いま報道で大きく取り上げられている八ッ場ダム建設中止の問題は、民主党マニフェストの「いの一番」に掲げられた「ムダづかいの根絶」のなかで「ムダづかい、不要不急な事業を根絶する」具体例として、川辺川と八ッ場ダムの中止が謳われている。そして、そのなかに言う「時代に合わない国の大型直轄事業は全面的に見直す」という考え方に基づいたものである。

 

その点についてマニフェストの解説版とも言うべき「民主党政策集」の「国土交通」の項目のなか「大型公共事業の見直し」で、次のようにやや詳しく書かれているので、ここに紹介しておこう。

 

「川辺川ダム、八ッ場ダム建設を中止し、生活再建を支援します。そのため、『ダム事業の廃止等に伴う特定地域の振興に関する特別措置法(仮称)』の制定を目指し、国が行うダム事業を廃止した場合等には、特定地域について公共施設の整備や住民生活の利便性の向上および産業の振興に寄与する事業を行うことにより、当該地域の住民の生活の安定と福祉の向上を図ります。」

 

これを読む限り、ただ闇雲に事業を中止するのではなく、法的措置を講じ、関係する地域住民の生活の安定と福祉の向上、産業振興等についての手当を行なうことが明示されている。また923日に現地の群馬県長野原町のダム建設予定地を訪れ、大沢正明群馬県知事や地元町長らと意見交換を行なった前原誠司国土交通大臣は、現在建設中の付け替え道路や水没予定地域の住民向け代替居住地の整備については事業を継続すると言明した。

 

1952年にダム計画が公表されてから57年。地元住民の方々がダム建設という国策によりその人生を翻弄され、その是非の論議が地域社会はもとより、親戚、親子の間にまで修復不可能なまでの亀裂を生じさせたことは想像に難くない。そしてひとつの国策が個人の人生を大きく狂わせ、その混乱のなかで無念の死を迎えた方々がおられる事実の重みは大きい。その筆舌に尽くしがたいご苦労や苦痛、悔しさを、当事者でないわたしが計り知ることは難しいし、そのことを軽々に語ることは本来、許されぬことと考える。

 

しかし、以上のことを心に留めたうえで、やはり八ツ場ダム建設中止の意義についてはどうしても語っておかねばならぬと思う。

 

今回の総選挙結果について、当ブログ「民主党、政権交代=静かなる革命は成就するか?」で語ったが、そのなかでこれは民主的手段による「静かなる革命」であると言った。

 

つまり、今回の政権交代は明治国家以来、連綿と続いてきた官僚による実質的意思決定システムに基づく国家運営を、国民の代表たる政治家で構成される国会の意思決定で行なうという至極当り前の民主主義へと大転換させる革命であると断じたのである。そして「国民の国民による国民のため」というプリンシプルに基づく政治に大変革する緒にようやくついた、まだとば口にあるのだと論じた。

 

そう考えたとき、いまメディアを賑わせている八ッ場ダム建設中止の是非は、その革命の原理・原則である「国民の国民による国民のため」というプリンシプルに基づいているか否かで判断するのが本来の筋であると考えた次第である。

 

前原国土交通大臣はそれで十分なはずはないが、『ダム事業の廃止等に伴う特定地域の振興に関する特別措置法(仮称)』を整備したうえで、これまでの住民の計り知れぬ苦労や失われた時間、経済的損失の補償を行なうことを明言した。

 

全国にある不要不急、税金の無駄遣いの建設中の事業は八ッ場ダムだけではない。役所の合目的的な需要予測を前提とした「タメにする」公共事業あるいは時代的使命を終えたはずの公共事業がまだまだ存在していることは、自分の身近をちょっと見廻して見るだけでも明らかである。そうした時代背景のなか、われわれはいま、国民の手に政治を取り戻す静かなる革命のとば口に立っているのである。

 

政権交代という革命の目的は、主権者たる国民が政策意志決定に現実的に参加できる政治、つまり「国民の国民による国民のため」の政治の確立にある。これまでの半世紀、この国では実質的に一党独占政治が行なわれてきた。その強固な意思決定システムの大変革は容易なことではない。

 

八方が丸く収まる革命などなく、無血革命といえども、様々な不利益、不便が各方面に生じ、そこで人生の歯車が狂う人々も出て来よう。

 

しかし、われわれは今回の総選挙で初めて自らの意思、手で劇的な政権交代を果たし、この国のあり方を根底から変えて見ようと決めたのである。

 

そのためには、言葉を選ばずに乱暴に言えば、八ツ場ダム建設中止は大事の前の小事と考えるべきであるというのが、わたしが至った結論であるということである。国のあり方を根本的に変えるためには、「プリンシプル」、「原理・原則」に則って、ブレることなく、思うところを進めていかねばならない。殊にスタート当初は、ひとつの例外を作ることですべての改革をなし崩しにしてしまう危険性をわれわれ国民は臆病なまでに思慮しておかなければならないと思うのである。だからこそ革命の緒についたこの局面で、個別事情、人間的情愛において政策決定を行なうわけにはいかないのである。

 

以上がわたしが八ッ場ダムの建設中止はやむを得ぬと考えた理由であり、大きな意義があるとした所以である。