友枝昭世の第13回厳島観月能「紅葉狩」の夜
能・発祥の地、新熊野神社(いまくまのじんじゃ)を訪ねた
国宝の北能舞台(西本願寺)を拝観しました!
中天の満月に水上能「融」を愉しむ=パルテノン多摩
陸奥のしのぶもぢずり誰ゆえに乱れそめにしわれならなくに
(河原左大臣:小倉百人一首)
塩がまにいつか来にけむ朝なぎにつりする舟はここによらなむ
(業平朝臣:続後拾遺和歌集)
六条河原跡地といわれた枳殻(きこく)亭、印月池に架かる侵雪橋
源融(822−895)は嵯峨天皇の第8皇子として、後宮・大原全子(おおはらのまたこ)との間に生まれ、838年に臣籍降下し、正四位下、源朝臣姓を賜った(17歳)。藤原道長の舅である源高明(たかあきら)とともに、源氏物語の光源氏のモデルと目される人物としても名高く、また世阿弥の傑作の呼び声高い「融」はまさに彼の栄枯盛衰の人生を描いたものである。
融は872年、51歳で左大臣にまで昇りつめたが、子どものいない陽成天皇の皇位継承の資格があるとして、その後嗣を狙った。しかし、時の実力者であった太政大臣藤原基経が、第54代仁明天皇の第三子で、時に55才となる時康親王を推し、結果として同親王が第58代光孝天皇として即位した(在位884‐887年)。
その時の基経とのやり取りが「大鏡」に次のように記されている。
融「近き皇胤をたずねば、融らも侍るは」。基経「皇胤なれど、姓賜ひてただ人にて仕へて、位につきたるためしやある」
つまり、藤原基経は「臣下になって、皇位に戻った例がこれまであったか、ないであろう」と、云って融の野心を打ち砕いたというものである。
ところがその三年後、光孝天皇の病が重篤になった際、基経は臣籍降下した第7皇子の源定省(さだみ)を皇嗣に推挙。定省は基経の異母妹の尚侍藤原淑子の猶子で、その意味で基経との関係は深かったものの、融を廃除した理由と首尾一貫する話ではなかった。基経は天皇の崩御後、形式を整えるために定省を親王へ復し東宮となしたうえで、即座に即位させ宇多天皇として擁立した。その時の融の心境がいかばかりであったかは、想像に難くない。
そうした藤原氏との抗争に敗れてからは、世を厭い、隠棲、風流を友として一生を過ごすことになる。
六条河原院がいつ頃に造営されたかは定かでないが、貞観6年(864年)に中納言、陸奥出羽按察使(あぜちし)に任ぜられて(43歳)陸奥との関わりができたことを考えると、それ以降に造られたとするのが自然であろう。ただ、「続日本後紀」などの記述から、任国へ赴任することを免除された「遥任(ようにん)」であったと言われており、塩竃の絶景を実際に一度も目にしたことがないのかどうかははっきりしない。
陸奥のしのぶもぢずり誰ゆえに乱れそめにしわれならなくに
河原左大臣(源融)が詠み人のこの小倉百人一首は、陸奥国信夫(しのぶ)郡(福島県北部、福島盆地の西半分)の信夫山辺りにちなむ短歌である。
また多賀城市の浮島には、「大臣宮(おとどのみや)」の跡(JR東北本線高平踏切の南東に、かつて「大臣宮(おとどのみや)」と呼ばれる小高い丘があり、「大臣宮」と刻まれた石柱が立っていた。大臣とは源融との伝承があった)が、存在していたことや、別名、源融神社と称する浮嶋神社(ご祭神:奥塩老翁神・奥塩老女神)など、塩竃への道筋に源融にまつわる神社や伝承が残っている。
そうした事柄を総じて見たとき、源融が千賀の浦にたたずみ、湾内に浮かぶ籬島を遠景に、藻塩を焼く紫煙がたなびく光景を目にしたに違いないと想うのが、いかにも風雅であり、また興趣が増すというものでロマンがあって心地よい。
能・「融(とおる)」 六条河原院の縁の地を歩く 弐
能・「融(とおる)」 六条河原院の縁の地を歩く 参