護職にも、「連署」(執権に次ぐNO2)の任にある義時の三男、重時が就いている。この塩田がいかに軍略・交通上の要衝であり、穀倉地帯といった地勢状の理由からも、ここを領有するその戦略的・経済的意味は大きかったものと思われる。
そして、重時の五男であり、時の「連署」の任にあった義政が1278年、突然、職を辞しこの塩田へ隠遁することになった。義時・重時の守護職の時代から因縁は始まっていたとは言え、とくに義政がこの地に移住し、塩田城を構え、子の国時、孫の俊時と三代、56年間に亙り塩田の地を繁栄させたところから、この塩田平は鎌倉との絆をより深め、信州の鎌倉と称されるような鎌倉文化の色濃い地域に育ったのではなかろうか。
北条義政の隠棲の理由はいろいろ言われているが、いまだ本当のところは定かではない。執権時宗との確執も取り沙汰されるが、病気のため要職を辞し、隠遁したというのが妥当ではないかと考える。なぜなら得宗家との確執を抱えた実力者に、幕府が要衝の地とする場所の領有を許すはずがないからである。また国時、俊時もその後も、ちゃんと幕府の要職に就いていることも、塩田北条家が得宗家から疎んじられていないことを証するものである。さらに北条氏一族の滅亡の際(1333年)には、国時、俊時は「いざ鎌倉」と、軍勢を引き連れ奮戦し、鎌倉東勝寺にて北条高時と一緒に壮烈な自害を遂げていることも、北条家の中枢にいつづけた家系であったことが強く推測される。
その一方で、この塩田平は、北条氏との関係が深まる以前から「信州の学海」と呼ばれ、信濃の学問・文化の中心地であった事実も見逃すことはできない。
「信州の学海」と呼ばれていた証左が、京都・南禅寺の開祖である無関普門(むかんふもん・生没1212-1292年)の塔銘(高僧の経歴)の一文に残っている。それによると信濃生まれの普門は十代の数年間をこの塩田の地で勉学に励んでいた。その塔銘には「信州に却回して塩田に館す。乃ち信州の学海なり。凡そ経論に渉るの学者とうを担ひ、笈を負ひ、遠方より来って皆至る。師その席に趨り虚日なし」と、当時の学問を志す若者はこの「信州の学海」たる塩田へ遠方地からも集まっていたことが記されているのである。
無関普門が講席に列した1230年前後において、すでに塩田は「信州の学海」と呼称されていた。塩田北条氏の初代北条義政が連署を辞し、この地に隠遁したのは1278年である。その半世紀前にこの地になぜそうした評価がなされていたのかという謎解きは、別途、「生島足島(いくしまたるしま)神社」や「塩野神社」などの考察とあわせ考えねばならぬことである。
また、安楽寺に臨済宗をもたらした樵谷惟仙も、この地の別所三楽寺のひとつ常楽寺にて16歳まで学んだという記録が残されている。その後、南宋へ留学した樵谷惟仙が1246年に帰朝したのとほぼ同時に安楽寺に入っていることを考慮すると、やはり鎌倉時代の当初にはすでにこの地が信州の学海と呼ばれる高い評価が確立していたと考えるのが妥当である。
いずれにせよ、以上の理由においてこの信州塩田には鎌倉時代の匂いが色濃く残り、その史跡が密集しているのである。以降、数回にわたって「信州の鎌倉巡り」を行なうことにしたい。