長野県上田市別所温泉1666


別所温泉「花屋」へ行ってきました(^∀^)
信州の鎌倉 その1=塩田平
信州の鎌倉 その3=安楽寺
信州の鎌倉 その4=常楽寺
信州の鎌倉 その5=独鈷山・前山寺
信州の鎌倉 その6=中禅寺・薬師堂(重要文化財)
 

 今回が初めてのお参りとなった北向観音は正式には北向山常楽寺という。信州の鎌倉といわれる塩田平の西方、別所温泉の中央に位置し、宿泊した旅館「花屋」から約300mほど、歩いて数分の所にあった。長野市の善光寺には以前、二度、足を運んだが、北向観音が善光寺と一対となる厄除け観音であり、片方だけお参りするのでは「片詣り」となり、来世のご利益をもたらす善光寺と現世のご利益をもたらす北向観音の両方をお参りするのがよいとされる。そのことをこれまで浅学にしてわたしは知らなかった。

 
観音堂階段
北向観音堂正面階段

北向観音堂

観音堂

観音堂内
観音堂内

 行って見てびっくりとはこのことで、創建は825年と古く、善光寺と相対面するように北面して建てられた大きな観音堂で、正式名が北向山常楽寺といい、別名「裏善光寺」とも呼ばれている。

 

  そしてお堂のすぐ西に川口松太郎の「愛染かつら」のモデルといわれる樹齢1200年の愛染桂の22mの大樹が植わっている。


愛染桂の碑
 愛染かつらの碑

 

 愛染桂の樹
愛染かつらの巨木

 

そのさらに西の懸崖に張りつくようにして京都の清水の舞台のような医王尊瑠璃殿が聳え立っている。興味の尽きぬ場所であった。
 

医王尊瑠璃殿

医王尊瑠璃殿


聳える瑠璃殿

瑠璃殿下には文人たちの石碑がいっぱい


夕焼け小焼けの石碑
夕焼け小焼けの石碑

  


観音堂東より

北向観音堂を東より

 

境内東側の山手に仏像群が


お堂東側裏山手の仏像群
 

 医王尊の高覧の下には松尾芭蕉の句碑「観音のいらか見やりつつ はなの雲」や信州松代出身の草川信が作曲した「夕焼け小焼け」の歌碑(作詞は東京八王子出身の中村雨紅)があったり、島崎藤村や北原白秋を始めとする文人たちも多数訪れていたことにも驚いた。

 

ゆうやけこやけでひがくれて

やまのおてらのかねがなる

おててつないでみなかえろ

からすといっしょにかえりましょう

 

こどもがかえったあとからは

まるいおおきなおつきさま

ことりがゆめをみるころは

そらにはきらきらきんのほし

 


夕暮れ時にこの医王尊瑠璃殿の下にたたずむと、自然と「夕焼け小焼け」の歌詞が口をついて出てくる、そんな日本の原風景が丘の下そして上に広がる一面の空に見えてくるようであった。

さらに、驚いたことが、ここがお能の「紅葉狩り」に大変所縁の深いお寺であったことである。



観音堂に飾られた絵馬
鬼女紅葉退治絵馬

 本堂内の薄暗がりに何気なく飾られていた絵馬が「鬼女紅葉退治絵馬」だったのです。その時は戸隠に近いからかなと思って、その絵馬を見上げただけであったが、その後、「信州の鎌倉」を調べるなかで、その絵馬の題材が紅葉狩りであったことには歴とした謂われがあったのである。

 

なんと平惟茂は鬼女紅葉の退治に難儀していたとき、この北向観音堂に参籠して勅命成就を祈願したという。そしてこの千手観音菩薩のご加護により、紅葉退治ができたという。その証として、安和二年(969)に平惟茂は、大願成就のお礼として北向観音堂の一山を修理し、三楽寺(安楽寺・常楽寺・長楽寺)四院六十坊を増築したと伝えられているのである。

 

その戸隠山に棲む鬼女紅葉を退治した時の様子を描いたのが、堂内に掲げられていた絵馬だったのである。安政六年(1859)奉納されたもので、狩野派の流れをくむ木村春洞の筆になるものである。この夏から秋にかけての旅が自分の意思にかかわるものだけでなく、結果として「能」に深くかかわる旅であったことに、なにか深い因縁めいたものを感じたところである。